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2018年11月02日(金)| 言語>表現論 |  
『認識と言語の理論 第二部』2章(1) 客体的表現と主体的表現

『認識と言語の理論 第二部』2章(1) 客体的表現と主体的表現
『認識と言語の理論 第二部』2章(2) 記号における模写
『認識と言語の理論 第二部』2章(3) 小林と時枝との論争
『認識と言語の理論 第二部』2章(4) 言語における一般化
『認識と言語の理論 第二部』2章(5) 概念の要求する矛盾
『認識と言語の理論 第二部』2章(6) 言語表現と非言語表現との統一

『認識と言語の理論 第二部』2章(1)~(6) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(勁草書房・1967年刊)から
  第二章 言語表現の二重性 (1) 客体的表現と主体的表現

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.354 

 われわれの認識は感覚を出発点として意志にいたる立体的な構造を持っており、さまざまな部分から構成されている。精神的な交通のための表現にもまた、さまざまな材料と手段を用いた多くの種類が開発されているけれども、この認識とは相対的に独立しているしまた相互に制約し合っている。ある種の認識は必ずある種の表現をとらねばならぬというような、固定した関係にあるわけではないが、それとともに写真ならハッキリ伝えることができるが口では説明しにくいとか、逆に口ならばよく訴えることができるが写真や絵画には表現しにくいとかいう事実に、われわれはしばしばぶつかるのである。映画化しやすい文学も、しにくい文学もあることは否定できないのである。これは表現がその種類によって特徴を異(こと)にしていて、認識の中の忠実に表面化できる部分がそれぞれ異ってくるためである。それゆえ表現の種類の持つ特徴について考えながら、言語表現の特徴の検討へとすすんでいくことにしよう。

 写真は対象から与えられる光を利用して表現形式をつくりあげるところに特徴がある。たとえ閃光球やストロボを使って、作者の側から光をつくり出したとしても、それは対象に与えられて逆に対象から与えられる光というかたちで使われるのである。写真機は表現に用いられる手段だという点では、本質的にタイプライターと同じである。手で文字のかたちを書かなくても、キイを押せば文字のかたちが生れるように、視覚的にとらえた対象を、手で紙の上に描かなくても、シャッターを押せばフィルムが記録してくれるのである。けれども現象的には印画に示される像は対象から光によってレンズを通じて与えられたのであるから、この光学的な過程が表現の過程であるかのような錯覚を起しやすい。写真機のファインダーの背後にはつねに作者の目が光っている。作者の目が認識したその「決定的瞬間」を、すかさずレンズを通じて記録する。この、光学的な過程が作者の目から指先への表現の過程の支配下におかれている事実を見のがして、写真機それ自体が表現を行っているかのような物神崇拝的解釈におちいりやすい。エイゼンシュテインのモンタアジュ論はこの種の解釈におちいっていて、これが中井正一や今村太平に受けつがれた。

 写真機がどんな位置におかれ、どんな構造のレンズが使われるかということは、とりもなおさず作者がどんな位置でどのように対象を見るかということを意味している。標準レンズは大体において人間の目のありかたに近いから、写真機の位置と作者の位置とが大体において一致している。ところが望遠レンズは、肉眼に換算すると対象のずっと近くに作者が位置づけられることになり、写真機の現実の位置および背後にいる作者の現実の位置とは大きくくいちがってくる。表現する作者のありかたは、現実の作者のありかたから観念的に分裂して、対象の側に近づいているわけである。このようなちがいはあるにしても、それらの位置を占めた作者は対象の感性的なありかたを忠実にとらえ忠実に再現する(1)

作者が見ていることと、意識していることとは必ずしも一致しないから、あとでフィルムをしらべると自分が見ていたにもかかわらず意識していなかったものを見つけて、こんなものがあったのかと驚いたり悔しがったりすることもしばしばである。この部分はいわば非表現であって、この部分に関するかぎりサルがシャッターを押した場合と変りがない(2)。 ………

 われわれは印画をながめるとき、観念的に作者が撮影したときの位置に自分の位置をおく。観念的な自己分裂において、現実的な自己から作者を追体験する観念的な自己に移行するわけである。多くの場合にそれは作者が写真機を手にした場所であるが、時には望遠レンズで見た観念的な作者の位置であることもある。しかもこの印画は、対象の具体的なあり方を直接に示すことによって、媒介的に作者のありかたを具体的に伝えているのであり、客体についての表現であるばかりでなく主体についての表現でもあると見なければならない。印画を一見すれば、作者がどこからどういう角度で対象をとらえようとしたか、直ちに具体的にわかるのである。

さらに映画にあっては、画面が特定の個人の特殊な視覚を表現することも、決して稀(まれ)ではない。ねむくなると画面がとけて流れるようにくらくなって、夢の場面に変っていく。よっぱらって帰って来た夫には、迎えに出た妻の顔が二重にも三重にも映じる。メチールで目をやられたらしく、いくら目をこすっても前にいるベン・ケーシーの顔がおぼろげにしか見えない。悲しい思いで手紙を読んでいるうちに、目に涙があふれて手紙の文字がぼやけてくる。等々。ここでも直接に見るのは対象についてであるが、これを媒介として主体的な認識のありかたを受けとることができる。作者がどんな位置にいるかは、写真機を手にすることによって否応なしに決定されてしまうのであるから、多くの場合に位置は表現の消極面に属している。けれども、ある劇の中の登場人物が自殺を決心して高いビルの屋上へのぼっていった場合に、この人物の目の位置で下を見おろすという表現は、観客にその位置を強く意識させるとともにその位置にある人物の感情をもくみとらせるという役割を果たすことになろう。

