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2018年11月04日(日)| 言語>表現論 |  
『認識と言語の理論 第二部』2章(4) 言語における一般化

『認識と言語の理論 第二部』2章(1) 客体的表現と主体的表現
『認識と言語の理論 第二部』2章(2) 記号における模写
『認識と言語の理論 第二部』2章(3) 小林と時枝との論争
『認識と言語の理論 第二部』2章(4) 言語における一般化
『認識と言語の理論 第二部』2章(5) 概念の要求する矛盾
『認識と言語の理論 第二部』2章(6) 言語表現と非言語表現との統一

『認識と言語の理論 第二部』2章(1)~(6) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第二章 言語表現の二重性 (4) 言語における一般化

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.375 

 それでは時枝は言語表現の本質的な性格をどこに求め、絵画表現による対象の描写との本質的な差異をどこに求めているか。

 言語が、特定個物を、一般化して表現する過程であるといふことは、言語の本質的な性格にある。ここに於(お)いて、一般的表現を以(もっ)て如何(いか)にして特定個物を表現することが出来るかの表現法の問題と、一般的表現より、如何にして特定の個物を認知し得(う/え)るかの理解上の問題が起つて来る。我々が言語の音声の聯合(れんごう)によつて理解し得るものは、先(ま)ず最初に一般的な概念である。例へば「花が咲いた」という言語を聴(き)いても、音声「ハナ」によつて理解し得るものは、「花」の概念以外のものではない。その「花」が、特定の庭の、桜であるか、椿(つばき)であるかを理解し得るのは、文脈によるか、かゝる言語が経験せられる現場によるか、或(あるい)は話手(はなして)が、「花」といふ語に加へた処(ところ)の限定修飾語によるかしなければならない。このやうにして、音声「ハナ」より遡(さかのぼ)つて、この話手が表現しようとした具体的な素材である一本の花を理解することが出来るのである。(時枝誠記『国語学原論』)

 私が経験した特定の「犬」を表現するのに、言語として表現するには、これを一般化し、概念化して「イヌ」としてしか、表現することが出来ない。聞手(ききて)は、自己の体験から、銘々(めいめい)異った「犬」の表象を頭に浮べるに違ひないのである。それで、用が足りる場合もある。しかし、ある場合には、表現者は、自己の経験をそのまゝに相手に理解して貰(もら)ひたい欲求を持つ。

 そのためには、これに適当な修飾語を冠(かぶ)らせて、「毛の茶色の犬」とか、「尾の短い犬」とか、「小牛ぐらゐの大きさの犬」とか云ふ必要がある。しかし、修飾するために用ひられた種々な語も、また、それぞれの概念の音声的表現であるから、「毛が茶色」であると云つても、それの具体性といふものは、この修飾語によつても、遂(つい)に表現することは出来ないのである。ここに、言語における描写といふことと、絵画における描写とは、本質的に異なるものであることが分るのである。(同続篇)

 「毛の茶色の犬」とか「赤いリンゴ」とかよばれるような特定の個物は、絵画なりカラー写真なりで表現するなら、その感性的なありかたを忠実にとらえ表現することができるのだが、言語ではそれは不可能である。同じ特定の個物を対象としても、それを「一般化して表現」しなければならないというわけである。それゆえ、われわれはこの「一般化」の論理構造を仔細(しさい)にたぐってみなければならない。言語の謎はまずここから解いていかなければならないわけである。

 色彩のありかたは、それこそ無限といっていいくらい、異っている。この感性的な違いを、そのまま言語にとりあげることはできないのであるから、何らかの方法で「一般化」してとりあげることになる。たとえ異った色彩でも、そのちがいが小さくて、大体において似たりよったりだとすれば、それを同じものとして扱うということも、これは「一般化」である。同じリンゴにしてもそれぞれ色彩は異っているし、またリンゴとニンジンと血とはそれぞれ異った色彩の系列に属しているけれども、それを承知の上で同じ色として扱うところに、「赤いリンゴ」「赤いニンジン」「赤い血」といづれも同じ語彙(ごい)(ここは「語彙」ではなく「語」と表現すべきである。なぜなら、「語彙」はある特定の条件のもとに集められた語の集合体であり、「赤い」それ自体は単なる一つの語であるからである。――引用者)を用いて表現する習慣が成立するのである。ここに二つの問題がある。

第一は、対象がすべて異っているにもかかわらず、それを一般化して同じものとしてとらえるというのは一つの矛盾であるが、誰もこれを不合理なものだとか打ち破るべきものだとか思いはしない。なぜならば、これは聞き手あるいは読み手の頭の中で、ふたたび一般的なものから感性的に異ったものに転換させられるからであり、全体として否定の否定とよばれるところの過程が成立するからである。

第二に、この場合われわれは色彩の変化に対してある幅を設定したのである。この幅の中にある色はすべて「赤い」ととらえ、幅の外にある色はすべて「赤くない」ととらえるのであって、リンゴの色もニンジンの色も血の色も、その幅の中にあると見たからこそ、いづれも「赤い」と表現したわけである。もちろん現実の色彩のちがいは連続したなだらかなものと見ることができ、ここからここまでが「赤い」でここからさきは「赤くない」のだとハッキリ区別できるような境界線など、どこにもありはしないのである。だがそれにもかかわらず、われわれは表現の必要から、そこに主観的な幅主観的な境界線を持ちこんで、このような区別を現に行っているのであり、時にはどちらに入れたらよいか迷ったりしているのである。

