『認識と言語の理論 第一部』3章(3) 自然成長的な規範(PC版ページへ)
2018年10月22日20:01 意識>認識論(意識論)
『認識と言語の理論 第一部』3章(1) 意志の観念的な対象化
『認識と言語の理論 第一部』3章(2) 対象化された意志と独自の意志
『認識と言語の理論 第一部』3章(3) 自然成長的な規範
『認識と言語の理論 第一部』3章(4) 言語規範の特徴>
『認識と言語の理論 第一部』3章(5) 言語規範の拘束性と継承
『認識と言語の理論 第一部』3章(1)~(5) をまとめて読む
三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部 認識の発展』(1967年刊)から
第三章 規範の諸形態 (3) 自然成長的な規範
〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。
〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。
(2) 引用文中の太字は原著のものである。
(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。
(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。
『認識と言語の理論 第一部』 p.170
以上検討して来たのは、われわれが目的的につくり出す規範であるが、規範はすべて目的的につくり出されるとは限らない、われわれの実践はすべて意志によって直接に規定されているから、同じ種類の実践をくりかえすときにはそこに共通の意志が前提されていることになり、意識することなしにこの共通の意志が固定化していく可能性が存在する。別のことばでいうならば、われわれは習慣の中で規範をつくり出していき、しかもそれと意識しないばかりか、これを生まれつき与えられた性質であるかのように解釈しさえするのである。「習慣は第二の天性」ということばは、この意志の固定化をとりあげたものである。
子どもは家族の中で同じ種類の実践をくりかえすが、この場合に親の側では規範を育てようという目的意識を持って働きかけ、いわゆるしつけを行っていく。これは親としてのぞましいと思う種類の生活実践をくりかえさせ、そこから親としてのぞましいと思う生活規律を育てていこうとするのである。
ところが、子どもののぞんでいるままにさせておく、自由放任の態度をとった場合でも、子どもはやはりそれなりに同じ種類の実践をくりかえし、やはりそれなりの生活規律を育てることになる。子どもの要求するものは何でも買ってやるという態度をとると、子どもは自分の意志はすべて実現するもので、もし拒否されたら泣いてあばれればいいのだという生活規律をつくり出すであろう。そしてこの生活規律を自分の家庭生活だけでなく、他の家へお客に行った場合にも適用することになろう。そして他の家の大人たちが、こんなことをするのは親のしつけが悪いからだ、と苦い顔をするわけである。
「三つ児の魂百まで」ということばも、この意志の固定化の生涯に及ぼす影響をとりあげたものである。
実践のくりかえしによる意志の固定化は、子どもに限らず大人の生活にもいろいろなかたちで生れてくる。道をあるくような場合にも、多くの人びとが衝突することなしに前進していくためには、こちらから行く人びととあちらから来る人びととが、それぞれ別の側をあるいて、人の流れがよどむことなくすれちがうようにしなければならない。その時々によって、道をあるく目的も具体的な道のありかたも異っており、意志の表象化も異っているとはいえ、一方の側をあるくことが自分にとってもまた他人にとっても利益であるという共同利害に基礎をおいた認識は、実践のくりかえしの中に意志の共通面となって意識することなしにいわば「蒸溜」され、固定化していく。どの道をあるく場合にも、無意識のうちに一方の側をあるくようになる。これを合理的なものとして意識的にとらえかえすところに、「左側通行」という交通道徳が説かれるわけである。
