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『認識と言語の理論 第二部』1章(6) 価値論と内容論の共通点 [PC版ページへ]
2018/10/30 12:18

『認識と言語の理論 第二部』1章(1) 表現――精神の物質的な摸造
『認識と言語の理論 第二部』1章(2) 形式と内容との統一
『認識と言語の理論 第二部』1章(3) ベリンスキイ=蔵原理論
『認識と言語の理論 第二部』1章(4) 対象内容説・認識内容説・鑑賞者認識内容説
『認識と言語の理論 第二部』1章(5) 言語学者の内容論
『認識と言語の理論 第二部』1章(6) 価値論と内容論の共通点
『認識と言語の理論 第二部』1章(7) 吉本と中井の内容論
『認識と言語の理論 第二部』1章(8) 記号論理学・論理実証主義・意味論

『認識と言語の理論 第二部』1章(1)〜(8) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第一章 認識から表現へ (6) 価値論と内容論の共通点


〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.333 

 貨幣や商品が物質的な交通において存在しているのに対し、言語は精神的な交通において存在している。とすれば、貨幣が商品を交換するための「道具」であるのに対し、言語は思想を交換するための「道具」であるところが似ているのではないかくらいは、別に学者でなくても気がつくことである。プラグマティストのデューイも、貨幣と言語とを対比させ、貨幣が生産や消費の機構を一変させるように、言語も思惟や行動の機構を一変させると解釈した。文学に首を突っ込んでいる学者も、こんなことを述べていた。

 あまねく使用されてゐるもので、言語ほど性質の不明なものはない。言語の問題は、学問上の問題として、その広さも、深さも、わたしなどにはわからない。時として、われわれは貨幣と言語とを類似点の多いものとして考へて見ることがある。しかし、次の瞬間にはそのような対比をしたことが厭(いや)になり、言語問題の深さに戦慄(せんりつ)する。(大熊信行『現代文章の問題』(1)

 大熊がこのように「戦慄」しただけで終ったということは、とりもなおさず彼が経済学者でありながら商品の論理構造を正しく把握していないことの告白である。それは、のちに商品と言語との論理構造の共通点を見ることによって、さらに明かになろう。一方、言語学者としては、ソシュールがそれより二〇年以上も前に経済学と言語学との共通点をとりあげている。ソシュールは言語学が静態と歴史的発展と二つの面で成立するといい、経済学もこれと似た二つが成立すると述べている。

 経済学と経済史とは、同一科学の内部において、明確に分れた二学科を構成する。近頃現われたこれらの事柄に関する書物は、この区別を強調している。このような行きかたをするのは、その理由を詳(つまびら)かにせずとも、ある内部的必然に従っているのである。さてわれわれをして言語学をそれぞれ固有の原理を有する二部門に分たざるをえなくするところのものは、これによく似た必然である。というのは、経済におけると同様、ここでは価値の概念を目の前にするからである。いづれの科学にあっても、秩序を異にする物の間の対当の体系が取扱われる。かれにあっては労働と賃金、これにあっては所記と能記。(ソシュール『言語学原論』(2)

 これはこじつけであって、価値の科学だから二部門が成立するわけではない。生物科学においても解剖学と発生学とが区別されるのであって、有機的な構造を持って発展が段階を示すものは二部門が成立するのである。ソシュールは貨幣が商品あるいは他の貨幣と交換されることを指摘しながら、「同様にして、語もまた相似ざる物、即ち観念と交換されることができ、その上、何か同じ性質の物、即ち他の語と比較されることができる。」とのべており、小林英夫も「それは外面的な類似というよりも、共に価値体系を扱う学であるといふ内面的な一致と称すべきであらう。この意味において我々言語学者の頼るべき最も手近な社会科学は経済学に外ならないと私は思ふのである。(3)」とそれを支持している。時枝のソシュール批判はこの点にも触れているが、それははしなくも時枝自身の経済学に対する理解が不十分であったという弱点を示すこととなった。時枝が意味論を正しく展開できなかった理由は、この価値論からも読みとることができる。

