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2018年10月31日(水)| 言語>表現論 |  
『認識と言語の理論 第二部』1章(7) 吉本と中井の内容論

『認識と言語の理論 第二部』1章(1) 表現――精神の物質的な摸造
『認識と言語の理論 第二部』1章(2) 形式と内容との統一
『認識と言語の理論 第二部』1章(3) ベリンスキイ=蔵原理論
『認識と言語の理論 第二部』1章(4) 対象内容説・認識内容説・鑑賞者認識内容説
『認識と言語の理論 第二部』1章(5) 言語学者の内容論
『認識と言語の理論 第二部』1章(6) 価値論と内容論の共通点
『認識と言語の理論 第二部』1章(7) 吉本と中井の内容論
『認識と言語の理論 第二部』1章(8) 記号論理学・論理実証主義・意味論

『認識と言語の理論 第二部』1章(1)~(8) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第一章 認識から表現へ (7) 吉本と中井の内容論

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.340 

 主観と客観とは、対立するとともに切りはなすことのできない概念である。けれどもこれは主観の成立によってはじめて客観とよばれる実体が成立したことを意味するわけではない。現実の世界それ自体は、主観と無関係に実在しているのだが、主観の成立によってそれとの関係として客観という規定を受けとるのである(1)。現実の世界それ自体が主観との関係において客観とよばれるから、これを客観的実在と理解するのである。主観と客観とは不可分関係にあると同時に、現実の世界それ自体は主観から独立して存在しているという、この矛盾を無視してしまって、不可分関係を実体としての不可分に延長するところに観念論のおとし穴があるということができる。

 対象内容説や認識内容説では、内容を実体としてとらえているのであるから、内容が形式の成立以前にすでに存在していることになる。形式に優先してまず内容が成立したことになる。内容を関係概念で正しくとらえれば、表現形式を創造することすなわち声を出したり文字を描いたりすることとと同時にそこに作者の認識との関係も創造されるわけで、形式の成立は同時に内容の成立だということになる。

むしろタイプライターによる印字などの場合は、そこに活字の形式が前もって存在しているだけに、内容以前にまず形式が成立しているかのような錯覚さえ起しかねない。一方では形式以前に内容が存在しているかに思われるが、他方では内容以前に形式が存在しているかに見えるとあっては、理論家が頭をかかえるのも無理はないのである。形式と内容は同時に成立するし、また同時に消滅する。リンゴのスケッチを消しゴムで消したり、彫刻のかたちをハンマーで砕いたり、印刷された文章を墨で塗りつぶしたりして、そこに表現として創造されている物質的なかたちを消滅させるなら、そのかたちにむすびついていた関係も同時に消滅してしまう。

形式と内容とどちらが先行し優先するのかと考えるのは無意味であるが、形式と内容とどちらが決定的な役割を演じ優位にあるのかと考えるのは無意味でなく、重要なことである。認識においても、内容のいかんは真理か誤謬かを規定するだけに、形式のありかたにくらべて決定的な役割を演じるといわなければならない。

認識の場合に、対象が消滅してもそれとの関係は内容としてむすびついているのだが、表現の場合も、認識が消滅してもそれとの関係は内容とむすびついている。音声や文字はきわめて単純で、容易に創造できるとしても、そこに直接むすびついている関係はその背後に存在した複雑豊富な認識をふくみつつ否定したものであって、背後の創造の努力を排除したものではない。作者の創造について、形式の面での創造と内容の面での創造とそのいづれかが重要な役割を演じるかと考えるなら、いうまでもなく観念的な世界の創造すなわち内容の面での創造が重要な役割を演じるのである。われわれはその意味で、内容が優位にあり決定的な役割を演じるということができるのである。

 吉本隆明の形式と内容についての見解は、他の文学者と異っている。

 文学の内容と形式は、それ自体としてきわめて単純に規定される。文学(作品)を言語の自己表出の展開(ひろがり)としてみたときそれを形式といい、言語の自己表出の指示的展開としてみるときそれを内容というのである。もとより、内容と形式とが別ものでありうるはずがない。あえて文学の内容と形式という区別をもちいるのは、スコラ的な習慣にしたがっているだけである。