組織の決定で定められた時刻に集合する場合にも、その時々によって集合の目的や集合の場所が異っており、意志の表象化も異っているとはいえ、ここでも組織としての共同利害に基礎をおいた正しい組織生活の規律が要求されている。自分が時刻におくれるなら、集っている他の同志たちに迷惑をかけるばかりか、組織全体の活動にもマイナスになるという認識から、「時刻厳守」をみんなが実行しなければならないし、みんなが自発的に実行すればそれが組織生活の規律として確立するのである。けれどもこの認識が欠けていて、共同利害のことなど頭にない人間は、平気でおくれたり来なかったりする。そういう習慣から、どうせきめられた時刻に行っても誰も来ていないだろう、三十分すぎぐらいに行くのが適当だ、という規律をみんなが持つようになれば、それが組織生活の規律として確立するのである。
家庭・学校・職場・組織などさまざまな社会生活の分野で自然成長的に規範が成立し、これらが目的的につくり出される規範とからみ合うことになる。
これらの自然成長的に成立する規範は、まだ明文化されずにたがいの暗黙の諒解(りょうかい)の段階にとどまっているものが多い。これには生活にプラスに作用するものもマイナスに作用するものもあるが、それらの規範を一括して「風(ふう)」ともよんでいる。家風・校風・社風・組合風・党風(1)などがいろいろ論じられている。家庭にあっては、起床・食事・掃除・洗濯・就寝など、毎日同じようにくりかえされる生活のありかたや、さらには経済や娯楽などのありかたについて、全体としての共同利害と各個人の特殊利害との関係を処理するために、暗黙ないし公然の諒解をつくり出し、協力の体制へ持っていかなければ、トラブルが起って生活が不安定になってしまう。「食事の前には手をあらいましょう」というのは衛生・健康という共同利害に基礎づけられた生活規律であり、テレビのチャンネルをめぐって特殊利害が対立し争奪が起るのを防止するために、どの番組は誰と誰とが見るという約束をつくりあげるのも、家庭の秩序を乱さないための規範である。
意志は思想・理論をふくんでいるから、家庭の自然成長的な規範にもさまざまなイデオロギーがむすびついてくることになる。民主的な家庭での家風が身についた娘さんが封建的な家風の維持されている家庭へ嫁として入って来て苦しむという例もすくなくない。
(1) 毛沢東は、経験主義的ではあるが、党員の風について具体的に説き、風を整頓せよと強調した。高度の理想と知性をそなえた革命家として、それにふさわしいレベルの高い生活規律を身につけていなければならないからである。そこでは、学習のしかたについての学風や、文章についての文風なども問題にされている。文風というのは表現それ自体の規範である語法や文法をさすのではなく、「人を見て法を説け」の類に属する精神的な交通を正しくすすめるための自主的な規律である。訴える相手をよく理解して、それにふさわしい表現をするように努力し、むづかしいことばを使っておどかすようなことをしてはならないと自ら戒(いまし)めるわけである。
『認識と言語の理論 第一部』 p.172
道徳は集団の共同利害に基礎づけられて自然成長的に生れた、その集団にとっての普遍規範である。兄弟がそれぞれ異った野球チームのメンバーで、明日は両チームが試合するというときに、すでにベテランである兄がまだ新人の弟を出世させてやりたいという気もちから、自分のチームの作戦を弟にもらしたような場合には、個人の利益のためにチーム全体の利益を傷つけたことになり、チームのメンバーとして守るべき道徳に反したものとして、非難をあびることになろう。味方をだまし味方を傷つけることは、道徳に反すると非難されるが、敵をだまし敵を傷つけることは非難されないばかりか賞讃されるのであって、一つの集団の道徳は必ずしも他の集団に人びとにあてはまるとは限らない。この規範は個人が自主的に従うように要求されているのであって、規範それ自体の中に社会的な処罰の規定をふくんでいないから、これに反しても非難されるにとどまっている。法律のような強力を用いての干渉は存在しない。
法律は「……すべし」「すべきでない」と文章で表現されているのに対して、道徳は「こうするのは善だからすべきだ」「こうするのは悪だからすべきではない」という意志が頭の中で対象化されているだけである。いわゆる不文律である。「風」とよばれる自然成長的な暗黙の規範は、善悪の判断がむすびつくことによって、道徳としての性格を与えられるわけであり、善悪の判断がむすびついた規範から独自の意志が規定されてくることを「良心のささやき」などとも名づけられている。
