『認識と言語の理論 第一部』3章(5) 言語規範の拘束性と継承(PC版ページへ)

2018年10月24日22:35  意識>認識論(意識論)

『認識と言語の理論 第一部』3章(1) 意志の観念的な対象化
『認識と言語の理論 第一部』3章(2) 対象化された意志と独自の意志
『認識と言語の理論 第一部』3章(3) 自然成長的な規範
『認識と言語の理論 第一部』3章(4) 言語規範の特徴>
『認識と言語の理論 第一部』3章(5) 言語規範の拘束性と継承

『認識と言語の理論 第一部』3章(1)~(5) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部 認識の発展』(1967年刊)から
  第三章 規範の諸形態 (5) 言語規範の拘束性と継承

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第一部』 p.186 

 規範は「外界」の意志としてわれわれの行動を規定してくる。それゆえこれは他からの拘束(こうそく)ということもできるが、この拘束に対して必ずしも不満や抵抗を感じるわけではないし、またいつでも拘束を意識しているわけでもない。娯楽やスポーツの規範は、この拘束で楽しむことが可能になったという意味で、歓迎すべき拘束だといってよい。ポーカーや花札なども、特殊な札をそろえることによって多くの点数を獲得できるという、特殊な規範が設定されていることによって、楽しみは一層大きなものになる。ただし、たくさんの金をかけたが敗けてとられた者にとっては、規範の拘束から受ける苦痛をいやというほど感じるかも知れないし、一回で連続安打をあびせられ八点もとられたチームにとっては、九回戦うという拘束をやりきれないものと感じるかも知れないが、これらにしても、勝った側が拘束をありがたいものうれしいものと感じていることを無視して論じるわけにはいかない。法律がわれわれの行動をつねに拘束していることは疑いないが、その拘束をつねに意識しているのは犯罪者くらいなものである。

言語規範もたしかに表現上の拘束として存在するし、外国語を学習するときには規範を意識して身につけようと努力するのだが、やがては規範を意識せずに表現できるようになる。これは嫁に行った女性がその家の家風を教えられ、はじめはこれを意識して気をつかうが、そのうちに意識することなしに行動できるようになるのと似ている。規範は意識して規定されるばかりでなく、無意識のうちに規定されるように変化していくのであって、意識しないから存在しないとか拘束されていないとかいうことはできない。それは自分の外部でつくり出された規範による規定であっても、外部から直接に行動が規定されるのではなくて、自分の頭の中に複製された意志が「外界」となってこれから媒介的に規定されるという、観念的な対象化のありかたを検討してはじめて理解できる問題である。

 それゆえ、法律や道徳や時刻表や言語規範の存在を、よく知っていながら従わない場合があるという経験的な事実から、その拘束力を否定したりこれに規定された行動を単なる習慣に解消させたりすることはできない。われわれが日常の会話において規範を意識しないという経験的な事実から、直ちに規範やその拘束力を否定することはできない。この点で時枝の主張はあやまっていた。

 言語においても、最も明瞭な外部的拘束力――例へば、仮名遣(かなづかい)の厳守、漢字の制限、方言の矯正(きょうせい)――の如きすら、時に甚(はなはだ)しく無力なことがある。又例へば、我々が母語を語る時と、外国語を語る時とは、何(いず)れに於(お)いて規範を感ずることが濃厚であるか、そして更にその結果を考へて見る時、我々の言語は、規範或(あるい)は外部的拘束力の故(ゆえ)に遂行(すいこう)されるのではないことは明かである。拘束性を形成する重要な要素の一として習慣性と技術性を挙(あ)げることが出来る。言語に於ける習慣性は、受容的整序能力の結果であつて、習慣に逆行した言語的表現は、それ自(みずか)ら表現とは認められない。

 かかる習慣性の成立には、勿論(もちろん)条件としては個人間の社会的交渉といふことが必要であるが、本質的には、個人の銘々(めいめい)に、受容的整序の能力が存在することが必要である。(時枝誠記『国語学原論』)

 規範を外部にあるものと考え、その拘束力を否定し、しかも言語における頭の中の拘束性を認めなければならないのであるから、これを規範と無関係の・言語表現以前から持っている・「整序能力」の作用として説明するのは時枝の解釈からの論理的な強制の結果なのである。事実は反対であって、頭の中の規範が無意識のうちに表現や理解の成立を媒介するようになることが、「整序能力」を獲得したことなのである。これは、日常生活のための個別規範や道徳が、無意識のうちに独自の意志を規定して行動を媒介するようになることが、「人格」の形成とよばれるのと似ている。いずれも単なる習慣性ではない。見たところ同じようでも、規範の存在しないところに行動をくりかえして成立した、よっぱらっても道をまちがえずに帰宅するような習慣性と、規範を与えられはじめは意識してそれに従いながらも、くりかえす中で意識しなくなった習慣性とは、区別しなければならない。

