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『認識と言語の理論 第一部』2章(6) 科学と芸術 [PC版ページへ]
2018/10/18 11:51

『認識と言語の理論 第一部』2章(1) 法則性の存在と真理の体系化
『認識と言語の理論 第一部』2章(2) 仮説と科学
『認識と言語の理論 第一部』2章(3) 概念と判断の立体的な構造
『認識と言語の理論 第一部』2章(4) 欲望・情感・目的・意志
『認識と言語の理論 第一部』2章(5) 想像の世界――観念的な転倒
『認識と言語の理論 第一部』2章(6) 科学と芸術
『認識と言語の理論 第一部』2章(7) 宗教的自己疎外

『認識と言語の理論 第一部』2章(1)〜(7) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部 認識の発展』(1967年刊)から
  第二章 科学・芸術・宗教 (6) 科学と芸術


〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第一部』 p. 

 科学と芸術とを平面的に位置づけて論じるのは観念論および観念論美学の伝統であるが、自称マルクス主義者がこれをうのみにする根拠の一つに、マルクスが唯物史観の定式の中で同じように平面的に位置づけて論じているという事実がある。

 ……このような変革にあたっては、自然科学の正確さで確認できる経済的生産条件における物質的変革と、人間がこの衝突を意識しかつこれをたたかいぬくところの法律的、政治的、宗教的、芸術的、あるいは哲学的な、つまりイデオロギー的な諸形態 (ideorogischen Formen) とを、つねに区別しなければならない。(マルクス『経済学批判』)

 ここでは「芸術的」「哲学的」とならべてあって、どちらも「イデオロギー的な形態」だというのだから、哲学を科学にまで拡張して、科学と芸術とを平面的にならべこれらはイデオロギーすなわち認識なのだと解釈すると(1)、ベリンスキイとも一致するわけである、マルクスだってそういっているじゃないか、ベリンスキイを支持してどこがあやまっているのか、とマルクス主義芸術理論家はいうわけである。

しかしながら、事物を平面的に位置づけていいか否かは、そのとりあげかたで決定される問題である。馬とトラクターとは、農業で労働手段としてとりあげるときに平面的に位置づけるが、自然科学で生物学の観点でとりあげるときに同列に扱うことはしない。川の底から掘り出した石も地中から掘り出した石炭もカナリヤもシェパードも、価格をつけられて商品となっているという観点からは同列に扱うことができるが、自然科学で同列に扱うことはできない。

マルクスは唯物史観の定式で歴史の原動力は究極的にどこに求められるかという観点から人間の生活をとりあげ、物質的な生活こそ究極的な第一義的な原動力で、精神的な生活はそれに規定された第二義的な原動力だと述べている。

社会の変革は、観念論的な史観のように、法律や政治や宗教や芸術や哲学などのイデオロギーを究極的な原動力として解釈してはならないが、それらの持つ能動性を決して否定するものではない。第二義的ではあってもやはりこれらに「衝突を意識しこれをたたかいぬく」電動力の役割を認めなければならない。それゆえ、唯物論的な歴史観においては、究極的な原動力と第二義的な原動力とを「つねに区別しなければならない」ことになる。

 歴史の原動力という観点から芸術を扱えば、イデオロギーを扱わざるをえないのであって、作品それ自体は空気の振動や紙の上のインクの描線や大理石の固まりやスクリーンの映像として存在し、芸術理論ではこれらを対象にするがこれらは何ら歴史の原動力にはなりえない。これらを鑑賞する人びとの頭の中に形成される意識こそ歴史の原動力であり、ヘーゲルも芸術作品がギリシァの歴史を動かしていたと考えたのである。日本でいえば、浪曲の持つ忠君愛国のイデオロギーが、大衆の意識としてどのように歴史の動きを規定したかというような問題であって、これを哲学たとえば神国日本の「皇道哲学」などの役割と同列に置いてとりあげる扱いかたがマルクスによって提出されているだけのことである(2)。芸術とはイデオロギーにして、哲学および科学と同列に置いて科学的に研究すべし、などとはすこしも主張していないのであるから、唯物史観の規定をそう解釈するのはひどいやぶにらみであるといわなければならない。

