言語の重要性は自明のことであるから、言語論の歴史も古く、ギリシァの哲学者もすでに言語について論じていた。アリストテレスは言語を「記号」であると述べている。この規定は、音声や文字を単なる物理的な存在としてとらえるのではなく、人間によって創造されたものとしてとらえているのであり、そこに素朴ではあるが表現の持っている構造が意識されている。問題はその構造特に過程的構造にあるのであって、この規定だけでは決して十分ではないのだが、これは絵画とのちがいを一応ふまえて与えられた規定であるだけに、二〇世紀の言語学者たちの規定もやはり似たところにおちついている。ヴァンドリエスやドーザなども「記号の体系」であるという。ソシュール学派も同じであって、心理学者ピアジェは「もっとも発達した集団的記号の体系」と規定している。ところがこの「記号」説に対して「象徴」説を提出する学者もあれば、「記号」「象徴」を混用する学者もある。そして彼らの「記号」と「象徴」についての解釈が、これまた各人各説なのである。なぜ各人各説になったかといえば、やはりそこに認識論のちがいがあるためである、
記号と象徴とは別であるが、両者をかねるものもすくなくない。記号は規範によって対象とのつながりを維持している、一般的な表現である。これに対して象徴は必ずしも規範にささえられていることを必要としないし、その特徴はそこに直接与えられている内容をのりこえてヨリ広い内容へすすむことを要求しているところにある。象徴的な絵画や象徴的な彫刻も存在するし、それらをあるがままに受けとったところで正しく理解したことにはならない。
これは「直観の前に直接現われたまたは与えられた存在であるが、しかもそれがそのあるがままにそれ自体の故にとりあげられるのではなく、かえってヨリ広くかつヨリ一般的な意味に理解されねばならぬもの」(ヘーゲル『美学』)である。この意味での象徴は、言語表現においてもすくなからず見られるところである。
けれどもソシュール学派が言語を「記号」とよんで「象徴」とよぶのに反対したのは、言語は恣意(しい)的にどんな音声でも概念に与えることができる点で、「象徴」のように物との「自然的連結」があり恣意性に徹していないものとはちがうという理由においてである。ソシュールは、言語から物を追い出して、「記号」は「物と名を連結するものではない」と規定した。これに対して、それでは「かっこう」をそれぞれ異った国で似たような音声で表現しているのはなぜか、その理由の検討を言語学は拒否することはできぬ、というような批判が与えられている。さらに、ソシュールは恣意性の具体的な例として、同じ「牡牛(おうし)」を国境を隔てて boeuf と ochs と異った音声で表現している事実をあげているが、これに対しても、「この二つの言葉が同一の実在にあてがわれているということにおいて、彼の正体は暴露される。」「はじめ記号の定義から除外すると明言された物が、こっそり裏口からひき入れられ、そこに根をはって動かない矛盾をすえつけるのである。」と手きびしい批判を行った学者もある。ソシュールもフロイトと同じように、抽象的な規定を不可知論的に立てはするものの、現実の言語のありかたにとりくむときはやはり現実から強制されて唯物論的にとりあげなければならなくなるために、その矛盾をつかれるわけである。
記号というとき誰も思い浮べるのは、科学に用いられている諸記号であろう。これは日常生活の言語表現と異って、事物の個別的なありかたについてとりあげるのではなく、普遍的なありかたをとりあげる表現である。これは数学の × や ÷ や = や √ などのように、独自に成立したものもあれば、元素記号の C や H や O やあるいは波長の λ や Å や抵抗の Ω などのように、民族語の文字を借りて来たものもある。これらは、ある数とある数との関係をとらえたり、ある物体を構成している実質をとらえたりしながら、現実の世界について学問的に語る場合に使われる。
科学者は経験的に、これらの記号での表現の背後に現実の世界のありかたがその筆者の認識を媒介としてむすびついていることや、元素記号で示された構造式や反応式の背後には現実の物質的な実体のありかたがむすびついていることや、記号のちがいは結局のところ現実の世界のありかたのちがいにむすびついていることなどを承認しながら、文献を読んでいく。
