1.ものをいうという行為と、われわれがものをいうために用立てる口頭的または書写的記号の体系とは、明らかに別個の事実である。この二つの事実にたいしてただ一つの名前しか与えない言語もあるが、フランス人は前者を langage と称し、後者を langue ととなえている。
Saussure の言語学理論はこのような常識的区別の科学的精練から始まる。かれによれば、langage「言語活動」はそのままでは混質的であって、分類原理をなさない。われわれはそこに社会的部面であるlangue「言語」と個人的部面である parole「言」とを見分け、それぞれを対象とする二つのあいことなる学科を立てる必要がある。
「ものをいうために用立てる口頭的または書写的記号の体系」である langue と「ものをいうという行為」である langage とを一般のフランス人が使い分けているかどうかは別として、『一般言語学講義』を読むにあたっては、「言語活動」と「言語」および「言」との使い分けに注意を払わなければならないのは確かである。なぜなら、小林はこの訳書の中では以降 langage, langue, parole の訳語としてそれぞれ「言語活動」、「言語」、「言」を使い分けていると思われるからである*。
「言語」が「ものをいうために用立てる記号の体系」という「心的な」体系であることはこの訳書のいろいろなところで触れられている。ところで、ソシュールによる「言」の規定は「言語活動のうちの外部的部分(物理的部分と生理的部分)」および「言語活動のうちの心的部分に含まれる能動的・遂行的部分(概念→聴覚映像の部分)」である。三浦つとむの用語を使えば「言語表現に先立って言語規範に媒介される過程」をソシュールは「言」に含めている。ソシュールは「言語活動のうち言を切り離した部分」を「言語」と呼んでいるのであるから、言語活動のうちの「受容的な聴覚映像→概念から始まる心的な部分」から「心的部分に含まれるが、能動的・遂行的部分である概念→聴覚映像の部分」を除外した心的部分の残り全部が「言語」であるということになる。
『一般言語学講義』序説第3章§2
言語は,話手の機能ではない,個人が受動的に登録する所産である;それはけっして熟慮を予想しはしない;反省が介入するのは,p172 以下で論じる分類活動のばあいに限られる.
これに反して,言は意志と知能の個人的行為であって,これにはつぎのものを識別してしかるべきである: 1. 話手がその個人的思想を表現する意図をもって,言語の法典を利用するさいの結合; 2. かれにそうした結合を表出することをゆるす精神物理的機構.
それゆえソシュールにしたがえば、言語表現に先立って頭の中で考えをまとめる思考過程(これには「言語」がかかわっている)は「言」に含まれるわけであるが、言語表現を前提とせずに頭のなかであれこれ考える思考過程(これにも「言語」がかかわっている)もこれと実質的な差異は認められないからこれも「言」に属することになろう。ソシュール理論を支持する人たちの多くは前者も後者も区別せずに思考過程を「内言」とか「思考言語」などとと呼んでいる。しかし「思考言語」という言い方はまぎらわしい。ソシュールの規定では思考過程は「言」に属しているから「言語」ではないし、表現されたものが言語であると主張する三浦つとむは、思考過程は認識であって表現ではないから思考過程を「思考言語」と呼ぶのは適切ではないという。私もいわゆる「思考言語」は思考過程の一部であって言語ではないと思う(独り言も口に出さないものは思考の一部である)。ソシュールが「内言」という言い方をしたかどうか不明だが、ソシュール派の日本人が「内言」と呼ぶのは「言」過程の内の心的な部分という意味では筋が通っているかも知れない。しかし「内言」は認識であって表現ではないのだから私としてはやはり思考過程の一部と呼ぶしかないと思う。
さて、前置きが長くなったが私の誤読の話である。
『一般言語学講義』第II編第4章§1のタイトルは「音的資料へと組織された思想としての言語」である。私はこの「言語」を 記号の体系である「言語」そのものであると誤解してしまったが、「思想としての言語」とはいわゆる「思考言語」のことだったのである。このタイトルは本文中の「いささか神秘めくが,「思想・音」は区分を内含し,言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげるのである」の部分の要約であるが、ソシュールはここで「記号の体系」および、いわゆる「思考言語」の両者を同じ一つの「言語」という言葉のうちに込めている。
つまり、「言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげる」とは「記号の体系は二つの無定型のかたまりのあいだに思考言語として成立しつつ,思考言語の単位をつくりあげる」という意味である。しかし、これはかなり反則っぽい表現である。ソシュールの規定ではこの「思考言語」は「言」に属していて「言語」には属していないのだから、「思考言語」を「言語」とよぶのは本来おかしい。しかし§1の冒頭を注意して読めば、この節がある前提を起点として書かれていることが分かるはずだから、誤解してしまった責はその前提をきちんと読み取れなかった私にあるといわれても仕方がない。
言語が純粋価値の体系でしかありえないことを会得するには,その働きにおいて活躍する二要素:観念と音とを考察するだけでよい.
心理的にいうと,われわれの思想は,語によるその表現を無視するときは,無定形の不分明なかたまりにすぎない.記号の助けがなくては,われわれは二つの観念を明瞭に,いつもおなじに区別できそうもないことは,哲学者も言語学者もつねに一致して認めてきた.思想は,それだけ取ってみると,星雲のようなものであって,そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない.予定観念などというものはなく,言語が現われないうちは,なに一つ分明なものはない.
