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『認識と言語の理論 第二部』1章(4) 対象内容説・認識内容説・… [PC版ページへ]
2018/10/28 13:14

『認識と言語の理論 第二部』1章(1) 表現――精神の物質的な摸造
『認識と言語の理論 第二部』1章(2) 形式と内容との統一
『認識と言語の理論 第二部』1章(3) ベリンスキイ=蔵原理論
『認識と言語の理論 第二部』1章(4) 対象内容説・認識内容説・鑑賞者認識内容説
『認識と言語の理論 第二部』1章(5) 言語学者の内容論
『認識と言語の理論 第二部』1章(6) 価値論と内容論の共通点
『認識と言語の理論 第二部』1章(7) 吉本と中井の内容論
『認識と言語の理論 第二部』1章(8) 記号論理学・論理実証主義・意味論

『認識と言語の理論 第二部』1章(1)〜(8) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第一章 認識から表現へ (4) 対象内容説・認識内容説・鑑賞者認識内容説


〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.318 

 われわれは現実の物のありかたについて、空間的なかたちとそれを構成している実質とを区別する。それゆえ前者を形式とよび後者を内容とよぶならば、たしかに形式と内容とは切りはなすことのできない・しかも区別しなければならない・存在だということを認めないわけにはいかない。表現における形式と内容も、ありかたこそちがえやはり不可分の統一にあると考えないわけにはいかない。それゆえ、いろいろな人びとが芸術の内容について説明するとき、このようなとらえかたをしているか否か吟味してみることにしよう。自称マルクス主義者も、口では形式と内容とは不可分の統一にあると語っているが、その提出している芸術の内容についての具体的な説明が口でいうとおりかどうかは、一応疑ってかかる必要がある。

 芸術の内容についてはさまざまな説明が行われているが、大別するとつぎの三つになる。

 (1) 対象が内容であるとするもの。

 ベリンスキイおよび蔵原にとっては、われわれが認識の対象とするところの現実の世界に、すでに「できあがった内容」が存在することになっているのであるから、これを対象内容説とよぶことができよう。この説からすれば、机の上にあるリンゴを鉛筆でスケッチしたりカメラで撮影したりするような場合には、このリンゴそれ自体が絵画や写真の内容であるということになり、紙に描かれた鉛筆の線や感光膜につくられた像が形式であるということになる。油絵で描いたり、リバーサルのカラーフィルムで撮影してスライドをつくったりして、リンゴを色彩的に表現することもできるが、これらは「生産的労働過程によって予(あらかじ)め作られたる形式的可能」にもとづくものであって、科学と技術の発展がこの可能性を与えている。作家はこのように物質的な労働によって形式を創造するわけである。

 けれども、スケッチや撮影のあとで、そのリンゴを食べてしまったらどうなるだろうか? もちろんリンゴを食べたところで、紙に描かれた鉛筆の線や感光膜の像までいっしょに消失してしまいはしない。リンゴそれ自体の形式は消失しても、表現の形式は何ら変化しないし、しかもわれわれは相も変らずこの絵画や写真が内容を持っていると認めている。もし論理的なスジを通していくとすれば、この食べたときに対象の「できあがった内容」それ自体は消滅したのであって、もはや内容は存在しないことになり、結局のところこれら絵画や写真は内容のない形式だと理解しなければならなくなる。

もしどうしても内容があるのだと主張するならば、それはリンゴそれ自体がすがたを変えて鉛筆の線や感光膜の像になり、紙の上やフィルムの上にしがみついているのだと、暗黙のうちに解釈していることになってしまう。観念論ならば、リンゴそれ自体が一つの観念のありかたであるから、この観念が作者の頭の中へ入って来たりまた紙の上やフィルムの上へ出て行ったりしてもおかしくはないが、唯物論ではそんなことは認められないのであり、マルクス主義を修正しているものである。

 リンゴの写生のように対象が現実に存在するときには、対象内容説も見たところもっともらしく思われないでもないが、フィクションの世界を対象とするときには、観念論者でもないかぎり誰でもすぐにおかしいと思うにちがいない。モルナアルの『リリオム』には天国の場面が出てくるし、ハーンの『怪談』や円朝の『牡丹灯籠(ぼたんどうろう)』には化け物や幽霊が登場する。ディズニー映画のドナルド・ダックや手塚治虫の鉄腕アトムなども、作家にとっては対象として扱われているけれども、これらは作家自身の空想を対象化することによって成立しているのであって、何ら現実の世界の中に「できあがった材料」として過去から未来にわたって存在しているわけではない。そして天国を扱おうと幽霊が登場しようと、われわれはそれらをリンゴの写生と同じように扱って、作品に内容の存在することを疑わないのである。

