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『認識と言語の理論 第一部』2章(1) 法則性の存在と真理の体系化 [PC版ページへ]
2018/10/05 17:50

『認識と言語の理論 第一部』2章(1) 法則性の存在と真理の体系化
『認識と言語の理論 第一部』2章(2) 仮説と科学
『認識と言語の理論 第一部』2章(3) 概念と判断の立体的な構造
『認識と言語の理論 第一部』2章(4) 欲望・情感・目的・意志
『認識と言語の理論 第一部』2章(5) 想像の世界――観念的な転倒
『認識と言語の理論 第一部』2章(6) 科学と芸術
『認識と言語の理論 第一部』2章(7) 宗教的自己疎外

『認識と言語の理論 第一部』2章(1)〜(7) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部 認識の発展』(勁草書房・1967年刊)から
  第二章 科学・芸術・宗教 (1) 法則性の存在と真理の体系化


最近また、三浦つとむ著『認識と言語の理論 第一部』(1967年 勁草書房刊)を読み返している。何度読み返してもそのたびに新しい発見があるというのは、私自身の認識能力の不完全さとこのところの記憶力の低下を表しているためであるから、あまり喜べるようなことではないが、それでも三浦つとむの書を読む楽しみがずっと持続しているのはうれしいことではある。

このエントリーは引用だけで私の感想はまったくない。いっしょに三浦つとむの論理を楽しんでいただけたら幸いである。

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.67 

 現実の世界は無限であるが、それはもろもろの有限的な存在だけから成り立っている(1)。これも一つの矛盾である。われわれの身のまわりに存在している諸生物にしても、あるいは地球や太陽系にしても、すべてある寿命を持っていて、時間的に有限な存在であるとはいえ、その寿命の終りは純粋な無を意味するものではなく、新しい有限的な存在のはじまりである。したがってそれらの有限的な存在は孤立したものとして扱うべきではなく、直接的・媒介的に、他の存在と連関しているものとして扱わなければならない。

人間はこの連関のありかたを生活の中でとらえていく。もし鼻や口を圧迫されて、空気を呼吸することができなくなれば、窒息してしまう。もし器官に故障が起って、体内の老廃物が体外へ送り出すことができなくなれば、健康を害してしまう。もしつまづいたりすべったりして、身体の平衡を失うなら、重力の働きで転倒してしまい、岩かどで頭部を強打して負傷することも起りうる。われわれは大自然の中に生れた大自然の一部であって、体外にあるさまざまな自然との交渉すなわち自然との連関において存在し生活しているのであるから、その連関が正常に維持されるか否かは直ちに重大な影響をもたらすこととなる。人間と直接に関係なく発生する客観的な連関、たとえば太陽が東の空に顔を出すことによって周囲が明るくなったり、雨が空から落ちてきて低地に水たまりができ川が流れたり、風による樹木の摩擦で山火事が起ったりするような連関の発生も、これまた直接的・媒介的に人間の生活と結びついてくるのであって、このような多種多様の連関の存在、その発生・消滅について理解することは、生活の生産を維持し発展させるために欠くべからざることである。

 連関も事物の一つのありかたとして、やはり矛盾を持っているから、矛盾が存在していることを予想しながら連関をたぐっていかないと、一面的なとらえかたにおちいる危険がある。現象的な連関で密着とよばれているようなありかたにも、変化しやすいものもあれば変化しにくいものもある。二枚の鉄板をボルトで結合させたような密着は変化しにくいが、水の上に船が浮んでいるような密着は絶えず変化している。現象的な目に見える連関が絶たれたとしても、すべての連関が消滅したということにはならない。衣服を身体にまとうときには、それが身体に密着して体温を維持するために役立つのだが、その衣服を脱ぎすててしまえばもはや身体との現象的な連関は絶たれてしまう。しかしこれは自然的な連関が絶たれるだけのことであって、社会的な連関は依然として維持されている。その衣服が着ていた人間の所有に属するという、所有とよばれる連関が存在することには変りがない。もし他の人間にくれてやる目的で衣服を脱ぐならば、ついで所有関係も絶たれることになるけれども、もしその衣服が買ったものでなく勤務先のデパートから盗んで来たものであったような場合には、かつての窃盗行為との連関は依然として変化せずについてまわるから、その盗品をもらった者が後になって突然に警官の訪問を受けるという、予想もしなかった連関が発生することにもなる。

