〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。
〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。
(2) 引用文中の太字は原著のものである。
(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。
(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。
『認識と言語の理論 第二部』 p.346
論理実証主義 (logical positivism) とよばれる哲学の特徴は、かつてのヒュームやマッハなどが主張した実証主義とよばれる発想と、記号論理学 (symbolic logic) とをむすびつけているところに特徴がある。それゆえ、この派の学者たちは言語ないし記号について特別な関心を持ち、意味論 (semantics) が大きな役割を演じることとなった。学者たちはウィーンに結集したが、第二次大戦前アメリカにのがれるにおよんでアメリカのプラグマティズムとも癒着(ゆちゃく)している。コーンフォースは『哲学の擁護』を書いて、これらの哲学は観念論の一変種であり反動的だと力説したのだが、彼自身の言語論ないし意味論を具体的に述べているわけではなく、唯物論か観念論かという観点からマルクス主義と相いれぬことを指摘している以上ではない。
論理学は、ギリシァ以来の形式論理学と、ヘーゲルによって体系化された弁証法とに大別される。形式論理学は思惟の形式について論じるにとどまるので、ヘーゲルは「内容を論理的考察に引き入れる」ことを要求し、内容が「それ自身に即して持っている弁証法」を扱うべきだといって(1)、客観的な矛盾とその発展について論じた。思惟の形式を内容から切りはなして、内容との「有機的な統一」においてとらえないならば、真理をとらえることはできないというのが、彼の形式論理学に対する批判であった。とはいっても、形式論理学の存在理由が否定されたのではなく、その限界の狭さが問題にされたのであり、限界を超えるためには弁証法が必要だということが明かになったのである。形式論理学は狭い限界の中ではあるが、方法として有用性を持つのであるから、やはりそれなりの体系化がすすめられて来た。そしてそこでは、言語ないし記号が特殊の役割を演じることとなった。
言語は超感性的な認識を直接に表現している。概念および判断も、名辞および命題として直接に示すことができる。それゆえこの直接性に依存して、「論理学が思惟の形式の学であるというとき、論理学は言葉の学であるということを意味する。」 (植田清次『論理学入門』) といわれると、初学者はまことにもっともだと思って受け入れるのである。そこに思惟の内容がとりあげられていないことから、どんな問題が暗黙のうちに準備されているか、などという警戒心は起さない。
しかし、思惟が現実に対象と結びつき思惟の内容が成立しているにもかかわらずこれを無視するのであるから、ここで使われる言語ないし記号の表現内容も、われわれが日常使っている言語ないし記号のそれとは異ったものになってしまっている。言語の意味すなわち表現内容は思惟の内容にむすびついて存在するのであるから、思惟の内容の無視は当然に表現内容に特殊な性格を与えないわけにはいかない。この特殊性をそれなりに正しく理解していれば問題ないのだが、論理実証主義者はこの論理学における言語ないし記号の特殊な意味のありかたから出発して、われわれが日常使っており科学でも使っている言語ないし記号の意味を検討しにかかるという、逆立ちしたコースを選んだのであった。
地下のヘーゲルもおそらく顔をしかめて嘲笑していることであろう。そしてこの思惟の内容を正しく導入する道をふさいでいたのが、彼らの観念論であり、唯物論的な認識論を「形而上学」として拒否しつづけて来たことであった。
形式論理学は古くから名辞や命題を記号で表現してきたのだが、ライプニッツは関係概念をも記号化することを試みて記号論理学的な発想の第一歩を踏み出した。現在の記号論理学は、名辞間の関係および命題間の関係を記号化し数学的な方法で論理的な演繹をすすめるかたちをとっている。
