われわれの認識は感覚を出発点として意志にいたる立体的な構造を持っており、さまざまな部分から構成されている。精神的な交通のための表現にもまた、さまざまな材料と手段を用いた多くの種類が開発されているけれども、この認識とは相対的に独立しているしまた相互に制約し合っている。ある種の認識は必ずある種の表現をとらねばならぬというような、固定した関係にあるわけではないが、それとともに写真ならハッキリ伝えることができるが口では説明しにくいとか、逆に口ならばよく訴えることができるが写真や絵画には表現しにくいとかいう事実に、われわれはしばしばぶつかるのである。映画化しやすい文学も、しにくい文学もあることは否定できないのである。これは表現がその種類によって特徴を異(こと)にしていて、認識の中の忠実に表面化できる部分がそれぞれ異ってくるためである。それゆえ表現の種類の持つ特徴について考えながら、言語表現の特徴の検討へとすすんでいくことにしよう。
写真は対象から与えられる光を利用して表現形式をつくりあげるところに特徴がある。たとえ閃光球やストロボを使って、作者の側から光をつくり出したとしても、それは対象に与えられて逆に対象から与えられる光というかたちで使われるのである。写真機は表現に用いられる手段だという点では、本質的にタイプライターと同じである。手で文字のかたちを書かなくても、キイを押せば文字のかたちが生れるように、視覚的にとらえた対象を、手で紙の上に描かなくても、シャッターを押せばフィルムが記録してくれるのである。けれども現象的には印画に示される像は対象から光によってレンズを通じて与えられたのであるから、この光学的な過程が表現の過程であるかのような錯覚を起しやすい。写真機のファインダーの背後にはつねに作者の目が光っている。作者の目が認識したその「決定的瞬間」を、すかさずレンズを通じて記録する。この、光学的な過程が作者の目から指先への表現の過程の支配下におかれている事実を見のがして、写真機それ自体が表現を行っているかのような物神崇拝的解釈におちいりやすい。エイゼンシュテインのモンタアジュ論はこの種の解釈におちいっていて、これが中井正一や今村太平に受けつがれた。
写真機がどんな位置におかれ、どんな構造のレンズが使われるかということは、とりもなおさず作者がどんな位置でどのように対象を見るかということを意味している。標準レンズは大体において人間の目のありかたに近いから、写真機の位置と作者の位置とが大体において一致している。ところが望遠レンズは、肉眼に換算すると対象のずっと近くに作者が位置づけられることになり、写真機の現実の位置および背後にいる作者の現実の位置とは大きくくいちがってくる。表現する作者のありかたは、現実の作者のありかたから観念的に分裂して、対象の側に近づいているわけである。このようなちがいはあるにしても、それらの位置を占めた作者は対象の感性的なありかたを忠実にとらえ忠実に再現する(1)。
作者が見ていることと、意識していることとは必ずしも一致しないから、あとでフィルムをしらべると自分が見ていたにもかかわらず意識していなかったものを見つけて、こんなものがあったのかと驚いたり悔しがったりすることもしばしばである。この部分はいわば非表現であって、この部分に関するかぎりサルがシャッターを押した場合と変りがない(2)。 ………
われわれは印画をながめるとき、観念的に作者が撮影したときの位置に自分の位置をおく。観念的な自己分裂において、現実的な自己から作者を追体験する観念的な自己に移行するわけである。多くの場合にそれは作者が写真機を手にした場所であるが、時には望遠レンズで見た観念的な作者の位置であることもある。しかもこの印画は、対象の具体的なあり方を直接に示すことによって、媒介的に作者のありかたを具体的に伝えているのであり、客体についての表現であるばかりでなく主体についての表現でもあると見なければならない。印画を一見すれば、作者がどこからどういう角度で対象をとらえようとしたか、直ちに具体的にわかるのである。
さらに映画にあっては、画面が特定の個人の特殊な視覚を表現することも、決して稀(まれ)ではない。ねむくなると画面がとけて流れるようにくらくなって、夢の場面に変っていく。よっぱらって帰って来た夫には、迎えに出た妻の顔が二重にも三重にも映じる。メチールで目をやられたらしく、いくら目をこすっても前にいるベン・ケーシーの顔がおぼろげにしか見えない。悲しい思いで手紙を読んでいるうちに、目に涙があふれて手紙の文字がぼやけてくる。等々。ここでも直接に見るのは対象についてであるが、これを媒介として主体的な認識のありかたを受けとることができる。作者がどんな位置にいるかは、写真機を手にすることによって否応なしに決定されてしまうのであるから、多くの場合に位置は表現の消極面に属している。けれども、ある劇の中の登場人物が自殺を決心して高いビルの屋上へのぼっていった場合に、この人物の目の位置で下を見おろすという表現は、観客にその位置を強く意識させるとともにその位置にある人物の感情をもくみとらせるという役割を果たすことになろう。