事物にはこのような目で見ることのできぬ連関が存在していることも、人間は生活の中で次第に理解していく。ガラス戸のガラスが一枚破れているのを見て、「これは誰が破ったのだろう?」と考えたり、学校から帰ってきたら座敷に来客用の座ぶとんとお茶が出ているので「誰かお客さんが来たの?」と質問したり、広場で見なれない子どもが遊んでいるので「きみの家どこだい?」とたづねたりするのも、それらの目に見える事物にむすびついているはずの目に見えない連関をたぐって認識を深めようとするものである。そこには、事物のありかたを、結果としてとらえるにとどまらず過程へとすすんでいこうとする態度がある。誰かが何かをぶつけたという過程が存在してガラスが破れたのであろう、誰かお客さんが来て座敷に通ったという過程が存在して座ぶとんやお茶が出たのであろう、どこか近くに子どもの住居があってそこから出て来たという過程が存在してここで遊んでいるのであろう、と考えるのである。これらは結果を知ってそこから原因へと連関をたぐっていく、いわゆる因果性の追求である。

(1) 矛盾をとらえない学者には、有限と無限とを隔離してしまって、有限な存在は此岸(しがん)にあるけれども無限な存在はその外部に彼岸(ひがん)にあるのだと解釈する者が多い。ヘーゲルはこれを真の無限の理解ではないと批判して「悪しき無限」と名づけた。

『認識と言語の理論 第一部』 p.69 

 われわれが両親の間に生れたとき、そこに親子とよばれる家族関係が生れたことになる。事物の発生すなわち関係の発生である。子どもの生活に必要な衣服や食事にしても、それらの材料にはそれらを生産したさまざまな労働が対象化されていたのであり、それにさらに親や家族の労働が対象化されて衣服や食事として完成したのであるから、これらを着たり食べたりする子どもはそこに対象化されている労働をさらに自己に対象化するという関係を結ぶことになる(2)。生産関係とよばれるものには、親の労働がその生産物を媒介として子どもに対象化され子どもを育てる関係も、ふくまれるのである。結婚によって男女がむすばれるときにも、両者の間に新しい生活関係が成立するだけでなく、それまで各自が持っていた諸関係にも大きな変化が起ってくる。不婦としての肉体的・精神的諸関係が生れるだけでなく、財産の所有関係も変り、家族関係・友人関係等々にも影響が及んでいく。

また、事物の消滅すなわち関係の消滅であって、人間が生命を失ったりその身体が消滅したりするときは、その人間にむすびついている諸関係も消滅したり変化したりする。所有関係は生命を失ったその瞬間に消滅して、遺産は法的に定められている相続人の所有へと移っていく、生きていたときに自動車にはねとばされたり拷問を受けたりして、身体に傷あとが存在したとしても、遺骸を焼くときはその傷あとも消滅し、これに結びついていた過去の事件との関係も消滅してしまう。

 精神活動も脳細胞とよばれる物質的な存在にささえられているのであって、脳細胞と無関係に空中に浮かんでいるわけではないから、この細胞の機構が損傷を受ければ精神活動も異常を来すことになる。この細胞の消滅によって精神活動も消滅する。ところが、その人間が生きているときに手紙を書いたり論文や小説を発表したりしていたとすれば、これらの文章はそれを書いたその瞬間における書き手の精神のありかたにむすびついているのであるから、その人間が生命を失ったり身体が消滅したりしてもそれとは無関係に、それらの文章にむすびついている関係が残ることになる。それらの文章をさらに新しく活字で組んで印刷・複製するとか、あるいは他国語に翻訳するとかいう場合にも、文章の持っている関係が印刷物や翻訳文に延長されることになる。それゆえわれわれも日本語の文庫本でアリストテレスやルソーやシェークスピアやトルストイの著作に接し、そこに印刷されている文字の背後のむすびつきをたどって、書き手の「魂」に触れることができるのである(3)