われわれの日常の会話にも、「東京都」「富士山」「利根川」「毛沢東」などと、固有名詞とよばれるものがいろいろ使われているのだが、われわれにしてもやはり経験的に、これらの表現の背後に現実世界のある特定の都市や山岳や河川や個人が存在してその話し手の認識を媒介としてむすびついていることを承認しながら、話をすすめていく。科学の諸記号や固有名詞をとりあげるなら、言語の記号は「物と名を連結するのではない」というソシュール的解釈が現実の言語のありかたと相いれないくらい、直ちに明かなことである。
本居宣長は、「意と事と言とはみな相称へて離れず。」(『古事記伝』)と述べて、三つの段階が連結されていることを指摘している。これはソシュール的発想と対立する考えかたであり、正しいのであるが、単なる直観で語られたもののように解釈してはならない。『古事記』『万葉集』その他の古典を理解するとき、そこに使われている語を現在自分たちが使っている使いかたと同じように扱うことはできないのである。さらに日本語は膠着語(こうちゃくご)であるから、文章の表現構造が必ずしも明確ではなく、作者の意図を自己流に曲げて解釈する危険も存在している。それゆえ宣長は、あくまでも作者がどのような思想を持ちどのような語の使いかたをして文章を創造したかをつきとめ、それを忠実に追体験するべきだと主張したのである。「古人の用ひたる所をよく考へて、云々の言は云々の意に用ひたりといふことをよく明らめ知るを要とすべし」(『うひ山ぶみ』)である。これはわれわれが社会科学の古典たとえばマルクス=エンゲルスの諸論文を正しく理解しようとする場合にも、そのまま妥当することであって、宣長の前に赤面するような自称マルクス主義者もすくなくないわけであるが、宣長はこのような古典の理解という実践を通じて、言語表現における意と事と言との不可分関係を結論づけたものと見るべきであろう。
……………
不可知論ないし観念論にあっては、……… 思惟と指示物との関係が公然あるいは隠然に否定される。……… 不可知論ないし観念論からすると、そもそも現実の世界が認識と無関係に存在して、それ自体いろいろな差別をそなえており、それが認識を媒介として記号の差別にあらわれてくるというような、科学者の経験的な結論を認めることはできない。カントの考えかたからすれば、物自体は存在するがそれは存在するというだけでそれ自体としていろいろな差別を持っているわけではない。
(カントによれば――引用者)ただ物自体は、われわれにいろいろな直観を起こさせる、それに対してわれわれは、生れつき持っている能力によって普遍的認識である概念をつくり出し、この概念によっていろいろな直観を統一的にとらえるというのである。たとえば、われわれは川の流れに、空から落ちる雨に、子どもの目から落ちる涙にと、いろいろな直観を受けとるが、これがわれわれの個人的な経験を超えた能力によって、頭の中に「水」という概念をつくり出したとき、それらの直観がはじめてまとまった対象として成立するのだと解釈するわけである。いい変えるなら、概念以前に現実の世界に水とよばれるべきものが存在していて、それが概念に反映したというのではなく、概念が生れつき持っている能力によって成立したとき、頭の中に同時に水とよばれる普遍的な対象もまた成立したのであると、過程を逆立ちさせるのである。
ところで、言語および記号は絵画のように感覚ないし直観を忠実に表現するのではなく、概念ないし普遍的な認識を直接に表現するだけに、言語および記号の意味や内容について論じることになると、不可知論と唯物論とのちがいが直ちに言語理論の大きなくいちがいとなってあらわれないわけにはいかない(1)。なぜならば、言語および記号のかたちは、われわれの経験と直接関係なしに、たしかに恣意的に想像することができる。子どもが生れたとき、どんな名前をつけようと自由であって、鴎外のように茉莉(まり)とか於兎(おと)とかドイツ人的な音声をえらんだとしても、別に拒否されるわけではない。動物のあるものを「イヌ」とよび、植物のあるものを「イネ」とよんでいるとしても、そうよばねばならぬ理由はないので、動物に「イネ」植物に「イヌ」という音声をえらんだとしても、別にさしつかえはないはずである。元素記号にしてもこれと同じことがいえる。