 あるひとりの人間が〈海〉と表現したとする。このとき〈海〉という表現の内容とは、〈海〉という言語の指示性に、それをふくむ〈海〉の像をくわえた総体のことであり、この表現の形式とは、〈海〉という言語をその人間の自発的な契機による自己表出としてかんがえたものに、〈海〉の像をくわえた総体を意味する。このようにして内容と形式とは、つねに、同一の総体性にむかって指向する。つまり表現の総体性へむかって。

 そもそも文学(芸術)において、内容と形式とは、いずれが優先的であり、決定権をもつか、という形でおこなわれたこれらの論争は、まったく無意味なものであった。文学芸術を、表現史の連続性や普遍性としてみるのと、個性的な時代的な変遷としてみるのとは、何(いず)れが是(ぜ)かというのとおなじように。

 内容と形式とのあいだには、いずれが優先的であり、決定権をもつか、という問題意識が介在する余地はもともとありえない。それらは、いずれも俗化したヘーゲリアン的な、いいかえれば、芸術がいままで存在してきた根拠を、まったく疎外したところでしか、起りようがない論議である。それは、たとえば、馬子にも衣装という俚諺(りげん)と、腐っても鯛は鯛という俚諺とはどちらが正当かという対立のように、ごく俗化された効用論の次元でしか、問題とならないのである。(吉本隆明『言語にとって美とは何か』)

 表現形式と表現内容とを矛盾としてとらえるかぎり、それは「別もの」である。「別ものでありうるはずがない」ということにするには、この矛盾を解消させなければならない。それで内容も「総体」表現も「総体」にして解消させたというわけである。但し、表現形式に「像」を加えるのであるから、物質的な存在と精神的な存在をいっしょくたにして「総体」化したのである。

すでに述べたように、形式と内容との区別と連関は論理学上の問題としてギリシァ以来哲学者の関心のまととなったのであり、文学者もまたそれを問題にしなければならぬだけの現実的な根拠を持っていた。そして表現形式とは、絵画であろうと音楽であろうとあるいは言語であろうと、物質的に創造された形式以外の何ものをも意味しないのであって、だからこそ形式と内容との矛盾を意識しないわけにはいかなかったのである。文学評論家たちが勝手なドグマを堅持して不毛な論争をしているのだけを見ると、たしかに「スコラ的な習慣」のように思われる。しかし論理学上の概念は、表現を扱うに当ってその特殊性によって規定されこそすれ、論理としての普遍性はやはり維持されなければならない。換言すれば、表現形式と表現内容とについての規定は、その特殊性を捨象することによって物のありかたにも妥当するものでなければならぬというのが、科学としての要請である。芸術における形式と内容だけに、恣意的(しいてき)な解釈を施(ほどこ)してみたところで、それは科学にはならない。

 自称マルクス主義者が物のありかたとしての形式と内容との論理構造をそのまま像のありかたにまで持ちこむという、不当な逸脱(いつだつ)をやってのけたことは、すでに述べたとおりである。だがこのことは、ちょうど逆のあやまりをおかす可能性のあることを、暗示している。認識や表現など像のありかたの論理構造をとらえてそのまま物のありかたにまで持ちこむという不当な逸脱をやってのける人びとが出てくる可能性である。事実そのような人びとが存在したのであるが、自称マルクス主義者は自分とちょうど逆の裏がえしのあやまりであるために、たとえこれを批判したとしても克服する能力を持ち合わせてはいなかった。