(2) 生産関係というのは生活資料を生産するときの人と人との関係だと川上肇やスターリンは解釈した。しかしマルクスが生産というのは労働を対象化することであるから、生れたばかりの子どもに生活資料を媒介として他の人間の労働が対象化されるということも人間それ自体の生産であり、この関係も生産関係の一部なのである。

(3) これも経験的には誰もが承認しながら、理論としてとらえられていないところの、精神的な生活の生産関係の一つである。

『認識と言語の理論 第一部』 p.70 

 過程とよばれるものは運動のありかたである。運動は無限であって過程も無限に存在するけれども、それはもろもろの有限的な過程だけから成り立っている。われわれもその意味で一つの新しい客観的な過程をつくり出すことができる。物質的なあるいは精神的な創造が、一つの特殊な過程の出発点となるわけであって、船をつくり出すことによって航海がはじまり、シナリオを創作することによって映画の製作がはじまるわけである。しかしながら、これをさらに大きな観点からながめると、これらの出発点は無の世界に出現したのではなく、他の過程の到達点でもあるといわなければならない。船をつくり出すためにはその材料や諸設備が前もって与えられていなければならないし、シナリオを創作するためにはその世界を構成する材料を精神的な活動によって準備しなければならないからである。それゆえ、ある存在はある過程の結果であると同時にまたある過程の原因をなしているということになり、原因と結果とは一つの区切りの両面として・不可分の同一性として・つながっているということになる。因果関係をとり出して検討することは必要であるが、これを全体の相互関係を形成している特殊な部分として理解せずに、切りはなしてとりあげることはあやまりである。

 大自然はその多様性において無限であるが、それはもろもろの有限な特殊性を持つ存在だけから成り立っている。極微の素粒子の世界から極大の島宇宙の世界にわたる立体的な構造をとって、特殊性を持つ存在が特殊な連関のうちに置かれている。人間もひとつの特殊性を持ち、その物質的なあるいは精神的な創造もやはりひとつの特殊性を持つ。しかし大きな目で見れば、やはりこれらも大自然の中に生れた大自然の一部であるから、大自然のありかたとまったく無関係な構造や連関を持つと考えるのは筋が通らないことになる。

生体内における物質の化学的な変化は、細胞のありかたに規定されて試験管の中での化学的な変化と異った特殊性を持つにしても、全く別の化学的な変化が成立しているわけではない。生体が生み出す電気は、発電機や電池から生れる電気とは異った特殊性を持つにしても、まったく別の性質をそなえているわけではない。それゆえ、大自然を構成するそれぞれの特殊な分野の構造や連関をとりあげて、その特殊な分野における一般的なありかたをとらえていく学問が、化学とか生物学とかよばれるものが成立するだけではなくて、この一般的なありかたをさらに世界全体の観点からそれぞれの分野としての特殊性を持つものととらえかえし、世界全体をつらぬく一般的なありかたをとらえていく学問も成立することになる。前者がいわゆる個別科学であり、後者がいわゆる論理学である。弁証法とよばれる科学は、この論理学に属している。それゆえエンゲルスも、大衆的な読者を予想して書いた『反デューリング論』の中で、「弁証法とは、自然・人間社会および思惟の一般的な運動=発展法則に関する科学以上のものではない。」とのべて、世界全体の観点から一般的な法則をとりあげているという性格および限界を明かにした。弁証法は世界全体を一つの運動法則においてとらえているのであり、「まさにそれだからこそ、おのおのの特殊過程の特殊性は考慮の外に置かれている(4)。」のである。この特殊過程の特殊性は、個別科学の扱うべきものであって、弁証法とはその対象領域が異っていることを知らなければならない。

対象の持つ構造・連関を、過程において一般的なものととらえるところに、法則が生れる。自然科学の法則たとえばオームの法則も、社会科学の法則たとえば価値法則も、それぞれ対象としてとりあげた過程の中から一般的にとらえているのであり、いわば特殊な変化しつつある対象のなかにつねにふくまれているところの・その意味では変化しない・ありかたを抽象している(5)わけである。もちろんこの一般的なありかたも、孤立した空中に浮かんでいるものではない。特殊性をそなえた具体的な構造・連関の一面として、切りはなせないものとして、存在している。それで、この具体的なものと統一されている現実のありかたを法則性ともよび、法則性から認識として法則が抽象されてくると理解するのである。個別科学と論理学とは対象領域が異り、その対象とする法則性が異っている。大自然の部分に存在する法則性と、全体に存在する法則性とは、連関があるが区別されなければならない。したがって個別科学の法則と論理学の法則とは、連関があるが別の法則だということになる。

