事物の構造に対応する認識の能動的な構造づけは、判断から推論へとすすんでいく。バラバラな概念を相互にむすびつけることによって判断が成立したように、バラバラな判断を相互にむすびつけることによって推論が成立するのである。この推論の分類と展開においても、ヘーゲルはそのすぐれた能力を示している。「推論においては概念諸規定は判断の両項のような形で存在するが、同時にそれらの規定的な統一が措定されている。推論は従って完全的に措定された概念である。故に推論は理性的なものである。(1)」こうして成立する推論にあっても、判断と共通した発展過程が示されるのであって、判断が直接的な定有の判断から反省の判断へ必然性の判断へと展開されるように、推論も直接的な定有の推論から反省の推論へ必然性の推論へと展開されている。そしてそのさきはどうなるかといえば、ヘーゲルでは「概念は客観性としての実在を獲得(2)」することになっており、自己を現実の世界に転化させるわけであるが、われわれの認識論でいうならば、認識と現実の世界との最高の一致がかちとられるのである。
この昔から論理学がとりあげて来た概念から判断へ推論へという認識の発展も、感覚から出発するところのさまざまな認識をその背後に保存しているのであって、推論としての結論から意志を媒介として実践へと進む場合にも、それら背後に保存している認識とのかかわり合いにおいて具体化され表象化されていく。それゆえこれまでとりあげて来なかった、認識の他の側面の発展をここでふりかえってみる必要があろう。
認識は映像である。映像といわれるものは、それ自体実体として存在するわけではないが、しかも空中に浮んでいるのではなく、すべてそれなりのささえ手に担われている。湖に山々がその影を落しているときには、水面がその映像のささえ手であり、映画館で映画が映写されているときには、スクリーンがその映像のささえ手である。水面の映像は、太陽の位置や雲の状態や霧の有無や風のありかたなどによって、大きく変ってくる。スクリーンの映像は、映写機の状態や光線の色や明るさや館内のタバコの煙の有無やスクリーンのありかたなどによって、大きく変ってくる。他のありかたは変らなくても、スクリーンに塵埃(じんあい)が付着すれば、映像も汚れた色になってくる。映像のささえ手は映像にとって一つの外界であるから、このささえ手のありかたから映像のありかたが規定されてくるという関係を無視することはできない。テレビの映像のささえ手はブラウン管の蛍光膜であるが、これが質的な変化を起すと他の条件は同じでも映像のコントラストがハッキリしなくなってくる。人間の目も細胞のありかたが異ると、同じ映像を受けとりながら色彩を感じたり感じなかったりする。色盲とよばれるものも、映像のささえ手の質的なちがいの問題である。
無生物も生物もその環境との連関において存在する点で共通しているが、相互関係の持つ役割はまったく反対である。無生物がその環境との連関において分解したり結合したりするときには、損傷であり変質であるけれども、生物にあっては物質代謝によって絶えず自己更新を行うことこそ生命を維持するための不可欠条件である。
無生物がその外界の映像のにない手となったとしても、それはなんら積極的な意味を持つものではなく、時には損傷であり変質であるけれども(3)、生物にあってはその外界の映像のにない手となることによって生物としての活動を積極化し、損傷や変質から自己を防衛するために役立つのである。非常に強い痛みがつづくような場合、われわれは神経の存在をうらみたい気もちになるけれども、この痛みはとりもなおさず危険信号であって、痛みの強さと危険の重大性とは必ずしも比例するわけではないが、神経細胞から脳に対して適切な処置をとれという警告が与えられているのである。もしこの種の警告がなく、危険を自覚できなければ、自体が進行してもはやとりかえしがつかなくなる状態にさえなりかねない。その意味で、この痛みも合理的な存在なのである。
生物体は有機体とよばれ、きわめて多種多様の運動形態をその内部にふくみながら、外界との交渉・連関において存在している。生命は物質代謝とよばれる非敵対的矛盾の形態をとって、その対立した側面を調和的に維持していく。現在の生理学は、生物体のこの「平衡状態を保つ活動」を、ホメオスターシス(homeostasis) と名づけているのだが、その論理的な理解の水準は一九世紀の矛盾論をおいかけながらいまだに追いつきえないでいるものといえよう。
