『認識と言語の理論 第一部』3章(4) 言語規範の特徴(PC版ページへ)

2018年10月23日18:16  意識>認識論(意識論)

『認識と言語の理論 第一部』3章(1) 意志の観念的な対象化
『認識と言語の理論 第一部』3章(2) 対象化された意志と独自の意志
『認識と言語の理論 第一部』3章(3) 自然成長的な規範
『認識と言語の理論 第一部』3章(4) 言語規範の特徴>
『認識と言語の理論 第一部』3章(5) 言語規範の拘束性と継承

『認識と言語の理論 第一部』3章(1)~(5) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部 認識の発展』(1967年刊)から
  第三章 規範の諸形態 (4) 言語規範の特徴

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第一部』 p.171 

 言語には語法・文法とよばれるものが伴(ともな)っている。これは表現上の秩序を維持するために、人びとの間の社会的な約束として成立したものであるから、これも一種の規範として扱わなければならない。いわゆる民族語は、民族全体の言語表現を規定するところの言語規範によって、すなわち言語表現についての全体意志によって、ささえられている。さらに、方言その他特殊な地域あるいは特殊な集団の言語表現を規定する特殊な言語規範、すなわち特殊意志も、これらと結びついて存在している。それゆえ、言語理論にあっては、これらの規範の成立過程を明かにするとともに、これらの規範が個々の言語表現においてどのように役立てられるか、その表現過程をも理論的に明かにすることが要求されているわけである。

 個々の特殊な規範の具体的な成立過程を明かにすること、いわゆる「語源」を研究することは、それほど困難ではない。困難なのは、規範の成立過程の一般的な・理論的な把握である。これは正しい規範論が確立していないことにも影響を受けていて、言語規範についての理論的な説明はそのほとんどすべてが歪められてしまっているばかりでなく、神秘的な解釈を与えられているものも多い。ソ連の哲学教科書『哲学教程』にも規範論の体系的な展開はなく、言語については「人びと相互の交際の幾世紀にもわたる実践から、諸民族によって確立された約束的な記号である。」といいながらも、つぎに「しかし、言葉がどういう音からできているかということは、約束的で偶然的であっても、これらの言葉と言葉との組合せがまさになにを指示するかということは、約束的でも偶然的でもない。」(強調は原文)とのべて、規範による対象と表現とのむすびつきを事実上否定さえしている(1)。さらに入谷敏男の『ことばの心理学』にいたっては、人間に「文をつくり出すのに必要なルールが先天的にそなわっている」のだと、規範をア・プリオリに生れつき持っているものにしてしまっている。

 われわれは言語規範がどういう性格の規範であるかを考え、規範全体の中に位置づけてみる必要がある。言語規範はいわば精神的な交通に伴って生れた規範であるから、これを物質的な交通に伴って生れた規範すなわち鉄道やバスを運転するための時刻表と比較し、その目的意識的な部分と自然成長的な部分との関係について検討してみることも、決して無駄ではないであろう。

 時刻表は運転の関係者が机に向かって目的的につくり出すものであり、文章の形式をとって表現されている。この点からすれば、時刻表は法律と共通したところがある。現に、全国の国鉄・私鉄・さらには汽船や旅客機などの時刻表が一冊の書物に編集され印刷されて書店で売られているが、同じように法律も一冊の書物に編集され印刷されて六法全書として書店で売られていて、ここにも共通点があらわれている(2)

乗客としては、その乗りものが特定の時刻に発着してくれないと自分の予定を立てることができず、生活の設計が困難になるし、また乗りものを経営する側としては、乗客がなければ収入がなく経営できなくなるのであるから、時刻表をつくって一般にひろく知らせることは共同利害に基礎づけられた合理的なやりかただということができる。

運転の当事者は、自分たちのつくり出したこの時刻表の示すところに従って行動し、乗りものを動かしていかなければならない。時刻表は観念的に対象化された「外部」の意志のかたちをとって、その時刻を守るように要求しているのである。しかしながら、列車の運転台に時刻表の複製をかかげて、つねにそれを見ながら自分の頭の中に規範を維持している運転手にしても、これから相対的に独立した彼独自の意志を持っている。ある駅で乗客の乗り降りに時間がかかり、おくれて発車したようなときには、つぎの駅へ定時に到着するために意識的に列車のスピードをあげるというように、彼の独自の意志を規範に調和させるのが原則であるけれども、ときには意識的にこの「外部」の意志に従うことを拒否したり、乗客の共同利害にもとづいて自然成長的に規範をつくり出したりすることも、しばしば起るものである。