 言語・記号・象徴などといわれるものは表現で、物質的な像として存在するのであるから、その像は実体によってささえられているとはいえ、実体と直接の関係を持たない。油絵をカラー写真で複製したり、揮毫(きごう)を紙の上から彫刻に移したり、ささえ手を変えても表現としては変らない。また、認識・主観・自我などといわれるものも、昔から考えられてきた「魂」であるとか、十九世紀の生理学的唯物論によって主張された脳の分泌であるとかいうような、実体的なものではなくて精神的な像として存在する。観念論者はこれらが像であるという理解は持たなかったが、実体的でないということだけはつかんだ

そこで彼らは、精神的な存在から現実の世界をみちびき出そうとする、観念論的な逆立ちをするに当って、主観が実体的でないのと同じように客観もまた実体的でないのだと主張するようになった。この種の主張は一九世紀の終りから二〇世紀の初頭にかけてあらわれたのであるが、こうなるともはやこれまでの形式と内容という区別も意味を持たなくなってしまう。物のありかたではかたちとそれをささえる実体とを形式と内容として区別して来たが、実体を否定したのでは内容という概念もまた否定しなければならないからである。ではそこに何があるかといえば、それは機能である。すべては機能の函数論的(かんすうろんてき)構成でしかないのだという、機能主義が主張されるのである。この新カント主義者カッシラーの主張する「実体概念的思惟方法から機能概念的思惟方法へ」の方向に従って文学を論じるとどうなるか、中井正一の論文から引用してみよう。

 かくして、これまで一般に文学の内容と形式の対立をもってよびなされていたものは、それは客観と主観の重い考えかたを前提としていたもので、むしろその内容も形式も共に同様な二つのおのおの他の領域の構成であり、エレメントの群れであったことを知るのである。光の構成、音の構成、言葉の構成、共に相互に他をみずからの面の上に映し換算することのできるおのおのの群れであり、ある時はいわゆる内容となるところのものである。かくしてむしろ文学の形式なる言葉は構成の領域性の中に吸収され分解されるべきであろう。あたかもそれは主観、客観の概念が存在の本質的組織構成の中に崩壊し没落し去れると同様であらねばならぬ。

 そしてこれまで内容といいならされていたものは、社会領域の形式にしかすぎぬ、すなわち構成は構成の中に射影するにすぎぬ。(中井正一『文学の構成』)

 時枝も言語は形式だけでまったく無内容だといいはしたけれども、彼は科学者であって哲学者のようなひよわさは持っていなかった。観念論的な文献にひきずられて、科学者としての自然成長的な唯物論の立場まで投げすててしまうような、みじめな失敗はしなかった。時枝の理論は機能主義的であるとはいえ、その本質はあくまでも過程的構造をとりあげたところにあるのであって、いわば機能主義的ふみはずしをふくんでいるところの唯物論である。中井のこの論文は、蔵原が『プロレタリア芸術の内容と形式』を発表してから約一年後のものであることに、注意する必要がある。中井は当時の進歩的な芸術理論家として、蔵原理論の影響を受けたばかりでなく、それをカッシラー的な観念論的な機能主義の立場でつくり変え折衷させて、雑炊(ぞうすい)理論をこねあげたのであった、

蔵原は対象内容説であるから、内容を客観的に求めていた。これをカッシラー的な発想でとらえなおすと、現実の世界に存在するものはそれがたとえ「純金」であろうと、それを内容と呼ぶわけにはいかなくなる。「純金」も実体としてとらえるのはあやまりだとされているのであるから、これも存在する形式以上のものではないことになる。それで中井は、蔵原のいう芸術の「内容」を「社会領域の形式」に書き変え、蔵原の主張している唯物論的な認識論すなわち反映論を「構成の中に射影する」というかたちでとりあげた。カッシラー的な観念論の中に蔵原理論をつぎ木しているのであるから、いわば俗流反映論をふくんでいるところの観念論である。多田道太郎は中井の仕事を賛美して、「かれの美学は、近代日本のもちえた最高の、またもっとも独創的な学問の一である(2)。」といったが、それはこのような独創であった。

(2) 『中井正一全集』第三巻への解説から。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(70歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説を学びながらことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことをマイペースでやっています。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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