ところが、論理学の対象とする法則性は、大自然の全体にわたって多種多様の過程として存在するわけであるから、別のことばでいうと至るところに見受けられる存在である。エンゲルスのことばをいま一度かりるならば、「それはごく簡単な、どこででも日々行われている手続きであって、……どんな子どもにでもすぐ理解できるものである。」 それゆえ、自然科学の法則性がその分野を専門的に研究する学者によって発見されるのに反して、論理学の法則性は一般大衆がその日々の生活経験を通じて身のまわりに発見することができ、それなりに定式化して役立てることができる。ここに、大衆の知恵としての多くのことわざ(6)の成立と、その有用性を見なければならない。ことわざの中に、具体的な弁証法を説いているものがすくなくないのも、そのためである。

(4) それゆえすでにマルクス=エンゲルスは、弁証法はすなわち認識論であるというヘーゲルないしレーニンの主張を否定して、認識に特殊な過程の特殊な法則性をとりあげる個別科学としての認識論を弁証法とは明確に区別していた。

(5) 「法則の王国は実存する、もしくは現象する世界の静止した像である。」(ヘーゲル『大論理学』第一部第二篇第二章)

(6) ことわざははじめ「こと」の「わざ」すなわち言語の技術を意味することばであったが、これが転じて使用される武器としての言語それ自体をさすことばになった。これは弁証法が、はじめ方法を意味することばであったのに、転じて理論そのものになったことと共通したところがある。

『認識と言語の理論 第一部』 p.72 

 庄司は前述のようにことわざが「表」の世界と「裏」の世界を統一していることを指摘した。「表」は特殊な分野での特殊な過程を取り上げているが、そこから「裏」のさらに一般的な過程の把握へとすすむときに、ことわざを正しく理解したものといえよう。「サルモ木カラオチル」は、猿という特殊な動物の特殊な行動のありかたをとりあげているにとどまらず、「その道ですぐれている人でも時には失敗することもある」という、人間の一般的な行動のありかたをも意味している。「河童ノ河流レ」もこれと同じであるが、空想の動物を「表」の世界としてとりあげて真理を説くところに空想の有効性の一例を見ることができよう。

「ヌスビトノ昼寝」は、盗賊の生活のありかたをとりあげるにとどまらず、「合理的な因果性でありながら見たところ不合理なものとしてあらわれることがある」という、これまた特殊な人間のありかたを超えた一般的な認識を「裏」にかくし持つことによって、ことわざの世界を形成している。それゆえここには、特殊的な認識と一般的な認識とが「表」「裏」の関係で共存しており、見たところ特殊的な認識だけが表面化しているのであるが、一般的な認識が統一されているがゆえにこれは表象の一つのありかたとして理解しなければならない。

しかも「表」は異るが「裏」の同じことわざが多いという事実は、前論理学的段階の認識の特徴として、子どものことばを借りていえば「人間はみないっちして、これはだいじなことで、しらなければならないと思うものがあること(7)」を示すものとして、法則性のありかたに注意しなければならない。

ことわざは特殊性を捨象して一般的な論理だけを示す方法をとらず、だれでも経験的によく知っておりすぐ納得できるような具体的なとりあげかたや表現のしかたのおもしろさによって印象を深め記憶を維持できるように工夫されている。「武士ハ食ワネド高楊枝(たかようじ)」と七五調をとったり、「無クテ七癖」と頭韻を踏んだりしている。けれども特殊性を「表」に出しているために、個々の過程は独立したものとしてとらえられることになり、定式化は独立した断片的なものとならないわけにはいかなかった。「急(せ)イテハ事(こと)ヲ仕損(しそん)ジル」と「先ンズレバ人ヲ征ス」とが、別々の定式として存在し、必要に応じて使いわけられている(8)。ある条件では急いではならぬがある条件では反対に急ぐべきだというように、体系化されていかない。特殊性の認識がこの体系化を阻止しているという意味で、表象としての限界が存在するわけである。

