言語学者が言語の内容について述べるときも、以上三者のいづれか、あるいはそれらの折衷に帰着するのであるが、言語表現の特殊性から規定されて、認識内容説と鑑賞者認識内容説とを折衷した主張がその多くを占めることとなった。山田孝雄(よしお)は認識内容説をとっている。
言語は人が思想を発表し、他に伝ふる方法として、その思想を声音(せいおん・こわね)にてあらはしたるものなり。されば、言語の内容は思想にして、言語の外相(がいそう)は声音なりといふを得(う)べく、思想も声音も言語にとりて必要欠くべからざる条件にして、思想を離れては言語なく、声音を外(ほか)にして言語なきこと勿論(もちろん)なれど、思想か声音かの一方のみにては言語といふことを得(え)ず。されば思想即(すなわ)ち言語にあらざると共に声音即ち言語にもあらざるなり。思想と声音との相待(あいま)ちて生じたるもの即ち言語にして、それらを分解して思想のみをとり、声音のみをとらば、これ既に言語そのものにはあらざるなり。(山田孝雄『日本文法概論』)
橋本進吉は聞き手の頭の中にも意味を認めることによって、折衷論の立場をとった。
話手(はなして)の伝へようとする所のものを、聞手(ききて)が正しく謬(あやま)らず理会(りかい)し得る為(ため)には、話手も聞手も同様に同じ音に対して同じ意味を結合させなければならないのである。……それでは、どうして話手も聞手も同じ音に同じ意味を結合させることが出来るかといふに、話手も聞手も、周囲の人びとから、これまで幾度もその音を聞き、且つそれにはいつも一定の意味が伴つてゐる事を経験して、その音の記憶と、その意味、即ちその音のさし示してゐる事物の記憶とが相伴(あいともな)つて心の中に残つてゐるからである。(橋本進吉『国語研究法』)
この音声と、音声によつて表はされる思想、即ち言語の意味(又は意義)との二つは、言語たる以上は必ずなくてはならないもの(橋本進吉『国語学概論』)
キゴーによってツータツされるイミを、とくに所記(しょき)といゝ、イミをツータツすべき物てき(ぶってき)手段そのものを、能記(のうき)とゆ~。ふつ~には後者をキゴーと称(とな)えているが、げんみつにわ、ショキとノーキとの連合物をキゴーと称すべきである。
ショキはたんなる観念とは別物である、観念のたばといわれる概念とも別物である。ショキはノーキにによって規定された概念である。純粋の観念や概念は、かならずしもセーヤクてきなものでわないに対し、ショキはかならずセーヤクてきなものである。すなわち、それは特定のキゴータイケーにおいて、一定しているのである。(小林英夫『言語学通論』)
ソシュールは早く名案を提供している。それは記号に能記と所記とを区別したことである。言語記号は音といふ能記と、意味といふ所記と、両面から考へるべきであるといふ。先に狭い意味での記号といつたのは、この用語法によると、能記といへば足るわけである。かくして言語は、記号たる以上、能記(音)と所記(思考内容)とが結合したものといふことになる。(石黒魯平『言語学提要』)
意味とは言語表現を理解した場合の心的状態の内容のことであつて、我々が常識的に意味と呼んでゐるものは要するにこれを指してゐると思はれる。(中島文雄『意味論』)
ソシュール的な考えかたは、結局において橋本の主張しているような折衷論へとすすんでいく。絵画や彫刻の場合に鑑賞者認識内容説をとると、アブストラクトの作品のような鑑賞者によって非常に大きくくいちがった解釈を下すものでも、それぞれのちがった解釈がすべて内容だということになるから、すぐおかしいと気がつくであろう。
それなのに、言語学者にないのはなぜであろうか。これは言語表現の理解が規範にささえられており、この面で表現の側と客観的なむすびつきが成立していることにひきずられたためと思われる。橋本は頭の中の規範それ自体を意味と解釈しているから、聞き手や読み手が話し手や書き手と共通の規範に従っているという事実を、どちらにも「同じ意味」があると説明する。実は話し手や書き手(「聞き手や読み手」のまちがい?――引用者)が音声や文字に接したときに、その内容の抽象的・部分的な面を規範に従って直ちに予想するわけであるが、つぎにこの予想を手びきにしてそれ以外の話し手や書き手の認識がどんなものかを推察していき、内容全体の理解に達するのである。