 科学と芸術とは人間の高度な精神的活動の所産であり、人間の物質的・精神的生活を高めるために重要な役割を果している。それゆえ古くから、これらの性格および連関について論じられて来たのであるが、それらの多くは観念論の立場に立つ人びとによって論じられたために、そのままでは使えない部分がすくなくない。しかしそこに観念論の特徴があらわれていないことと、右に述べたマルクスの誤読とがあったために、観念論的な解釈が自称マルクス主義者の主張にも大きく流れこむこととなった。そこにはいくつかの特徴を見ることができる。

 まず第一に、創造の主体である科学者・芸術家と、創造物である科学・芸術との関係が明かにされていないばかりでなく、特殊な科学者・芸術家を持ち出して説明するご都合主義が顕著である。

 われわれは科学と芸術とは同一の目的を持つものと看做(みな)す。科学と芸術の差はその認識・表現の差にあると主張するものである。

   ……………

 この二つの差は、芸術家と科学者の差としても、また芸術的才能と科学的才能の差としても把握することができる。

   ……………

 客観的真理の表現を共に目的とする科学と芸術は、一つは感性的個別を一般的な論理規定によって再現し、一つは一般的なるものを感性的(表象的)個体の形で表現する。これが両者の区別である。(甘粕石介『芸術論』(3)

 これはベリンスキイ=蔵原理論の系列に属する解釈である。すでにベリンスキイも科学と芸術とを比較するに当って、科学者と芸術家を経済学者と詩人というかたちで持ち出し、彼らが階級の状態が悪化したことを訴えるという同じ目的を設定してから、経済学者が数字をあげて照明するのに対して詩人は想像力に働きかけて具体的なイメェジを示し、「一方は証明し、他方は示し、そして両方とも説得する。のだと、そのちがいと共通点とを論じた。蔵原はこれについて、「ここには芸術と科学とのあいだの統一と差別がもっとも明確な形で規定されている。ベリンスキイの芸術論における個々の見解には賛成できないものも、芸術と科学との関係についてのこの見解には反対しえないであろう。(4)」と強い確信をもって支持を表明している。

それはさておき、目的は人間の脳にしか存在しないから、甘粕がヘーゲルやデューリングと口を合せて事物それ自体が目的を持つものと解釈するのは、唯物論の名の下に観念論を提出するものである。科学者や芸術家が目的を持って創造したからといって、創造物である科学や芸術が目的を持っていることにはならない。さらに芸術家にしても、客観的真理の表現を目的として芸術を創造するとは限らない。ポオの『赤死病の仮面』やベートーベンの『月光のソナタ』やロダンの彫刻やライトの建築などに、現実の反映をうかがうことはできるけれども、これらを真理を訴え「説得する」ことを目的として創造されたものと解釈するのは、こじつけになろう。本多秋五(ほんだしゅうご)のことばを借りるなら、そこに客観的真理の表現があるのは「結果であって目的ではない」のである。特殊な現実に対する特殊な芸術家の活動と「説得」を持ち出して、これこそ芸術一般のありかただと主張するのは、芸術の側から科学に近づくためのご都合主義にほかならない。

また科学者にしても、何も証明や「説得」を目的として科学を創造するとは限らない。自然科学者が自然を研究する目的は、その研究成果を生産技術に応用することにおかれている場合が多く、企業に付属している研究所へ行って見れば蔵原でもすぐわかる事実である。科学の発展は直ちにナイロンの生産やビタミンの合成や新型テレビの生産などに役立てられている。特殊な現実に対する特殊な科学者の研究と「説得」を持ち出して、これこそ科学一般のありかただと主張するのは、科学の側から芸術に近づくためのご都合主義にほかならない。特殊性を普遍性にスリ変えるのはスターリンの発想法の特徴であるから、スターリンの主張を正しいもののと信じているような学者の頭の働きかたではベリンスキイの「見解には反対しえないであろう」と思われる。