 そこで、S・I・ハヤカワのように、言語に外在的意味 (extensional meaning) と内在的意味 (intensional meaning) とを区別して(1)、リンゴの場合は前者だが天国の場合は後者だというような説明を与える者も出てくることになる。このような説明も、やはり見たところもっともらしく思われるだけのものでしかない。そのことはつぎの認識内容説の検討ではさらに明かになろう。

(1) S・I・ハヤカワ『思考と行動における言語』から、この本は言語表現における興味ある問題を多くとりあげているのだが、著者はそれを正しく解明するだけの論理的な能力を持っていない。

 

『認識と言語の理論 第二部』 p.320 

 (2) 認識が内容であるとするもの

 観念論の本はもちろんのこと、芸術理論とか文学理論とかいわれるものさえページをめくってみたことのない文学者が、作品を前にしてこの内容はいったい何かと考えるときには、対象内容説をとることはまずなかろう。その作品が与えてくれるものは作者の創造した世界であり、この世界を鑑賞するために自分は作品に相対(あいたい)しているのであるから、本のいわば中身は作者の世界にほかならない。ここから経験的・常識的に、内容は作者の頭の中に存在する精神的な世界であって、つまり認識なのだという説明になりやすい。科学者が論文を前にして、この内容はいったい何だろうと考えたときも、これと同様である。その論文からくみとるのは、書き手の頭の中の理論あるいは思想であるから、内容は理論や思想すなわち認識なのだという説明になりやすい。これを認識内容説と名づけておく。

 ハヤカワは対象内容説だけでは十分でないと見てさらに認識内容説を折衷(せっちゅう)させたわけであるが、対象がフィクションの世界である場合これは認識のありかたなのであるから、認識内容説でさしつかえないような気がする。それに内容がすぐれているか否かという問題にしても、対象内容説では対象がすぐれているか否かになり、素材主義になってしまうが、認識内容説では認識がすぐれているか否かということになって、作者の認識の質や創造の良否を意味するのであるから、これまた経験的・常識的にうなづける。

それで中野重治が蔵原の主張を支持しながら自分では認識内容説をとり、内容は「思想感情」だと明言したのも、あるいはプロレタリア歌人の渡辺順三が「短歌の内容は、もう一度いえばわれわれの生活感情です。毎日の生活の中でものに触れ、事にあたって経験する感情です。」といったのも、文学者として経験的・常識的な発言だということができる。けれども彼らは、ベリンスキイや蔵原の対象内容説を批判しようとはしなかった。ところが三二年に、土屋文明が『短歌概論』を書いて、短歌の内容は「対象の論理的客観的性質」ではないのだ、「対象を把握する主観の強さ」なのだと主張し、いわゆるプロレタリア文学者でないところから正面切った対象内容説への反対があらわれたのであった。近くは哲学者ルフェーブルの『美学入門』も、「強さと能力の感情、あるいは苦痛への同情、あるいはまた死の恐怖もまた、この内容の一部をなす。」と述べて認識内容説をとっている。

 しかしながら認識内容説にも、対象内容説と共通した大きな難点が存在している。絵画・彫刻・小説などのように、表現形式が物体の上に固定されていて、何百年もの長年月保存される場合、これらはいずれも創造のときの内容をそのまま維持しているものとして扱っている。ダヴィンチの絵は、ダヴィンチが描いたときの内容をいまもって維持しているものとして扱っている。この事実を認識内容説はいったいどう説明するかである。いま、われわれが誤解にもとづいて他の人間に非難詰問する手紙を書き、相手がおどろいてそれは誤解だと釈明して来たと考えよう。自分がそのまちがいをさとって、誤解をすてたとすれば、手紙を書いたときの認識はもはや消滅してしまう。それにもかかわらず、手紙の内容は依然として書いたときの内容を維持している。そこには依然として誤解が述べられている。認識が変わったにもかかわらず内容が変らないとすれば、これは認識それ自体が内容ではないことを意味してはいないだろうか。作者がこの世を去れば、肉体といっしょに思想や感情も消滅してしまうが、そんなこととは関係なく、作品はそのあらんかぎりいつまでも内容を持つものとされている。そればかりではない。論文であれ小説であれ、原稿を活字に組んで印刷すると、そこに生れた何百万何千万という印刷物がすべて内容を持つものとして扱われている。音楽でも、それを録音しレコードに何百万何千万と複製してそれをプレーヤーにかけ再生すると、そこに生れた再生音はすべて内容を持つものとして扱われる。作者の思想や感情すなわち認識が内容なのだという説明は、作者の死後も作品が内容を持つとか、作品を機械的に複製したときもそれらがすべて内容を持つとかいう、動かすことのできない経験的事実を合理的に説明することができない。