 科学者が対象ととりくんで研究した結果、酸素と水素の化合によって水が生れるという認識が成立したとしよう。これが科学者の直接に対象とした現実の世界のありかたの反映であり、その意味で正しい認識であるということならば、誰でも日々の生活経験を思い合せて、それが反映であるとか真理であるとかという主張を承認するにちがいない。けれどもこの場合の科学者の認識はその対象にとどまらず、対象を超え経験を超えた現実の世界にひろげられていく。シベリアの奥地であろうとアフリカのジャングルであろうと、百万年前の世界であろうと百万年後の世界であろうと、水の生成についてはすべてあてはまるのだと主張する。

それだけではない。さらに酸素や水素の原子構造についての研究がすすんでその認識が成立すると、この認識とさきの水の生成についての認識とが、頭の中で観念的にむすびつけられて体系化し、この体系的な認識もこれまた科学者の対象と経験を超えた現実の世界にひろげられていく。こうして直接の経験を超えたところの一般的な認識がつぎつぎと頭の中で綜合され、それが真理だと主張されるようになると、もはや対象の忠実な反映が真理だというような受動的なかたちで認識をとりあげるところの、素朴な反映論や素朴な真理論では扱えなくなってくる。

そしてこの体系的な認識の成立する過程を十分に理解しないで結果だけを見る人びとには、経験を超越したところの何か人間に生れつき与えられている原理があって、それが認識の客観的な妥当性をささえているかのようにも思えてくる。こうして、素朴反映論では科学の法則を正しく説明できなかったところに、不可知論とよばれる考え方もそれなりの説得性を持って受け入れられたのであった。

この場合には、われわれの認識の能動的な冒険旅行が、素朴な予想の「第一段階」においてさえ、つねに実践ないし実験において対象との関係を維持して来たし、科学者の打ち立てた法則においてもその点に何ら変りがないのだということが見のがされてしまっているのである。

(7) 庄司がことわざ教育を試みた成城学園初等学校六年楓組の杉マリの感想文から。

(8) これも六年の子どもたちが指摘している。

上で「庄司は前述のようにことわざが『表』の世界と『裏』の世界を統一していることを指摘した」とあるのは、『認識と言語の理論』第一部第一章の七「予想の段階的発展」で、庄司和晃の三段階連関理論をとりあげて詳説していることを指している。これについては当ブログの記事 『認識と言語の理論 I』を読む 1(7)――予想の段階的発展 を参照。

『認識と言語の理論 第一部』 p.74 

 障子からシッポがあらわれているのを見て、そのかげに猫がいるのを予想するのは、観念的に障子をとりのぞいだ「頭の中の目」のはたらきである。あらわれている部分は現実的な自己の目で、隠れている部分は観念的に分裂した観念的な自己の目で見ているのである。科学者が実験室で実験をながめているとき、彼の現実的な自己の目はその個別的なありかたを経験的にとらえているのであるが、それと同時に観念的に分裂した観念的な自己の目は観念的に実験室の壁をとりのぞいて空間的に時間的に無限の世界を見わたしているのである。実験室の中で発見したのと同じ関係が、過去・現在・未来にわたって、また地球であろうと他の遊星(ゆうせい=惑星)であろうと、同じ事物であるならば必ずや成立していることを見ているのである。

科学者はこの意味で能動的に現実を見ているが、企業家もちがった意味でやはり能動的に現実を見ることになる。企業家がこの実験室に来て同じ実験をながめたとき、彼の現実的な自己の目は科学者のそれと同じものをとらえているけれども。観念的に分裂した観念的な自己の目は科学者のそれとはちがって、これを工業化した大規模な機械設備や、そこから生産される厖大な製品や、帳簿の黒字などを見ることになる。産業もまた実践の一つのありかたで、科学者の認識正しさをくりかえし照明しつづけているわけである。

