〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。
〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。
(2) 引用文中の太字は原著のものである。
(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。
(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。
『認識と言語の理論 第一部』 p.139
人間の認識能力は可能性として無制限であるが、個々の人間はそのときどきの現実の条件に規定されており、認識は制限されている。真理を獲得すべく努力しながら、現実につくりあげる認識は相対的誤謬におちいりやすい。宗教とよばれる認識もまたこの相対的誤謬の一つの形態であり、現実の世界の空想的反映である。これも純粋に偶然的な存在ではなく、やはり人間の認識の持つ矛盾の発展した形態として、それなりの必然性(1)において理解すべき存在である。
人類がまだ原始的な生活をいとなんでいたいわば人類としての幼年時代においては、自然についての認識ははなはだ不十分であって、多くの空想が入りこんでいた。そのために太陽・月・火・風・雨などの自然の事物や、火山・雪崩・洪水・落雷などの自然力の作用も、神秘的に解釈された。そのころにあっては、人間の外部から人間の生活に影響を及ぼしてくるさまざまな自然の存在を認めながらも、それらを正しく認識できなかったために、それらを人間のありかたに擬し、それらの活動を人格化して解釈したのである。これによって、神とその活動なるものが考えられることになった。火山が爆発して熔岩(ようがん)が家を焼いたり、地震で大地が裂け家が倒れたり、洪水で河があふれ家が流されたりするのも、超自然的な存在である神の怒りのあらわれであり、神の意志(2)によって起ったのであると解釈されるようになった。生命は神によって授かるのであり、死は死神の訪れによって起るのだという説明や、男と女とがむすばれるのは縁むすびの神のひき合せによるのだという説明や、さらには貧しくて不幸な状態や富んで幸福な状態も神の意志によるのだという説明が、ひろく信じられるようになった。
この自然の事物の擬人化と平行して、人間自身もまた神となっていった。人間の脳の機能である表象や思惟なども、身体の中に存在している特殊な一つの実体――「霊魂」とよばれる――の機能と解釈され、人間が死ぬときにはこの「霊魂」が人間の身体から出ていくかのように説明されたからである。われわれが夢の中で、すでにこの世を去った人びとの姿をながめ、その人びとが生きていたときと同じように行動したり語りかけて来たりするのは、その身体から出ていった「霊魂」にわれわれの夢の中に入ってくる能力があってわれわれに働きかけてくるからだと説明された。これを「夢まくらに立つ」などとよんだのである。
このように身体から出ていった「霊魂」には、身体の中に存在しているときよりもさらに神秘的な能力があるとするならば、生きているときに偉大な才能を発揮した人びとの「霊魂」はこの意味で絶大な能力を持つものと考えなければならなくなる。この人間の外部から人間の生活に影響を及ぼしてくる人間よりも優越した存在が、神となったのは当然であろう。自然の事物を擬人化するということにしても、これは自然の事物が感情や意志を持つものすなわち「霊魂」をもっているものとして扱うことにほかならない。この自然の「霊魂」は人間とのコミュニケーションを可能ならしめるわけであり、人間の願いを聞いて雨を降らしたり風を止めたりすることができるのだと解釈されたのである。自然の「霊魂」も人間の身体から出ていった「霊魂」も、このようにして多くの神々となっていった。
日本の風神や雷神も、ギリシァ神話の神々も、あるいはヨーロッパの伝説に出てくる木の精や山の精も、すべて人間と同じような外貌を持ち同じような服装をつけて登場してくる。そしてこれらが「霊魂」のありかたであり、また人間の身体からも「霊魂」が出ていってこれらと同じ神々になるということを、ひっくるめて一言でいうならば、それは人間の持っている本質や機能やすがたかたちが頭の中で観念的に人間からひきさかれ、これらが空想的に人間の「外部」に持ち出されたということである。「神それ自体は人間の自己が疎外されたもの」「人間は自分の本質を対象化し、そしてつぎにふたたび自己を、このように主体や人格へと転化され対象化された本質の対象とする。」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)という指摘は、宗教の秘密を明るみの下にさらしたものといってよい。
