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『認識と言語の理論 第一部』から 2(3) 概念と判断の立体的な構造 [PC版ページへ]
2018/10/12 12:37

 『認識と言語の理論 第一部』から 2(1)〜2(7) をまとめて読む。

 関連記事:『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)〜1(7)

 関連記事:三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』「認識の発展」から
  第二章「科学・芸術・宗教」―― 概念と判断の立体的な構造


〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第一部』 p.90 

われわれが抽象的なかたちで思惟(しい)をすすめるときには、概念とよばれる超感性的な認識が使われる。しかし一部の学者は、思惟を頭の中で行う言語活動であると主張している(1)のであって、これは思惟をすすめるときに頭の中に観念的に音声や文字があらわれるという経験から出発している。それゆえ、概念と言語との関係が明かにされなければならないが、これは言語の発生と発展を歴史的=論理的に検討することになるので、後に譲ることにし、ここでは言語の問題を一応捨象して概念のありかたを考えてみよう。

 概念は個々の事物の持っている共通した側面すなわち普遍性の反映として成立する。すでに述べて来たように、個々の事物はそれぞれ他の事物と異っていてその意味で特殊性を持っていると同時に、他の事物と共通した側面すなわち普遍性をもそなえているので、この普遍性を抽象してとりあげることができる。

たとえば私の机の上に文字を記すための道具が存在するが、軸は黒いプラスチックでつくられ尖端に金属製のペンがついていて、カートリッジに入っているインクがペン先に流れ出るような構造になっている。このような道具は多くのメーカーでそれぞれ異ったかたちや材質のものを生産していて、私の持っているものにも他のものとは異った個性があるけれども、それらは共通した構造にもとづく共通した機能を持っていて、ここからこれを「万年筆」とよぶわけである。それゆえ、概念にあっては事物の特殊性についての認識はすべて超越され排除されてしまっている。だがこのことは、特殊性についての認識がもはや消滅したことを意味するものでもなければ、無視すべきだということを意味するものでもない。特殊性についての認識は概念をつくり出す過程において存在し、概念をつくり出した後にも依然として保存されている。私が「万年筆」を持っているというときのそれは、私の机の上にあるそれであって、文房具店のケースの中にあるそれではないし、もし必要とあらばその概念の背後に保存されている特殊性についての認識をもさらにそれ自体の他の側面である普遍性においてとらえかえして、「黒い」「万年筆」とか「細い」「万年筆」とか、別の概念をつけ加えてとりあげるのである(2)

 この場合の「万年筆」は、机の上に個別的な事物として存在している。私はこの事物の普遍性を抽象して概念をつくり出したにはちがいないが、その対象とした普遍性はこの個別的な事物の一面として個別的な規定の中におかれている普遍性にすぎない。普遍性をとりあげてはいるものの、問題にしているのは個別的な事物それ自体なのである。

しかしわれわれは、個別的な事物ではなく、この普遍性をそなえている事物全体を問題にすることも必要になる。このときにも同じように普遍性が抽象され概念がつくり出されるが、その普遍性はもはや個別的な規定を超えた存在としてとらえられるのであり、類としての普遍性が対象とされているのである。「万年筆はますます普及している」というときの「万年筆」は、個別的な存在ではなくて全体を問題にしている。先の私の「万年筆」が個別的概念であるのに対して、この全体をとりあげた「万年筆」は普遍的概念あるいは一般的概念とよぶべきものである。これと同じことは、鉛筆やボールペンについても成立するのであって、「鉛筆」「ボールペン」などの概念にも、個別的な事物をとりあげた個別的概念もあれば、全体をとりあげた普遍的概念もあるわけである。

 つぎに、類としての普遍性を考えてみると、これは個別的な事物のすべてをつらぬいているという面から見て、たしかに普遍性であるにはちがいない。けれども類とよばれる存在はきわめて多種多様であって、その意味で類としての普遍性それ自体はいずれもひとつの個別的な存在としてあつかわれることになる。「万年筆」という類、「鉛筆」という類、「ボールペン」という類など、個別的な存在としての類が多種多様にあって、さらにこれらに共通した普遍性を対象とする「筆記用具」というヨリ高度の普遍的概念も成立している。そしてこの普遍性に対しては「万年筆」「鉛筆」「ボールペン」などの個別的な存在としての類はそれぞれ特殊性をそなえた類としてとらえかえされることになり、これらは特殊的概念の性格を与えられることになる。さらにこの『筆記用具」も、「文房具」という普遍的概念に対しては特殊的概念であるというようにヨリ低い類からヨリ高い類へと対象の立体的な構造をたどって認識が発展し、抽象のレベルが高くなっていく。そしてそれにもかかわらず、これらの概念は超感性的な点で共通しており、言語表現でも同じ語彙が使われるのである(3)