 たとえば乗客の中に急病人が出て、医師の手当てを受けなければ生命の危険も考えられるような場合、一刻も早く医師の手に渡すことがこの乗客にとっての利益であり、そのために数分停車をしてもそのあとでスピードをあげればおくれはとりもどせるし、他の乗客の利益を傷つけることにはならない。そこで彼は時刻表を無視して、停車しないはずの駅で途中停車し、病人を下車させるのである。新幹線の実状にも見られるように、豪雨や豪雪のときには乗客の生命を守るという共同利害にもとづいて徐行したり運転を中止したりするので、その結果ダイヤが大きく乱れることもしばしばである。乗客があまりにも多すぎてどの駅でも乗り降りに予定以上の時間がとられたために、つぎからつぎへと発車がおくれて時刻表を変更しなければならぬ破目になるのも、自然成長的な規範の修正といえよう。

 乗りものを運転することと、それに必要なものとしてつくられた規範とは、関係があるにもかかわらず別個の存在であるということを、誰もが経験的に認めている。時刻表とは何かと問われた場合に、運転手の人格の「目的的な行為において成立する」という者もなければ、「運転即時刻表で、時刻表即運転」であるというような西田哲学的発想を持ち出す者もない。現に時刻表という規範の示すところに反して、列車が大きく延着したような場合には、急行料金を払戻すと規定した別の規範もつくられている。運転のための規範と実際の運転との間に、くいちがいの起ることを認めているのであって、両者が相対的に独立していることを疑う者は観念論者以外まずあるまい。

(1) パブロフ学派は、意志を媒介とした実践を、条件反射に解消させて解釈する傾向がある。その言語の解釈にも、規範についての説明が欠けている。この解釈を支持するソ連の哲学者が、規範の存在を事実上否定するような説明を述べるのも、うなづけることである。

(2) 目的的につくり出され規範が書物になることは、娯楽やスポーツのための規範たとえばトランプ・花札・マージャン・野球・ゴルフ・ボーリング等の手引書にも見られるところである。花札で遊ぶときにかけ金を決めるのは、従来の規範に参加者の統一した意志で新しい規範をつけ加えることであり、これまた観念的に対象化された意志として、参加者全員がこれに従うことになる。

 

『認識と言語の理論 第一部』 p.180 

 ところが、言語表現に必要な語法・文法などの規範は、鉄道やバスの運転に必要な規範に比較すると、成立のしかたも現象形態も異っている。語法・文法は時刻表とちがい、運転をはじめるに先だって目的意識的に作り出されるものではなく、表現生活の中で自然成長的に体系化していくものである。もちろん、言語が生れると「命名」ということが行われ、これは目的意識的に規範をつくり出すことではあるが、これは各個人が目的的につくり出すにとどまって、時刻表のように規範全体が統制・支配の下におかれているわけではない。

それゆえ言語規範全体はやはり自然成長性にゆだねられているものといわなければならない。ある集団が、その中で通用する特殊な語法をつくり出し、いわゆる隠語を使う(3)ことも自由であり、これがその集団の枠をはみ出してひろく国民全体に使われるようになったとしても、別に禁止されるわけではない。テレビのコメディアンが、アドリブで「新語」をつくり出すと、それがたちまちに流行したりしている。これらを見ると、まったく恣意的(しいてき)につくり出せるもののようにも見えるのである。

また、運転に必要な規範は、実際の運転のありかたを見てそこから読みとることもできないではないがふつうはそんな手数のかかることはしない。書店から時刻表を買ったり、駅や停留所に掲(かか)げてあるのを見たりして、覚えるのである。しかしながら言語表現に必要な規範は、まだ幼いときから日常生活の中で聞いたり話したり読んだり書いたりする訓練を受け、実際に表現についての経験を重ねるうちに、いつしか身につくという方法をとっている。もし規範を忘れたときには、家族にそのものを何とよぶのかそのことばは何をさすのかたづねて、このむすびつきを教わることから規範をとらえなおすのがふつうである。

けれども、この幼いときの訓練で身につけることのできる規範は、全体のわずかの部分でしかない。子どもにとって「むずかしい」多くのことばは、学校教育の中で教えたり、規範について記した印刷物から読みとらせたり、しなければならない。それに、「やさしい」ことばも、経験のままに放任するのではなく、正しい発音や意味や使いかたや書きかたを示してやることがのぞましい。それゆえ運転に必要な規範である時刻表と同じように、言語表現に必要な規範を知るための手びきとなる特殊な書物が編集され、印刷され、書店で売られるようになった。これが辞書である。

 言語表現に必要な規範は運転に必要な規範と成立の条件もありかたも異っているので、時刻表のように現に存在するすべての規範を集めた辞書をつくることは不可能に近いし、またその必要もない。地名や人名などは、必要に応じてそれだけを集めた辞書がつくられているし、日常の用語にしても小辞典・中辞典・大辞典と語彙(ごい)の数の少いものや多いものがつくられている。われわれが机上において常用している国語辞典も、いわば小辞典に属するものが多い。これは比較的広く使われている語彙を中心にして、それらがどんな対象に用いられるのかを簡単な文章で説明しているだけであるが、ふつうはけっこうこの程度のもので役立つのである。専門家として知らねばならぬ科学の特殊な分野で使われる特殊な語彙、たとえば電気・医学・薬学などの術語については、それだけを集めた特殊な辞書がつくられるわけである。

