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2018年11月03日(土)| 言語>表現論 |  
『認識と言語の理論 第二部』2章(3) 小林と時枝との論争

『認識と言語の理論 第二部』2章(1) 客体的表現と主体的表現
『認識と言語の理論 第二部』2章(2) 記号における模写
『認識と言語の理論 第二部』2章(3) 小林と時枝との論争
『認識と言語の理論 第二部』2章(4) 言語における一般化
『認識と言語の理論 第二部』2章(5) 概念の要求する矛盾
『認識と言語の理論 第二部』2章(6) 言語表現と非言語表現との統一

『認識と言語の理論 第二部』2章(1)~(6) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第二章 言語表現の二重性 (3) 小林と時枝との論争

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.368 

 商品と言語とが、その論理構造において共通していることから、ソシュールおよび小林は経済学に関心を持ち、言語学の建設にとって経済学が参考になるという考えかたを抱いたということはすでに述べたとおりである。われわれはさらにすすんで、経済学が科学として確立するためにどのような問題にぶつかったのか、顕微鏡も試薬も役に立ちえない商品価値の分析にどのような武器が有効性を発揮したのかを理解して、そこから言語学のぶつかっている問題とその解決に必要な武器とを考えてみなければならない。商品の謎を解く武器として弁証法が有効性を発揮したという事実は、言語の謎を解く武器としても弁証法が有効性を発揮するであろうという、確信を与えるものである。商品の内的構造と同じように、直接目に見えず手に触れることのできない言語の内的構造が、この方法によって正しくつかめるのではないかと予想することは決してあやまりではない。

 しかしながら、弁証法を暗記することと弁証法を役立てることとは別である。唯物論的な弁証法を知ってはいるが役立てた経験のない哲学者と、観念論的な弁証法しか知らないが現実の研究の中でその弁証法を役立てて身につけている科学者と、どちらが弁証法を武器として使いこなす能力を持っているかといえば、それは後者である。そしてまた、新カント的な形而上学しか持ち得ない言語学者に対して、ヘーゲル的ではあっても弁証法的な発想を持っている言語学者は、かつてヘーゲルがカントを批判したように、相手の理論の形而上学的な弱点をついてそれに弁証法的な理解を対置することができる。われわれはこれから、ソシュール学派およびその系列に属する言語学に対して、時枝が弁証法的な理解を対置していることを見ていくことにしよう。

 およそすべての科学は、事物の持っている普遍的な法則性をとらえて体系化していくところに、確立する。言語学もまたその例外ではありえない。経済学がイギリスの経済を研究することによって確立し、これが日本の経済の研究に役立つというのも、イギリスの経済と日本の経済とがともに普遍的な法則性によってつらぬかれているからである。もちろんイギリスの経済にも日本の経済にもそれぞれ特殊性が存在し、これらはさらにそれぞれ別の法則性としてとらえる必要があるのであるが、これらの特殊性ないし、独自の法則性を持つということは普遍的な法則性の存在を否定するものではない。

同じように、英語にも日本語にもそれぞれ特殊性が存在し、これらをそれぞれ別の法則性としてとらえ、英語学あるいは日本語学として展開する必要があるのであるが、このことは英語にも日本語にも共通した言語としての普遍的な法則性の存在を否定するものではない。それゆえ英語を研究することによっても、あるいは日本語を研究することによっても、言語の普遍的な法則性をとらえた体系的な科学すなわち言語学をつくりあげることが可能である。

 しかしながら、科学の他の分野においては経験的にもまた論理的にも認められている一般理論の確立の過程が、言語学の分野にあっては必ずしも認められていない。小林英夫はそれぞれの民族語は普遍性を「分有」するにすぎないと主張しているが、時枝はそれに反対している。

 一般に言語学の理論及び方法は普遍的であり、国語学のそれは特殊的であるといふ風に考へられてゐるが、それは極めて皮相的にのみいひ得ることであつて、必しも正しい判断ではない。それは今日の言語学が、殆(ほとん)ど印欧語族のみを対象として組織せられたものであるからといふ理由のみでなく、更に深く普遍と特殊との関係から見て、右の様に云ふことができるのである。普遍と特殊とは、両々(りょうりょう)相対立した形に於いて存在してゐるのでなく、一切の特殊的現象は、その中に同時に普遍相を持つといふことは、国語に於いてばかりでなく、一切の事物について云ひ得ることである。国語についての特殊的現象の探究は、同時に言語学に於ける普遍相の闡明(せんめい)ともなり得るのである。ここに国語研究といふことが、単に言語学に於ける特殊な領域の研究に終始することではなくして、同時に言語の一般理論の研究ともなり得る根拠があるのである。……

従つて言語学と国語学との関係は、前者が後者の拠(よ)つて以(もっ)て立つべき指導原理ではなくして、特殊言語の一(ひとつ)の研究の結論として、国語学の細心な批評的対象ともなり、又他山の石ともなるのである。若しこの様な心構へなくして、只(ただ)(いたずら)にこれに追随するならば、国語学は永久に高次的理論の確立への希望を放棄しなければならない。

