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2018年10月29日(月)| 言語>表現論 |  
『認識と言語の理論 第二部』1章(5) 言語学者の内容論

『認識と言語の理論 第二部』1章(1) 表現――精神の物質的な摸造
『認識と言語の理論 第二部』1章(2) 形式と内容との統一
『認識と言語の理論 第二部』1章(3) ベリンスキイ=蔵原理論
『認識と言語の理論 第二部』1章(4) 対象内容説・認識内容説・鑑賞者認識内容説
『認識と言語の理論 第二部』1章(5) 言語学者の内容論
『認識と言語の理論 第二部』1章(6) 価値論と内容論の共通点
『認識と言語の理論 第二部』1章(7) 吉本と中井の内容論
『認識と言語の理論 第二部』1章(8) 記号論理学・論理実証主義・意味論

『認識と言語の理論 第二部』1章(1)~(8) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第一章 認識から表現へ (5) 言語学者の内容論

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.326 

 言語学者が言語の内容について述べるときも、以上三者のいづれか、あるいはそれらの折衷に帰着するのであるが、言語表現の特殊性から規定されて、認識内容説と鑑賞者認識内容説とを折衷した主張がその多くを占めることとなった。山田孝雄(よしお)は認識内容説をとっている。

 言語は人が思想を発表し、他に伝ふる方法として、その思想を声音(せいおん・こわね)にてあらはしたるものなり。されば、言語の内容は思想にして、言語の外相(がいそう)は声音なりといふを得(う)べく、思想も声音も言語にとりて必要欠くべからざる条件にして、思想を離れては言語なく、声音を外(ほか)にして言語なきこと勿論(もちろん)なれど、思想か声音かの一方のみにては言語といふことを得(え)ず。されば思想即(すなわ)ち言語にあらざると共に声音即ち言語にもあらざるなり。思想と声音との相待(あいま)ちて生じたるもの即ち言語にして、それらを分解して思想のみをとり、声音のみをとらば、これ既に言語そのものにはあらざるなり。(山田孝雄『日本文法概論』)

 橋本進吉は聞き手の頭の中にも意味を認めることによって、折衷論の立場をとった。

 話手(はなして)の伝へようとする所のものを、聞手(ききて)が正しく謬(あやま)らず理会(りかい)し得る為(ため)には、話手も聞手も同様に同じ音に対して同じ意味を結合させなければならないのである。……それでは、どうして話手も聞手も同じ音に同じ意味を結合させることが出来るかといふに、話手も聞手も、周囲の人びとから、これまで幾度もその音を聞き、且つそれにはいつも一定の意味が伴つてゐる事を経験して、その音の記憶と、その意味、即ちその音のさし示してゐる事物の記憶とが相伴(あいともな)つて心の中に残つてゐるからである。(橋本進吉『国語研究法』)

 この音声と、音声によつて表はされる思想、即ち言語の意味(又は意義)との二つは、言語たる以上は必ずなくてはならないもの(橋本進吉『国語学概論』)

 キゴーによってツータツされるイミを、とくに所記(しょき)といゝ、イミをツータツすべき物てき(ぶってき)手段そのものを、能記(のうき)とゆ~。ふつ~には後者をキゴーと称(とな)えているが、げんみつにわ、ショキとノーキとの連合物をキゴーと称すべきである。

 ショキはたんなる観念とは別物である、観念のたばといわれる概念とも別物である。ショキはノーキにによって規定された概念である。純粋の観念や概念は、かならずしもセーヤクてきなものでわないに対し、ショキはかならずセーヤクてきなものである。すなわち、それは特定のキゴータイケーにおいて、一定しているのである。(小林英夫『言語学通論』)

 ソシュールは早く名案を提供している。それは記号に能記と所記とを区別したことである。言語記号は音といふ能記と、意味といふ所記と、両面から考へるべきであるといふ。先に狭い意味での記号といつたのは、この用語法によると、能記といへば足るわけである。かくして言語は、記号たる以上、能記(音)と所記(思考内容)とが結合したものといふことになる。(石黒魯平『言語学提要』)

 意味とは言語表現を理解した場合の心的状態の内容のことであつて、我々が常識的に意味と呼んでゐるものは要するにこれを指してゐると思はれる。(中島文雄『意味論』)

 ソシュール的な考えかたは、結局において橋本の主張しているような折衷論へとすすんでいく。絵画や彫刻の場合に鑑賞者認識内容説をとると、アブストラクトの作品のような鑑賞者によって非常に大きくくいちがった解釈を下すものでも、それぞれのちがった解釈がすべて内容だということになるから、すぐおかしいと気がつくであろう。