生物体はこの調和あるいは平衡を維持しながら絶えずそれ自体として変化していき、その外界との交渉・連関のありかたも絶えず変化している。脳細胞は神経細胞を通じて身体のさまざまな部分との連関を保っており、生命を維持し生活を行うためのいわば司令部として、身体のさまざまな部分との相互関係において活動している。
生物体としては生物体外が外界であるけれども、神経細胞から脳細胞への系列すなわち認識のささえ手からすればこれら以外の生物体の内部もやはり一種の外界であり、認識からすればささえ手さえも外界になる。生物体の外界との交渉・連関も、生物体のさまざまな部分との媒介において認識のささえ手に結びついていくのであるから、生物体の外部が原因で痛みが起ったとか内部が原因で痛みが起ったといっても、それは相対的な区別でしかない。
いま、指先に突然異様な感覚を与えられたとすれば、われわれは指先をながめ、そこに針が存在していたなら、針がさしたためだと判断する。しかし一方では、指先に異様な感覚を与えられるとともに、反射的に指をひっこめるという、生物体の運動としての反応もあらわれる。そして指から針がはなれた後にも、なお指先が痛むとすればこれは脳に対する警告であって、認識の発展としてはこれから針のあつかいかたに気をつけよう、こんな失敗をくりかえすまいと反省することにもなるが、しかし一方ではこの痛みをなくしたいという欲望が生れるために、薬がどこにあったかと考えてさがす思惟から行動への過程があらわれる。認識それ自体の発展だけでなく、意欲を媒介として生物体の現状を変えようとする能動的な行動へすすんでいく。
(1)(2) ヘーゲル『大論理学』第二部第一篇第三章。
(3) フィルムや印画紙の感光膜を使ってわれわれは映像を固定しているが、これも一種の変質にほかならない。そしてこの現像・定着ずみの映像は、さらに環境との連関で変色したり褪色(たいしょく)したりしていくのである。
食物をとらないでいると、体内の生理的条件が変り、脳に食物を与えよという警告がやって来て、次第にはげしくなってくる。これを飢餓(きが)とよんでいる。水分が欠乏していると口から喉(のど)が乾燥するために、水を与えよという警告がやって来て、次第にはげしくなってくる。これを渇(かわき)とよんでいる。これらも欲望から能動的な認識へ行動へとすすんでいく。肉体的あるいは精神的に活動をしすぎると、休息を与えよという警告がやって来て、次第にはげしくなってくる。これを疲労とよんでいて、これは欲望から活動の休止へとすすんでいくけれども、ときには欲望さえも停止して生物体が動かなくなってしまう。これらは生物体自身の生命の維持につながる欲望であるが、生物体内部の生理的な変化から他の生物体である異性に対する欲望いわゆる性欲とよばれるものも生れて来て、能動的な認識から行動へとすすんでいく。これも社会的に大きな影響を及ぼす可能性を持っている。
欲望とか意欲とかいわれるものは、単に物質的な生活としての生命の維持や異性とのむすびつきにあらわれるにとどまらない。人間は現実の世界との能動的な交渉・連関をもって、物質的ならびに精神的な生活資料を創造していくから、物質的な生活資料たとえば住居や衣服や家具などに対しても、精神的な生活資料たとえば楽器や書物などに対しても、生活の中で欲望なり意欲なりが形成されるようになり、生活の発展に応じて発展していく。飢餓や渇や疲労や性的孤立は、不快もしくは苦痛を覚えることになり、それらの欲望をみたすことは快感を覚えることになるが、生活資料をめぐってもこれと似た状態があらわれてくる。そしてわれわれは、感覚からつくり出されてくるこのような情感とか情緒とかよばれる精神的な存在から規定されて、生活資料が感覚に与える色や音や臭気や味などに対しても不快もしくは苦痛を覚えるようなものをしりぞけ、快感を覚えるようなものを求めたり創造したりしていく。
