それでは時枝は言語表現の本質的な性格をどこに求め、絵画表現による対象の描写との本質的な差異をどこに求めているか。
言語が、特定個物を、一般化して表現する過程であるといふことは、言語の本質的な性格にある。ここに於(お)いて、一般的表現を以(もっ)て如何(いか)にして特定個物を表現することが出来るかの表現法の問題と、一般的表現より、如何にして特定の個物を認知し得(う/え)るかの理解上の問題が起つて来る。我々が言語の音声の聯合(れんごう)によつて理解し得るものは、先(ま)ず最初に一般的な概念である。例へば「花が咲いた」という言語を聴(き)いても、音声「ハナ」によつて理解し得るものは、「花」の概念以外のものではない。その「花」が、特定の庭の、桜であるか、椿(つばき)であるかを理解し得るのは、文脈によるか、かゝる言語が経験せられる現場によるか、或(あるい)は話手(はなして)が、「花」といふ語に加へた処(ところ)の限定修飾語によるかしなければならない。このやうにして、音声「ハナ」より遡(さかのぼ)つて、この話手が表現しようとした具体的な素材である一本の花を理解することが出来るのである。(時枝誠記『国語学原論』)
私が経験した特定の「犬」を表現するのに、言語として表現するには、これを一般化し、概念化して「イヌ」としてしか、表現することが出来ない。聞手(ききて)は、自己の体験から、銘々(めいめい)異った「犬」の表象を頭に浮べるに違ひないのである。それで、用が足りる場合もある。しかし、ある場合には、表現者は、自己の経験をそのまゝに相手に理解して貰(もら)ひたい欲求を持つ。
そのためには、これに適当な修飾語を冠(かぶ)らせて、「毛の茶色の犬」とか、「尾の短い犬」とか、「小牛ぐらゐの大きさの犬」とか云ふ必要がある。しかし、修飾するために用ひられた種々な語も、また、それぞれの概念の音声的表現であるから、「毛が茶色」であると云つても、それの具体性といふものは、この修飾語によつても、遂(つい)に表現することは出来ないのである。ここに、言語における描写といふことと、絵画における描写とは、本質的に異なるものであることが分るのである。(同続篇)
「毛の茶色の犬」とか「赤いリンゴ」とかよばれるような特定の個物は、絵画なりカラー写真なりで表現するなら、その感性的なありかたを忠実にとらえ表現することができるのだが、言語ではそれは不可能である。同じ特定の個物を対象としても、それを「一般化して表現」しなければならないというわけである。それゆえ、われわれはこの「一般化」の論理構造を仔細(しさい)にたぐってみなければならない。言語の謎はまずここから解いていかなければならないわけである。
色彩のありかたは、それこそ無限といっていいくらい、異っている。この感性的な違いを、そのまま言語にとりあげることはできないのであるから、何らかの方法で「一般化」してとりあげることになる。たとえ異った色彩でも、そのちがいが小さくて、大体において似たりよったりだとすれば、それを同じものとして扱うということも、これは「一般化」である。同じリンゴにしてもそれぞれ色彩は異っているし、またリンゴとニンジンと血とはそれぞれ異った色彩の系列に属しているけれども、それを承知の上で同じ色として扱うところに、「赤いリンゴ」「赤いニンジン」「赤い血」といづれも同じ語彙(ごい)(ここは「語彙」ではなく「語」と表現すべきである。なぜなら、「語彙」はある特定の条件のもとに集められた語の集合体であり、「赤い」それ自体は単なる一つの語であるからである。――引用者)を用いて表現する習慣が成立するのである。ここに二つの問題がある。
第一は、対象がすべて異っているにもかかわらず、それを一般化して同じものとしてとらえるというのは一つの矛盾であるが、誰もこれを不合理なものだとか打ち破るべきものだとか思いはしない。なぜならば、これは聞き手あるいは読み手の頭の中で、ふたたび一般的なものから感性的に異ったものに転換させられるからであり、全体として否定の否定とよばれるところの過程が成立するからである。
第二に、この場合われわれは色彩の変化に対してある幅を設定したのである。この幅の中にある色はすべて「赤い」ととらえ、幅の外にある色はすべて「赤くない」ととらえるのであって、リンゴの色もニンジンの色も血の色も、その幅の中にあると見たからこそ、いづれも「赤い」と表現したわけである。もちろん現実の色彩のちがいは連続したなだらかなものと見ることができ、ここからここまでが「赤い」でここからさきは「赤くない」のだとハッキリ区別できるような境界線など、どこにもありはしないのである。だがそれにもかかわらず、われわれは表現の必要から、そこに主観的な幅・主観的な境界線を持ちこんで、このような区別を現に行っているのであり、時にはどちらに入れたらよいか迷ったりしているのである。