対象の感性的なありかたを忠実にとらえ忠実に表現する場合には、客体についての表現が同時に主体についての表現でもあるという矛盾がつねについてまわることになる。これは指摘されれば納得できる矛盾であるが、これを矛盾として論理的にとらえて展開していく仕事はこれまで行われて来なかった。自称マルクス主義者にしても、芸術を科学とならべて芸術的認識と科学的認識とはどうちがうかというような、観念論者の問題意識にはまりこんでしまって、表現それ自体のありかたを論理的に検討する仕事のほうはそっちのけであったから、作者が創作活動の中でこの矛盾とどう格闘して来たかというような問題意識を持ちえなかった。
いわゆる近代美術の展開にしても、画家が古典的な・対象の感性的なありかたを受動的に忠実に受けとめようとする・客体的表現に重点をおいた・絵画のありかたにあきたらず、画家自身の主体的な認識を能動的に強く打ち出そうとする・主体的表現に重点を置いた・絵画のありかたを探求し開拓しようとしたものである。
客体的表現に重点をおくときは、そこに主体的表現がついてまわることをそれほど意識しないですむが、主体的表現に重点をおくときは、客体的表現がついてまわって足をひっぱるという問題に真正面からとりくまざるをえない。画家は抽象的な・それ自体感性的な具体性を越えた・感情や思想を打ち出そうとしても、それは感性的な具体的なありかたというかたちで表現するほかないのである。
見たところ奇怪とも思われる・不健康ではないかと疑いたくなる・抽象美術の創作に、なぜあのように画家たちが熱中したのかは、この矛盾を理解してはじめて必然的なものとしてとらえることができる。自称マルクス主義者はここで二つの弱点を暴露することとなった。
その一つは矛盾を理解できずに現象にひきずられる弱点であって、そこに客体的表現が重視されていないことから、作者は現実から遊離し逃避している人間であるとか、観念論あるいはブルジョア的頽廃(たいはい)に毒された結果こんなことになったのだとか、「階級的」解釈を下すことによってマルクス主義的に理解したのだと思いこんだのである。
いま一つは、ベリンスキイあるいは蔵原的な対象内容説から解釈する弱点であって、客体すなわち内容と解釈する以上、客体が無視されていることはとりもなおさず内容が無視され内容が欠落しているということになるから、近代美術は内容のない形式であり、形式主義であるというレッテルが否応なしに出てくるのである。ソ連の評論家およびその系列につながる各国の自称マルクス主義者の近代美術批判は、このような解釈からぬけ出すことができなかった。事実、近代美術の流れを見れば、観念論的な発想を持つ人間もあれば形式主義にふみはずした人間もあるのであって、それらがこのような解釈の現実的な根拠として役立ったのである。
「絵画、彫刻、文学、音楽、それらは一般に信じられているよりも、おたがいにずっと近いものです(3)。」とロダンは語った。さすがにすぐれた芸術家だけあって、直観的ではあるが現象にとらわれない目を持っている。音楽には対象の感性的なありかたを忠実に受け止めた、いわゆる描写音楽とよばれるものも存在するが、その多くは作家の主体的な認識を能動的に打ち出そうとするものである。しかもそこには対象の忠実な模写も部分的にはふくまれていて、鳥の声や鐘の音や馬のひづめの音などがあちらこちらにあらわれて来たりする。
近代美術で人間の目や手や足などがバラバラにされて画面のあちこちにちらばっているのを見ると、異常だ不健康だ奇怪だと画家の精神状態を疑う人間も、交響曲の中に対象の忠実な模写がバラバラにちらばっていることをすこしも異常だとか奇怪だとか思ってはいない。シューベルトの「死と乙女」や「ます」よりも描写音楽の「森の鍛冶屋」や「時計屋の店」のほうがリアリズムであってすぐれた音楽であるとも主張しはしない。そしてこのように絵画と音楽とを区別して扱うことを、矛盾しているとも思わないのである。
ただ、形式主義批判のカンパニアがはじまると、この矛盾をそのままにしておくわけにいかなくなって、音楽の作者の主体的な認識の能動的な表現を異常な奇怪なものとして扱う傾向があらわれる。音楽の特徴が音楽の作者に禍(わざわ)いして、ショスタコヴィッチの作品がちんぴら評論家から形式主義のレッテルをはられたりするのである。
この表現の二重性は、言語においてさらに発展した特殊な形態をとるのであるが、その形態は経験的に部分的にとりあげられただけで、理論的に全体的に明かされたことがなかった。言語表現の二重性、あるいは言語で表現される認識の二重性の問題は、私によってはじめて批判的に指摘され展開されたのであって、そこから言語規範による言語表現の媒介の構造も明かになっていく。
(1) 写真は対象を「ありのままに」写すというが、これは何も対象がそのまま再現されることではなく、富士山を撮影しても富士山それ自体が複製されるわけではない。「目で見たとおり」の「ありのまま」すなわち視覚に忠実という意味なのである。それゆえ、一眼レフに魚眼レンズを使って撮影した印画を見せると、自分の目で見たときの「ありのまま」とちがっているので変な顔をされることが多い。このときの作者は魚の目と同じような目で対象を見ているのであるから、彼の視覚の「ありのまま」として受けとるべきなのだが、なかなか納得できない人がいる。
(2) 結果からは必ずしも過程をとらえうるとは限らないから、この非表現を表現だと偽(いつわ)って提出することもできるが、それはロバのしっぽがこしらえた絵具の汚点を抽象画として提出することと本質的に変りない。
(3) ポール・グゼル集録になる『ロダンの言葉』から。