悪い道をバスでガタガタゆすられながら行くのは、肉体的にひいては精神的に苦痛を覚えるから、行かねばならぬ用事があってもなかなか行きたいという気もちになれないが、高速道路を高級車でスピードをあげてとばすのは快感を覚えるから用事がなくてももう一度あの感じを味わってみたいという気もちになる。対人関係での情感あるいは情緒は、普通に感情とよばれ、その敏感なあるいははげしい場合を感情的などとも名づけている。これらもまたそれなりに発展するのであって、不快もしくは苦痛の発展から恐怖とよばれるものがあらわれたり、快感の発展から歓喜とよばれるものがあらわれたりする。欲望をみたすことが妨げられると不満が生れ、その発展から怒りやがあらわれる。そしてこれらの情感あるいは情緒は、さらに生物体に影響を及ぼして生理的な変化を作り出すことになる。筋肉がこわばったり、ゆるんだり、血液が集まったり、散っていったり、心臓の鼓動がはげしくなったり、汗が流れたり、ふるえ出したり、その他さまざまな状態を呈する。われわれはこれから、他の人間がいまどのような感情を自分にいだいているかの見当もつけているのである(4)。
砂糖と塩とは異った感覚を与える。対象の質的なちがいが感覚のちがいとして反映されたのであって、対象と感覚とは別の存在ではあるがそこに因果関係が成立してこれによって連関づけられている。われわれはこの感覚の因果関係において二つの単語を結びつけ、「甘い」「砂糖」とか「辛い」「塩」とか表現する。一方は感覚のありかたを、他方は客観的な物のありかたをとりあげているのであるから、対立した内容の二つの概念が表現されているのである。「四角い砂糖」というときには、どちらも客観的な物のありかたをとらえているから、「甘い砂糖」と認識構造を異にしている。けれども見たところ「四角い砂糖」も「甘い砂糖」も平面的に文字をならべていて、おなじように思われるから、混同されやすいのである。感覚のありかたである「甘い」が「砂糖」と同じく客観的な物のありかたにされてしまい、砂糖それ自体がはじめから「甘い」ものをふくんでいるのだと、観念的なありかたをそのまま空想的に客観的な物に押しつけることになりやすい。
ここからさらにすすんで、「甘い」と感じるものにはすべて共通した何か特殊な成分を、いうなれば「甘さの素」をふくんでいるはずだと、観念的なありかたをそのまま空想的に客観的な物に押しつけた・空想としか存在しない・実体を探しもとめたりするのである。「甘い」は感覚で客観的な物のありかたからは相対的に独立していると理解するなら、たとえ同じように「甘い」と感じる物があったとしても、砂糖の場合と同一の実体がそこにあるなどという結論は出さないであろう。これと同じことが、「美しい」「顔」とか「美しい」「行動」とか「美しい」「話」とかいう場合にもいえるわけである。平面的に文字をならべているが、そこに矛盾があることを無視し、「美しい」を客観的な物のありかたにしてしまってはいけないのである。情感としてそれらがみな「美しい」と感じられたとしても、そこから「顔」にも「行動」にもそれ自体にすべて共通した何か特殊な「美」なるものをふくんでいるものときめては、あやまりなのである(5)。同じ砂糖をなめても甘いと感じる者もあれば神経の麻痺していて感じない者もあるし、同じ話を聞いても美しいと感じる者も感じない者もある。話を観念的に追体験して、感動する者も感動しない者もあるというのは、主体的な条件のちがいが存在するからである。「美」が外界からはいってくるのを遠慮したわけではない。
(4) 動物の場合でも人間のそれと似た生理的な変化を示すことが多い。それで認識の発展を体系的にとらえていない、現象にひきずられやすい心理学者は、見かけからこの共通点を不当に誇張することにもなる。動物に対して人間と同じような精神活動を押しつけた「動物心理学」がつくられることにもなる。
(5) 唯物論者が矛盾を無視したときは、「美」を客観的な物のありかたにしてしまうが、観念論者は反映論を否定して同じように矛盾を無視することから「顔」や「行動」や「話」のほうを主観的な存在にしてしまうことになる。それで俗流唯物論は観念論美学をちょうど裏がえしするわけである。「美」が客観的な物のありかたに規定されているという媒介関係を、直接に「美」とは客観的な物のありかただと解釈しながら、その論理的なふみはずしを反省できないのである。