 科学は認識であって、表現されることを必要条件としない。芸術は表現であって、認識ではない。川端康成のことばを借りるなら、「作家の胸中にあって、考えられている一つの物語は、表現されぬかぎり、永久に小説としては存在できない」のである。科学が論文として表現されることが多いところから、科学を表現と規定するのも、科学の側から芸術に近づくためのご都合主義であるが、観念論は両者を平面に置いて扱うことになるからこれをご都合主義だとは思わない。

(1) 戸坂潤も『科学論』でこのような解釈を行っている。

(2) 「哲学的」とあって「科学的」と書かれていないのも、哲学が歴史を動かすイデオロギーとして存在していた歴史的事実によるものである。原光雄のいうような科学非上部構造説の根拠にはなりえない。

(3) これは戦前に『唯物論全書』の一冊として刊行されたものである。

(4) 岩波講座『文学』第一巻のために一九五三年に書かれた『文学と思想』の中のことばである。戦前のプロレタリア芸術運動の苦い経験もベリンスキイ盲従に対する反省にまでは行きえなかったことを示すものとして、注目すべき論文といえよう。

 

『認識と言語の理論 第一部』 p.131 

 第二に、すでにここにも見られるように、科学は現実の世界ととりくんでその法則性を取り上げるのであるからノン・フィクションであるのに対して、芸術は作者の認識を直接の基盤とするからフィクションであることを許されるという重要な差別については、まったく無視されているのである。だがこれに対しては、科学でも意識的にフィクションの創造がなされているではないか、数学でも虚数などというものが堂々と使われているではないか、と反駁する人びともあるはずである。それは芸術におけるフィクションと科学におけるフィクションとのちがいを理解しないものであり、科学における矛盾のありかたを理解できないところからくるものである。

 虚数は疑いもなく一つのフィクションであって、これだけをとりあげるなら非現実的なまったくの背理である。もっとも合理的であると思われる数学にこのようなものが存在している事実は、数学をもふくめたすべての科学が現実の世界の忠実な反映であるという主張を根底からくつがえすように見える。

科学ひいては真理ととよばれる認識は、現実の世界からあたえられたものではなく、先天的に人間に与えられている思惟能力の産物であって、人間の側から現実の世界へ与えるものであるかのようにも思われてくる。カント主義者をはじめとして、多くの観念論者はこの事実をとらえこのような結論へと持っていったのであった。

だがこの問題は、二つの点に注意する必要がある。その一つは、虚数がその名の示すように、自らフィクションであると名のっており(「虚数」は英語では "imaginary number" とよばれている――引用者)、われわれはこれをフィクションであると自覚して使っている点である。いま一つは、これが計算の過程において使われているだけであって、結果においては消失してしまいその答は現実のありかたと照応する点である。一言でいうなら、虚数はフィクションであっても、真理を獲得するための一つの手段として使われるにすぎないのだ、という点である。

数学におけるフィクションの使用は、何も虚数からはじまるわけではない。すでに初等数学でも、目的的にフィクションが使われている。戦前の小学生は、中学校の入学試験にひねった応用問題が出されるというので、進学の希望者は特別にその種の問題の解き方を勉強したのであるが、その一つにツルカメ算とよばれるものがあった。