 カントは、従来の経験論では科学を説明できないことを知って、経験を超えた一般的な認識がなぜ真理であると主張しうるのか、それを説明しようとした(9)。そして彼は、仮説を経験においてたしかめるという科学者のやりかたに注目し、これを形式的にとらえて解釈したのである。

カントが、能動的に現実に向って問いかける認識活動をとりあげようとしたことは、認識の研究としては前進であったが、仮説を対象のなかへ「投入」(hineinlegen) することによって対象の認識が成立するのだと考え、空間や時間や「純粋悟性概念」は先天的にわれわれの心にそなわっていてこれらが対象へ「投入」されると解釈したところに、観念論への逸脱があったのである。しかも彼は、経験論が対象から認識をみちびいたのに対して、自分がそれと逆に対象がわれわれの認識にもとづくと解釈し、この観念論的に逆立ちさせたことを自らコペルニクスの業績になぞらえた。この逆立ちはやがてヘーゲル的な理論にまで押しすすめられ、その後ふたたび唯物論的にひっくりかえされるに当っては、「理論を神秘主義にさそいこむすべての秘蹟は、その合理的な解決を人間の実践およびこの実践の理解のうちに見いだす(10)。」と、実践に対する理論的な把握が強調されることになるのである。

(9) 経験論もこのような認識を問題にしなかったわけではない。ホッブスは数学を唯名論的に、すなわち言語の持つ能力と解釈し、ロックはこれを直観的知識と解釈したが、それらの解釈自体すでに経験論の立場を否定するものであった。

(10) マルクス『フォイエルバッハ・テーゼ』第八

『認識と言語の理論 第一部』 p.76 

 科学がその対象としてとりあげる法則性にしても、単純で直線的な過程もあれば、複雑で曲りくねった過程もある。スポーツカーで高速道路を進むような研究過程もあれば、迷路を手さぐりで壁にぶつかりながらあるいていくような研究過程もある。中でも、教育とよばれる対象は、学校教育でも社会教育でもあるいは組織における教育でも、認識の成長発展を計画的に押しすすめるものであるから、教育学を建設しようとする人びとは複雑な曲りくねったしかも直接つかまえることのできない存在の持つ法則性をとらえて、体系化していくという非常に困難な任務を負うことになる。認識を成長させるには、煉瓦(れんが)をつぎつぎにつみ重ねていくように、断片的な知識を与えてつぎつぎとつみ重ねさせ、低いところから高いところへ進んでいけばいいかといえば、そうはいかない。第一章でも述べたように、人間の認識はのぼるとくだるとの対立した過程がダイナミックに統一され、実践と媒介されているのであるから、このダイナミックな全過程をとらえなければ、認識の成長発展を計画的に押しすすめる科学的な方法をつかむことはできない。

実験は実践の一つのありかたとして、科学教育にとって重要な意味を持つけれども、これにも道具を使って現実に行われる実験もあれば、頭を使って観念的に行われる思考実験といわれるものもある。現実に行われる実験のときに、抽象的な段階から認識がくだるように、思考実験のときにも認識がくだるのである。教育における討論の重要性は、経験的に誰でも承認するところであるが、この討論にあっては精神的な交通が積極的に行われるだけでなく、各人の認識がのぼったりくだったりする移行・転化も著るしいものがある(11)。庄司はここでも過渡的な表象的な段階の果す役割に注目している。

 ほんとうに『ものになる』『獲得する』というのは、『のぼる――おりる』があってはじめて成立するものだといえるのであろう。教育でいえば『のぼりかた』と同時に『おりかた』を教えて体験させねばならぬ、といえるわけだ。……転位移行する能力をいかにきたえあげるかが教育の問題である、といえようか。(庄司和晃『三段階連関理論ならびに転位移行論おぼえがき』)

 私たちは、『例』をひいて議論をすすめたり、『例えば』ということで相手に理解してもらおうとする。相手が得心したような顔つきや言動を示したりしないと、いよいよもっと多くの例をひっぱりだしてくるこころのはたらきがある。これは、相手ばかりに関係したことではなく、こなたにしても抽象論議のばあいなどには、『例えばどういうことですか』と問うこともしばしばである。そういうことでがてん(合点)しようとする。ここには『説得の論理』『合点の論理』がある。