それなのに、言語学者にないのはなぜであろうか。これは言語表現の理解が規範にささえられており、この面で表現の側と客観的なむすびつきが成立していることにひきずられたためと思われる。橋本は頭の中の規範それ自体を意味と解釈しているから、聞き手や読み手が話し手や書き手と共通の規範に従っているという事実を、どちらにも「同じ意味」があると説明する。実は話し手や書き手(「聞き手や読み手」のまちがい?――引用者)が音声や文字に接したときに、その内容の抽象的・部分的な面を規範に従って直ちに予想するわけであるが、つぎにこの予想を手びきにしてそれ以外の話し手や書き手の認識がどんなものかを推察していき、内容全体の理解に達するのである。

それゆえ、おたがいに規範に正しく従っていれば正しい内容の予想ができるにしても、そこから内容全体を推察していくときに千差万別(せんさばんべつ)になってしまい、話し手や書き手の認識とくいちがう可能性を持っている。規範に従って内容の抽象的・部分的な面を予想したところで、それ自体は言語の意味ではなく意味の予想であるから、これを「同じ意味」だというわけにはいかないし、またここで内容と予想とが一致さえすればそれで内容をすべて理解できたということにもならない。

 時枝は橋本のような言語の意味のとらえかたを認めなかったし、また意味と内容を区別した。その点ではどの説とも一致しないし、ソシュール的折衷論とも一応異っている。時枝は言語の意味を「主体の意味作用そのもの」に、いわば機能的に解釈したのである。

 言語によつて或(あ)る抽象的概念を表現しようとする時、その概念が言語の意味といはれるならば、具体的な或る事物を表現しようとする時、これら具体的事物も亦(また)当然言語の内容といはざるを得ないのである。表象や概念は言語の構成要素であるが事物それ自身は構成要素ではないという根拠は明かに示されてゐない。

 言語の最も具体的な経験に即していへば、音声によつて喚起される処(ところ)のものは、心的表象、概念或(あるい)は具体的事物であつて、それは表現者の側からいつても、聴手(ききて)の側からいつても、言語の素材であるといふ点からいへば同一である。具体的な一個の「椅子」を指して、「椅子におかけなさい」といつた場合の椅子と、「椅子は家具である」といつた場合の椅子とは、一方が具体的事物であり、他方が概念であるといふ相異があつても、言語表現の素材であるといふことに相異はない。若(も)し具体的な椅子が言語の構成要素の外に置かれるならば、抽象的な概念である椅子も亦言語の外に置かれなければならない。私はこれらを言語表現の素材として、言語の存在条件の一(ひとつ)とは認めるが、これを言語の構成要素とは認めなかつた。……この様に考へて来るならば、言語の意味は、言語の外にある処のものであつて、言語の構成要素とは関係のないものと考へられるのである。若し意味といふものを、音声によつて喚起せられる内容的なものと考へる限り、それは言語研究の埒外(らちがい)である。しかしながら、意味はその様な内容的な素材的なものではなくして、素材に対する言語主体の把握の仕方であると私は考へる。

 言語において意味を理解するといふことは、言語によつて喚起せられる事物や表象を受容することではなくして、主体の、事物や表象に対する把へ方(とらえかた)を理解することが、我々に事物や表象を喚起させることとなるのである。

言語に於ける意味といふことが、前項に述べた様に、言語主体の客体的素材に対する意味作用を意味するとすれば、従つてその中には、主体が事物を把握する仕方と、かくして把握された対象とを含んでゐることは明かである。言語の意味をこの様に解することは、私の根本的な言語の本質観に基(もとづ)くことである。(時枝誠記『国語学原論』)

 時枝は規範による表現の媒介についてのソシュール的解釈を認めないのだが、そこから言語の意味も「素材的なもの」ではなく「把握の仕方」になった。これは橋本のように、規範を意味と解釈して聞き手や読み手の内容の抽象的・部分的な予想を意味だというのではなく、具体的な内容全体をとりあげる点で前進してはいるが、話し手や書き手の側に「把握の仕方」がありさらに聞き手や読み手の側にも「把握の仕方」があって、これらが言語の意味だと見るのであるから、本質的にはやはり認識内容説と鑑賞者認識内容説との折衷論にひきずられており、折衷論から抜け出していない。折衷論の一変種というべきものである。しかも「把握の仕方」そのものが意味であるならば、それは頭脳の中にあるわけであり、音声あるいは文字のかたちをとった現実的な「言語の外にある処のもの」だといわなければならないことになる。

 素材が言語の外に在ると同様なことは、又他の例についてもいひ得られる。絵画に於いて、描かれる景色自体、静物自体は絵画の構成的要素ではなくして、絵画の本質は、かかる素材を抽出することになくてはならない。文学についても同様に、文学の表現する思想とか事件とかは、文学にとつては素材であつて要素とはいひ得ない。従つて文学作品を通して我々が単にその思想や事件を理解したに止(とど)まるならば、それは作品そのものを把握し鑑賞したことにはなり得ないのである。文学作品の把握或(あるい)は鑑賞は、作者が素材を如何(いか)に取扱ひ、如何に表現したか、即ち作者の素材に対する態度を観察することによつて、文学の対象的把握といふことが成立するのである。