 ソシュール学に於ける価値の概念は、経済学にいふ処の交換価値の概念の言語への適用と考へられるのである。例へば、十円が何弗(ドル)と交換され、米一石が何円に相当するかによつて、価値が決定されると同様に考へて、語と語との対立関係を見ようとするのである。成程(なるほど)ここには、円と弗、米と円との対立関係があると同時に、価値が客観的に存在してゐる様に考へられるかも知れない。事実それ故にこの考へ方が言語に適用されたのであらうが、右の経済的交換価値に於いては、客観的な貨幣或(あるい)は物質それ自体が価値を持つてゐると認めるべきでなく、必ずこれらの価値を決定すべき経済主体を考へずしては説明することができないものである。」(時枝誠記『国語学原論』)

 ご婦人の愛用しているナイロンのストッキングには、正札(しょうふだ)がついていて、百円札数枚と同じ価値があるものとして交換されている。それゆえこれらには共通した何かがふくまれているのであろうと、日の光にかざして見ても、顕微鏡でしらべてみても、何も見えはしない。試験管の中で分析してみても同じことである。それゆえ経済学者の中にも、これらが価値を持っていると思うのは「主体的な作用を客体的に投影する」ことなのだ、主観として価値を認めたのを客観的に貨幣や商品それ自体が価値を持っているかのように扱うだけなのだと考え、商品に価値が内在するというスミスやリカードの価値論に反対する人びとが出現した。いうまでもなく、効用価値学派の出現である。

 だが価値を純粋に主観的なものと考えたのでは、現実の商品のありかたを説明するのにいろいろ困難が起るから、価値を客観的なものとする古典学派の考えかたを適当に折衷させようとする傾向が生れないわけにはいかなかった。ソシュールが関心を持っていた経済学もおそらくこのような立場をとる学者の著作であったろうと思われる。時枝はその点で、純粋に自己の論理をつらぬこうとする態度をとったために、素朴な主観的価値説の立場に移行したということができよう。経済学には主観的価値説だけでなく客観的価値説があり、しかもその中でも価値についての説明はいろいろあることを、時枝は仔細に検討すべきであった(4)

もし主観的価値説があやまりで、貨幣や商品は直接に目で見たり手でつかんだりすることができないような価値を持っているのだという考えかたが正しいとすれば、それは表現論ないし言語論に対しても重要な示唆を与えるものといわなければならない。言語の音声や文字それ自体が、直接に目で見たり手でつかんだりすることができないような意味を持っていると考えたとしても、あながち不合理だとはいえなくなるのである。実は、商品と言語との論理構造の共通点は、すでに一八六七年に客観的価値説の立場で正しく指摘されているのであって、大熊も小林もそれを知らなかっただけである(5)

(1) この評論は『中央公論』一九四〇年五月号に掲載されている。

(2) この本は一九一六年に公刊されている。当時の経済学の価値論と関連づけて読むべきものである。

(3) 小林英夫『経済学と言語学――ソシュール学論考その一』(『思想の科学』一九四八年一月号)筆者はこれに附記して「一九四二年七月七日にに脱稿」したことを述べ、かつ「この方面の研究は、言語学者のこれまで全くかえりみることのなかった処女地」であるという。

(4) 時枝ばかりでなく、(3)の小林の論文でもこの検討はまったくなされていない。

(5) 大熊は一九二〇年代から『資本論」について論じているが、彼のとりあげた「マルクスのロビンソン物語」と同じ章にこの言語論が述べられているのである。

 

『認識と言語の理論 第二部』 p. 