同じ小辞典に属する辞書でも、編集者が異れば語彙の選び方が異ってくるし、説明の文章もちがってくる。ここで注意しなければならないことは、この説明の文章それ自体が規範を表現しているのではないという点である。辞書は記号のサンプルを掲(かか)げて、それがどのような対象について用いられるかを知らせるために、その対象について説明しているだけである。対象と語彙との間のむすびつきに関する社会的な約束が規範なのであるから、ここでは対象の説明を読みながらそれと語彙との関係を推察できるように、記号のサンプルと説明とをならべて示しているのである。

 運転に必要な時刻表は運転する当事者だけがいくら知っていても意味がないから、運転をはじめるに先立って時刻表をひろく知らせようと努力する。時刻表を改正するときも、大きな改正は十数日も前から予告する。ところが言語にあっては、毎日多くの新しい規範が生れているにもかかわらず、直ちに辞書にのせるわけにはいかないし、またのせなければならないわけでもない。「新語」とかいわれるものも、合成語あるいは比喩などの場合が多く、これまでの規範から推察して大体見当がつくからである。ただ、固有名詞のように成立や変更を知ってもらわないとすぐ実践上に支障を来(きた)す場合には、新しい商品の名称をマス・コミでPRするとか、子どもの誕生や改姓・改名をハガキに印刷して知人に配るとか、当事者がしかるべき方法で知らせるようにしている。科学者の術語や暗黒街の隠語などで、新しい語彙が生れた場合も、それらは従来の術語や隠語と似た方法でつくられるのがふつうであるから、これらもその道に通じている人びとなら経験的に推察して大体見当がつくけれども、マス・コミが非常な発展を遂げている今日では、それらの特殊な語彙も新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどを通して、一般の人々の日常生活に直ちに入りこんでくることが珍しくない。そこで、このような新語の規範について知るための、「新聞用語辞典」や「流行語辞典」なども出版されるようになった。

(3) 隠語は特定の人びと以外には理解できない言語表現を意図するものであるから、恋人や夫婦の間で使われる特殊な愛称も一種の隠語である。さらに、外国語を知らぬ警官に捕(とら)えられた革命家たちが、外国語の語彙(ごい)を利用して意志を通じるのも、隠語でないものを隠語化することである。

 

『認識と言語の理論 第一部』 p.182 

 現象的に見ても、運転に必要な規範はまた現実に行われない以前から独立して存在している。時刻表と運転とは関係があるが明かに別個の存在である。言語表現の規範はこれとちがって不文律として成立するために、現象的には表現しか存在しないように見える。規範の存在を認めるにしても、表現それ自体のありかたとして、物質的な存在であるかのように誤解されたりする。言語について論じる人びとも、もちろん辞書の存在は知っているが、ふつうは辞書の助けをかりずに話したり聞いたりしているのであるから、辞書を徹底的に検討してここから言語の本質に迫ろうとするような人がほとんど存在しない。辞書と時刻表とを規範の観点で比較してみようという人もない。言語規範の正しい理解がなければ、辞書を正しく理解できないから、辞書には「言語をおさめてある」とか、そこから「言語をとり出して来て使う」とか、道具箱と道具との関係に似た解釈がひろく行われることにもなった。しかし時枝はこの種の解釈に反対する。

 辞書は語彙の登録であつて、こゝに我々は主体的活動を離れた言語の記載を認め得(う)る様である。しかしながら詳(つまびらか)に考へて見るのに、辞書に登録された語彙は、具体的な語の抽象によって成立したものであつて、宛(あたか)も博物学の書に載せられた桜の花の挿画(そうが)の様なものであつて、具体的個物の見本に過ぎないのである。辞書は具体的言語に対する科学的操作の結果出来上(できあが)つたものであつて、それ自身具体的な言語ではないのである。……辞書の言語について猶(なお)一言(ひとこと)加へるならば、先に私が辞書を語の登録であるといつたのは、厳密にいへば正しい云ひ方ではない。辞書は語を登録したものではなくして、言語的表現行為、或(あるい)は言語的理解行為を成立せしめる媒介となるものに過ぎない。例(たと)へば辞書に「あなづらはし」と標出されてゐても、それ自身は、語とはいひ得ないのであつて、単なる文字であり、厳密にいへば線の集合に過ぎないのである。しかしながら、この標識とそれに加へられてゐる説明、釈義等によつて、辞書の検索者は一(ひとつ)の言語的体験を獲得することが出来るのである。この様に見て来るならば、辞書に言語が存在するといふことは、尚更(なおさら)いひ得ないこととなるのである。(時枝誠記『国語学原論』)