 もし、認識内容説とこれらの経験的事実とを、どうしても両立させようとするならば、その解釈は一つしかない。作者の思想や感情は表現したときにその頭からぬけ出し、空中をとんであるいはペンのさきを伝って作品の上にまい下り、そこに腰を落ち着けるのだという解釈である。作者の認識が変ろうと、作者がこの世を去ろうと、その頭からぬけ出した思想や感情は平然として作品の上に腰を下(おろ)しつづけ、作品を機械的に複製するときにもその思想や感情が同じように何百万何千万と複製されていくのだという解釈である。そんなことを信じる唯物論者はまずなかろう。作者が死んでも彼の頭からぬけ出した思想は変りなく存在しつづけるという解釈は、人間が死んでも肉体から抜け出した霊魂は存在しつづけるという解釈と同じように、古くさい迷信であり観念論である。それゆえ自称マルクス主義者である文学者や哲学者が、唯物論のつもりで主張しているこの認識内容説も、実際には隠蔽(いんぺい)された観念論でしかないことになる。

 ルフェーブルは認識内容説をとったばかりでなく、マルクス主義者として形式と内容との統一という主張を堅持しなければならないから、「形式と内容との本質的な統一から出発しよう」といったが、認識に対して像としての形式と内容ではなく、物としての形式と内容のありかたを押しつけた。物の実質が自分のかたちをつくり出しているのと同じように「内容は自分に形を与える」ものとして認識を扱ったのである。

 美的形式とは意識の形式であって、内容の持つ本質的諸傾向をもっとも具体的にとらえ、そしてそれらを、他の何より豊かで何より意味深いもの、つまり芸術作品のうちに現実化せんとする。(ルフェーブル『美学入門』)

 もし認識それ自体が彼がいうような意味での芸術の内容なら、自分に形を与える場合の形式も認識それ自体の形式でしかありえない。それだから彼も「意識の形式」だと認めなければならなかった。だがこれでは、それが「現実化」したところの「芸術作品」それ自体の形式を何と説明したらいいか、途方にくれてしまう。「芸術作品」それ自体の形式は明らかに物質的な形式で、認識それ自体の形式ではないからである。観念論者なら、この両者を同じものにして、認識の形式がそのまま頭の中から出ていって、作品の形式になったのだとして、片づけることができるのだが、唯物論者ルフェーブルとしてはまさかそんな説明もできなかった。身動きできなくなった彼は、この「形式」(フォルム)ということばにわざわざ註釈をつけている。はたの見る目も哀れ、というところである。

 この論文の読者は、美学用語の不確実さに気づかずにはいられなかったろう。科学としての美学がなおこんなに低い段階にとどまっているという証拠である! 「フォルム」ということばは、あるときは美学的仕上げ一般、内容と区別される「形式」を意味し、時には芸術のジャンル「諸形態」を意味する。あるいはまたフォション氏の「形と生命」についての著作に見られるように、造形的な意味をも持つ。……こうした曖昧で抽象的な用語、一部は哲学から借りて来た用語は、芸術の一般理論の発展を通じてしか正確とはなりえないだろう。(同上)

 ソ連ではこんなことをいってはいない。「今日、マルクス・レーニン主義美学は、ソビエト社会主義美学によって代表されている。ソビエト美学の優位性は、進歩的な哲学的世界観――弁証法的唯物論と史的唯物論――が美学と芸術理論のすべての問題を解決する科学的基礎となっていることにある。そしてソビエト美学は、ソビエト芸術と芸術家にマルクス主義的世界観にもとづいた明確な美学観を与える。(2)」いったいどちらが真相なのか、ソ連でいうように「明確」なのかそれともルフェーブルのいうように「不確実」「曖昧」なのかといえば、ソ連のそれは空語をならべた作文でルフェーブルのいうのが正しいのである。