「ツルとカメの頭数を見たら六二匹、足数を調べたら一八〇本あった。ツルとカメはそれぞれ何匹か。」 これを算術で解くには、まず全部ツルだったらどうなるかと仮定して、この仮定にもとづく計算をすすめてみる。仮定を導入することは、とりもなおさずフィクションを使うことであり、フィクションとして前進することである。ツルの足は二本であるから、全部ツルだとすると 2×62=124 の足があるという答が出てくる。もちろんこの答はまちがいであることも、承知の上である。現実にはカメがいるし、カメの足は四本であるから、一匹について 4−2=2本 ちがってくるにもかかわらず、これを故意に無視したために、180−124=56 という、現実と計算の答とのくいちがいが出て来たわけである。それゆえ、全体のくいちがいを一匹のくいちがいで割った 56÷2=28 がはじめに故意に無視したところのカメの数である。つまり、フィクションを使って計算することによって、はじめ排除したカメの数を見出すことができ、そこから 62−28=34 とツルの数もわかるのである。カメを排除することによってまずカメがとらえられるということも矛盾のありかたとして注意する必要があろう。

 同じ問題を代数で解くときには、ツルとカメを x と y にして

    x + y=62   (1)
    2x+4y=180   (2)
と置き (1) を x=62−y として (2) に代入すれば
  2(62−y)+4y=180
   124−2y+4y=180
        2y=180−124
        y=28

となる。見るように、算術にあっては意識的にフィクションを使ったが、代数にあっては機械的に方程式をつくって計算するだけである。とはいえ、意識的にフィクションを使って計算したときのまちがった答 124 は、代数の計算においてもその中途に出現しているのであって、フィクションを排除したものではなく止揚したものといわなければならない。したがって、算術のやりかたは不自然だが代数のやりかたはそうでないというような解釈は(5)、まったく現象的なとらえかたでしかないことも理解できよう。問題を解決するために、まずフィクションに移行し、そこで前進し、またフィクションから脱出するのは、一つのまわり道の設定であって、弁証法でいうところの否定の否定を実践することにほかならないのである。虚数が工夫されたり微積分が考案されたりしたのも、この否定の否定の形態がさらに高度の発展をとげたものと見るべきなのである。

 ツルカメ算は、子どもの毎日の生活と直接にむすびついていない、そのために、このような算術を小学生にやらせるのは無意味であるとして、排撃する数学者や教育者もすくなくない。しかしこれを破りすてるのは、必ずしも賛成できないのである。われわれの生活はツルカメ算とまったく無縁ではなく、科学者が目に見えない世界の探検に出発するとき、現実がツルカメ算をつきつけて来るからである。これまでの研究によって、ツル的な存在は一応認められているのだが、カメ的な存在はまだ知られていないことも起りうるし、そのために両者が混在しているにもかかわらずすべてをツル的な存在だと誤認することも起りうるのである。この場合の計算は、当然に現実とくいちがってくる。現実は確かに 180 なのに計算では 124 にしかならないということになると、ある学者はこれまでの理論が根本的にあやまっていたのではないかとツル的な存在まで疑うであろうし、またある学者は何かツル的な存在以外に未知の存在がかくれているのではないかと進んで仮説を立てるであろう。この場合、計算の現実とのくいちがいは、真理へ進むための契機として役立つことになる。ディーツゲンのいうように「すべての誤謬は、真実の理解を助ける」のである。科学が相対的誤謬を通じて発展していくことを、ここからも読みとることができよう。

(5) 「鶴の数を x 亀の数を y として聯立(れんりつ・連立)一次方程式を立て、これを機械的に解けばひとりでに答は出てくる。鶴亀算といわれる中のどんな複雑なものでも、大抵は聯立一次方程式を解くことに帰着する。代数を知ってしまうと算術は非常に不自然なものだということが分って来る」(湯川秀樹『科学的思考について』)

 

『認識と言語の理論 第一部』 p.124 

第三に、これもまた科学と芸術との本質的な差異から出て来ることであるが、科学は個人の創造によって発展していくとはいえその成果は個人を超えた体系の形をとり、芸術はこれに反して個人の創造としてそれぞれ自立したかたちをとっている。これは、科学の認識は現実の世界の法則性に基礎づけられているために、現実の世界の連関に照応して体系的になることが要求されるのに反し、芸術は作者の観念的な世界に基礎づけられているために、作者の創造がそれぞれ自立しているのに規定されて作品が自立するのである。