(1) 頭の中で言語を駆使することが思惟であるという発想は、いわゆる「内語」について論じる人びとに共通して見られるところである。これは経験主義的な解釈であるが、それでは表現として頭の外に存在する「外語」と頭の中に存在する「内語」とはどういう関係にあるのか、どうして「内語」なるものが成立したのかと反問しても、説得的な答は得られない。言語そのものが外へ出たり内(うち)へ入ったりするかのように説明しかねない。

(2) 「黒い」「細い」という概念が、それ自体として普遍性の認識であると同時に「万年筆」については特殊性の認識でもあるというのは、やはり一つの矛盾である。われわれは自覚することなしにこのような矛盾をつぎつぎと創造しながら、表現を行っているわけである。

(3) これは言語学者に対する警告でもある。語彙論にしがみついて認識の構造を科学的に把握しようとしなければ、言語学は言語表現の理論へと発展することはできないのである。

 

『認識と言語の理論 第一部』 p.92 

 このように、概念は現実の立体的な構造に対して、やはり立体的な構造をとることが要求されているのであるが、これを平面化したり切りはなして扱ったりするあやまりも起りうる。机の上に万年筆しか存在しないならば、「机の上の書くものをとってくれ」と抽象のレベルの高い普遍性でとらえても、万年筆をとってくれるであろうが、机の上に鉛筆もボールペンもあるときにはこのレベルではそのいづれにもあてはまるから、手当り次第にとってくれるであろう。「机の上の万年筆をとってくれ」といわなければならない。いわれた側では、「万年筆」の類としての特殊性を認識しているから、それに相当する存在をいろいろな存在の中からえらび出してとってくれるはずである。鉛筆がほしいときにも、同じように「机の上の鉛筆をとってくれ」といって、「鉛筆」の類としての特殊性の認識に訴えるわけである。

このときの「万年筆」「鉛筆」は個別的概念として個別的な事物をとりあげているのであるから、この二つの異った概念にはそれぞれ異った二つの個別的事物ではなく、一つの個別的な事物の一面である個別的な立体的な異った普遍性が対応している。それゆえ「万年筆」と「鉛筆」とはそれぞれ別に存在すると考えて「万年筆」のほかに「鉛筆」をさがそうとするのは正しいが、もし「万年筆」と「筆記用具」との場合にも同じように考えて「万年筆」のほかに「筆記用具」をさがそうとするならばそれはあやまりである。この二つの概念は、抽象のレベルの差異によって生れたのであるから、抽象として頭の中で切りはなして別々に扱っていても、現実の事物としては切りはなされて存在しているわけではないからである。

「物質」というのは非常に高度なレベルの抽象である。現実の具体的な事物としての「太陽」とか「地球」とか、あるいはやや高度のレベルの抽象である「元素」とか「原子」とか、あるいはさらに高度なレベルの抽象である「エネルギー」とかいうような、さまざまの概念でとらえている存在のほかに「物質」をさがそうとするならば、これもあやまりといわなければならない。けれども「万年筆」のほかに「鉛筆」を探そうとする習慣はこの場合にも持ちこまれる可能性がある

事実昔からさまざまな個別的事物のほかに、どこかに「物質」そのものがあるはずだと考えて、さがし求めた学者もすくなくないのである。もちろんどこをさがしても、そのようなものをとらえることはできない。「物質」は抽象として頭の中で切りはなして扱っているが現実に切りはなされて存在しているわけではないのに、頭の中で切りはなされているからには当然現実にも切りはなされてあるにちがいないと、抽象の産物をそのまま現実の世界に持ちこむ人たちは、結局のところ、たしかに「物質」はあるはずだがそれはわれわれがとらえることができないのだと考えることになる。このようにして、「とらえることができない物自体が存在する」とか、「実存は不可知である」とか、カント主義ないしは不可知論への転落が始まるわけである(4)

(4) この「とらえることのできない物自体」に対する批判は、観念論の立場からだとはいえ、ヘーゲルによって深刻に行われている。カント哲学の「本質的な欠陥は、この哲学が抽象的な物自体を終局的な規定として頑強に固執し、反省または規定性、および特質の多様性を物自体と対立させたことにある。」(ヘーゲル『大論理学』第一部第二篇第二章)それゆえカント哲学にあっては、法則性は物自体に属しているものでなく、主観によって与えられるものと考えられているのに対し、ヘーゲルにあっては物自体の持つ本質的な関係と考えられているのである。

