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『認識と言語の理論 第二部』1章(3) ベリンスキイ=蔵原理論 [PC版ページへ]
2018/10/27 13:42

『認識と言語の理論 第二部』1章(1) 表現――精神の物質的な摸造
『認識と言語の理論 第二部』1章(2) 形式と内容との統一
『認識と言語の理論 第二部』1章(3) ベリンスキイ=蔵原理論
『認識と言語の理論 第二部』1章(4) 対象内容説・認識内容説・鑑賞者認識内容説
『認識と言語の理論 第二部』1章(5) 言語学者の内容論
『認識と言語の理論 第二部』1章(6) 価値論と内容論の共通点
『認識と言語の理論 第二部』1章(7) 吉本と中井の内容論
『認識と言語の理論 第二部』1章(8) 記号論理学・論理実証主義・意味論

『認識と言語の理論 第二部』1章(1)〜(8) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第一章 認識から表現へ (3) ベリンスキイ=蔵原理論


〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.310 

 家具たとえば椅子をとりあげる場合に、われわれは材料の良否と椅子としての良否とを区別している。材料が不良なら椅子としての機能も十分に発揮できないという意味で、つながりはあるにしても、せっかくすぐれた材料を使いながら椅子としてのできばえはよくないものがあることを、経験的に知っている。表現たとえば小説などをとりあげる場合にも、やはりこれと同じような区別のしかたをして、「この小説は材料はおもしろいのだが料理のしかたがよくないので材料のよさを殺してしまった」などと批評している。アリストテレスと同じように、質料の良否と形相の良否とを区別して問題にしているわけである。

さらに翻訳ともなれば、『ハムレット』を日本語に訳したり、『源氏物語』を英語に訳したりする場合、その作品の持っていた視覚的なかたちはまったく別のものに変えられてしまう。だがそれにもかかわらず、そこには原作の持っていたものが依然として変ることなくうつしかえられているということも、また否定できないし、否定しないのである。異った言語におきかえられ視覚的なかたちは変っていながら、そこに原作と同じ作家の精神的に創造した世界を読みとることができるからである。

これと反対に、タイプライターを使えば、誰がたたいても同じような視覚的なかたちが生れてくる。私が手紙をタイプして「わたし」と印字したのと、他の人間が「わたし」と印字したのとは、視覚的に同じでありながら、それを読む人びとはそこから別の異った人間を読みとるのである。食事やのみものをすすめられたときに、「けっこうです」というが、これは文字どおりけっこうなものだからよろこんでいただきますという気持を表現する場合もあれば、それとは逆に辞退いたしますという気持を表現する場合もあって、「どっちのけっこうだね?」と問いかえされたり、まちがって受けとられたりしている。

 物のありかたについて、その空間的なかたちとそれを構成している実質とを区別するという習慣は、このように表現の場合にも延長されることとなった。表現たとえば言語の場合でも、その音声なり文字なりのかたちを形式とよび、それと相対的に独立してはいても不可分のものとしてついてまわる「実質」的な面を内容とよぶようになった。正しい翻訳には「原作の内容を正しくうつしかえている」といい、誤訳には「内容をゆがめている」と批評するようになった。小説を戯曲やシナリオに脚色するときにも、同じような批評がなされている。

このわれわれの習慣には、現実的な根拠があるのであってそれ自体として正当ではあるが、そこにはまたあやまった解釈への道がひそんでいることも、読者はすでに推察したはずである。それは物のありかたの論理構造をそのまま表現の論理構造に持ちこむというあやまりで、評論家とか理論家とかいわれる人びとがそのようなあやまった主張を提出しても、読者の側では日常の習慣からもっともな主張と受けとるわけである。

 文学を楽しむときの重点は、その背後にある作者の精神的な世界に入りこむところにおかれている。つまり重点は内容の側におかれている。したがって、作品の内容とは何か、それはどのようにして生れるかということが、文学理論の解明すべき重要な問題になっている。ロシアの批評家ベリンスキイはいった。

 現実はそれ自体において美しい。だが、それが美しいのはその本質において、その諸要素において、その内容においてであって、その形式においてではない。この意味において、現実は清められていない鉱石と土との塊における純金のようなものだ。――科学と芸術とはこの現実の金を清め、それを美しき形式に型づける。したがって、科学と芸術とは新しいかつてなかった現実を考え出すのではなくて、かつてあり、現在もあり、未来もあるであろうところのものから、できあがった材料、できあがった要素、一言をもっていえば、できあがった内容を取って、それに適当な形式を与えるのである。