ベリンスキイ的解釈はこれらの本質的な差異を無視して、認識のありかたが論理的かそれとも表象的かというところに差異を解消させてしまうのである。歴史科学はノン・フィクションとして、歴史の忠実な把握を要求されているから、大石良雄の放蕩が本心かそれとも苦肉の計略か、原田甲斐は逆臣かそれとも忠臣か、事実を見当して正しい結論を出さなければならない。個人が研究するのではあってもその結論は個人を超えた動かしえないものである。文学はフィクションとして、個人の創造した観念的な世界がそれぞれ自立したものと認められるのであるから、大石の放蕩を本心とした作品も苦肉の計略とした作品も、甲斐を逆臣とした作品も忠臣とした作品も、それぞれ別個の独立した芸術として認められる。歴史科学がどう結論を出そうと、それに反対の立場を取る芸術が抹殺されるわけではない。科学と芸術との差異を問題にするならば、このような事実を無視することはできないはずであるが、現実を凝視するより権威とされている解釈を受け入れるほうが容易であるために、安易な道を歩みたがる人びとが現実から目をそらしてしまうのである。

 科学はその認識が生産あるいは生活に応用されるところに、有用性がある。いわば認識としての存在が現実への方向へ働きかけることによって、役立つのである。

芸術は表現として現実の世界の一部をかたちづくり、ここから鑑賞において満足感をえられるところに、有用性がある。いわば表現としての現実的な存在が認識の方向へ働きかけることによって、役立つのである。鑑賞の結果として生れた認識が、さらに現実への方向にどう働きかけるかは、また別の問題であって、これがどうであろうと芸術であるかないかには無関係である。ナンセンスな喜劇を見て、ただゲラゲラ笑ってそれで終ろうと、あるいは深刻な悲劇を見て、そのあとで自分の現在の生活を反省しようと、それらのちがいは鑑賞の対象が芸術であるかないかとは別の問題なのである。芸術は現実的な有用性を持たなくても、作者の体験を観念的に追体験することによって満足感を与えるようなものであるならば、フィクションでもさしつかえないばかりでなく、フィクションでなければ与えられないところの満足感を与えようとする多くの作品が創造されるのである。

 フィクションには、自らフィクションと名のりフィクションと自覚してそれを役立てるものと、ノン・フィクションと名のりフィクションであることを隠蔽してそれを役立てるものとがある。芸術のフィクションは前者で宗教のフィクションは後者である。雑誌にフィクションの文学を掲載するときには「小説」とか「戯曲」とか題名に肩書きをつけるのが普通であるが、とくにことわってなくても作者の名前や文章のスタイルなどで見当がつく。それゆえ、作者と読者との間には、「この作品はフィクションなのだからそのつもりで」という、公然の・あるいは暗黙の・諒解がチャンと成立しているわけである。読者はフィクションと承知で観念的な自己分裂を行って、作者の提供してくれた世界に観念的に入りこみ、その中でノン・フィクションの場合と同じように作者の体験を追体験し、最後にまたその世界からぬけ出してくる。世界に入っている間が、芸術の鑑賞であって、そこで悲しんだりよろこんだり感動したりするからこそ、脱け出して後も「ああよかった」と満足感がのこるのである。

 人間は未知の世界をのぞいてみたい、まだ体験しなかったことを体験してみたい、という意欲を持つ。それゆえ他の人間の体験を追体験することに対しては、井戸端会議的なかたちでも満足感を覚えるわけである。また、体験には現実的な自己としてはのぞまないものもすくなくない。山で遭難して凍死するとか、ジャングルで敵の砲火をあびながら敗走し餓死するとか、炭鉱の爆発で生埋めになり窒息死するとか、航空機のテスト中に墜落して不具者になるとかいう体験を、現実にするのはまっぴらであるが、夢の中で観念的に体験するなら夢から覚めればもとどおりの健康な自己をとりもどせるわけであるから、現実的な自己としては体験できない・体験したくない・事件でも、芸術のフィクションの世界でなら体験できるしまた体験してみたいという気持になる。海賊の隠した財宝を発見するとか、世界一の富豪になって世界一の美人を妻に迎えるとかいう体験も、フィクションの世界なら容易であるが、これは夢から覚めれば財宝も美人も消失してしまい、現実的な自己にもどったことを味気なく思う人びともあろう。ここからフィクションを現実化しようとする人びとも出てくる。ギャング映画に魅せられて、自分もギャングを実演しようとする人びともあらわれてくる。フィクションの長所は同時に短所でもあることを、知らなければならない。