階級も一つの集団であるから、やはり階級としての共同利害に基礎づけられて、自然成長的に道徳が生れて来るけれども、これは支配階級によって目的的に支配の手段として使われることになる。支配階級にとっての共同利害は社会全体としては特殊利害でしかないが、法律の場合と同じように、この特殊利害を社会全体の共同利害であるかのように偽装して、これにもとづく道徳を国民全体の守るべき道徳であるといい、被支配階級に押しつけにかかるのである。このような、幻想的な共同利害としての道徳を身につけ、これに自主的に従うような国民こそ、国家権力にとってもっとものぞましい国民のありかたである。なぜなら、法律および強力による干渉で取締らなくても国民はつねに自主的に支配階級の利害に忠実に行動し、それを善なるものと思いこんで満足しているからである。
戦前の天皇制においても、目的的に道徳教育が行われたが、ここでは教育勅語という形態をとって支配者側のつくった生活規律が与えられた。「斯ノ道ハ」「之ヲ古今ニ通シテ誤ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラス」と、日本国民ばかりか世界の人類に対してもあてはまる規範として、いわば絶対的真理として教えこまれた。これは抽象的な規範であるから、さらに「修身」の教科書という形態に具体化され、道徳の徳目すなわち個々の規範と、それを実行する場合の模範となるようなエピソードが与えられることになったのである。
この場合には、道徳も目的意識的にとらえられて文章表現がなされるが、法律と異ってまず文章のかたちで案がつくられるのではない。すでに自然成長的に成立している規範を、支配の手段としてふさわしいものに訂正しながら体系化し(2)、文章に表現するのである。それゆえこの場合の道徳にしても、文章に表現されたものだけが道徳ではない。国民が自然成長的につくり出した家風や校風に、教育勅語の立場からの善悪の判断がむすびつくならば、それは支配者側としてもっとものぞましい道徳の発展なのである。それゆえ、表現された道徳だけが道徳でないばかりか、その表現もまた固定されたものではない。道徳をまだ身につけていない者に教えるとか、道徳に反した者に注意するとかいう場合には、道徳が表現されるが、人によってその表現のしかたは異ってくる。
(2) 「夫婦相和シ朋友相信シ」はそれ自体として見るかぎり異論はない。けれどもこれは「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」にむすびつけられているのであって、このような国民の生活の一側面と位置づけられ体系化されているところに問題がある。
『認識と言語の理論 第一部』 p.174
道徳もやはり観念的に対象化された意志であって、個人の独自の意志から相対的に独立している。この独自の意志とは調和するように要求されてはいるが、現実の利害のありかたいかんでは敵対的になり闘争が起るわけであって、そこに「良心の呵責(かしゃく)」といわれるものが生れてくる。
電車に乗るときは列をつくって順番に乗るようにとは、各自がさきを争って乗ろうとする場合の混乱や発車の遅れを防止するための、交通道徳の一つであるが、これに従ったのでは電車に乗りおくれて遅刻してしまうという、個人の特殊利害を優先させ、道徳を無視して列の横から割りこむ者が出てくる。これは道徳を知らないのではなく、よく知っていてそれに従おうという気もちはありながらも、現実の利害のありかたがそれに従わないようにしむけるのである。われわれの日常生活の条件が変化すれば、利害のありかたが異ってくるから、道徳のありかたもまた変化しないわけにはいかない。
一方でイデオロギー的条件が変化すれば、善悪のありかたについての考えかたも変化しないわけにはいかない。これまでは道徳によって自主的に秩序を維持しようとして来たが、道徳を身につけていながら従おうとしない人びとが多くなり、もはや個人の「良心」に訴えるだけでは秩序の維持が不可能だという状態になれば、法律により強力をもってする干渉によって秩序を維持することも考えなければならない。
家庭生活でも、「良心」に訴えて自主的な行動を求めたのではもう処理できなくなり、家庭の平和が乱される状態ともなれば、父親が命令に従わない者をなぐりつけたり、「おれのいうことに反対な人間はこの家から出ていけ」とどなったりすることになろう。父親の意志が家族にとっての全体意志となり、彼の腕力が強力として実践的に干渉するのである。これは規範としてみるなら、ヨリ高い段階への発展であるが、社会としては「人心の悪化」であり、堕落したことを意味している。但し、「人心の悪化」それ自体が堕落であるのか、それとも法律をつくること自体が堕落(3)であるのか、それはまた別の話であって、ある首相が労働運動を「不逞の輩(ふていのやから)」とよんだような意味での堕落意識も存在するのである。