それゆえ、おたがいに規範に正しく従っていれば正しい内容の予想ができるにしても、そこから内容全体を推察していくときに千差万別(せんさばんべつ)になってしまい、話し手や書き手の認識とくいちがう可能性を持っている。規範に従って内容の抽象的・部分的な面を予想したところで、それ自体は言語の意味ではなく意味の予想であるから、これを「同じ意味」だというわけにはいかないし、またここで内容と予想とが一致さえすればそれで内容をすべて理解できたということにもならない。
時枝は橋本のような言語の意味のとらえかたを認めなかったし、また意味と内容を区別した。その点ではどの説とも一致しないし、ソシュール的折衷論とも一応異っている。時枝は言語の意味を「主体の意味作用そのもの」に、いわば機能的に解釈したのである。
言語によつて或(あ)る抽象的概念を表現しようとする時、その概念が言語の意味といはれるならば、具体的な或る事物を表現しようとする時、これら具体的事物も亦(また)当然言語の内容といはざるを得ないのである。表象や概念は言語の構成要素であるが事物それ自身は構成要素ではないという根拠は明かに示されてゐない。
言語の最も具体的な経験に即していへば、音声によつて喚起される処(ところ)のものは、心的表象、概念或(あるい)は具体的事物であつて、それは表現者の側からいつても、聴手(ききて)の側からいつても、言語の素材であるといふ点からいへば同一である。具体的な一個の「椅子」を指して、「椅子におかけなさい」といつた場合の椅子と、「椅子は家具である」といつた場合の椅子とは、一方が具体的事物であり、他方が概念であるといふ相異があつても、言語表現の素材であるといふことに相異はない。若(も)し具体的な椅子が言語の構成要素の外に置かれるならば、抽象的な概念である椅子も亦言語の外に置かれなければならない。私はこれらを言語表現の素材として、言語の存在条件の一(ひとつ)とは認めるが、これを言語の構成要素とは認めなかつた。……この様に考へて来るならば、言語の意味は、言語の外にある処のものであつて、言語の構成要素とは関係のないものと考へられるのである。若し意味といふものを、音声によつて喚起せられる内容的なものと考へる限り、それは言語研究の埒外(らちがい)である。しかしながら、意味はその様な内容的な素材的なものではなくして、素材に対する言語主体の把握の仕方であると私は考へる。
言語において意味を理解するといふことは、言語によつて喚起せられる事物や表象を受容することではなくして、主体の、事物や表象に対する把へ方(とらえかた)を理解することが、我々に事物や表象を喚起させることとなるのである。
言語に於ける意味といふことが、前項に述べた様に、言語主体の客体的素材に対する意味作用を意味するとすれば、従つてその中には、主体が事物を把握する仕方と、かくして把握された対象とを含んでゐることは明かである。言語の意味をこの様に解することは、私の根本的な言語の本質観に基(もとづ)くことである。(時枝誠記『国語学原論』)
時枝は規範による表現の媒介についてのソシュール的解釈を認めないのだが、そこから言語の意味も「素材的なもの」ではなく「把握の仕方」になった。これは橋本のように、規範を意味と解釈して聞き手や読み手の内容の抽象的・部分的な予想を意味だというのではなく、具体的な内容全体をとりあげる点で前進してはいるが、話し手や書き手の側に「把握の仕方」がありさらに聞き手や読み手の側にも「把握の仕方」があって、これらが言語の意味だと見るのであるから、本質的にはやはり認識内容説と鑑賞者認識内容説との折衷論にひきずられており、折衷論から抜け出していない。折衷論の一変種というべきものである。しかも「把握の仕方」そのものが意味であるならば、それは頭脳の中にあるわけであり、音声あるいは文字のかたちをとった現実的な「言語の外にある処のもの」だといわなければならないことになる。
素材が言語の外に在ると同様なことは、又他の例についてもいひ得られる。絵画に於いて、描かれる景色自体、静物自体は絵画の構成的要素ではなくして、絵画の本質は、かかる素材を抽出することになくてはならない。文学についても同様に、文学の表現する思想とか事件とかは、文学にとつては素材であつて要素とはいひ得ない。従つて文学作品を通して我々が単にその思想や事件を理解したに止(とど)まるならば、それは作品そのものを把握し鑑賞したことにはなり得ないのである。文学作品の把握或(あるい)は鑑賞は、作者が素材を如何(いか)に取扱ひ、如何に表現したか、即ち作者の素材に対する態度を観察することによつて、文学の対象的把握といふことが成立するのである。
この様に考へて来るならば、言語は宛(あたか)も思想を導く水道管のようなものであつて、形式のみあつて全く無内容のものと考へられるであらう。しかしそこにこそ言語過程説の成立の根拠があるのであり、言語の本質もこの様な形式自体にあると考へなくてはならない。(同上)