(2) ルフェーブルが芸術の形式を論じた一九四〇年代の終りに、ソ連の哲学辞典はこのように説明していたわけである。スターリン批判後の学者たちの発言は、いますこし現実的になっている。

 

『認識と言語の理論 第二部』 p.324 

 (3) 鑑賞者の認識が内容であるとするもの

 論文であれ小説であれ、いうなれば紙の上にペンで線を描いたり印刷インクで記号を記しただけのものである。ネオンサインも輝くガラス管以外のものではない。これらの特定のかたちを表現とよぶのであるから、表現形式の存在していることは疑いないが、それ以外のものは顕微鏡で調べてみても、日光にすかしてみても、試験管の中で化学的に分析してみても、何も存在していない。たしかにわれわれは、そこに内容が存在しているように思っているが、実はそこに何かがあるのではなくて、われわれがそこにあるかのように思っているだけなのではないか、時枝のことばを借りるならば、「主体的な作用を客体的に投影すること」にすぎないのではないか、という気がしてくる。形式と内容との不可分の統一を無視してはあやまりだぞ、と自分にいいきかせているマルクス主義者はともかく、素朴に自分の経験でものをいう人びとは、右の経験にもとづいてそこには形式があるだけだといいかねないのである。そして、内容といわれるものは、それを鑑賞する者の頭の中に成立する認識なのだと解釈する。

 一九三三年に、横光利一は蔵原理論に反対して、鑑賞者認識内容説を主張した。

 元来唯物論は、客観あつて主観が発動すると云ふ原則を持つてゐる。しかしながら、マルクス主義の文学理論は、形式が内容によつて決定せられると断定する。文学の形式とは文字の羅列である。文字の羅列とは、文字そのものが容積を持つた物体であるが故に、客観物の羅列である。客観があつて主観が発動するものであるならば、即ち、文字の形式は文学の主観を決定してゐる筈(はず)ではないか、主観とは客観からなる形式が読者に与へる幻想であることは前に述べた。

 そこで、蔵原惟人(これひと)氏、此(こ)の優秀なるマルクス主義者はマルクス主義の原則たる唯物論に、一大革命を与へたのだ。曰(いわ)く「主観が客観を決定する」と。

 これが、文学者としての経験から蔵原理論に疑いを持っていた徳永直(すなお)に影響を与え、徳永をして芸術の場合には内容ではなく形式が本質的であり優位であるといわしめるにいたったのである。このとき徳永は、唯物論とは究極において客観が主観を決定すると主張するので、どんな場合でも客観が主観を決定するなどと主張する横光のようなとらえかたは形而上学的であることや、木材を使って机や書棚や家などをつくる場合にもまず設計図を頭の中に描いてこれを現実化する点で、認識の側から能動的に働きかけ「主観が客観を決定する」面があることなどを、冷静に検討しようとはしなかったのである。

 横光のいう「客観からなる形式が読者に与へる幻想」は、個人の経験のちがいあるいは知的水準のちがいに規定されて、千差万別である。それゆえ彼は、一つの作品に無数の異なった内容が存在するのだということを、暗黙のうちに主張していることになる。これでは誤解とか誤読とかいうことも否定しなければならない。鑑賞者の受けとりかたが誤っているといいうるのは、一定の基準が客観的に存在していることを前提としてである。客観的な・固定した・内容が存在して、はじめてこれとくいちがった受けとりかたを誤っているといいうるのである。蔵原もこの点を指摘して鑑賞者認識内容説をしりぞけた。

 対象内容説も認識内容説もそして鑑賞者認識内容説も、仔細に検討してみれば右のように、隠然と公然とのちがいこそあれ、結局のところ表現は形式があるだけであってそこに内容が伴っていないのだと主張するものである。内容から切りはなされた形式の存在を主張するものである。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

『認識と言語の理論 第一部』1章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』2章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』3章(1)〜(5)

『認識と言語の理論 第二部』1章(1)〜(8)

『認識と言語の理論 第二部』2章(1)〜(6)

『認識と言語の理論 第二部』3章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第二部』4章(1)〜(9)

三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき

三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章

三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』 まえがき



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