 人は芸術と科学は同じものではないことを見て、両者の差異はまったく内容を精錬する方法にあるのであることを見ないのである。

 この主張にはいくつものあやまりがからみ合っている。科学と芸術とをならべて平面的に扱うのもあやまりであるし、内容の差異を無視するのもあやまりであるが、まず問題にしなければならぬのは右に述べた物のありかたの論理構造をそのまま認識および表現の論理構造に持ちこむあやまりである。

科学(認識)および芸術(表現)の内容はすべて現実の世界の実質すなわち実体そのものであり、実質としての「純金」がメダルになったり金貨になったり指輪になったりさまざまな形式を与えられるのと同じように、科学および芸術も現実の世界から「できあがった内容」すなわち実体そのものを取って来てそれに形式を与えたのであって、両者は処理のしかたや型への流しこみかたがちがうにすぎないというのである。

 ベリンスキイがこんなまちがいだらけの主張を堂々とやれたというのは、彼がヘーゲリアンだったということと関係している。前に述べたように、ヘーゲル哲学としては体系がこのようなとらえかたを強制するのであって、これ以外の論理を展開するわけにはいかないのである。ベリンスキイはすぐれた文学批評家であり、ロシアにおける社会民主主義の先駆者であったとはいえ、理論的にはこんなまちがいだらけの主張をしていたのであるが、ソ連の人びとは彼の革命的な批評家としての名声にひきずられて、彼のこの理論までうのみにしてしまった。彼がヘーゲリアンだったということを知らずにうのみにしたのではなく、知ってはいてもここに引用した主張にヘーゲル観念論の痕跡を見出す能力を持ち合わせていなかったのである。ヘーゲルは自然の背後に絶対的なイデーを認めていたのだ、物質よりもイデーを根源的と認めたから観念論なのだ、というようなパンフレットで覚えた哲学的常識にとどまるかぎり、そのような立場で展開する体系はどんなものになっていくのかという論理的な必然性において具体的に考えながら、ベリンスキイの主張を吟味することはできない。

今引用したことばの中には、絶対的なイデーや物質以前の精神などただの一言も出て来ないばかりか、われわれの習慣にも一致しているから、きっと正しいにちがいないと思いこんでしまう。そしてソ連の自称マルクス主義者が正しいと認めれば、ソ連を崇拝する権威主義的な日本の自称マルクス主義者もそれに追随する。プロレタリア芸術運動の指導者が芸術における内容と形式との関係について論じたとき、ベリンスキイの主張はつぎのようなかたちに具体化されることになった。

 各階級(あるいは層、あるいは集団)が与へられたる時期に於(おい)て必然的に課せられたる社会的課題は種々様々である。この課題――正確に云へば必要は、その終局に於て、人間社会の生産力の発達と、それによつて規定される階級関係とによつて決定されるのであるが、それはまたあらゆる人間的社会活動――政治、経済、宗教、哲学、科学等々の真実の客観的内容を為(な)すものである。芸術の内容も亦(また)これ以外ではあり得ない。即ちダンテの芸術の内容を為すものはダンテによつて代表される階級の必要であり、トルストイの芸術の内容を為すものはトルストイの属する階級の必要である。

芸術に於ける形式は、生産的労働過程によつて予(あらかじ)め作られたる形式的可能と、その芸術の内容を為す所の社会及び階級的必要との弁証法的交互作用の中に決定される。(蔵原惟人『プロレタリア芸術の内容と形式』)

 ベリンスキイは科学も芸術も内容に変りはないといったにすぎなかったが、蔵原は「あらゆる人間的社会活動」に拡大して、政治、経済、宗教、哲学などもみな内容に変りはないと主張したのであるから、ヘーゲルのいわゆる「熱病やみの妄想」もますます具体化してボロを出さないわけにはいかない(1)。マルクス主義では歴史の究極的な原動力を物質的な生活の側に求め、精神的な生活はそれに規定される存在だとして、これを土台および上部構造にたとえている。ところが蔵原は芸術と経済とを内容においても形式においてもならべて扱い、両者とも内容に変りはないし芸術の形式も経済の生活資料と同じように生産的労働過程の産物であるという。それゆえ事実上上部構造も土台も平面的にならべてしまい、内容をすべていっしょくたにしてしまい、マルクス主義をヘーゲル的に修正してしまった。