それゆえ、言語および記号のかたちが経験と無関係に自由に創造されているばかりでなく、カント的不可知論のように概念までも経験を超えた創造であるということになると、言語はそのすべてが物と関係のない経験を超えた創造物だという結論にならないわけにはいかないのである。
科学はそれぞれの分野の特殊性を明らかにすることによって、科学としてのそれぞれの独自性を主張することができる。言語学にしてもその点は同じであって、言語は記号であるというならば表現の中の記号としての特殊性を明かにしなければならない。言語表現を経験的にとりあげてこの特殊性をさぐっていくと、絵画表現には見られない言語表現に特殊なものとして、規範によって表現が媒介されているという事実にぶつからないわけにはいかない。この規範が社会的に成立し、言語表現を媒介にしてさらにつぎつぎと伝えられているという事実にぶつからないわけにはいかない。この言語規範が、個々の言語表現をつらぬく「等質的」なものの源泉であることも、経験的にとらえることができる。だがこの言語規範を「同一社会に属する話し手の頭の中に貯蔵された財宝」というかたちでとにかくつかみ、観念的に対象化されているありかたを話し手「個人を外にした部分」としてとにかくとらえたソシュールも、その不可知論に足をひっぱられて言語規範を対象とのつながりにおいて理解できず、音声が恣意的に定められるという一面だけを不当に誇張してしまったのである。ソシュール学派の小林も、言語規範の成立過程や思惟におけるその役割などは科学としての言語学では扱いえないものとして、言語哲学のほうへ押しつけているしまつである
ゲンゴカツドーのカガクにあってわ、第一に、ゲンゴカツドーとゆ~ものが最初から経験てきジジツとして与えられている。しかるに、ゴンゴノーリョクなるものわ、なぜ人間に与えられているのであるか、それわ人間性の発達にどんな影響を及ぼすか、それわ、同じく人間の知性の所産たる論理とどう関係するか、さいごにゲンゴカツドーわ、われわれが物を認識するさいに、どんな助け、ないし妨(さまた)げをするものであるか、などの問いわ、経験てきカガクによって答うるすじのものでわない。それらわ、ゲンゴテツガクが取り上げて、審議し、解決しよ~と努めるであろ~。(小林英夫『言語学通論』)
認識論が科学的に確立しない限り言語学が真に科学とよぶものになりえないという点で、現在の言語学は経験の整理を出ていないといってさしつかえない。だがこのことは、言語学はそれでいいのだとか、認識の分野は言語哲学の受けもちだとか、欠陥を合理化するこのような主張を正当化するものではない。反対に、認識論を科学として扱えないような言語学者は、不可知論ないし観念論を平気でひっぱりこんで非科学的な言語学を展開しながら、その非科学的なことを反省できずに経験的科学を述べているものと錯覚するのがつねである。
小林は言語を唯物論的に理解することに反対の態度を示したが、カッシラーも『象徴形式の哲学』第一巻で言語をとりあげて、真向(まっこう)から模写論に反対している。言語は現実の事物の「受動的な模写」ではなくて「自己創造的な知的な象徴」だと主張している。そして科学を象徴と解釈する。「科学の対象は単なる事実ではない。事実は科学的概念の出発点であるよりもむしろその目的地である。科学が使用する根本概念も亦(また)存在の単なる模写ではなくむしろその象徴である。」事実が客観的に存在して、その反映として概念が生れ記号に表現されるのではなく、その逆なのである(2)。「記号の生成すなわち世界の構成」なのである。
カッシラーは象徴と記号を区別しないで、混用している。両者の区別はそもそも内容にかかわるのであるが、彼にとっては内容なるものを認めることができないから、区別する必要がない、彼は新カント主義者で、カントが認めていた物自体の存在すら認めようとしない。「精神的活動以外に絶対的実在を求め物自体を求めるのは、思考の幻想であり誤れる問題設定である。」という。そして科学と芸術や宗教を並列的に扱い、芸術や宗教が精神的活動であってその言語表現の背後に実在が認められないように、科学の言語表現の背後に実在を認めることはあやまりだという。カッシラーとしてはまことに当然である。