上の引用文中にある「語によるその表現を無視するときは」という前提を私はあまり深く考えなかった。しかし、『一般言語学講義』においてソシュールあるいは小林英夫が「語」という語を表現された語という通常の意味だけでなく、シーニュという意味でも用いていることを知って、「語によるその表現」が、「言」による「思想の表現」という意味ではなく「シーニュないし思考言語」による「思想の表現〔これもおかしな表現だ。思考過程は表現ではない〕」であることに気がついた。その結果、ソシュールの「言語」(07/09)に書いた私の解釈は完全な誤読であると判断するに至った。この前提を理解できれば、ソシュールが「思考言語」を「言語」と呼んでいる部分があることに気がつく。そしてその部分を見分けることができれば第II編第4章§1はまぎらわしいとはいえなんとか解釈しなおすことができる。
さて、上記引用文中の後の方の「言語」は どちらとも受け取れる。つまり、「言語が現われないうちは」というのは「思想と音とを分節し、それらを結びつける記号の体系〔の働き〕が現われる前は」という意味だと思われるが、「〔記号の体系によって〕思想と音とが分節され結びつけられた「思考言語」が生れる前は」という意味にも解釈できる。
この浮動的な王国と向かい合って,音のほうこそはそれだけであらかじめ限りとられた実在体を呈しはしまいか? おなじことである.音的実在体とても,より堅固なものでもない;それは思想がぜひともその形をとらねばならない鋳型ではなくて,一つの造形資料であり,これまた分明な部分に分かたれて,思想の必要とする能記を供するのである.
それゆえ総体としての言語的事実すなわち言語は,これを同時に茫漠たる観念の無限平面(A)と,音の・それにおとらず不定のそれ(B)との上に引かれた,一連の隣接下位区分として表わすことができる;その模様はこの図をもってよく彷彿させることができよう:
思想と向かい合っての言語独特の役割は,観念を表現するために資料的な音声手段をつくりだすことではなくて,思想と音との中を取り持つことである,ただしそれらの合一は必然的に単位の相互限定に落ちつくことになる.ほんらいこんとんたる思想も,分解するや,明確にならざるをえない.それゆえ思想の資料化があるわけでもなく,音の精神化があるわけでもない;いささか神秘めくが,「思想・音」は区分を内含し,言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげるのである。……
「総体としての言語的事実すなわち言語」というのは「記号の体系」によって分節された思想つまり「思考言語」である。また「思想と向かい合っての言語独特の役割」における「言語」は「記号の体系」である。「いささか神秘めくが」以降の部分は上で書いた通り。
* 上の引用文中で小林が「思想と向かい合っての言語独特の役割」と書いている「言語」は langue(言語規範・記号の体系) ではなくて langage(言語能力)であることが判った 。また「言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげる」についても、「二つの無定型のかたまりのあいだに成立する」のは langue(内言・思考言語)であるが、「その単位をつくりあげる」のは langage(言語能力)であることが判明した。つまり、小林は langue と langage の使い分けなどといっておきながら、自らはそれを混用し混乱した表現をしているのである。これらに関しては、ソシュール「言語学」とは何か(2)(2006/11/20)を参照していただきたい。〔追記〕
言語はこれを分節の領域であると称することもできなくはない.ただしこの語を p.22 において定義した意味(言語活動については articulation「分節」とは意義の連鎖を意義単位へと細分すること。人間生具のものは口頭言語ではなくて、言語を、つまり分明な観念に対応する分明な記号の体系を組みたてる能力である=引用者注)にとって:言語辞項はおのおのの小肢体であり,articulus「肢体・細分」 であって,そこで観念が音に定着し,音が観念の記号となる.
言語はまた,一葉の紙片に比べることができる:思想は表であり,音は裏である;裏を分断せずに同時に表を分断することはできない;おなじく言語においても,音を思想から切り離すことも,思想を音から切り離すことも,できない;できたとしたら,それは抽象作用によるしかなく,その結果は純粋心理学か純粋音声学家のしごととなろう.
「言語はこれを分節の……」の「言語」は「記号の体系」。「分節」とは記号の体系を組み立てる能力のこと。「言語はまた」および「おなじく言語においても」で使われている「言語」は「思考言語」のことである。
〔同日追記〕
読み返して気がついたが、ソシュールは「言」のうちに識別してしかるべきものとして「話手がその個人的思想を表現する意図をもって,言語の法典を利用するさいの結合」という言い方をしているから、言語表現を意図せずに行なう思考過程はこれを「言」に含めず、「言語」のうちに含めているかも知れない。しかし、たとえそうであったとしても言語規範に媒介される思考過程は、言語表現を意図しようがしまいがソシュールから見れば両者とも「意志と知能の個人的行為」であり、それ以外にも両者のあいだには本質的な相違はない、と私には思われる。
〔2006.07.25追記〕
ソシュールの主張のある部分を誤読していたことがわかった。それによって、この稿の記述には不適切な部分が出てきた。しかし、それ以前の誤読によって生じた解釈のやり直しがこの稿の主たる目的であり、その解釈の部分には変更はない。したがってこの稿を書き改める必要はないと判断した。しかし内容には間違った部分もあるのでそれに関しては「誤読「言語の法典を利用するさいの結合」」(2006/07/25)〔およびソシュール「言語学」とは何か(2)(2006/11/23)――追記〕を参照していただきたい。
〔2006.12.30追記〕
小林英夫による「言語(langue)」と「言語活動(langage)」という訳語については「“langue” と “langage”」(2006/12/19)も合わせて参照していただきたい。
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