 芸術は鑑賞者に満足感を与えるように意図して想像される場合が多い。中には大衆の感情に迎合して、お涙頂戴の悲劇やくすぐりの喜劇や性的好奇心をそそる情痴の世界を、これでもかこれでもかとくりひろげる作者もあり、すぐれた心理描写や複雑な精神の葛藤を展開して、高度に知的な理解や感動に伴う満足感をねらう作者もある。いづれにしても、それらは観念的であるとはいえ現実の世界と同じ具体的な世界での追体験であり、現実的な自己と同じように知的な認識も情感も生れるのである。

これは科学が法則性の認識として、感性的な認識を捨象しているのに比較すると、著しく異っている。ここから、科学の認識は論理的であるのに対して芸術の認識は感性的表象的であるという現象的なとらえかたが生れ、科学は認識において科学とよばれる資格を持っているが、芸術は表現においてはじめて芸術とよばれる資格をもつのだという事実や、両者は直接の基礎が異っているのだという事実を無視する人びとは、ここから直ちに科学と芸術との本質的な差別はこれなのだと結論づけるのである。

芸術が表現においてはじめて芸術であるということから、芸術における認識は一つの特殊性を受けとることになる。ノン・フィクションとフィクションとに関係なく、日常の認識とは異った形式をとることになる。同じ対象をながめても、日常生活での感覚と、カメラのファインダーから受けとる感覚とは同じではない。後者は、印画に表現することを予想して、対象を写真的な目でながめるよう強いられるからである。カメラにカラーフィルムが入っているときはそれなりに対象のカラーを意識して、モノクロームのフィルムが入っているときはそれなりに黒白の印画のありかたを意識して、ながめるようになるからである。同じ富士山を見ても、ハイキングの青年がながめるのと、カンバスを前におき絵筆をにぎっている画家がながめるのとはちがっている。画家の場合は、絵画表現を予想して、画家独自の色彩を持ちデテイルを捨象したところのイメエジが成立し、対象から与えられたものといわば二重うつしになっている。この画家独自のイメエジが、表現形式を創造するための観念的な原型としてカンバスの上にうつし変えられることになる。

観念論哲学者あるいは美学者は、この芸術における特殊な認識に目をつけ、この作者の特殊な創造がそのまま「外化」して作品が成立するかのように解釈した。それで、芸術家は単に思惟するのではなく、このような特殊な感性的な思惟をするのだという意味で、これを形象とよび、芸術は「形象における思惟」であるなどと論じたのであった。対象は現実的な自己の目でもってながめていても、それに二重うつしになっている形象のほうは、観念的な自己の目をもってながめているのであるから、唯物論の立場で芸術の認識を論じるときにも観念的な自己分裂についての正しい理解がないならば、形象の問題を正しく解明することができなくなる。マルクス主義者と自称する人びとが、観念論美学を批判的に改作できないでそのとりこになってしまっているのも、ここに一つの原因があるといってよい。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

『認識と言語の理論 第一部』1章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』2章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』3章(1)〜(5)

『認識と言語の理論 第二部』1章(1)〜(8)

『認識と言語の理論 第二部』2章(1)〜(6)

『認識と言語の理論 第二部』3章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第二部』4章(1)〜(9)

三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき

三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章

三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』 まえがき



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