神の存在を承認する人びとは多いが、その神についての考えかたはさまざまである。神のありかたをどのように考えるかによって、宗教の性格も異なってくる。そして宗教にあっても低い段階から高い段階への発展を見ることができるのであって、宗教の教理の発展段階からヘーゲルは自然宗教・芸術宗教・啓示宗教を区別し、キリスト教をその最高の段階に位置づけている。
自然宗教すなわち自然の事物を擬人化して神々をつくり出すときには、それらの神々はそれぞれ自然の事物のありかたに規定されて、それぞれの限界を持つことになる。神々はいわばそれぞれの縄張りの中に固定されており、自己の縄張りを超えて能力を発揮するわけにはいかない。火の神と水の神とは、自然の事物のありかたに規定されて、対立を押しつけられることにもなる。死神に生命を誕生させる能力はない。
しかしながらこの自然の事物の擬人化も、個人的なかたちを与えられるだけでなくさらに社会的なかたちをとり、人間の集団のありかたを空想的に神のありかたに持ちこむことことも行われていく。雷神にもやはり女房があり子どももいるというように、家族のありかたが持ちこまれ、神々に対してそれを支配するもっとも偉大な大神が存在しているというように、人間の社会の権力者のありかたが持ちこまれることにもなる。
そして、多くの自然の縄張りに固定され能力もまた制限されている神々から、縄張りを超えて無限の能力を持つ神へと抽象化が進んでいくと、結局のところ宇宙全体を支配下におくところの万能の神という考えかたに落ちつくわけである。キリスト教はこの段階の神の存在を主張するところの、いわゆる一神教である。しかしこの万能の神にしても、決して孤独な存在ではない。神の原型である人間が孤独な存在ではなく、すべて家族の一人として存在していることは、神のありかたにも空想的に反映している。そこには聖家族が存在するのであって、「三位一体」とよばれる父・子・精霊の関係が説かれることになり、さらに聖母マリアすなわち母が加えられることにもなった。
(1) この宗教の必然性は資本制の必然性と同じように、発生の必然性ばかりでなく消滅の必然性をも意味している。一定の条件において不可避的に発生し、その条件が失われるとともに不可避的に消滅する。
(2) 人間の能動的な活動が、能動的な認識すなわち意志から出発することは、経験的に自覚している。それで自然それ自体の能動的な活動を擬人化するときにも、やはりそれが意志から出発しているものと見たのであった。
『認識と言語の理論 第一部』 p.142
われわれが与えられた宗教に入りこむ場合には、イデオロギー的に入りこんでそこから生活全体を規定させていくこともあれば、また生活的・儀式的に入りこんでイデオロギー的にはそれほど深い関心を持たないこともある。
前者が正しい意味の信者であって、この場合は一つの宗教を信じることが他の宗教を拒否する方向へとすすんでいく。キリスト教の神を信じるとすれば、天皇を神として認めよといわれても拒否しなければならない。ある万能の神を信じる以上、それと異なった万能の神の存在を主張する宗教に対しては、イデオロギー的に敵対する立場に立つからであり、それは邪教だということになるからである。
しかし後者の場合には、儀式に熱心に参加するところからかたちの上では熱心な信者に見えても、イデオロギー的に入りこんでいないために、その宗教の教理に忠実に行動するとは限らないし、他の宗教を特別に邪教だとも思わない。家では毎朝仏壇を拝み、自家用車には成田山のお札をはって交通事故の起らぬよう祈りながら、結婚式のときは教会でキリスト教の神の前に誓いを立て、新婚旅行では神宮に参拝するというような宗教生活も、現実に行われている。教理的に相容いれない二種類以上の神々を、事実上認めているわけである。日本人の宗教生活は、このような重層信仰において特徴的である。
芸術と宗教との間には、共通点がありまた差異がある。観念論の立場に立つ哲学者は、宗教を空想とかフィクションとか理解できずに、真理のありかたと解釈して、芸術も真理であるが宗教も真理であると、真理というところに共通点を認め、宗教のほうがヨリ高度の真理だというところに差異を主張した。われわれは、芸術も宗教も認識のありかたであり、芸術のフィクションも宗教のフィクションもフィクションであるというところに共通点を認めるのである。銭形平次もキリスト教の神も、現実に存在しない空想の産物だという点では変りがない。