 人びとが彼らの労働諸生産物を諸価値として相互に連関させるのは、これらの物象が彼らにとって同等な種類の・人間的な・労働の物象的外皮として意義を持つからではない。その逆である。彼らは、彼らの相異なる種類の諸生産物を交換において諸価値として相互に等置することにより、彼らの相異なる諸労働を人間的労働として相互に等置する。彼らはそれを意識していないが、しかし彼らはかく行うのである。だから、価値なるものの額(ひたい)には、それがなんであるかということは書かれていない。価値はむしろ、どの労働生産物をも社会的象形文字(しょうけいもじ)に転化する。のちに至って人びとは、この象形文字の意味を解こうとし、彼ら自身の社会的産物――けだし、価値としての諸使用対象の規定は言語と同じように彼らの社会的産物である――の秘密を探ろうとする。(マルクス『資本論』)

 等価交換も言語表現も、人間の社会的生活において自然成長的に出現し発展したものだとマルクスは指摘しながら、価値の等置が抽象的労働の等置であること、労働生産物における価値のありかたは言語表現における意味のありかたと論理的に同一であることを主張している。音声や文字が意味を持っているとわれわれは思っているが、そこにはそれが何であるかということは示されていない。経済学者が価値とは何かの秘密を探ろうとするのと同じように、言語学者は意味とは何かの秘密を探ろうとする。

 労働生産物には価値が内在するのであって、労働が価値をつくりだしたのだと見る学説を労働価値説とよんでいるが、この説をとったリカードはのりこえることのできない壁にぶつかって、その学派は崩壊してしまった。リカードは労働それ自体が価値であると考えたのだが、そうすると等価交換の原則を賃金の場合にもつらぬいて、貨幣と労働とを同じ価値で交換する場合、原理的に剰余価値(じょうよかち)とか搾取(さくしゅ)とかいうことは成立しなくなる。これは現実の経済のありかたと大きくくいちがってくるわけである。

マルクスはリカードののりこえられなかった壁を、一撃の下(もと)に打ち破った。労働それ自体は価値ではない、労働に価値はない、価値を持つのは労働力であるというのである。等価交換されるのは労働力であり、労働はこの労働力を使用することであるから労働力と関係はあるが区別しなければならない。労働力を賃金で買うことは同じでも、それをどれだけ労働させるかで生産される商品の価値は異ってくる。労働力以上の価値を生産することもできる。それゆえ、等価交換しながら剰余価値が生れ搾取が可能なのは、労働力と労働との矛盾、その相対的な独立に基礎づけられているのである。労働それ自体は価値ではなく、価値を形成する実体として価値の創造に関係するのだと、マルクスは説明したのであった。労働は実態概念で、価値は関係概念でとらえられているのである(青色づけは引用者)

 われわれが手紙を記すためにタイプライターをたたいても、猫が足をのばしてタイプライターをたたいても、紙の上には同じような文字が記される。われわれがたたいたのは言語表現でありそこに意味がふくまれているが、猫がたたいたのも同じだろうか。鑑賞者認識内容説からすれば、そこにもやはり意味を感じるから意味があるといわないわけにはいかないが、山田孝雄は思想と離れて生じたるものであるから言語ではないというかも知れない。それは表現と似てはいても、何ら観念的な世界との関係が存在しないのであって、観念的な世界が表に現れたものではないから表現とよぶことはできないのである。

時枝が言語には「主体が事物を把握する仕方と、かくして把握された対象とを含んでいる」というとき、これは音声あるいは文字に関係としてむすびついているかたちでふくんでいるものと見なければならない。それゆえ、対象内容説にしても認識内容説にしても、内容を関係概念でとらえようとはせず、対象あるいは認識それ自体を、すなわち実体的なものを内容だと思いこんでいたところにそもそもふみはずしがあったことになる。認識内容説をとった中野やルフェーブルは、とりもなおさずリカードと同じ論理的なふみはずしをしてしまい、リカードのぶつかった壁と論理的に同じものにぶつかっていたことになる。労働それ自体は価値ではなく、価値を形成する実体であるのと同じように、認識それ自体は内容ではなく、内容を形成する実体なのである