 

『認識と言語の理論 第一部』 p.94 

 普遍的概念をわれわれは範疇(はんちゅう)ともよんでいるのだが、哲学者たちの範疇とかカテゴリーとかよぶものはそうではなくて、ギリシャ以来哲学に使われるもっとも基本的な普遍的概念をさしている。したがって、哲学者によって範疇とかカテゴリーとよぶものはくいちがってくることになるが、論理学に使われるいくつかの基本的な普遍的概念をさすのがふつうである。自称マルクス主義者もこれを真似て、社会経済的構成、生産力、生産関係、土台、上部構造、階級、革命、などが唯物史観の範疇だなどと論じている。

 概念はこのように事物のさまざまな普遍性を反映するものとして、多くの場合バラバラに切りはなされたかたちでつくり出される。それゆえわれわれはそれぞれの場合に、対象とする事物の平面的な立体的な構造に対応させて、認識の側からバラバラの概念を相互にむすびつけ構造づけていかなければならない。これは概念を使うことであり、概念をつくり出すこととは相対的に区別される異った精神活動であって、この能動的な構造づけを判断とよんでいる。与えられる事物のさまざまな構造に対応して、判断もさまざまなかたちをとることとなり、事物についての認識が深化するのに伴って、判断もまた高度なものに発展していくのである。

 ヘーゲルは『大論理学』の第三部、主観的論理学または概念論において、判断をつぎのように類別している。

 A 定有の判断 (Urteil des Daseins)(個別性の判断)

 これは判断のもっとも単純な形式であり、直接的な判断である。この判断においては、個々の事物についてある一般的な属性が肯定的もしくは否定的に立言されるから、「内属の判断」でもある。「述語はその基礎を主語に有(も)つところの非自立的存在という形式を持つ」のである。それは三つに分類される。 a 肯定判断――バラは赤い。 b 否定判断――バラは青ではない。 c 無限判断――バラは象ではない。

 B 反省の判断 (Urteil der Reflexion)(特殊性の判断)

 これは主語について一つの関係規定が立言される。述語は主語に内属するものではなく、「包摂の判断」である。 a 単称判断――この人間は死すべきものである。 b 特称判断――若干の人間は死すべきものである。 c 全称判断――人間なるものは死すべきものである。

 C 必然性の判断 (Urteil der Notwendigkeit)(特殊性の判断)

 これは主語についてその実体性が規定される。 a 定言判断――バラは植物である。 b 仮言判断――もし太陽がのぼれば、昼である。 c 選言判断――肺魚は魚であるか、又は両棲動物である。

 D 概念の判断 (Urteil des Begriffs)(普遍性の判断)

 これは主語が「一つの真実の判定」として、一般的本性にどの程度に一致するか否かが立言される。 a 実然判断――この家は悪い。 b 蓋然判断――家がこれらの性状を有するなら、良い。 c 必然判断――これこれの性状の家は、良い。

 エンゲルスはこのヘーゲルの判断論をとりあげて、つぎのように書いている。

 これを読めばいかにも無味乾燥ではあるが、また一見したところ判断のかかる分類はところどころいかにも勝手気ままにつくりあげたように見えるところがあるかも知れないが、かかる類別の内面的な真理性と必然性とは、ヘーゲルの『大論理学』における天才的な展開を徹底的に研究する者には、誰にとっても明白となるであろう。しかしながら、かかる類別が思惟法則においてのみでなく、自然法則においてもまたいかに立派に基礎づけられているか、ということに対して、われわれはいまここに別の領域からごく有名な一つの例を掲げよう。

 摩擦が熱を創(つく)り出すということ、このことは、すでに有史前の人類によって、彼らがおそらくは十万年もさらに以前に摩擦火を発見したとき、またさらにそれより以前において冷えた身体の局所を摩擦によって温めたときから、実際的に知られていた。しかしながら、このときから、摩擦は一般に熱の一源泉であるということが発見されるまでに、幾千年を経て来たことかは誰がこれを知ろうか。ともあれこうして、かかる時代、すなわち人間の頭脳の充分な発達の結果、摩擦は熱の一源泉であるという判断、いいかえれば定有の判断を、しかも肯定判断を下しうる時代が到来した。