この現実には存在しない境界線をわれわれが現実の中に持ちこむということは、言語表現による精神的な交通を必要とするからである。実践上の要求を満すためのものであるが、このことは同時にまた、われわれが持ちこんだにすぎない境界線をはじめから現実の中に存在していたかのように思いこむ可能性をはらんでいる。つまりこれは両刃の剣(もろはのつるぎ)なのである。進化論は、それまでの生物学者が現実のさまざまな生物の中で分類不可能と思われるようなものを避けてとおっていたことや、これまでの生物についての区別のしかたがあやまっていたことを、明かにした。これに関してエンゲルスはいう。
近代の理論的自然科学にその狭い形而上学的な性格を与えたものこそは、このような和解させえないもの、解決できないものとして考えられた両極的対立であり、無理に固定された境界線や類別なのである。こういう対立や区別が持っていると考えられているあの硬直性と絶対的妥当性とは、われわれの反省によってはじめて自然の中に持ちこまれたものだという認識――この認識こそ、弁証法的な自然観の確信なのである。(エンゲルス『反デューリング論』)
このことは、何もわれわれが自然の中へ境界線を持ちこんではならぬという結論にはならない。持ちこんでもいいのだが、持ちこんだということを自覚する必要があり、またそれを絶対化しないことが必要である。われわれは事実そのようにしているのである。決して勝手に幅や境界線を設定しているのではなく、似かよった部分をまとめてそれらを同じ種類として近似的(きんじてき)に扱っているのであり、、また実践の必要に応じてその境界線を移動させ、相対的な扱いかたをしているのである。
禿(は)げ頭と禿げ頭でないとの区別や山と丘の区別や、大人と子どもの区別など、現実に明確な境界線がないにもかかわらず、われわれはそれらを区別して扱うことが必要であるから境界線を設定するとはいえ、固定した硬直的なものではない(1)。大人と子どもの区別も、映画館や交通機関や浴場などで料金をきめるという場合には、肉体的なスペースを考慮してそこから境界線を定めるから、小学校を卒業するころはもう大人あつかいされているけれども、民法や刑法で想定する場合には、精神的な能力を考慮してそこから境界線を定めるから、肉体的にどんなに大きくても子どもとしてしか扱わない。
境界線を近似的に設定するなどというと、何か正確さが欠けているような気がして不安を感じる人がいる。それは整数の加減乗除だけ扱ってこれこそ正確だと思いこんでいる人びとが、循環小数や四捨五入や π(円周率)の扱いかたに不安を感じるのと、おなじことである。
われわれは日常生活で多くの場合に目分量という計算のしかたをしていて、別に不便を感じない。π も必要に応じて適当に選んでいるのであって、オモチャの木の車をつくるには 3.14 で足りるが、ジェット機のエンジンの設計には 3.1416 を使うというように、適当に境界線を移動させている。リンゴやニンジンの重さをはかるのは、代金を計算するためであるから、ハカリも目盛りの大ざっぱなものですむが、医師が調剤のときに薬品の重さをはかるのは、体質なり疾病なりに応じて適量が定まっているから、ハカリも目盛りの微細なわずかの増減にも敏感に作用するものが必要になる。
このような実践的な必要から生れる境界線の移動および細密化は、色彩の区別にも存在する。われわれは日常生活で青と緑とを別の色として区別するし、絵具を売るときには青の中にもコバルトとかプルシァンブリューとかインディゴとかさらにいくつかの区別を与えて別のチューブをつくっているのだが、青と緑を区別しないでどちらも「青い」ととらえる場合もある。小学唱歌の『ひばり』に、「さえずりやんで、どこらへおちた、青い青い、麦の中か」とあるが、これは子どもの色のとらえかたで書かれている。日本語では野菜を「青物」というが英語では green stuff といい、同じく「青年」に対して green year という。発想法は根本的に同じなのだが、色の幅の設定のちがいがあるわけである。
このように、現実の多様な色彩のありかたがそれぞれ異っていることを視覚的にはとらえながらも、そこにある幅を観念的に設定し、その中ではすべて同じ色だと一般化してとらえるところに、すでに抽象(ちゅうしょう)が行われている。具体的な感性的な認識が捨象(しゃしょう)されているからである。抽象は同時に捨象でもあるという矛盾が、ここに存在している。染色の専門家は、色の幅をわれわれよりもさらにせまく設定して、赤を橙に近い赤から紫に近い赤まで数多く区別するのであるが、それは幅がせまくなっただけであって、幅の中の色の差異が捨象されて扱われる点では何ら変りがない。