けれども芸術のフィクションはフィクションであることを自覚して創造するのであり、この創造は表現のための創造であるから、創造した世界が表現に定着すればもはや用ずみである。消滅してさしつかえないのである。これは鑑賞者にしても同じであって、作品を鑑賞しているときはそのフィクションの世界をある程度具体的に記憶していなければならないし、事件の過程や登場人物の動きなどについて忘れたときには前のページをめくってみたりするのだが、鑑賞が終ればもう用ずみであって、消滅してもさしつかえない。
宗教はこれとちがって、そのフィクションをあくまでも真理として提出するのであり、信者もまたこれを真理として受けとるのであるから、理論的にさらに発展させたり生活に応用して具体化していったりすることになる。消滅させるのは真理を放棄することで、許されないことである。鑑賞者も信者もフィクションの世界に入りこんでいる点では同じであって、空想的な存在である銭形平次を目の前に実在するものとしてながめたり、神が現に存在して自分の運命を規定しているものと思っていたりしている。ところが鑑賞者はフィクションの世界から自由にぬけ出して、あれは長谷川一夫の演技だなどと現実的な自己の立場でとりあげたりしているのに反し、信者はフィクションの世界へ入りこみっぱなしであり、現実的な自己の立場での現実の世界のありかたと観念的な自己の立場でのフィクションの世界のありかたとを二重化したままつなぎ合せ、この現実の世界の向う側に天国や地獄や神や悪魔が実在するもの、現実の世界での毎日の生活はそのフィクションの世界とむすびつき相互に規定されているものと信じているのである。
フィクションの世界は、現代のありかたとして現実にきわめて忠実であろうと、あるいは百年後のありかたとしてすこぶる現実ばなれしていようと、その世界を構成する材料は結局のところ現実の世界から供給してもらわなければならない。宗教のフィクションも本質的には同じであって、どんな超自然的な存在も能力も結局のところ現実の世界のそれの誇張でしかない。芸術における材料の供給にあっては、作者のそれまでの生活経験はもちろん、調査活動や科学的な研究やそれらからつくりあげた社会観や人生観がそれなりの役割を演ずるし、これらはフィクションの世界が消滅したときも材料に還元され維持され、作者の精神的な財貨としてその後の精神的生活を高め豊かにしていく。
鑑賞者にしても同じである。フィクションの世界としては、「ああ楽しかった」という満足感を与えて消滅しても、そこにふくまれている真理や教訓や社会観や人生観はその満足感とはまた別な鑑賞者の精神的な財貨として保存されることが可能である。これらは鑑賞者の精神生活を高めゆたかにしていき、現実の生活の変化をも媒介していく。もちろん、プラスではなくてマイナスの方向に精神生活を変え現実の生活を変えていくこともある。いづれにしても、作者も鑑賞者もそれなりに自己の観念的な創造を対象化するにはちがいないが、それらはふたたび自己へ復帰するのであって、自己の本質や能力を何一つ失わないばかりでなく、作者としての創造や鑑賞者としての追体験における創造を媒介することによって、自己をヨリ高めゆたかにすることができる(3)。
作者の創造して対象化した空想的な人物は、作者と無関係に自主的に生活し活動するかたちをとってはいるが、これは作者がフィクションと自覚して創造した人物であり、作者の統制の下にある人物であって、銭形平次が犯人を捕えて入獄させようがあるいは哀れと思って見のがしてやろうが、それは作者の自由である。
宗教では現実の世界とフィクションの世界とがむすびつけられ、現実の世界での真理や教訓や社会観や人生観もフィクションの世界のありかたとむすびつけてとりあげられるために、そこにさまざまな逸脱が生れてくる。人間がつくり出した道徳や掟も、神にむすびつけられて神の与えた道徳や掟となり、同じく人間がつくり出した言語表現のための規範も、神にむすびつけられて神の与えた表現能力と解釈されることになる。しかも神の場合の観念的な創造の対象化は芸術の場合とちがって、人間からひきさきとりあげるかたちで対象化されるのであるから、人間はもはやそれらを失った存在になってしまうのである。神が智慧であり道徳であり愛であるといわれる場合は、人間はそれらを持たない存在であって、現に持っているのは人間自身がつくり出したものではなく、神によって与えられたものにすぎないことになる。それゆえ、神が万能になるに従って人間は無能になっていき、神が偉大になるに従って人間は惨めな貧弱なものになっていく。
