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2005年01月25日(火)| 意識>観念的自己分裂 |  
自己の二重化(3)――観念的自己分裂

〔2004.06.21記〕

購入したばかりの『三浦つとむ選集』の第一巻『スターリン批判の時代』に鏡に関する興味深い論考がありましたので載せておきます。以下引用は「スターリンの言語学論文をめぐって」(p.59)から。なお下線は私がほどこしたものです。

まず、三浦はマルクス『資本論』第一巻の「価値形態」の節にあるマルクス自身の註を引用した後に、それは人間の認識のありかたについてマルクスが述べているのだとしてその内容に分析を加えています。

 ある意味では、人間も商品と同じことである。人間は、鏡をもって生れてくるのでもなく、また、吾は吾なりというフィヒテ的哲学者として生れてくるのでもないから、人間はまず、他の人間という鏡に自分を映して見る。人間たるペーテルは、自分と同等なるものとしての人間たるパウルに関連することによって、初めて、人間としての自分自身に関連する。だがそれによって、ペーテルにとっては、パウル全体がまた、彼のパウル然たる肉体のままで、人間種族の現象形態としての意義をもつのである。

一言一句冷静に検討するなら、マルクスはここで人間の認識のありかた、実践の論理の一端をのべていることが、おぼろげながらもつかめるだろうと思う。認識はあたかも鏡のような作用をしている、客観的な実在のすがたを写しとる、これがすなわち反映論であり、この立場がマルクス主義の認識論である――と。……

 マルクスは、認識そのものに一方的に鏡としての性格をみとめるのではなく、更に進んで認識の対象についてもやはり鏡としての性格があるということを承認して、その交互関係のなかで反映論をとりあげている。これこそが生きた現実の人間の認識論なのである。対象という「鏡」は、物質的な構造を示すものもあれば、人間の観念を映し出すもの(表現)もある。「他の人間という鏡に自分を映す」事実を正しくつかまなければ、人間が自己を識(し)る認識、すなわち主体的自覚についての正しい理論は出てこない。それではドイツ古典哲学の継承など、思いもよらぬことなのである。

 話を分かりやすくするために、普通のガラス製の鏡を例にとろう。顔を近づければ、その上に顔がうつる。これは映像であって、鏡の中に顔があるわけではない。だが、われわれは、そこに顔があるもの、自分がいるもの、と考えることもできるし、現にそう考えている。自分はほかの人間(たとえば恋人)から見てどう見えるだろう、などと考えながら鏡に向かうのは、誰でもやっていることである。鏡は、ほかの人間の眼の位置に自分を置いて自分自身を眺めることを可能ならしめる、そういった性質の道具である。

 鏡の中に自分がいると考えても、鏡の外の自分が現実に自分であることにはかわりがない。しかし自分自身の像を現実の自分であるかのように考えている以上、観念的には、現実の自分に現実の自分としての資格を持たせたままそれから分離して、恋人その他の立場に移行していることになる。このように、現実の自己から観念的な自己が分裂する事実は、対象を「鏡」とする人間の認識において常につきまとうのであって、人間の認識にとっては本質的なものである。ポオも弁証法文学の傑作「盗まれた手紙」において、丁半勝負の上手な少年と、盗まれた手紙の奪還をえがき、相手の智力に自分の智力を一致させ、観念的に相手の立場に移行して考えることがいかに重要であるかを喝破した。

 観念論者は、自覚をとりあげてこの問題にぶつかったのだが、観念的な主体の分裂を移行として正しく扱うことができなかった。両者を混同することによって、鏡の外の現実の自分までも観念的なものとして非現実化させてしまったり、あるいは観念的な自己をきりはなして、最初からこれが現実の自己の外にあるものと考え、これこそ本源的な自己、人間を人間として自覚させる人間以外の自己、純粋精神、普遍的な自我、神、として神秘化させたりした。青年マルクスは、ヘーゲルを 分析しながら、この問題を人間実践のなかで検討し、はじめて正しい解決を与えることができた。『経済学・哲学草稿』はそのことを具体的に立証している。実に、この研究あってはじめて『資本論』の価値形態の分析も可能になったのだし、この基礎的研究の片鱗が注釈のかたちでヒョイと顔をのぞかせることにもなったのである。

 このマルクスの『草稿』は田中吉六氏によって理論的に再発見されたのだが、その重要性が強調されるまでわたしは関心をもたず、全然読んでいなかった。わたしは「観念的な自己分裂」とか、「夢の外の作者と夢の中の作者」という言葉をつかって論文を書いていたが、『草稿』を調べてみたらその問題について次のようにのべられてあるのを発見した。

「人間は意識における如く単に理知的に自分自身を二重化するばかりでなく、行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年10月生れ(74歳♂)。国語と理科が好き。ことばの持つ意味と自然界で起きるできごとの不思議さについて子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。長い間続けた自営(学習塾)の仕事を辞めた後は興味のあることに関して何でも好き勝手にあれこれ考える日々を過ごしています。千葉県西部在住。

2021年の2月下旬から海外通販(日系法人)を通じてイベルメクチンのジェネリック(イベルメクトール他)を購入し、定期的に服用しています。コロナワクチンは接種していません。

ツイッターは okrchicagob(メインアカウント)、または Chicagob Okr(サブアカウント)。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

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ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
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        朝永振一郎

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