はじめは数学の論理的な基礎づけに主として用いられていたが、さらにすすんで自然科学ばかりか社会科学の分析と論理的な基礎づけへ手をのばしていくと、その弱点ないし限界も表面化せずにはすまなかった。論理にしても必然性や可能性を扱うことになると、思惟の内容を無視するわけにはいかない。必然性は偶然性と、可能性は現実性との統一において、内容における移行として・対象のダイナミックな変化および矛盾として・とりあげなければならないのであり、思惟の形式からこのような対立物をみちびき出すわけにはいかない。
それで必然性や可能性を扱う様相論理学 (modal logic) へとすすんでいくと、どうしても対象のありかたについて問題にしなければならなくなる。石本新は「記号論理学一般が、哲学的問題の解決に如何に寄与したか」について「一貫して共通なことは、記号論理学の応用により、経験科学における存在論の排除がもたらされつつあることである。」といい、さらに「様相論理学の発展は論理実証主義の立場からいって好ましくない傾向、すなわち、実在論的な存在論を惹き起すにいたった。かかる好ましからざる傾向に対し、クワインは不必要な存在論の好ましからざる所以を強調している。」 (石本新『様相論理学の諸問題』) と存在論ぬきの様相論理学の発展を期待している(2)。
いいかえると、記号論理学によって科学を観念論的に解釈する仕事がすすんでいるが、様相を扱うにいたって唯物論的な説明が入り込んでくるという好ましからざる傾向があらわれて来たから、何とかしてこれを追放しなければならぬというわけである。クワインは、記号論理学の諸権威、すなわちフレーゲ・ラッセル・ホワイトヘッド・チャーチ・カルナップなどの理論を実念論とかプラトン主義とか規定し、これに対して逆にフレーゲは唯名論だという批判をあびている。前にも述べたように、概念は普遍性を反映しているわけであるが、実念論といわれる主張はまず普遍性が客観的に存在してそれから個別性が生れてくるのだと見ている。プラトンもこの種の普遍性をイデアとよんで、客観的な概念の存在を論じた。これに対して唯名論といわれる主張は、普遍性は概念として主観的にしか存在しないものと見ている。
記号論理学はそれ自体として否定的な存在ではないにもかかわらず、どうして科学の観念論的な解釈を可能ならしめるのであろうか? それはきわめて単純なことである。われわれの日常つかっている言語は、直接には概念を表現しているとはいえ、その背後に表象や感覚がかくれているし、直接には対象の普遍性を示しているとはいえ、話し手や書き手が問題としているのは対象の特殊性であったり個別性であったりする。
日常言語はこのような矛盾を持っているから、概念そのもの・普遍性そのもの・だけを扱う論理学の表現にとって「不正確」であると考え、これを記号で置き換えようと学者たちは考えるのだが、その結果として特殊性や個別性はもはや切りすてられてしまう。そしてこの場合の概念にとっては、対象が現実に存在しているかそれとも空想でしかないかは、特殊性に属するのであるから、実在する一女性も青年の空想の中につくりあげられた理想の女性もともに同じ「娘」という概念でとらえられ、「娘」と表現されるのである。この条件にあっては、実在するか空想でしかないかは関係のないことであり、区別を無視してさしつかえないのである(3)。
真理が条件づきであることは、すでにディーツゲンが正しく指摘した。ここでも、論理学という条件において許されることを、条件の異った経験科学へ持ちこむならば、誤謬におちいるのである。論理実証主義者の手品の種もここに存在する。経験科学においても、同じように対象が実在するか空想でしかないかは関係のないことで、区別を論じるなどという無意味な問題だといい、「仮象問題」(Scheinproblem) だ「疑似問題」(Pseudoproblem) だとよぶところへ度はずれに拡大していく。
(1) ヘーゲルの『大論理学』は、序文においてすでにこのことを指摘している。
(2) 力学的な場所の移動としての運動は、同一の場所にあると同時にないという矛盾である。一九五三年の「思想の科学研究会」の集りで、この説明を支持する武谷三男と納得できないとする石本新とが対立したことがある。論理実証主義者としては客観的な矛盾を認めた真命題なるものはありえないからである。