 辞書は「媒介となるもの」で、そこに記されている文字は「語とは云ひ得ない」のだという指摘は、まったく正当である。けれども時枝は、辞書をひく者の「一の言語体験」がいったいなんであるかを説明していない。辞書が単に偶然的な存在でないことは、諸民族がその文化のある段階において申し合わせたように辞書を編纂するという事実からも、推察できることであり、その必然性は言語の性質それ自体の中に求められなければならないはずである。その意味では、博物学の書物の挿画と辞書の記号のサンプルとの間のちがいを、説明する必要があったのである。時枝がこれらの説明にすすみえなかったのは、規範論を欠いていたからであって、このことは後にまたとりあげることにしよう。辞書の中に言語がおさめてあると解釈するのは、時刻表の中に運転がおさめてあると解釈するのとあまりちがわないのである。辞書をひく者が「一の言語体験」によってそこからとり出してくるのは、言語それ自体ではなくて、辞書を編纂した人間の規範についての認識である。であるからこそ、言語表現あるいは理解を阻(はば)んでいた壁をのりこえることが可能になるわけである。

 現象的に見るならば、言語表現は話し手や書き手の能力によって可能となるもので、先天的にそなわっているとまではいわないにしても、経験的に身にそなわっていくように思われる。そこに社会的な規範の存在を認める人びとも、規範それ自体が現象的に独立して存在していないから、表現である音声や文字のありかたを通してその背後へとさぐって行かなければならない。言語規範は音声や文字のかたちをとって現象している、といってもいいが、この現象から直ちにそこに規範が存在していると考えるのはあやまりである。この現象にまどわされて、ほとんどの者が言語規範と表現との正しい区別と連関を与えることができず、混同しがちなのである。

規範それ自体が不文律として存在し、現象的に独立していないために、その相対的な独立が無視されがちな点では、道徳と言語規範とは共通している。そしてこの共通したあやまりのちがっているところは、道徳は規範それ自体をよぶことばであるにもかかわらず、行動までもいっしょくたにしてしまうのに反して、言語は表現それ自体をよぶことばであるにもかかわらず、規範までもいっしょくたにしてしまうという、ちょうど逆のかたちの混乱におちいっている点である。

 言語について論じる人びとが、表現だけでなく規範をもいっしょくたにしてどちらも言語とよぶあやまりは、さらに二つの傾向に整理することができる。その一つは、両者を理論的に区別できないか、あるいは区別しようとしない傾向である。スターリンの言語論の発想はこの傾向に属している。この傾向は言語学者以外の言語に関心を持つ人びと多く見られる。岩波小辞典『哲学』は、ソ連でスターリン批判がはじめられてから二年後に出版されたものであるが、その内容はスターリン的発想を受けついでいるものが多く、言語の項の説明またしかりである。

 発声・聴覚運動(話す、聞く)で組立てられた記号系を手段として一定社会の成員の間で営まれる表現・了解の交信活動をいう。その社会とともに歴史的に形成され、社会の個々の成員に対しては選択の余地のないものとして与えられ、かつ受けつがれる。(粟田賢三・古在由重編『哲学』)

 この説明は二重にあやまっている。言語は表現それ自体をよぶことばであって、これを「交信活動」といい、人間の活動をよぶものにスリ変えるのは、機能主義的解釈におちいったものである。さらに、歴史的に形成され「選択の余地ないもの」としてそれに従わねばならないし、また親から子へと「受けつがれ」ていくのは、言語ではなくて言語規範である。言語と言語規範とはこのような説明でいっしょくたにされるわけである。

 いま一つの傾向は、表現と規範とを一応別の存在として理論的な区別を与えようとする点で、前者よりもすすんでいる。だがそれにもかかわらず、両者をともに言語であると解釈し、しかも規範の側をこれこそ言語とよぶべきものだと逆立ちさせてとりあげる(4)のである。この傾向は言語学者に多く、その代表的なものがソシュール言語学である。ソシュールが「言語」(langue) とよぶのは規範の側なのであるが、彼は対象の認識と規範の媒介との間の論理構造を正しくとらえることができなかったために、彼の「言語」も規範にとどまらずそれに媒介された認識のありかたをもふくんだものになっている。

(4) 表現過程としては、規範による認識活動がまずあって、これを直接の基盤として表現が行われるのであるから、言語とよぶ場合に還元論的にこの基盤へ持っていく行きすぎは起りうることである。だがそれだけではなく、観念論にあっては物質と精神との関係を正しく説明できず、精神それ自体が物質化するかのように解釈するから、頭の中にまず言語が存在してそれが音声や文字のかたちに変るのだという考えかたで、規範の側を言語だと主張する学者も出てくるのである。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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