動物には思惟する能力がないから、欲望や情感が直ちに行動へとみちびかれるのだが、人間はそうではない。人間にあっては現実の世界についての認識の発展と、欲望の発展とがからみ合っている。空腹を解消するための食物に対する欲望にしても、その人間にとって先行した欲望の満しかたと無関係ではない。それなりに食べたいものがあり食べかたがある。この食べたいものは、やはりそれなりに人間らしい選択が行われ加工がなされている。それゆえ新しい欲望を満そうとするときにも、食物の補給を絶たれたジャングルの中の兵士のような状況に置かれないかぎり、動物的な行動はとらないのである。人間にあっては、欲望は認識を規定して、現実の世界を先走りしたところの夢をそれなりに頭の中に描かせ、この夢を行動によって実現し欲望を満すという形態をとるのである。ここに、目的とよばれる認識が生れてくる(6)。
目的は能動的に現実の世界のありかたを変えるための実践的な出発点である。これはもちろん先行した認識の到達点でもあって、自己の一生のありかたを決定するような大きな目的は推論における結論として理性的に打ち立てられるけれども、そのときどきの判断から出てくる目的もあれば気まぐれな思いつきから出てくる目的もある。だがいづれにしても、単なる予想や願望ではなくて、それを実現しようとする能動的な認識であるところに目的とよばれる根拠がある。それゆえ、たとえあやまった認識から生れた実現不可能な夢であっても、自分の努力ではなく他の人間の努力によりかかった虫のいい夢であっても、それが実践にむすびつき実現を目ざすという能動的な性格を与えられているならば、それは目的とよばれるのである。
「横綱になって郷土の人びとの前で晴れの土俵入りをする」ことを目的として、まず力士を志願し採用された少年は、その大きな目的を実現するために、まず毎日の稽古にはげみ、つぎの場所で勝ち越さなければならない。大きな目的をつねに頭の中に維持していくと同時に、その実現過程に存在するいくつかの段階を考え、まずそれの実現に努力しなければならない。これらの段階もつぎつぎとその実現を考えて、それなりにやはり一つの目的を打ち立てるのであるが、これを大きな目的に対して目標ともよんでいる。つぎの場所で勝ち越すというこの段階の目的あるいは目標を実現するための毎日の稽古は、この目的あるいは目標に対して手段といわれている。ところがこの目的あるいは目標もその実現も、大きな目的からすれば手段にほかならないのであるから、手段は目的の実現を媒介するものとして別個に存在するだけでなく、目的それ自体が同時に手段でもあるという直接的な同一性が成立しているわけである(7)。
この目的の実現のためには、持ち合わせている認識を動員して目的を具体化していかなければならない。それゆえ、目的は意志の一つのありかたではあるが、目的と区別された意志は目的に従属するかたちをとり目的の実現に向って目的を具体化していくことになる。目的は抽象的なものとしてつねに維持されても、目標はその具体化として変化していく。意志とよばれる認識にも段階が存在しているわけである。
たとえば「五〇〇メートルはなれたところにいる友人と、無線で語り合う」という目的を立て、実現するには、その装置を手段として持たなければならないから、「装置を作ろう」という意志を持ち、目的に照応し目的の実現に役立つような装置の設計を、抽象的な構成から配線図へ実体配線図へと具体化していく。目的が変れば設計も変ってくるし、また目的が変らなくても現実の条件が変って安くて優秀な既製品がメーカーから売り出されたとすれば、これを手に入れようという別な意志を持って実践にうつるであろう。
意志についてはヘーゲルがきわめてすぐれた分析をしている。
思惟と意志との区別は単に理論的態度と実践的態度との区別にすぎない。しかし決して二つの能力があるのでなく、意志は思惟の一種特殊な仕方、すなわち自己を定有へと移すものとしての思惟、自己を具体化せんとする衝動としての思惟である。
自我は世界を知っているとき世界に安らっているが、世界を概念的に把握したとき、なお一層世界に安らうのである。ここまでが理論的態度である。これに対して実践的態度は思惟に、すなわち自我そのものにはじまり、まず何よりも思惟に対立せしめられたものとしてあらわれる。すなわちこの態度は直ちに分裂を提起するからである。私が実践的・活動的であること、すなわち行為することによって、私は自己を規定する。そしてこの自己を規定するということは、まさにある区別を定立する謂(いい)である。しかし私が定立するこの区別は、同時に依然として私のものであり、その規定は私に帰し、私がそれへ駆り立てられる目的は私に属する。