(3) この点をコーンフォースはとりあげていない。かれは弁証法について語ってはいるが、彼の批判する対象が弁証法的な過程をたどっていることを追跡する能力がない。
『認識と言語の理論 第二部』 p.350
エイヤーも論理学的な定義のありかたを語るところから、バークレー的観念論へとすすんでいった。たしかに論理としてとらえるかぎり、「物理的対象の行動を記述するものではないし、また、心的対象の行動を記述するものでさえないのであって、もろもろの定義や、また定義の形式的な帰結を表現するもの」だといってさしつかえない。だが彼はそこからすすんでこんなことを主張する。「感覚内容は心的なものか、それとも物理的なものか、という問いに対する答えは、そのどちらでもない、ということである。それが適用されるのは、ただそれら感覚内容からの論理的構成である対象に対してだけなのである。」(エイヤー『言語、真理、論理』)
論理実証主義はつぎのような理想を夢みている。異った科学部門の諸概念は根本的に異ったものではなく、一つの首尾一貫した整合的な体系に属するのであるから、将来科学が発達すると単純な脈絡のある一連の基本的な法則に到達し、この法則の体系から社会科学をもふくむすべての科学部門の特殊法則が演繹(えんえき)せられるような時代が来るという、夢である。
一見合理的に思われるこの夢も、実はかつてデューリングが抱いた夢の二〇世紀版でしかない。デューリングも論理的図式ないし数学的方法から出発した。社会生活の領域の問題、歴史や道徳や法に対しても、「あらゆる問題は、あたかも単純な……数学上の原則を問題とする場合のように、単純な根本形相に即して公理的に決定されなければならぬ」し、この適用によって不変の真理が得られるものと主張した。
彼は社会のもっとも単純な要素を、論理実証主義者のことばでいうなら「単純対象」(simple object) あるいは「原子的事実」を、「全く平等な」「二人の人間」として説明しにかかった。この種の人間を想定することも、ある条件では正当である。映画館や講堂を設計する場合に、何人収容できるか何千何百のイスを置くかと考えるとき、民族的・経済的・政治的・宗教的諸関係を無視し性的および個人的特殊性を無視した単に一定の空間を占める「人間」を想定してさしつかえないのである。
だが、この種の「人間」をそのまま社会のありかたの研究へ持ちこむわけにはいかない。社会のもっとも単純な要素は「二人の人間」ではなくて家族であって、男性と女性がむすびつかなければ子どもが生れないから社会も消滅してしまう。デューリングが抽象的な普遍から出発して観念的に特殊を論じようとしたのと同様に、論理実証主義者も抽象的な論理から出発して観念的に特殊法則を演繹できるものと夢みているのである(4)。差異は、デューリングが唯物論者のつもりでいながら観念論にふみはずしたのに対し、論理実証主義者は観念論であることを自覚してあくまでも唯物論を追放しようと努力しているところにある。
はじめに述べたように、「論理学は言語の学である」とするならば、この論理学によって基礎づけられるとする経験科学も、これまたそれらの特殊な言語の学でなければならない。ここから、一方では、科学の分析すなわち言語ないし記号の分析であるという意味で、記号論 (semiotics) なるものが大きく問題になり、また他方では、すべての科学が一連の基本的な法則に統一されることによって、「統一科学」が成立するばかりでなくこれは単一の普遍的な科学言語にによる陳述に「還元」されるという発想が生れる。
一九三八年にモリスは『記号理論の基礎』を書いて、記号論は記号の果している三重の関係において論じるべきだといい、(1)語用論 (pragmatics)(記号とそれを用いる人との関係) (2)意味論 (semantics)(記号とその対象との関係) (3)構成論 (syntactics)(記号と他の記号との関係)を検討すべきだと主張した。それまでに言語の学として扱われた論理学は、(3)の論理的シンタックスだということになる。