反対に人間の努力や創造を認めれば認めるほど、神の能力は制限されないわけにはいかない。神と人間とは、この意味で敵対的な関係におかれているといわなければならないのである。そして、芸術における作者の創造した人物が作者の統制の下にあるのとは逆に、宗教における人間の創造した神は人間をその統制の下におくことになっているのであるから、人間は自己の観念的に創造して対象化した存在に支配されるということになる。
(3) このことが理解できないで、宗教のフィクションも芸術のフィクションも現実ばなれした空想だという共通点しか見ないと、共産主義社会においては宗教のみならず芸術もまたその存在理由を失って消滅するという主張が、マルクス主義芸術論と名のって提出されることになるのである。一九二〇年代のソ連にも、この種の芸術消滅説があらわれ、日本でも戦後同じものがあらわれた。
『認識と言語の理論 第一部』 p.145
宗教の信者は「神は愛なり、慈悲なり」と信じていて、神と人間とは敵対的な関係におかれているなどとは夢にも思わない。それはフィクションの世界の中で転倒させられているからであり、非敵対的なすがたでながめているからである。資本主義社会も、資本家は働く場所を持たないみじめな労働者に仕事を与え、賃金を払って、労働者の生活をささえてやり日々の幸福をつくり出す人間であるという、非敵対的な見せかけを示している。
だがその本質は、資本家の利益は労働者の不利益、労働者に多く賃金を払うことは資本家にとって、利潤の減少を意味するという、敵対的な関係である。宗教では観念的に人間の本質が対象化されるのだが、資本制生産では現実的に人間の本質が対象化される。すなわち生産における労働の対象化において、労働者は自己の対象化した労働に支配されるのである。ここは現実の転倒が存在している。対象化された労働は、生活をささえるだけの部分が復帰してくるだけで、あとは少数の人びとの私有財産となって労働者の外部に存在し、資本として自己増殖するために労働者を支配することになり、資本家はこの対象化された労働の人格化されたものにほかならない。それゆえ、観念的と現実的とのちがいはあっても、宗教と資本制生産とは人間が自己を敵対的に疎外するという点で共通した論理構造を持っているわけである。
資本主義社会の経済は、絶えず人びとに脅威を与えている。激烈な競争の中での没落や、恐慌や不景気のための破産や、職場から追われての失業に当面するとき、人びとは外部から生活に影響をおよぼしてくる打ち勝ちえない力の存在を感じないわけにはいかない。これを正しく理解できない人びとが、この力を自然力と同じように神秘化して、神の意志にむすびつけたとしても不思議はない(4)。
法律とよばれるものは、のちに述べるように意志の一つのありかたであって、国家によって制定されるところからこれを国家意志の表現と理解することができる。国家が能動的に、この意志に服従せよと国民に要求するかたちをとるのである。この国家意志は、国王個人から発することもあれば、議員が国民の意思にもとづいて議会で成立させることもあるが、いづれにしても人間の頭の中にしか存在しない意志が観念的に対象化されて、すべての国民の「外部」に存在するものとして国民を支配するのであるから、これもまた人間の自己が疎外されたものといわなければならない。
歴史は、国王の意志が神の意志とむすびつけられて、神の意志―→国王の意志―→国家意志という過程が存在するものと解釈された事実を教えているが、これは神のありかたと国家意志のありかたとが共通点を持っていたからこそ可能であったわけである。われわれが現に使っている「国家」という文字には「国」すなわち「家」であるという、国家のあり方を家族のあり方にたとえる発想法が明かに示されているが、国王あるいは支配者を親や父にたとえ、王妃あるいは支配者の妻を母にたとえ、国民を子にたとえる支配階級のイデオロギー政策は、古今東西にわたっていくらでも指摘することができる。