 さらに幾千年を経て、ついに一八四二年にマイエル、ジャウルおよびコールディングはこの特殊な事象を、このときまでに発見されたこれと類似の他の諸事象との関係に基いて、すなわちそれのもっとも手近かな一般的諸条件に基いて研究し、そして判断を下のように定式化した――一切の力学的運動は摩擦を媒介として熱に転化せしめうるものである。われわれが対象の認識においてかかる定有の肯定判断から、かかる反省の全称判断にまで進みうるには、かくも多くの時間と膨大な経験的認識を要したのであった。

 しかしながらいまや事情は急速に発展した。すでに三年後にはマイエルは、すくなくとも本質的な点では反省の判断を、それが今日もなお妥当性を有する段階にまで高めることができた。すなわち――

 いかなる形態の運動も、それぞれの場合に特定された諸条件の下において直接もしくは間接に他のあらゆる形態の運動に転化することが可能でもあり、必然でもある、と。――これは概念の判断、しかも必然判断であり、判断一般の最高形式である。

 したがってヘーゲルにあっては判断それ自体の思惟形式の展開として現れたところのものが、われわれにおいてはこの場合、運動一般の性質に関する・われわれの経験的基礎の上に立つ・理論的知識の展開として現れている。このことたるやまさしく思惟法則と自然法則とは、それらが正しく認識されさえすれば必然的に相互に合致するものであることを示している。

 われわれは第一の判断を個別性の判断として理解しうる。すなわち摩擦が熱を創り出すという個別的な事実が記録される。第二の判断を特殊性の判断として理解しうる。すなわち運動の特殊な形態、たとえば力学的運動は、特殊な事情の下において(摩擦によって)ある他の特殊な運動形態、たとえば熱に転化するという性質を示している。第三の判断は普遍性の判断である。すなわちいずれの運動形態も他のあらゆる運動形態に転化する可能性を有し、かつまた転化せざるをえないものとして示された。この形態をもってこの法則はその最高の表現に到達したわけである。(エンゲルス『自然弁証法』)

 

『認識と言語の理論 第一部』 p.97 

 武谷三男はさらにすすんで自然科学史から理論発展における三つの段階を指摘し、彼のいう三段階論を主張した。

 第一段階として現象の記述、実験結果の記述が行なわれる。この段階わ現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのでわなく、ただ現象の知識を集める段階である。これわ判断とゆうことからすれば、ヘーゲルがその観念論でのべている様に個別的判断に当るものであって、即ち Dasein の肯定判断として、個別的な記述の段階であり、an sich である。これを現象論的段階と名付ける。ティコの段階。

 第二に現象が起こるべき実体的な構造を知り、この構造の知識によって現象の記述が整理されて法則性を得ることである。但しこの法則的な知識わ一つの事象に他の事象が続いて起ることを記すのみであって、必然的に一つの事象に他の事象が続いて起らねばならなぬとゆうことにわならない。即ちこれわ post hoc とゆう言葉で特徴付けられるので、これわ概念論の言葉で云えば、特殊的判断と云えるものである。特殊的な構造わ特殊的な事情において特殊的な現象をもつことを述べるものである。für sich の段階でその法則わ実体との対応の形において実体の属性としての意味をもつのである。これを実体論的段階と名付ける。ケプレルの段階であり、論理はスピノザ的である。

第三の段階にをいてわ、認識わこの実体論的段階を媒介として本質に深まる。これわさきにニュートンの例にをいて示した様に、諸実体の相互作用の法則の段階であり、この相互作用の下にをける実体の必然的な運動から現象の法則が媒介し説明し出される。即ちこの段階にをいては propter hoc とゆう言葉で特徴付けられる。an und für sich の段階であり、概念論でいえば普遍的判断であり概念の判断である。即ち任意の構造の実体わ任意の条件の下にいかなる現象を起すかとゆうことを明かにするものである。これを本質論的段階と名付ける。(武谷三男『ニュートン力学の形成について』(5)

 ここでとりあげられた、思惟法則と自然法則との展開が相互に合致するという問題は、別のことばを使うなら、科学の体系の歴史的な発展は論理的であるという問題である。現実の世界のありかたの歴史的な発展と、その論理的なありかたとの関係については、すでに両者を統一において理解するのが正しいといわれて来た。「論理的な取扱いかたは、実は、ただ歴史的な形態と攪乱的(かくらんてき)な偶然性とを剥(は)ぎとった歴史的な取扱いかたにほかならない」(6)のであって、このようにして成立した思想は「歴史的経過の・抽象的で論理的に一貫した形態における・映像にほかならない」のである。