 内容とか意味とかいわれるものは、音声や文字のかたちにむすびついている関係それ自体として存在しているからこそ、それだけを見ようとしても見えないしそれだけをつかもうとしてもつかめないわけである。時枝が具体的事物も思想も概念も、それ自体はすべて言語の意味ではないといい、実体的なものを意味とよぶことに反対したのは正当であった。けれどもここから、関係概念としてとらえるところへすすまずに機能概念へ行ってしまい、「文字が意味を持っていると考へるのは、主体的な作用を客体的に投影すること」だと、客観的に意味が存在することを否定したのは、リカード学派の欠陥をついた経済学者がそれを正しく訂正できずに効用価値説へふみはずしたのと、論理的に同じことをくりかえしたものである。

 人間の認識も現実世界の反映で、像であるから、認識について形式とか内容とかいう場合にも媒介されたものとしてとらえなければならない。認識内容は認識の対象それ自体ではなく、それから媒介された関係をさすのである。認識が真理とよばれるのもその内容においてであり、対象から媒介された関係においてである。これが現実の世界の事物と正しくむすびついていなければ、つまり現実に存在しない空想的な関係に変えられてしまえば、その認識は真理ではなく誤謬に変ってしまったわけである(青色づけは引用者)。認識内容を対象それ自体ではなく媒介関係と理解して、はじめて真理から誤謬への内容の転化という問題を正しく理解できるのであるが、ヘーゲルに反映論がないために真理から誤謬への転化を正しく説明することができなかった。

われわれは経験的には絵画なり小説なり論文なりの「内容をつかむ」ために、それらにむすびついている関係を逆にたどって、作者の頭の中の認識へ、対象へと、その背後にあったはずの関係した存在をたぐっていく。つまり表現は関係を逆にたどっていくための手がかりを形式として与えているのであって、この手ががりにもとづいて作者が表現したときの観念的な世界を自分の頭の中に近似的に再現しようと努力するわけである。

けれども、認識と表現との間には矛盾がある。リンゴを鉛筆でスケッチした場合には、作者はリンゴの色をとらえているにもかかわらず、表現にはあらわれない。「リンゴ」と文字で記す場合には、その具体的なかたちの認識さえも示されない。だがわれわれはこれらの表現を逆にたどりながら、作者が認識したにもかかわらず示さなかったであろう部分まで頭の中でつけ加え、作者の認識にできるだけ近いものにしようと努力する。形式につながっている客観的な関係は目に見えず手につかめないにしても、与えられた表現を鑑賞したり理解したりするときにはいつでもその関係をたどっていくためには、素朴な人びとはそこに形式以外の「何か」が存在しているのだと経験から直観的に正しい答を出してくる。それを内容とか意味とかよんでいる。

ところが、さてその「何か」とはいったいどんなものかと、あらためて見なおすと、目に見え手でつかめるのは形式でしかない。それで、とにかくこの表現の「中に」あるはずだからと、関係であるとは思わずにその関係につながっている実体を、対象や作者の認識を、内容だと考えていくわけである。

 表現における内容は関係なのだと理解すれば、複製芸術の内容という問題も簡単に解決できる。名画をカラーフィルムで撮影して何百万と複製したり、原稿を活字で組んで何千万と複製したり、あるいは日本語の小説を英語に翻訳して複製したりしても、それらがすべて原作と同じ内容を持つものとして扱われるのは、複製が形式の複製であることによって、原作の形式が持っている関係もまたそこに延長されることになるからである。翻訳の場合には、日本語の規範と英語の規範とが、同じ対象につながるものとして関係づけられているから、この関係を媒介として、日本語で表現された小説を英語で複製しても、日本語の小説の内容が英語の翻訳に延長されていくことになる。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

『認識と言語の理論 第一部』1章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』2章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』3章(1)〜(5)

『認識と言語の理論 第二部』1章(1)〜(8)

『認識と言語の理論 第二部』2章(1)〜(6)

『認識と言語の理論 第二部』3章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第二部』4章(1)〜(9)

三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき

三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章

三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』 まえがき



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