ところでたとえ私がこれらの規定や区別を外化する、すなわちいわゆる外界に定立するとしても、なおそれらは私の為せるもの、作れるものであり、それらは私の精神の痕跡をおびている。さてかくのごときが理論的態度と実践的態度との区別であるとすれば、さらに今度は両者の相関関係が示されねばならぬ。理論的なものは本質的に実践的なもののうちに含まれている。このことは、両者がはなればなれのものとする考えに反する。けだし我々はいかなる意志をも知性なしにこれを持ちえないからである。逆に、意志は理論的のものを自己のうちに含んでいる。意志は自己を規定する。この規定はさしあたり内面的なものによって動かされる。かくて動物もまた実践的である。しかし動物は何らの意志を持たぬ。けだし動物はその欲求するものを自己に表象しないからである。しかるに人間はまた同様意志を欠いては理論的態度をとること、すなわち考えることはできない。けだし我々は考えることによって、まさに活動的であるのであるから。(ヘーゲル『法の哲学』)
目的とか意志とかいうことばは、われわれが日常の生活で何の抵抗も感じることなしに使っているし、たがいにそれなりに納得している。組織活動にしても「運動の目的」であるとかメンバーの「意思の統一」であるとか(8)、これらのことばを使っているのだが、認識論の教科書には目的論もなければ意志論も見当たらない。理論と実践の統一の名の下にこれらがぬきとられていたりしている。心理学もかつては意志について論じたが、現在ではこれをとりあげない学者も多く、これを精神活動の内的な原因すなわち動機 (motive) に解消させる傾向がある。これは事実上現実を正視しようとしない逃避的な態度であるが、これらの問題をつっこんでいくと昔から哲学者が論議して来た意志の自由の問題にぶつかることになるから、この問題を扱うのを避けるために意志をとりあげない学者もあると思われる。
目的と手段との関係は、道徳論の問題として論じられてきた。道徳も意志の一つのありかたであるが、「目的のためには手段を選ばず」というこれまた一つの意志を具体化する人びとも少なくない。ここで、人間はその意志を自由に決定できることを認め、手段の選択もその決定のありかたの一つであって、不当な手段をとり不当な決定をした場合にはその責任が問われるべきだという道徳論ももっとものように思われる。しかしながら他方では、自然・精神が法則性を持っていて、その意味で意志もまた因果関係の中に置かれていると考えてくるならば、人間がその意志を自由に決定できると認めることによって、因果関係の必然を否定する結果にもなるように思われてくる。「あれかこれか」と哲学者たちは苦しんだ。そして意志の自由を認める人びとはこれを客観的な法則性から独立した自由として、人間が経験以前に生れつき与えられているのだとか、神によって与えられたものだとか、解釈した。
しかしこの問題は、すでにヘーゲルによって、他の二律背反と同じように、その統一こそが真理であるとされ、「あれもこれも」と規定されることで原則的に解釈されている。自由は法則性から独立したところにあるのではない。反対に、この法則性を正しく認識してそれをある目的のために役立てるところに存在するのである。それゆえヘーゲルの意志論にあっては、意志は理論的なものを自己のうちに含んでいるととらえ、すなわち法則性の正しい認識が存在していることをそれなりに認めた上で、「自由が意志の根本規定である。」(『法の哲学』第四節補遺)と主張するのである。マルクスはこのヘーゲルの理解を唯物論的に受けついでいる。
蜘蛛は織物師の作業に似た作業を行い、また蜜蜂はその鑞製(ろうせい)の窩(か・あな)の建築によって幾多(いくた)の人間建築師を赤面させる。だが、もっとも拙劣(せつれつ)な建築師でももっとも優秀な蜜蜂よりも最初から優越している所以(ゆえん)は、建築師は窩を鑞で建築する以前にすでにそれを彼の頭の中で建築しているということである。労働過程の終りには、その初めに当ってすでに労働者の表象のうちに、かくしてすでに観念的に・存在していた一(ひとつ)の成果が出てくる。彼は自然的なものの形態変化のみを生ぜしめるのではない。彼は自然的なもののうちに、同時に、彼の目的――すなわち彼の知っているところの・法則として彼の行動の仕方様式を規定するところの・そして彼がその意志をこれに従属させねばならぬところの・彼の目的――を実現するのである。(マルクス『資本論』)(強調は原文)