この、歴史と論理との統一は、現実の世界のありかただけでなく、認識のありかたにおいても成立するということを、自然科学の発展は実証している。これは当然予想されることであって、現実の世界が歴史と論理との統一であるならば、その反映である認識もまたそれに照応して、やはり歴史と論理との統一を示すであろうと考えるのは合理的だからである。

 現実の歴史はしばしば飛躍的にかつジグザグに進行するが、認識ないし科学の歴史についても同じことがいえる。科学の歴史をいくつかの段階に区別して論理的にとりあげる場合も、攪乱的な偶然性を捨象して大づかみに扱っているのであって、ジグザグの進行を否認するものではない。われわれの日常の行動にしても、直線的に進むわけではなく、仔細にながめれば多くのジグザグを見出すことができる。登山は平地から山頂への到達だといっても、その間には下り道もあり、時には山くずれにぶつかって思わぬまわり道をすることもあり、泳いで渡ることのできぬ急流を前に頭をなやますこともあれば、体力が消耗して頂上を目前にしながらキャンプへ戻らねばならぬこともある。山それ自体の条件ばかりでなく登山する人間の主体的条件からも規定されてくる。

認識もこれと同じであって、現実の世界の側から受動的に反映されるわけではなく、予想や仮説をつくりながら能動的に現実の世界へ働きかけていくのであるから、現実の世界それ自体の条件ばかりでなく認識する人間の主体的条件からも規定されてくる。これまでの研究で成功した発想をどこまでも持ちこんで限界を逸脱してしまい、あやまった判断におちいることもあれば、宗教的なイデオロギーを持っているためにそれから規定されて、あやまった先入見を押しつけることもある。すでにとりあげたように自然科学においても逆立ち理論が長い期間にわたって正しいものと認められた例がすくなくないのである。

三段階論はこれらのジグザグを捨象した非常に高度なレベルの抽象においてつくり出されているのであるから、この抽象をそのまま具体的な科学の歴史に押しつけて、ここがくいちがうとかあそこがはみ出しているとかいい、それをふりまわして三段階論は欠陥があるとかあやまっているとか主張する評論家は、抽象についての無理解をPRしているようなものである。

事物の歴史的=論理的な把握は、対象の正しい位置づけを行うとともに、将来の発展についての正しい見とおしを与える。科学者による科学の歴史的=論理的な把握も同じであって、どこに問題があるかどこをどう創造的におしすすめたらいいかについての指針として大いに役立つのである(7)

 判断は概念相互の能動的な構造づけであるから、判断を下すだけの自信がない場合もあれば断定しかねる場合もあり、また予想した判断が現実にぶつかってくつがえされる場合もある。

「このバラは赤い」という肯定判断に対して「このバラは赤くなくはない」という否定判断を二重化した二重否定のかたちがある。はじめの予想では赤くないと判断したが現実にぶつかってくつがえされた場合の「なくはない」なら、「赤い」と結果において同じではあるが、過程のちがいを無視することはできない。しかし現実のバラは赤いともいえるが桃色といえないこともないような、不明瞭な断定しかねる存在の場合、赤いというほうにウェイトをおいて「なくはない」と表現するのは、現実の不明瞭さを忠実にとりあげた不明瞭な判断であって、「赤い」という明瞭な判断とはまったく異ったものだといわなければならない。前者は対象と関係のない認識の矛盾から生まれた二重否定であるが、後者は対象の不明瞭から生れた二重否定であって区別しなければならない。

(5) 一部の「前衛」評論家が、武谷の三段階論は素粒子論をやらないものには理解できぬかのように主張しているのは、その成立過程および論理学の性格についての無知を告白したものである。武谷の三段階論は科学史の発展において論じられ、同じくヘーゲルの判断論から出発しながら、庄司の三段階連関理論は個人の認識の発展において論じられていることも、興味が深い。

(6) 以下は、マルクスの『経済学批判』に対するエンゲルスの書評(一八五九年)からの引用。さきの『自然弁証法』での思惟法則と自然法則との合致の指摘は一八八二年に書かれたものである。

(7) 科学の最前線で創造的な仕事をしている科学者は、前進するために大胆な仮説を立てねばならず、理論の発展についての見とおしを持たないわけにはいかない。そこから方法の重要なことも、その有用性も、身をもってわかってくるのである。評論家はこのような仕事にたづさわっていないから、方法の重要性を強調されても実感として受けとめることができず、哲学の不当な重視のようにしか受けとれない。これは社会科学にも自然科学にも共通していえることである。



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