 この論理自体、認識発展論からいえば、第二段階の表象論的段階に属する、といってよいであろう。人は多く、この段階において説得したり、合点したりして、自分の考えをすすめているわけである。『例』とか『具体例』・『例えば』と出してくるそのものは、認識発展論からいえば第一段階の個別的・感性的・直観的段階のものといいうるし、『抽象論』とか『理屈』とか『理屈一点ばり』とかのものは、第三段階の概念的・普遍的・理性的段階のものといいうるであろう。

 すなわち、自分の伝えようとすることがら、あるいは自分が納得しようとすることがら――と、『例』なり『具体例』なりとの結びつきがあったものが第二段階の表象論理の内容をなすものといってよい。特性とするところは、人魚的でありアイノコ的であり、複雑さを増せばヌエ的といってもよい。

 理論的なものと事実的・感覚的なものとが結合し合った世界といってもよいのである。……

 講演・演説・講釈・問答・対話・提唱等の成功・失敗のカギは、この第二段階の論理適用いかんにかかっているとも、いえないこともあるまい。教育などにおいても、低学年・中学年・高学年・中学生・高校生・大学生それぞれにあい呼応した論理のあることを、まずもって知らずばなるまい。体験的には、どの先生も常識として持ってない筈はないのだが、ただ意識的適用、論理の意識的行使がないだけのことである。が、ここに成功・失敗論のかなめのあることを自覚する必要があるであろう。ワカルとはどういくことかにさおさす重大なことがらだからである。

 一般理論・基礎理論という高次な段階のものを生かすのも、また事実・感覚ベッタリ主義を克服していくのも、この段階の存在する意義・役割を意識化し、その構造をみきわめて行使する、といってもよいであろう。また、理論の構築、感覚・直観の占める位置、その存在価値を見直すことも、この表象論の段階にあるのだ、ともいえよう。

 それにまた、例証や実証のもつ意味、図式化などのはたす役割なども、第二段階の究明によって、より明白となるのではあるまいか。(庄司和晃『表象論としてのコトワザの持つ論理』)

 周知のようにレーニンは政治教育において煽動宣伝とを区別したばかりでなく、大衆の教育における煽動の重要性について強調した。煽動とは具体的な事実を語りながらそこで一つないしわずだの思想を与えることに全力を注ぐ活動である。事実ベッタリ主義でもなければ体系を教えこむのでもない(12)。庄司のいう三段階連関理論の「第二段階」に属する内容であり、だからこそ大衆教育において重要なのである。そこからさらに認識的にくだって、さまざまな事実を思想的にとらえていくこともできれば。反対にさらにのぼって、体系的な理論すなわち宣伝を理解する方向へすすむこともできるのである。リンカンが上院議員の候補者として、ダグラスに立ち向ったとき、「分かれ争う家は立つこと能(あた)わず」とうことわざを使って演説し(13)アメリカの現状を大衆に訴えたという事実も、ことわざないし「第二段階」の教育的な役割について関心を持つ者の見のがしてはならぬことであろう。

(12) いわゆる生活綴方(せいかつづりかた)的教育方法は、事実ベッタリ主義の立場をとってこれを体系の教育へむすびつけようとするものである。認識論的に「第二段階」を理解してはいない。これは、大衆教育のために煽動的な文章を掲載すべきはずの労働組合の機関紙に、国分一太郎=鶴見和子的な「大人の生活綴方」を労働者から募集し掲載するという、企画が取り上げられたことと無関係ではない。ことばの上では煽動を認めても事実上煽動活動を無視したりできなかったりする政治指導者が少くない事実も、煽動が、「不明瞭なもの」であることと無関係ではない。

(13) この演説は印刷され全国にひろがり、"House divided speech" と人びとからよばれることとなった。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

『認識と言語の理論 第一部』1章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』2章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』3章(1)〜(5)

『認識と言語の理論 第二部』1章(1)〜(8)

『認識と言語の理論 第二部』2章(1)〜(6)

『認識と言語の理論 第二部』3章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第二部』4章(1)〜(9)

三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき

三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章

三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』 まえがき



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