これらにしても、家族が集団として協力し合いながら生活を向上させるためには、秩序を維持するための何らかの掟が必要であるということから、国家意志を合理化しようとするものである。共同体における掟は全体の利益をはかるものであるが、階級社会における法律は支配階級の利益に重点をおいている。法律は原始共同体における掟が階級社会においてその性格を変えたものであり、形式的には全体の利益をはかるものとされてはいても内容的にはそうではない。マルクスのことばをかりるなら、法律は「見せかけの共同体」(scheinbare Gemeinschaft) の掟にほかならないのである。
フォイエルバッハが批判したところのキリスト教における「三位一体」も、一つの空想的な家族すなわち空想的な共同体であった。このように宗教と法律とは、ともに人間が自己を疎外してそれによって支配される点で共通しているし、ともにありかたこそちがえ空想的な共同体を設定してそれが実在するかのように主張する点で共通している。それゆえ、宗教に対する本質的な批判は、直ちに法律に対する本質的な批判へと発展していく可能性を持っているし、さらにすすんでは資本制生産の本質を解明する道も開けてくるというわけである。フォイエルバッハは宗教の批判にとどまったが、マルクスはそれを越えてさらにすすんだのであった。
人間の自己疎外の聖像が仮面を剥奪された以上、神聖でないすがたでの自己疎外の仮面を剥奪することが、歴史に奉仕する哲学の任務である。かくして天上の批判は地上の批判に変り、宗教の批判は法の批判に、神学の批判は政治の批判に変る。(マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』(5))
フォイエルバッハは、宗教的な自己疎外の事実、宗教的な世界と現世的な世界とへの世界の二重化 (Verdoppelung der Welt) の事実から出発する。彼の仕事は、宗教的な世界をその現世的な基礎に解消させることにある。しかし現世的な基礎がそれ自体から浮き上って一つの独立王国が雲の中に定着するということは、この現世的な基礎の自己分裂および自己矛盾からのみ説明されるべきである。それゆえにこの現世的な基礎そのものがそれ自体その矛盾において理解されなければならないととともに、実践的に革命されなければならない。それゆえ、たとえば地上の家族が聖家族の秘密として発見されたからには、いまや地上の家族それ自体が理論的および実践的に破壊されなければならない。(マルクス『フォイエルバッハ・テーゼ』第四)
神を信じるのは古代の迷信の残存でしかなく、自然科学の立場から啓蒙活動をすすめることによって一掃できると信じている無神論者・反宗教宣伝家も多い。問題はそれほど単純ではないのである。宗教の必然性が、観念的な条件によって与えられているときめてしまうのは正しくない。
現実的世界の宗教的反映は、総じて実践的な日常生活の諸関係が人びとに対し、彼らの相互間および対自然のすきとおるような・理性的な・諸連関を日常的に表示する場合にのみ、消滅しうるのである。(マルクス『資本論』)
たしかに対自然では、実践的な日常生活においてすでに自然力をその統制下においており、電気も風も水もそのありかたはすきとおるように理解されている。もはやこれらは神秘的な存在でも何でもない、しかし人間相互の関係では、いまだに人間の生活条件である生産や交通をその統制下においていないし、社会主義国家においても人間関係がすきとおるように理解されているとは限らない。スターリンの粛正が行われていた時代に、ソ連の国民は目に見えない暗黒な力が動いていることを感じ、いつそれが自分や自分の家族をとらえるかと怖れていた。このような社会においては反宗教宣伝を行っているにもかかわらず、宗教が消滅するどころかむしろ盛んになったとしても、不思議はないのである。そしてまたこの事実は、宗教の永遠性を実証したわけでもないのである。
(4) 一八世紀の反宗教闘争では、宗教を無知や恐怖の所産と見たり、大衆支配のための創造物と見たりして、人間が自ら創造した社会力の支配を受けていることを正しくとらええなかかった。マルクス主義がこの宗教の社会的基盤を明かにしたのである。
(5) 法律を宗教と同じく人間の自己疎外ととらえるところに、マルクス主義の認識論の一つの特徴がある。新カント派的な法理論ないし法哲学の批判は、このことを無視しては行いえない。
(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)