 対象の感性的なありかたを忠実にとらえ忠実に表現する場合には、客体についての表現が同時に主体についての表現でもあるという矛盾がつねについてまわることになる。これは指摘されれば納得できる矛盾であるが、これを矛盾として論理的にとらえて展開していく仕事はこれまで行われて来なかった。自称マルクス主義者にしても、芸術を科学とならべて芸術的認識と科学的認識とはどうちがうかというような、観念論者の問題意識にはまりこんでしまって、表現それ自体のありかたを論理的に検討する仕事のほうはそっちのけであったから、作者が創作活動の中でこの矛盾とどう格闘して来たかというような問題意識を持ちえなかった。

いわゆる近代美術の展開にしても、画家が古典的な・対象の感性的なありかたを受動的に忠実に受けとめようとする・客体的表現に重点をおいた・絵画のありかたにあきたらず、画家自身の主体的な認識を能動的に強く打ち出そうとする・主体的表現に重点を置いた・絵画のありかたを探求し開拓しようとしたものである。

客体的表現に重点をおくときは、そこに主体的表現がついてまわることをそれほど意識しないですむが、主体的表現に重点をおくときは、客体的表現がついてまわって足をひっぱるという問題に真正面からとりくまざるをえない。画家は抽象的な・それ自体感性的な具体性を越えた・感情や思想を打ち出そうとしても、それは感性的な具体的なありかたというかたちで表現するほかないのである。

見たところ奇怪とも思われる・不健康ではないかと疑いたくなる・抽象美術の創作に、なぜあのように画家たちが熱中したのかは、この矛盾を理解してはじめて必然的なものとしてとらえることができる。自称マルクス主義者はここで二つの弱点を暴露することとなった。

その一つは矛盾を理解できずに現象にひきずられる弱点であって、そこに客体的表現が重視されていないことから、作者は現実から遊離し逃避している人間であるとか、観念論あるいはブルジョア的頽廃(たいはい)に毒された結果こんなことになったのだとか、「階級的」解釈を下すことによってマルクス主義的に理解したのだと思いこんだのである。

いま一つは、ベリンスキイあるいは蔵原的な対象内容説から解釈する弱点であって、客体すなわち内容と解釈する以上、客体が無視されていることはとりもなおさず内容が無視され内容が欠落しているということになるから、近代美術は内容のない形式であり、形式主義であるというレッテルが否応なしに出てくるのである。ソ連の評論家およびその系列につながる各国の自称マルクス主義者の近代美術批判は、このような解釈からぬけ出すことができなかった。事実、近代美術の流れを見れば、観念論的な発想を持つ人間もあれば形式主義にふみはずした人間もあるのであって、それらがこのような解釈の現実的な根拠として役立ったのである。

「絵画、彫刻、文学、音楽、それらは一般に信じられているよりも、おたがいにずっと近いものです(3)。」とロダンは語った。さすがにすぐれた芸術家だけあって、直観的ではあるが現象にとらわれない目を持っている。音楽には対象の感性的なありかたを忠実に受け止めた、いわゆる描写音楽とよばれるものも存在するが、その多くは作家の主体的な認識を能動的に打ち出そうとするものである。しかもそこには対象の忠実な模写も部分的にはふくまれていて、鳥の声や鐘の音や馬のひづめの音などがあちらこちらにあらわれて来たりする。

近代美術で人間の目や手や足などがバラバラにされて画面のあちこちにちらばっているのを見ると、異常だ不健康だ奇怪だと画家の精神状態を疑う人間も、交響曲の中に対象の忠実な模写がバラバラにちらばっていることをすこしも異常だとか奇怪だとか思ってはいない。シューベルトの「死と乙女」や「ます」よりも描写音楽の「森の鍛冶屋」や「時計屋の店」のほうがリアリズムであってすぐれた音楽であるとも主張しはしない。そしてこのように絵画と音楽とを区別して扱うことを、矛盾しているとも思わないのである。

ただ、形式主義批判のカンパニアがはじまると、この矛盾をそのままにしておくわけにいかなくなって、音楽の作者の主体的な認識の能動的な表現を異常な奇怪なものとして扱う傾向があらわれる。音楽の特徴が音楽の作者に禍(わざわ)いして、ショスタコヴィッチの作品がちんぴら評論家から形式主義のレッテルをはられたりするのである。

 この表現の二重性は、言語においてさらに発展した特殊な形態をとるのであるが、その形態は経験的に部分的にとりあげられただけで、理論的に全体的に明かされたことがなかった。言語表現の二重性、あるいは言語で表現される認識の二重性の問題は、私によってはじめて批判的に指摘され展開されたのであって、そこから言語規範による言語表現の媒介の構造も明かになっていく。

(1) 写真は対象を「ありのままに」写すというが、これは何も対象がそのまま再現されることではなく、富士山を撮影しても富士山それ自体が複製されるわけではない。「目で見たとおり」の「ありのまま」すなわち視覚に忠実という意味なのである。それゆえ、一眼レフに魚眼レンズを使って撮影した印画を見せると、自分の目で見たときの「ありのまま」とちがっているので変な顔をされることが多い。このときの作者は魚の目と同じような目で対象を見ているのであるから、彼の視覚の「ありのまま」として受けとるべきなのだが、なかなか納得できない人がいる。

(2) 結果からは必ずしも過程をとらえうるとは限らないから、この非表現を表現だと偽(いつわ)って提出することもできるが、それはロバのしっぽがこしらえた絵具の汚点を抽象画として提出することと本質的に変りない。

(3) ポール・グゼル集録になる『ロダンの言葉』から。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(70歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説を学びながらことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことをマイペースでやっています。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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