そこで論理実証主義者のカルナップも、言語分析を記号論の全面にわたって展開するところへと進み、彼の「意味論」を体系的に述べることにしたのだが、さて困ったことに、この「意味論」は記号とその対象について語るのであるから、たとえどんなに口ごもりながら論じたとしても、対象としての「存在」を論じないわけにはいかない。対象としての事物が属性を持っているとか、相互関係に置かれているというありかたを語らないわけにはいかない。概念の形式論理をそのまま対象に押しつけて、対象を「原始的事実」として扱っているにしても、とにかく実在論的な存在論を述べないわけにはいかない。クワインがカルナップを実念論だと規定したゆえんである。
われわれがあるいは「太陽」とよびあるいは「お日さま」とよぶ対象は、実は同じ天体である。「宵の明星(よいのみょうじょう)」とよびあるいは「明けの明星(あけのみょうじょう)」とよぶ対象も、実は同じ天体である。これは記号とその対象との関係すなわち意味 (reference) としては同じであっても、意義 (meaning) は同じではない。すなわちここに矛盾が存在している。
記号論理学のように、記号におき換えるとこの矛盾を隠蔽(いんぺい)できるが、日常の言語では表面化せざるをえない。論理実証主義者がとりあげる「真の命題」なるものは、形式論理的な無矛盾的な性格の言明であるから、意味論にこのような矛盾があらわれて来たのを正しくとりあげることができなかった。対象が同一であっても認識としてのとらえかたに差異があるという理解にすすむことができなかった。反対に、対象を認めることによって矛盾が生れることから、矛盾をなくすために対象をいかにしたら排除できるか、その排除のしかたに苦心する方向へとすすんだ。
最後にデューイについていくつかのことをとりあげておくことにしよう。彼が事物あるいは経験について観念論的な説明におちこんだり、思惟を「自然主義的」に「生物体内の事象」に帰着せしめたりするのも、言語表現の理解が観念的な追体験である事実を正しくとらええなかったことと無関係ではないのである。彼にいわせれば、Aの記号活動をBは「その事物がAの経験のうちに働きうるままに」(as the thing may function in A's experience) とらえるのである。この観念的な事物と経験を、現実の事物や現実の経験と正しく区別できなければ、観念論へふみはずすことになる。
そしてデューイは、意味を関係においてとらえるところに近づいていたけれども、「口頭の言語や筆記の言語」はいうにおよばず、「身ぶり」もさらには「儀式、祭典、記念碑、および産業技術ないし芸術の所産」も、そして「道具や機械」も、すべて言語の一形態として解釈していた。これは表現イクオール言語ととらえたものであって、道具や機械にしても「それを了解する人びとに、使用の操作やその結果について何事かを語る」という関係が成立するからである。
彼は記号に、自然的記号と人為的記号とを区別し、煙は火の記号であり自然的記号であるが、音声の「煙」は象徴であって人為的記号であると説明した。したがって自然的記号も人為的記号も意味を持つことにおいて共通している。「マッチをするということの意味は焔(ほのお)である」し、「一物もしくは一事件が、われわれの中に、もしくは他のものの上にもたらす諸結果が、その一物もしくは一事件の意味 (meaning) とよばれる。」(デューイ『論理学、研究の理論』)のである。われわれは、言語および意味の表現一般および事物の関係への不当な誇張を、言語表現とそれにむすびつけられている関係のありかたにまで、正しく還元すればよいわけである。
(4) エンゲルスは『反デューリング論』のための準備労作の中で、「数学的な計算は、たとえ抽象的なものではあっても物質的な直線を土台としているので、物質的に証明し検算できるのだが、これと純粋論理的操作、すなわち推理による証明しかやれず数学的な計算にそなわっているような実証的確実性を持ちえないものとを、こっけいにも混同している。」と書いた。デューリングに対する嘲笑以上の現代的な意味を読みとるべきであろう。
(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)