エンゲルスも同じ理解の下に、意志の問題についてのべている。
意志の自由とは事柄についての知識をもって決断しうる能力ということにほかならない。従って、ある特定の問題点についての、ある人の判断がヨリ自由であればあるほど、この判断の内容はそれだけヨリ大きな必然性によって規定されていることになるわけである。これに反して、無知にもとづく不確実さは、さまざまな矛盾した多くの決断の可能性のうちから外見上では随意に選択するように見えても、それはまさにそのことによってみずからの不自由を、すなわちそれがまさに支配すべきはずの当の対象によってみずから支配されていることを証明しているのである。(エンゲルス『反デューリング論』)
社会の歴史においては、そこで行動しているものは、ただまったく意識を賦与(ふよ)され、考慮または情感を持って行動し、一定の目的をめざして努力するところの人間のみである。そこでは、意識された企図(きと)、意欲された目標なしには、なにごとも発生しない。(エンゲルス『フォイエルバッハ論』)
人間はその歴史をつくる。よしその歴史がどのようなものになるにせよ、各人が各自の意識的に意欲している目的を追うことによって、そしてこれらのいろいろな方向にはたらく多くの意志と、外界に対するこれらの意志の多種多様な働きかけとの合成結果が、まさに歴史なのである。それゆえにまた問題になるのは、何をおおくの個々の人間が意欲しているかということである。意志は情感または考慮によって規定される。しかし情感や考慮をさらに直接に規定するところの槓杆(こうかん・てこ)となるものは実にいろいろの種類がある。それは一部は外界のもろもろの対象でもありうるし、一部は観念的な諸動機、たとえば名誉心とか、「真理と正義とに対する感激」とか、私人的のにくしみとか、ないしはまた、あらゆる種類のまったく個人的な気まぐれとかでもありうる。」(同上)
自由と必然性との関係を、弁証法的に統一して理解するのではなく、相容(あいい)れないからといって切りはなすならば、意志論は展開できなくなってしまう。しかも意志は、個人の頭の中に成立してその個人を動かす「衝動」になるという、個別的なありかたにとどまるわけではない。この個別意志を出発点として、特定の人びとの共通の意志となって特殊な人びとを動かす特殊意志へ、さらには社会全体の人びとの共通な意志となって一般の人々を動かす一般意志あるいは普遍意志へと発展していくのである。そこにいわゆる諸規範が成立する。
この諸規範が自由に設定されながらもその成立する必然性があり、現実の矛盾に基礎づけられているという過程についての理解は、出発点である個別的な意志が理解されてはじめて本質的な把握となって認識論の体系に位置づけられるわけである。規範についてはのちにあらためてとりあげることにしたい。
(6) 目的は人間がつくり出すのであるが、これを人間から観念的に切りはなして現実の世界に押しつけ、事物がそれぞれ目的を持つとか世界は一つの目的に支配されているとか主張するのが、「目的論」とよばれる世界観である。いうまでもなくそこには神の目的という発想がつながっており、唯物論者はこれに反対して来たが、俗流唯物論では目的を正しく説明できないために、「目的論」を克服できなかった。言語学においても俗流唯物論の立場からの言語有機体説ないし機械的言語論に対し、不可知論ないし観念論の立場から目的論的言語観が提出されていて、現在の言語哲学と称するものはほとんどこの系列に属する。ソシュール学派もまたしかりである。「たとえば食欲上の快楽わ、人間の追い求める目的の一つであるとも見られるが、さらに高い立場から見れば、それわ人類が自己の存在を維持するために、神の玄妙な摂理によって定められた手段にすぎない、とも解釈されないこともない。」(小林英夫『言語学通論』)
(7) 「目的のためには手段を選ばず」というときは、手段は目的と別個のもので目的の実現のために媒介的な役割を与えられるのだととらえている。このような手段のとりあげかたは、特定の条件の下においてのみ可能であってすべてはない。
(8) 会社における定款とか、社会運動の組織における綱領・規約とかいわれるものは、いづれも意志の一つの形態であって、これを最高のものとしてそれに従うかたちでの目標なり計画なりをつくり出しながら活動する。けれどもこれらの意志は、観念的に対象化された形態をとっているので、俗流唯物論では説明できない。