だがここで見のがしてならないのは、言語は「自己創造的」なのかそれとも「模写」なのかという問題の立てかたをとり、あれかこれかの発想において言語が模写であることを否定する人間が、カッシラー的不可知論者ばかりでなく唯物論者の中にもいる事実である。しかも唯物弁証法をふりかざす、自称マルクス主義者がそのように主張している事実である。
吾々は一つの物をAといふ記号によつて、他の物をBといふ記号によつて表はすことが出来る。ところで記号は単に物の存在を示すために約束的に定められたるもので、物の内容を伝へない。それは物の姿を再現する反映とはまるで違うふ。」(永田広志『唯物弁証法講話』)
符合や記号は、それが表現する事物とは似ておらず、事物の摸造・映像ではない。音楽の楽譜符号は実際の音とはまるでちがうものである。(原光雄『自然弁証法』)
なるほど、われわれが文字で、「犬」と表現している動物は、かたち・色・種類その他多種多様であって、その一匹をとりあげてみてもそのありかたは絶えず変化している。この実際の犬のありかたと、「犬」の文字とをくらべてみるならば、似ても似つかぬものである。模写ではない、反映ではない、といいたくなる。永田や原もそのように判断したのである。
しかしここで模写でも反映でもないと結論した根拠は、対象の感性的なありかたを忠実にとらえ表現していないではないかという、いわば絵画的な模写ではないという点におかれているのであって、言語的な模写は絵画的な模写とは異っているのではないかという反省はまったく欠如している。唯物論は模写論とか反映論とかいわれる立場をとっているのであるから、唯物論者という看板をはずさない限りこの立場を放棄してはならぬはずである。学者である以上、言語表現にも絵画表現とは異っているがやはり模写とか反映とかよぶべき構造が存在するにちがいないと予想して、仔細に検討をすすめなければならぬはずである。永田や原はそうではなく、絵画的な模写ではないという現象に目がくらんで、はなはだ安易に唯物論者としての基本的な立場を放棄し、新カント主義者と結論的に同じことを主張したのであった。
現実の世界に生きている犬と文字の「犬」とは、「姿を再現する」関係にないとはいえ、やはり関係づけられていることは否定できない。この関係が人間によって創造されているから模写ではないと考えるのではなく、「自己創造的」であるとともに「模写」でもあるという、あれもこれもという発想をとるべきだと弁証法は教えているのである。永田は「象形文字も外界の物に照応する」といいながら、すぐつづけて「照応はまだ反映ではない」と、絵画的な忠実さを欠いた象形文字を反映から追放し、記号に至ってはその照応さえも否定してしまっている。しかしながら彼らにしても、現実の犬から抽象した犬の概念を模写でない反映でないとはいわないのである。言語はこの概念を表現するのであるから、もし概念と音声や文字が模写の関係にあるならば、たとえそれらが現実の犬の「姿を再現する」ものでないにしても、概念の模写としてのありかたを延長したという意味において、そこに模写としての性格がつらぬかれているといわなければならない。
(1) さきに論理実証主義について見たように、対象として現実の世界をとりあげようが、観念的な創造を対象化した世界をとりあげようが、そこに普遍的な存在を見出して概念としてとらえる点では同じである。問題は、意味論において、その概念の背後に何が存在するかについて論じるときに、はじまるのである。カントは「客観はあたえられた直観の多様が結合されてその概念をなしているもの」といい、普遍的な存在をまず頭の中に認めてそこからひき出す態度をとった。ソシュール学派は言語を論じる中で普遍的な存在をとりあげるが、これも「物」として現実の世界に存在していると認めているわけではない。
(2) これはハイデッガーが物理的な世界のほうを「影」と解釈したのと、本質的に一致している。中井がハイデッガーとカッシラーを両立するものとして、双方に抱きついたゆえんである。