 この様に考へて来るならば、言語は宛(あたか)も思想を導く水道管のようなものであつて、形式のみあつて全く無内容のものと考へられるであらう。しかしそこにこそ言語過程説の成立の根拠があるのであり、言語の本質もこの様な形式自体にあると考へなくてはならない。(同上)

 中野やルフェーブルの認識内容説が、口では何といおうと、暗黙のうちに内容のない形式の存在を認めているのだということは前述のとおりである。ルフェーブルも形式と内容との統一から出発したために、そこで身動きできなくなってしまったのである。時枝は別に論理的な前提を持たなかったから、身動きできなくなるようなことがなく、堂々と正直に内容のない形式だと述べているだけのちがいにすぎない。これに、おまえは形式と内容との不可分の統一を否定する形式主義者だと、レッテルをはるくらい容易なことはなかろう。かつて永田広志もそのようなやりかたをした。だが、それではおまえのいう内容とはいったい何か、どこにあるのかと問われれば、どう答えるかそれを前もって考えておく必要があろう。蔵原や中野やルフェーブルなどを持ち出したところで、そんな主張はすでに検討ずみだし、それらの主張にしても暗黙のうちに表現は形式だけで内容はないと主張しているではないか、と一蹴するにちがいないからである。

 それでは、対象内容説や認識内容説はどこにあやまりがあったのか、そこから検討してみることにしよう。

現実にテーブルの上にあって画家のながめているリンゴにしても、あるいは作者の頭の中に空想の産物として存在している白雪姫の手にしたリンゴにしても、それらは現実の実体あるいは観念的な実体である。対象内容説と認識内容説とはかたちこそちがうが、実体そのものを内容だととらえている点では論理的に共通している。

時枝はここに疑問を持った。「一般に言語は意味を持った音声だといはれてゐる。しかしながら、それは脊椎骨を持った動物と同じ様な意味に於いては、我々は何処(どこ)にも意味を持った音声といふものを観察することが出来ない。」(強調は原文)脊椎骨は動物の内部に存在する一つの実体である。言語に意味があるといってもそれは実体ではない。実体的なものはどこにも見当たらないではないか、と時枝は意味実体説を排している。この点時枝は正しかったのだが、彼の論理的な弱さがここから「把握の仕方」だという結論へと走ってしまう結果になった。実体から機能へと変るにとどまったのである(1)

 表現における内容はいったいどこに存在するのか、それからまずつきとめてみよう。探偵小説に登場する探偵も、そして読者も、犯人はいったいどこに存在するのかを知るために、消去法と呼ばれる方法を採用することが多い。犯罪をとりまくいろいろな人びとの中から犯行不可能な者をつぎからつぎへと消し去っていけば、最後に残った者は犯罪など犯しそうもないどんなに意外な人物であろうと、それが犯人でなければならないことになる。

この消去法をここでも使って、内容の存在していない場所をつぎからつぎへと消去していけば、最後に残った場所はどんなに意外に思われてもそこに内容が存在していなければならないことになる。すでに対象内容説も認識内容説も鑑賞者認識内容説もみなあやまりだとわかっているから、内容は対象にも作者の認識にも鑑賞者の認識にも存在していないわけである。

すると残ったところはただ一つ作品である。さらに、形式と内容とが不可分の統一だという考えを堅持して、ここから内容の存在をつきとめるなら、形式のある場所に内容もかならず存在しているはずで(2)、形式が消滅するときにはそれといっしょにかならず内容も消滅すると考えなければならない。表現形式たとえばリンゴのスケッチとして紙に描かれた鉛筆の線といっしょに内容もまた存在していることになり、鉛筆の線を消しゴムで消すときに内容もまた消滅すると考えなければならない。ここでも内容は作品に存在するという結論が出てくるのである。

この鉛筆の線を顕微鏡で見ても、試験管で分析しても、それ以外のものは何ら発見できないが、それにもかかわらず論理的にはここ以外に内容は存在し得ないのであるから、あくまでもここにしがみつかなければならない。目に見え手でつかめるものだけが存在ではないから、目に見えず手でつかめないものが存在しているのではないかと、疑ってさしつかえないのである。

(1) それゆえ、時枝も自分の学説が「機能主義的言語理論」であることを認めている。

(2) マルクス主義がこのような論理的な前提を示している以上、マルクス主義の立場で内容論を展開しようとする人びとはこの前提を堅持しながら対象ととりくむべきであった。だがルフェーブルのように身動きできなくなって苦しむほうが例外で、大多数はヘーゲルやベリンスキイに安易にもたれかかる道をえらんだのである。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(70歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説を学びながらことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことをマイペースでやっています。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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