(1) 宗教の内容には、神とよばれる空想的な存在があらわれてくる。唯物論の立場に立とうとするなら、これを現実の世界の中に「かつてあり、現在もあり、未来もあるであろうところのもの」であると公言したり、その点で科学の内容と同じものなのだと公言したりするわけにはいかない。しかしベリンスキイの論理を支持するかぎり、何とか内容を同一視しないわけにはいかない。そこで「階級の必要」という別のことばを持ちだしたものと思われる。

 

『認識と言語の理論 第二部』 p.314 

 このベリンスキイに輪をかけた蔵原の混乱も、評論として読まれるにとどまっていたならば、その害毒も大したことはなかったであろう。だが蔵原は芸術運動の指導的な立場にいて、この内容と形式についてのまちがいだらけの主張が運動の指導理論として具体化されたために、それが運動の混乱と崩壊に重要な役割を演じることとなった。

 ヘーゲルは形式を内容の中に含まれていると理解することによって、形式に対する内容の優位(2)を主張したのであるが、この点についてはマルクス主義もヘーゲルと一致している。それで、自称マルクス主義者がベリンスキイの芸術論を正しいものとして受けとって、これをさらに発展させたり運動に適用したりするときには、芸術において内容を重視するということを作者の認識より現実の世界の中にある「できあがった材料、できあがった要素」のほうを重視することとして、解釈することになる。これは現実の世界から「純銅」や「純銀」を取ってくるよりも「純金」や「ダイヤモンド」を取ってくるほうが、ずっと価値があるのと同じでことである。従って、蔵原に指導されたプロレタリア芸術運動の作者たちは、現実の世界から資本家をとりあげるよりも労働者をとりあげるほうが価値があるし、ふつうの労働者よりも闘争している労働者のほうが価値があるし、単なる組合員よりも共産党員のほうが価値があるとする方向へと走った。これは従来の文学理論では題材主義とか素材主義とかよばれあやまりとされていたにもかかわらず、ベリンスキイ=蔵原理論ではどうしてもそうならないわけにはいかなかったのである。革命的な芸術をという要求は、こうして題材そのものに対する革命性の要求にすり変えられることになった。

そればかりではない。作品における主題は、作者の創造する世界の骨組みとして内容をつらぬく、重要な存在である。ところが内容を現実の世界に存在するものと考えると、内容をつらぬく主題もやはり現実の世界に存在するものと解釈しなければならない。蔵原にいわせれば、主題は「作者の観点から整理された題材」として、作者の向う側に存在しているのである。それゆえ、主題の積極性という問題にしても、作者の創造における積極的な態度という主体的な側面でとりあげられるのではなく、現実の世界の中にできあがって作者がとらえるのを待っている題材の積極性にからむ整理のしかたとして解釈されてしまう。ベリンスキイ=蔵原理論は、作者たちが素材主義のあやまりを経験的に反省してそこから抜け出そうとするとき、それを押しもどす役割を演じたのであった。もはやプロレタリア芸術運動の組織が形骸化するに至ったころ、徳永直(とくながすなお)は「原作方法の毒虫」に対して罵倒を加え、「この毒虫は『主題の積極性』という看板の裏側に巣喰ってやがるのだ!」とさけんだが、これも決して根拠のない裏切り的発言として片づけるものではなかった。

 蔵原の内容と形式論が出たのは二九年二月のことであったが、四月には中野重治が「蔵原の見解は絶対に正しい」といいながら、芸術の役目について論じている。そして興味あることだが、中野による蔵原の見解のパラフレーズは、ベリンスキイおよび蔵原の内容論とは異ったものになってしまっているのである。

 我々は今日ははつきりと次のやうに考へなければならない。

 芸術の役目は労働者農民に対する党の思想的・政治的影響の確保・拡大にある。即ち、労働者農民に共産主義を宣伝し、党のスローガンを大衆のスローガンとするための広汎な煽動宣伝にある。

 従つて芸術の内容も、「プロレタリアートの姿」とか「権力に対する闘争」とかいふボンヤリとしたものであり得ない。それは正に党の掲げて居るスローガンの思想そのスローガンに結びつくところの感情である

 勿論(もちろん)我々は我々の芸術の内容をなす思想感情の数が党のスローガンの数と同じいといふのでなく、芸術として現れる時それが党のスローガンそのまゝになるといふのでなく、また党のスローガンを中心にして芸術を製造しろといふのでない。我々の芸術の内容は我々の階級的必要であり、党の掲げて居るスローガンこそこの階級的必要の政治的・集約的・徹底的表現に外ならぬと言ふのだ。(中野重治『我々は前進しやう』)(強調は原文)