 言語表現は規範にもとづく習慣性として行われるから、たとえ習慣に「逆行した」場合でも、そこに新しい規範を設定して行われるならばそれは言語表現なのである。死語を使うのは疑いもなく習慣に逆行したことであるが、科学者が死語であるラテン語の規範を用いて学名をつけるのは、言語表現以外の何ものでもない。東京の「上野」を「ノガミ」とよぶのも習慣に逆行したことであるが、ある人びとの間で隠語として使われることになれば、これは規範にもとづく表現であり言語表現と認めなければならない。習慣に反するということも、規範を無視したいいそこないの場合と、新しい規範を設定した新語の場合と、二つを認めなければならないし、平仮名・片仮名・漢字の相互の関係も、はじめは単なる習慣であったが現在では規範として与えられていることを無視してはならない。時枝にはこれらの区別が欠けている。

 我々が「イヌ」という音声、「いぬ」「犬」という文字によつて、相互に共通の概念内容を獲得するのは、何故であらうか。それは、我々の過去において「イヌ」「犬」という音声、文字の連合習慣を、相互に修正して来た結果、同一の連合習慣が形成されてゐる為である。

 思想を、音声や文字に移行する連合習慣が、不完全であつたり、粗漏であつたりした場合、即ちいいそこないの場合には、伝達が成立しないか、不完全になる。「猫」を「イヌ」と表現したり、「いぬ」と記載する場合である。(同上『続篇』)

 いいそこないの一例として、落語の『子ぼめ』に出て来るものを考えてみよう。子どもが誕生してから七日目を、われわれは「お七夜」とよび、人が死んでから七日目を、「初七日」とよんでいる。七日目だという点では両者が共通しているから、そそっかしい人間が子どもの誕生に「初七日」という表現をすることもあり得るし、それがまた笑いを誘うことにもなるわけである。これは無意識のうちに、規範の対象領域を不当に拡大したことを意味している。

たしかに、初めての七日目ではあるが、人が死んだとき使うことに定められている社会的な規範を、子どもが誕生したときに使ったのであるから、聞き手は「不吉」な表現だと苦い顔をしたり、非難したりするであろう。ここでは「お七夜」という規範をえらぶべきであって、「初七日」という別の規範をえらぶ余地が与えられていないのである。また、「池袋」を「ぶくろ」としか発音しなかったとすれば、それはふつうの人びとにあってはいいそこないであり、規範に忠実な表現ということはできないし、聞き手も正しく理解できないかも知れない。けれども特殊な人びとの間では、「ぶくろ」が「池袋」の隠語として用いられているのであって、そこでは「ぶくろ」を規範にもとづく忠実な表現として扱っている。いいそこないではないし、聞き手も正しく理解できる。すなわち、いいそこないか否かは、規範にもとづいているか否かによって区別されるのである。

 

『認識と言語の理論 第一部』 p.190 

 言語規範の拘束性を問題にするときには、さきにとりあげた意志の自由の問題について、「自由が意志の根本規定である」ことについて、ふりかえってみる必要があろう。娯楽やスポーツの規範を新しくつくるときは、それによってわれわれが楽しくための新しい方法を獲得したことになり、楽しむ自由がこれによって拡大したことを否定できない。言語規範が一つの精神的な拘束性であることにはまちがいないが、まさにこの拘束において精神的な交通という共同利害が実現し、自由に会話を交(かわ)すことが保障されているのであるから、拘束性と自由とを一つの矛盾として統一してとらえず、これを切りはなして拘束性のないところに自由が与えられるかのように判断してはならない。

言語規範の発展は矛盾の発展であるから、一面拘束性の発展であるとともに、他面では自由の拡大でもある。「お七夜」と「初七日」という規範が成立して、これらを使い分けねばならず、規範をあやまってえらんだときに相手の感情を害したり苦い顔をされたりするのは、拘束性の発展ととらえることができる。けれどもそれと同時に、単なる時間的経過ばかりでなく特殊な人間のありかたをもとりあげ、さらには話し手の慶弔(けいちょう)意識さえもふくませて表現することを可能にした点で、表現の自由が拡大した事実を見のがすわけにはいかない。

ことばをえらぶという意識的な活動には、規範のあやまった使いかたをしないようにという場合と、いろいろな規範があるがどれがもっとも効果的かという場合と、これまた二つの場合を区別することができる。「おかみさんいるかね」と「奥さんいらっしゃいますか」とは、相手によってえらばなければならないのであって、虚栄心で気ぐらいの高い相手には後者が効果的であるが、気さくで親しく交際している相手に後者を使ったのでは他人行儀たどきらわれたり、ときには皮肉をいっていると受けとられたりする(1)