この様に考へることは、徒に唯我独尊にして他を排する底の偏狭な態度を執(と)ることを意味することではなくして、真に国語学の行くべき道を考へることであり、同時に泰西(たいせい)言語学の立脚地である科学的精神を生かさうとするが為(ため)である。(時枝誠記『国語学原論』)

 冷静にこの文章を検討するならば、これはまったく正当な主張であり、科学的精神において書かれたことも明かである。すでにヘーゲル論理学が、対立をその統一においてとらえよと主張し、「単に抽象的でない一般者、特殊者の豊富な内容を自己の内にふくむ一般者」としての認識のありかたを論じて以来、特殊が同時に普遍を伴うことは弁証法を知る者の常識とまでなっている。ただこの文章の最後の主張は、この本が真珠湾攻撃の月に出版されたという事実と考え合わせて理解する必要があろう。時代のありかたが、この考えかたは決して排外主義でなく科学的な態度なのだとのべることを余儀なくさせただけでなく、この本が戦時下で推薦図書となったために、戦後もこの主張は正しく理解されることなく、頭から神がかり的であるとか反動的であるとか攻撃されることになったからである。

 小林は時枝の批判を受け入れなかった。戦後においてもその主張を変えていない。

 各コクゴガクの内部に見いだされるジジツの総体わ、一般者すなわち『イッパンゲンゴガク』のうちに見いだされるであろ~ジジツを、ことごとく含んでいるであろ~か。例えばニッポン語にわ、動詞に活用とゆ~ジジツが見られる。シナ語にはそれがない。またホンガリヤ語にあるよ~な対象活用(対象辞が活用を規定するもの)わ、こんどわニッポン語にわ見あたらない。のみならず、ニッポンゴの活用わ、インド・ヨーロッパ語の主体活用(主辞が活用形を規定するもの)とわ、その形成も、形成原理も異にする。これらのジジツわ、いかに頭のはたらきのいいものでも、ニッポン語のみを見ているあいだわ、永久に気づきえないにそ~いない。それゆえ、一般者が特異者のうちに現れるとわいっても、それわ字義ど~り後者が前者の小宇宙をなすとゆ~わけでわない。

特異者は一般者を分有するにすぎないのである。コクゴガクてきジジツはイッパンゲンゴガクてきジジツに関与し、イッパンゲンゴガクてきジジツ総体のうちに、おのれの特異の位置を見いだすものである。したがって、イッパンゲンゴガクわおのおののコクゴ研究の成果を期待しながらも、なおコクゴガクを形成する内在てき部門と考えるわけにいかず、その外に立ち、おのおののコクゴガクを指導しうるよ~な、独立独自の存在を要求しうるのである。(小林英夫『言語学通論』)

 ここで小林が「一般」とよんでいるのは、カント的な意味での主観の構成作用によって成立した統一のある対象にほかならない。それぞれの国語についての具体的な認識の「外に立ち」「独立独自の存在を要求しうる」ような一般なのであって、それがそれぞれの国語に内在する一般的なものの反映であるという唯物論的な考えかたは拒否されている。

だから小林のあげた「一般言語学的事実」なるものに対して、すでに時枝は批判を加え、「国語に存しない様な一般性が、仮にあるとしたならば、それはやはりいずれかの言語の特殊性に過ぎないのである。」と正しく指摘しているにもかかわらず、カント的な「一般」を信じている小林はその意味を理解できなかったようである。

 カント的な「一般」がそれぞれの特殊な認識に対して超経験的な認識として外部から統一を与えるように、カント的な立場に立つ言語学と国語学との関係の理解は、それぞれの国語学に対して言語学が外部から指導的な理論として君臨するということになる。これは論理学からすべての科学を展開できると考えた、論理実証主義の発想と共通するところの、「一般」から特殊をひき出す考えかたである。

そしてこのカント的な「一般」に対する批判では、それぞれの国語が言語としての一般的な法則性をふくんでいるゆえに、国語学から言語学を展開することができるという主張になる。そのために、小林と時枝との論争は、日本における明治以来の言語学と国語学とのありかたをどうとらえるかの問題とも、かかわり合うことととなった。

小林の理論からすれば、そのあり方は正しいことになり、時枝の理論からすれば是正されなければならないことになる。日本は外国からさまざまの学問を輸入しなければならない立場にあり、日本の学者は外国の学問が日本のそれよりも水準が高いものと思いこんだ。体系化されていることがそれに拍車(はくしゃ)をかけた。これこそわれわれの学問を指導するものと、絶対化してよりかかった(1)

この種の権威主義は学問のすべての分野にあらわれたのであって、言語学に限ったわけではない。明治だけでなく、昭和に至っても、あらゆるものに批判的であるはずのマルクス主義者が、ソ連からあるいは中国から輸入される体系的な教科書を、これこそ正しいものだと、絶対化してよりかかっている状態である。このような状態の中で、輸入される権威に対して批判的な態度をとる者は、輸入当事者あるいは輸入される権威によりかかっている人びとによって排除されることも、言語学に限ったわけではない。