 ベリンスキイおよび蔵原にあっては、芸術の内容は現実の世界から与えられる「できあがった材料」であったにもかかわらず、中野にあっては現実の世界に存在するものではなく「思想感情」になってしまっている。これは中野が蔵原のような評論家ではなくて、作家でありしかも詩人であったことと無関係ではあるまい。詩人は現実の世界に「純金」を探しまわるのではなく、胸のうち・心の底・に持っているものを相手に訴えようとするのが普通だからである。これは詩人の直観からのべたのであって、蔵原の主張を意識的に訂正したものではない。それが蔵原を支持しながらそれとちがったことをのべるという、矛盾となってあらわれたのであろう。

 三九年には別の評論家がやはりこれと似た主張をのべている。そこでは蔵原的内容論と中野的内容論が肩をならべて、一方では「現実」が、他方では「観念」が内容だと説明されている。筆者はそのくいちがいを反省できないで共存させているわけである。

 芸術の内容をなすものは、あらゆる社会的現実に対する、作家の一定の関係を通じて与へられた多種多様な社会的現実である。……私たちが一般的に形式と内容の統一といふとき、それは具体的には、様式と社会層の世界観との統一、それからこの世界観の個別的に独自な現はれである作家の観念と、形象との統一を意味する。(窪川鶴次郎『現代文学論』)

 形式と内容との論理構造は哲学の解明すべきものとされて来たから、自称マルクス主義哲学者が大いに発言してしかるべきであるが、ソ連の哲学教科書にもごく抽象的な一般論が述べられているだけで、芸術の内容についての論理的な説明は存在しない。日本の哲学者もそれをまねる以上には出ていない。ただ戦前では、芸術運動の混乱や論争を反映して、哲学者がつぎのように論じていた。

 芸術においても、形式主義といふ言葉を屡々(しばしば)聞かされる。数年前、横光利一、中河与一らの小ブルジョア的反動作家のグループは、その作品の無内容性(正確にいへば内容の貧弱さ、下らなさ、反動性)を正当化するために、形式主義を唱へ、芸術においては形式が決定的であつて、内容は第二次的なものであると主張した。最近では徳永直氏が、「芸術の場合」に限り形式主義を採用すべきだと主張してゐる。氏によれば「唯物弁証法における根本法則、『内容と形式』の交互関係――その内容の優位性は、芸術の場合において自(おのずか)ら異ってくるのだ。芸術の場合は、形象ないし形式が、既に本質的であり内容を規定してしまふのだ。」形式が本質的であるといふことは、内容にとって本質的であるといふことだ。形式なき内容は存在しない。さうかといつて、徳永氏の如く、形式が内容を規定するといふのは全くの形式主義であり観念論である。徳永氏はかかる議論によつて、作品の階級的内容(主題の積極性もこれに関係する)を甚(はなは)だ過小評価する右翼的偏向を弁護してゐるのだ。(永田広志『唯物弁証法講話』)

 徳永は文学者であるだけに創作活動の経験から蔵原の内容論に疑いを抱いたのである。蔵原は「あらゆる人間的社会活動」が同じ内容だといっているのに対して、芸術の内容のありかたは彼のいうのと違って特殊性があるのではないかと疑ったのである。疑ったのは正しかったのであるが、蔵原理論を自力で訂正できない弱さから、形式主義者の主張を借りて来て芸術の内容の特殊性を説明しようとしたところに、徳永のあやまりがあったのである。それゆえこれを批判する者は、なぜ徳永がこんな主張にすがる結果になったのか、彼の疑いは正しかったのかどうかを吟味して、芸術の内容の特殊性について具体的に徳永に答えてやらなければならない。これが学者としての義務である。永田は学者としての義務を果そうとはせず、蔵原理論から脱出しようとしている徳永をまたもや蔵原のところへ追い帰そうとしただけであった。

(2) 「優位」というのは、両者のうちでどちらが基礎的な位置を占めるかであって、「優先」とはちがう。「優先」の場合はどちらが先にまず存在したかであって、形式のないところに内容が存在したということになる。土台と上部構造という唯物史観のたとえも、どちらが基礎的な位置を占めるかその「優位」の問題であるが、建築の場合はまず土台がつくられるという意味で「優先」でもあるために、とりちがえられる危険をふくんでいる。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

『認識と言語の理論 第一部』1章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』2章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』3章(1)〜(5)

『認識と言語の理論 第二部』1章(1)〜(8)

『認識と言語の理論 第二部』2章(1)〜(6)

『認識と言語の理論 第二部』3章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第二部』4章(1)〜(9)

三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき

三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章

三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』 まえがき



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