中野やルフェーブルの認識内容説が、口では何といおうと、暗黙のうちに内容のない形式の存在を認めているのだということは前述のとおりである。ルフェーブルも形式と内容との統一から出発したために、そこで身動きできなくなってしまったのである。時枝は別に論理的な前提を持たなかったから、身動きできなくなるようなことがなく、堂々と正直に内容のない形式だと述べているだけのちがいにすぎない。これに、おまえは形式と内容との不可分の統一を否定する形式主義者だと、レッテルをはるくらい容易なことはなかろう。かつて永田広志もそのようなやりかたをした。だが、それではおまえのいう内容とはいったい何か、どこにあるのかと問われれば、どう答えるかそれを前もって考えておく必要があろう。蔵原や中野やルフェーブルなどを持ち出したところで、そんな主張はすでに検討ずみだし、それらの主張にしても暗黙のうちに表現は形式だけで内容はないと主張しているではないか、と一蹴するにちがいないからである。
それでは、対象内容説や認識内容説はどこにあやまりがあったのか、そこから検討してみることにしよう。
現実にテーブルの上にあって画家のながめているリンゴにしても、あるいは作者の頭の中に空想の産物として存在している白雪姫の手にしたリンゴにしても、それらは現実の実体あるいは観念的な実体である。対象内容説と認識内容説とはかたちこそちがうが、実体そのものを内容だととらえている点では論理的に共通している。
時枝はここに疑問を持った。「一般に言語は意味を持った音声だといはれてゐる。しかしながら、それは脊椎骨を持った動物と同じ様な意味に於いては、我々は何処(どこ)にも意味を持った音声といふものを観察することが出来ない。」(強調は原文)脊椎骨は動物の内部に存在する一つの実体である。言語に意味があるといってもそれは実体ではない。実体的なものはどこにも見当たらないではないか、と時枝は意味実体説を排している。この点時枝は正しかったのだが、彼の論理的な弱さがここから「把握の仕方」だという結論へと走ってしまう結果になった。実体から機能へと変るにとどまったのである(1)。
表現における内容はいったいどこに存在するのか、それからまずつきとめてみよう。探偵小説に登場する探偵も、そして読者も、犯人はいったいどこに存在するのかを知るために、消去法と呼ばれる方法を採用することが多い。犯罪をとりまくいろいろな人びとの中から犯行不可能な者をつぎからつぎへと消し去っていけば、最後に残った者は犯罪など犯しそうもないどんなに意外な人物であろうと、それが犯人でなければならないことになる。
この消去法をここでも使って、内容の存在していない場所をつぎからつぎへと消去していけば、最後に残った場所はどんなに意外に思われてもそこに内容が存在していなければならないことになる。すでに対象内容説も認識内容説も鑑賞者認識内容説もみなあやまりだとわかっているから、内容は対象にも作者の認識にも鑑賞者の認識にも存在していないわけである。
すると残ったところはただ一つ作品である。さらに、形式と内容とが不可分の統一だという考えを堅持して、ここから内容の存在をつきとめるなら、形式のある場所に内容もかならず存在しているはずで(2)、形式が消滅するときにはそれといっしょにかならず内容も消滅すると考えなければならない。表現形式たとえばリンゴのスケッチとして紙に描かれた鉛筆の線といっしょに内容もまた存在していることになり、鉛筆の線を消しゴムで消すときに内容もまた消滅すると考えなければならない。ここでも内容は作品に存在するという結論が出てくるのである。
この鉛筆の線を顕微鏡で見ても、試験管で分析しても、それ以外のものは何ら発見できないが、それにもかかわらず論理的にはここ以外に内容は存在し得ないのであるから、あくまでもここにしがみつかなければならない。目に見え手でつかめるものだけが存在ではないから、目に見えず手でつかめないものが存在しているのではないかと、疑ってさしつかえないのである。
(1) それゆえ、時枝も自分の学説が「機能主義的言語理論」であることを認めている。
(2) マルクス主義がこのような論理的な前提を示している以上、マルクス主義の立場で内容論を展開しようとする人びとはこの前提を堅持しながら対象ととりくむべきであった。だがルフェーブルのように身動きできなくなって苦しむほうが例外で、大多数はヘーゲルやベリンスキイに安易にもたれかかる道をえらんだのである。