(1) 明治以後においては「一切の理論と方法と問題とを対象に対する省察から生み出さうとする『学問する』態度」が失われたことを時枝は指摘して、その意味で「泰西科学の理論を借用した明治以後の国語学よりも、旧国語学がより科学的精神に立脚して居ると云つても過言ではない」と主張する。この主張は正当であるにもかかわらず、自称マルクス主義者はこの意味での科学的精神を欠いていたために、明治以前の国語学にヨーロッパ言語学にもまさる言語論を再発見したことを、言語理論をふりまわす神秘主義とか反動的な排外主義とかいうレッテルで抹殺しにかかったのである。

 

『認識と言語の理論 第二部』 p.372 

 普遍性または一般性を、論理的にどうつかみどう位置づけるかは、言語学にとってきわめて重大な影響をおよぼすことになる。それは単に言語学と国語学との関係についての理解を左右するだけでなく、実に現実の世界のありかたの論理的なとらえかたから出発するところの、言語表現の過程的構造についての理解を左右するからである。小林が科学としての言語学では扱いえないものとして、言語哲学のほうへ追放してしまったところの言語活動における認識の過程を、時枝が真正面にすえてこれととりくみそれなりの成果をあげえたというのも、この点において小林に優越していたことと決して無関係ではなかった。

 言語は表現の一種をさすことばであって、表現以外に言語とよぶべきものはありえない。絵画が表現の一種で表現以外に絵画とよぶべきものはありえないのと、同じことである。言語は音声あるいは文字として存在するが、山田孝雄もいうように物理的な存在としての音声あるいは文字それ自体が言語なのではない。物理的な存在としての音と言語としての音声とのちがいは、その背後に何が存在していたかに求められなければならない。時枝は大学の卒業論文において、言語を絵画と同じく表現の一種としてとらえると同時に、その本質を表現の過程に求めようとした。ここに素朴ではあるが的をついたとりあげかたを見ることができるし、また同時に将来の理論的なふみはずしへの萌芽(ほうが)も見ることができる。いわく

 国語学上の種々の分野、例へば文典上の問題、音韻、文字、仮名遣(かなづかい)の問題、或(あるい)は思想と言語との関係、或は方言および言語の歴史的変遷の問題に対して穿鑿(せんさく)しようとする時、私に対して先ず解決を迫る処(ところ)の問題が現はれて来る。それは「言語とは何ぞや?」の問である。この問題を解決せずしては、私は今や一歩も末節の探究に進み入ることを許されない。

 この問題を考へて、私は言語は絵画、音楽、舞踊等と等しく、人間の表現活動の一つであるとした。然(しか)らば言語と云はれるものは、表現活動として如何(いか)なる特質を持つものであるかを考へて、始めて、言語の本質が、何であるかを明かにすることが出来るであらうといふ予想を立てたのである。

 思ふに言語の本質は、音でもない、文字でもない、思想でもない、思想を音に表はし、文字に表はす、その手段こそ言語の本質といふべきではなからうか。言語学の対象は、実にその process を研究すべきものではなからうか。(時枝誠記『『日本に於ける言語意識の発達及び言語研究の目的とその方法』)

 紙の上の鉛筆の描線や、画布の上の絵具の描写など、この物質的な形式が内容との統一において絵画なのであって、それ以外に絵画なるものは存在しない。絵画は表現であって、表現活動それ自体ではない。言語とても同じことである。時枝はすでにこの時代から、表現と表現活動とを混同していた。もちろん表現と表現活動とは無関係ではないが、結果と過程とは区別しなければならない。表現活動が物理的存在に対象化されてそこに表現が成立するのであるから、両者は不可分関係にあるとはいえ別のものであって、混同するのはあやまりである。時枝は過程に目を奪われて、この区別を正しくつかめなかったものと思われる。さらにそれに加えて、表現内容についての機能主義的な解釈は、鑑賞者の活動すなわち「理解過程」をも言語にふくめるところに逸脱してしまった。

 更に厳密にいへば、言語は「語ったり」「読んだり」する活動それ自体といふことが出来るのである。(時枝誠記『国語学原論』)

 言語は、思想の表現であり、また理解である。思想の表現過程及び理解過程そのものが、言語である。……絵画や音楽も、思想の表現理解である。(同上続篇)

 言語の解釈はさらに絵画や音楽にも延長されている(2)。ここでは言語を表現の一種としてとらえようとする、普遍と特殊との関係についての論理的に正しい扱いかたが、プラスの役割ではなくマイナスの役割を果すものに転化してしまっているのである。

(2) 絵画の理解それ自体も絵画であるとするならば、絵画を鑑賞してそれを文章に表現したものは認識過程においてすでに絵画であったことになり、この文章はいったい絵画なのかそれとも文学なのかという疑問が出て来よう。時枝はこのことを反省していない。これは楽譜が音楽なのかそれとも特殊な文章なのかという問題ともからんでくる。作曲者は頭の中に観念的に音楽を展開しながらそれを記号化していくのであるから、音楽表現のための一つの過程として重要な役割を果すにはちがいないが、楽譜それ自体は音楽ではない。シナリオそれ自体は映画ではなくて文学なのと同じである。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(70歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説を学びながらことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことをマイペースでやっています。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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