(1) この主観的な境界線が相対的なものとして位置づけられるという事実を、その現実的な根拠を無視してとりあげるならば、事物の区別はすべて主観的なもので人間の側から対象に与えるのだという結論になってしまう。観念論へふみはずす契機は、われわれの認識のあらゆる側面に待ちかまえているというわけである。
個々のリンゴやニンジンの持つ色彩はそれほど変化するわけではないし、「赤い」というかたちで抽象して扱ったところで、そこで捨象される色の差異もさほど大きなものではない。「丸い」とか「四角い」とかいう、かたちの幅を設定する場合も同じであって、多少のいびつや不揃(ふぞろ)いが捨象される程度である。
このような感性的のありかたの一般化ではなくて、実体としての普遍性をとりあげることになると、そのときはもはや感性的なありかたがどのように変化してもそれは無視されなければならない。抽象のレベルが高まらなければ、言語表現に必要な一般化は不可能である。たとえば、今日の私は葬式に参列するので昨日の私とはまったく異った服装をしているし、赤ん坊のときの私と現在の私とは肉体的にも精神的にも社会的な生活関係でも非常に大きな差異ができている。それらの差異がどんなに大きかろうと、私はつねに同じ私として扱われるのであって、誰でも赤ん坊のときよばれたのと同じ名前で「太郎」とか「花子」とかよばれるなら、やはり同じように返事をしなければならない。
敗戦直後の焦土と化した東京と、現在のテレビ塔が立ちならび高速道路が交叉(こうさ)し自動車の洪水状態にある東京とは、まったく異っているけれども、地図の表示も手紙の住所を記すときもやはり同じ名前を使っている。
固有名詞は、このように個別的な存在をとりあげながらもその感性的な変化や差異をすべて捨象して、同じ実体としてとらえた言語表現である。さらに、私と隣りの家の娘さんとは、年令も性も異っており職業も服装も異っていて、それぞれ多くの特殊性を持つ二個の実体として存在しているのだが、それらの多くの差異にもかかわらず動物の種類として見れば同じであるといわなければならない。もし、あなたは人間かそれともちがうかと質問されれば、私も娘さんも同じように人間だと答えるであろう。人間はそれぞれ特殊性をそなえているが「その中に同時に普遍相を持つ」からこそ、これを抽象して一般的な認識をつくりあげ、質問したり答えたりできるわけである。
われわれは結婚したり養子になったりすると、姓を変更することがある。固有名詞も条件によって変化するのであって、昨日までは木村であったのが結婚して川島になり、年賀状の署名に(旧姓木村)などと括弧註(かっこちゅう)を施(ほどこ)したりしている。これは人間個人の感性的な・実体的な・ありかたと直接の関係なしに、役所へ届けを出せば、それで変るのであるが、変るにはやはりそれだけの現実的な根拠があるのである。現実的に何が変ったかといえば、家族関係である。家族関係は、感性的な目で見え手でつかむことのできる生きた人間のむすんでいる関係ではあるが、この関係それ自体は目で見ることも手でつかむこともできない、超感性的な存在であり、しかもそれぞれ質的に異っている。ある個人が、それまで所属していた家族との関係を絶って、他の個人あるいは他の家族との関係をつくり出すとき、その関係の変化をとらえて固有名詞を変えるのである。
対象には以上のようにさまざまなありかたがある(2)。そして感性的なありかたの中の差異を捨象したり、感性的なありかたそれ自体を捨象したり、あるいは超感性的な存在をとらえたり、そのとらえかたには差異があるけれども、「一般化」するなり「普遍相」をとらえるなりして、あらゆる対象を言語表現で扱うことができる。つまり、「一般化」して表象としてから概念化するなり、あるいは直接に「普遍相」を概念としてとらえるなりして、それを表現するのであるから、概念以前の対象や認識のありかたの差異は表現の向こう側にかくれてしまって、聞き手や読み手が言語表現から直接にとらえることができるのはすべて話し手や書き手の概念でしかないのである。
(2) 永田は記号を物の「存在」を示すものと見たのであるが、その「存在」自体が実はさまざまでありながら「一般化」されていることを把握しなかった。言語表現ととりくむことをしないで、輸入した哲学の文献に依存する、哲学者の限界である。