法律は目的的につくり出され、文章に表現されている。六法全書に印刷されている条文が、法律の現象形態であるから、誰の目にもわれわれの日常生活のありかたから独立した存在としてうつるわけである。税務署から納税通知書が送られて来ると、これを持ち現金をふところにして、郵便局や銀行に税金を納めに行く。これは税法とよばれる法律に従っての行動であるが、この法律の存在を十分承知の上で税金をごまかす脱税者もあって、法律と行動とをいっしょくたにする人はまずいない(4)。それどころか、法律はそれをつくり出した人びとにとっても客観的に存在する意志だとされていて、それに従わなければならないだけに、つくり出した人びとやそれの基礎になっている現実の利害からも切りはなしてしまって純粋に客観的な存在として扱う学者もある。
ところが道徳のほうは、法律と現象形態が異っている。われわれの目にうつるのは、道徳に従って行われる行動だけである。道徳は生活の中で自然成長的につくり出され個人の頭の中に存在するにはちがいないのだが、この存在を外部から直接に見ることはできない。ある人間がどんな道徳を身につけているかは、その行動から背後にあるものへと推察していかなければならない。
この現象形態のちがいが、理論的なふみはずしの原因になる。法律を論じる学者は条文を法律とよんでそれに従う行動は法律と区別するにもかかわらず、道徳を論じる学者は規範だけでなく行動をも道徳のうちに押し込んでしまうのである。
道徳を定義することは、むずかしいことですが、一般的にいえば、一定の社会が是認している行為の規範に関係して、その規範的な価値を選択する人格の目的的な行為において成立するといえましょう。(勝田守一『道徳教育をどう考えるか』)
規律とよばれるものは、設定されている秩序の厳格な正確な遵守、全権を持つ人びとの命令の実行、じぶんの義務への服従のことである。(カイーロフ監修『教育学』)
このような発想は、長田新の「生活即道徳」であり、「道徳即生活」であるという西田哲学的解釈と本質的に同一である。規律あるいは規範とよばれる存在は、意志のありかたであり精神にほかならないのに、これと行為・実行・生活など物質のありかたとをいっしょくたにするのであるから、精神と物質とを混同することになり、観念論的な発想の一つだということになろう。ソ連の学者たちの規律論であるから、唯物論の立場をつらぬいているにちがいないときめてかかるのは、危険であることの一例である。
道徳が支配の手段として目的的に使われたり、あるいは道徳から法律へと転化させられたりする事実は、これらが規範として本質的に同一であることを物語るだけでなく、自然成長的な規範を目的意識的な規範への過程的な存在として理解する必要のあることや、自然成長性を目的意識性の萌芽形態として理解する必要のあることを、われわれに教えているものといえよう。言語表現にも社会的な規範が伴っているが、これも自然成長的に生れてくるばかりでなく、一方ではつねに目的意識的につくり出されているという、矛盾をふくんだ存在であって、この矛盾が言語学者をして言語規範の理解を困難にさせ、理論的なふみはずしへとみちびいているのである。
(3) 家風が封建的であるところに、子どもが民主的な思想や生活を持ちこむと、もはや古い意味での「平和」は破られることになり、おやじ天皇制の父親は自分の意志を絶対的な規範としてあくまでも押し通そうとする。この規範は反動的なものである点で家風と変りないが、自主的なものから強制へと変ったことは退歩なのである。
(4) 残念ながら、自称マルクス主義者の中にはつぎのような主張がある。「法律は各人が社会状態に関して持つ観念にあるのではなくて、国家権力によって強制せしめられているところの一個の現実的状態であり」「それゆえ、法律は一面において観念系であると同時に他面においては現実的状態であり、かかる矛盾の統一であるところの一個の両面の怪物であると考えなければならぬ。」(北条元一『芸術認識論』)泥棒にあっては、法律があって従わないのではなくて、法律それ自体が観念としての一面しか存在しないと考えなければならないわけである。
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