敬語とよばれる特殊な規範の発展は、拘束性の発展であり煩雑(はんざつ)さをますものとして、国語改革論者の目のかたきにされているのであるが、一定の限界でのこの種の規範の存在は表現の自由を拡大し相手に対する自分の尊敬感を示すものとして、その合理性を認めなければならない(2)。国語改革論者の多くに、規範を単純化することがすなわち合理化であるという考えかたが見られるが、これは規範の持つ矛盾を正しく理解しないところからくる一面的な真理の絶対化である。芸術家や科学者がこの種の合理化に反対の態度をとるのも、それだけの根拠があるのであって、規範の発展が表現の自由を保障していることを経験的につかんでいるために、これを無視する改革の行きすぎを不合理と感じるのである。

 習慣の獲得には、よっぱらっても道をまちがえずに帰宅する場合のように、個別的な事物についての経験がくりかえされる中で、その感性的な認識が頭の中に固定化されて意識せずにこれから規定されてくる場合もある。言語表現の習慣の獲得には、個別的な事物についての経験ではなく、その特殊性を超えて普遍性をつかむ経験が必要であり、さらにこの認識とどのような音声あるいは文字の種類とをむすびつけるかを教えられなければならない。それゆえ、この教えられたものが経験のくりかえしおよび習慣の獲得から、相対的に独立して維持される点で、前者の習慣の獲得と区別されなければならない。時枝はこの教えられたものと習慣獲得との区別と連関をとりあげていない。

 言語の習得は何を意味するのであるかといへば、それは、素材とそれに対応する音声或(あるい)は文字記載の習慣を獲得することを意味するのである。……例へば、小児(しょうに)が四本足の動物を「ワンワン」と教へられたとする。その時、この小児は、この動物と「ワンワン」といふ音声の聯合(れんごう・連合)を教へられたのであつて、この様なことを繰返すことによつて、この小児は、この動物を指す必要が生じた時は、これを直(ただち)に「ワンワン」といふ音声に聯合さす処(ところ)の習慣を獲得するのである。(時枝誠記『国語学原論』)

 親は自ら四本足の動物をさして「ワンワン」と表現する。子どもにもこれを摸倣させる。これが条件を変え対象を変えて何度もくりかえされる。経験としての音声と動物との「聯合」は、個別的であるから、これの持つ特殊性を超えなければならない。このくりかえしの経験から、子どもはその特殊性を超えて共通面のあることを認識し、これを「蒸溜」させていく。このような種類の事物についてはこのような音声がむすびつくのだという共通面の認識が「蒸溜」され、これが固定化してつぎの表現に役立てられるようになれば、ここに規範が成立したことになる。

親はこのように、自ら規範を役立てる模範を示し、子どもにも摸倣させることによって、経験を通じて子どもの頭の中に規範を育てるのであり、客観的には親の頭の中の規範が子どもの頭の中に複製されたということができる。教えられたのは表現を摸倣することではなくて、摸倣の結果「蒸溜」されたところの表現のための規範なのである。

 スターリン的な発想では、この事実を言語が「与えられ、かつ受けつがれる」ものと解釈するのであるが、言語それ自体の受けつぎは、親の書いた論文の原稿が子どもの手に渡るとか、著者の表現が活字で印刷されコピイとして読者の手に渡るとか、あくまで表現それ自体の移動あるいは複製として理解しなければならない。

テープレコーダーを使えば、音声言語のコピイをつくることができるが、これを現象的に見ると、まず親が「ワンワン」と発音してそれを子どもにまねさせる、人間が音声言語のコピイをつくる場合に似かよっている。それで、テープが音声をくりかえす能力を持ち、ここに言語が「受けつがれ」ているように、子どもにも親の言語が「受けつがれ」るかのような錯覚が生れて来る。だがテープと子どもの頭とをいっしょくたにすることはできない。テープは機械的に音声をくりかえすが、それはテープに吹き込んだ話し手の言語の複製であり、この話し手の認識の表現でしかない。子どもが親の発音をまねるのは、たとえそれが音声の摸倣でしかなかったとしても、子どもの認識の表現であり、さらにすすんではくりかえしの中で規範を抽象し固定化することができる。音声の摸倣も、自主的な表現の萌芽(ほうが)形態なのである。

(1)  時枝のいう言語における「技術性」も、規範を導入して説明されなければならない。言語表現の技術とは、規範の持っている拘束性を正しく把握することによって、これを表現の自由のためにどのように役立てるかという、現実的な条件による規範の意識的な使いかたを意味するのである。

(2) 敬語の合理性を認めることは、特殊な敬語の存在やその背後にあるイデオロギーやさらにはそれを成立させた現実の制度を是認することではない。敬語のありかたを変えていくことは必要であるが、敬語的規範それ自体を否定するのは行きすぎである。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

トラックバックURL

http://okrchicagob.blog4.fc2.com/tb.php/344-db1dbc83

前の記事 次の記事



アクセスランキング ブログパーツ