 この現実には存在しない境界線をわれわれが現実の中に持ちこむということは、言語表現による精神的な交通を必要とするからである。実践上の要求を満すためのものであるが、このことは同時にまた、われわれが持ちこんだにすぎない境界線をはじめから現実の中に存在していたかのように思いこむ可能性をはらんでいる。つまりこれは両刃の剣(もろはのつるぎ)なのである。進化論は、それまでの生物学者が現実のさまざまな生物の中で分類不可能と思われるようなものを避けてとおっていたことや、これまでの生物についての区別のしかたがあやまっていたことを、明かにした。これに関してエンゲルスはいう。

 近代の理論的自然科学にその狭い形而上学的な性格を与えたものこそは、このような和解させえないもの、解決できないものとして考えられた両極的対立であり、無理に固定された境界線や類別なのである。こういう対立や区別が持っていると考えられているあの硬直性と絶対的妥当性とは、われわれの反省によってはじめて自然の中に持ちこまれたものだという認識――この認識こそ、弁証法的な自然観の確信なのである。(エンゲルス『反デューリング論』)

 このことは、何もわれわれが自然の中へ境界線を持ちこんではならぬという結論にはならない。持ちこんでもいいのだが、持ちこんだということを自覚する必要があり、またそれを絶対化しないことが必要である。われわれは事実そのようにしているのである。決して勝手に幅や境界線を設定しているのではなく、似かよった部分をまとめてそれらを同じ種類として近似的(きんじてき)扱っているのであり、、また実践の必要に応じてその境界線を移動させ、相対的な扱いかたをしているのである。

禿(は)げ頭と禿げ頭でないとの区別や山と丘の区別や、大人と子どもの区別など、現実に明確な境界線がないにもかかわらず、われわれはそれらを区別して扱うことが必要であるから境界線を設定するとはいえ、固定した硬直的なものではない(1)。大人と子どもの区別も、映画館や交通機関や浴場などで料金をきめるという場合には、肉体的なスペースを考慮してそこから境界線を定めるから、小学校を卒業するころはもう大人あつかいされているけれども、民法や刑法で想定する場合には、精神的な能力を考慮してそこから境界線を定めるから、肉体的にどんなに大きくても子どもとしてしか扱わない。

 境界線を近似的に設定するなどというと、何か正確さが欠けているような気がして不安を感じる人がいる。それは整数の加減乗除だけ扱ってこれこそ正確だと思いこんでいる人びとが、循環小数や四捨五入や π(円周率)の扱いかたに不安を感じるのと、おなじことである。

われわれは日常生活で多くの場合に目分量という計算のしかたをしていて、別に不便を感じない。π も必要に応じて適当に選んでいるのであって、オモチャの木の車をつくるには 3.14 で足りるが、ジェット機のエンジンの設計には 3.1416 を使うというように、適当に境界線を移動させている。リンゴやニンジンの重さをはかるのは、代金を計算するためであるから、ハカリも目盛りの大ざっぱなものですむが、医師が調剤のときに薬品の重さをはかるのは、体質なり疾病なりに応じて適量が定まっているから、ハカリも目盛りの微細なわずかの増減にも敏感に作用するものが必要になる。

このような実践的な必要から生れる境界線の移動および細密化は、色彩の区別にも存在する。われわれは日常生活で青と緑とを別の色として区別するし、絵具を売るときには青の中にもコバルトとかプルシァンブリューとかインディゴとかさらにいくつかの区別を与えて別のチューブをつくっているのだが、青と緑を区別しないでどちらも「青い」ととらえる場合もある。小学唱歌の『ひばり』に、「さえずりやんで、どこらへおちた、青い青い、麦の中か」とあるが、これは子どもの色のとらえかたで書かれている。日本語では野菜を「青物」というが英語では green stuff といい、同じく「青年」に対して green year という。発想法は根本的に同じなのだが、色の幅の設定のちがいがあるわけである。

 このように、現実の多様な色彩のありかたがそれぞれ異っていることを視覚的にはとらえながらも、そこにある幅を観念的に設定し、その中ではすべて同じ色だと一般化してとらえるところに、すでに抽象(ちゅうしょう)が行われている。具体的な感性的な認識が捨象(しゃしょう)されているからである。抽象は同時に捨象でもあるという矛盾が、ここに存在している。染色の専門家は、色の幅をわれわれよりもさらにせまく設定して、赤を橙に近い赤から紫に近い赤まで数多く区別するのであるが、それは幅がせまくなっただけであって、幅の中の色の差異が捨象されて扱われる点では何ら変りがない。

(1) この主観的な境界線が相対的なものとして位置づけられるという事実を、その現実的な根拠を無視してとりあげるならば、事物の区別はすべて主観的なもので人間の側から対象に与えるのだという結論になってしまう。観念論へふみはずす契機は、われわれの認識のあらゆる側面に待ちかまえているというわけである。

 

『認識と言語の理論 第二部』 p.379 

 個々のリンゴやニンジンの持つ色彩はそれほど変化するわけではないし、「赤い」というかたちで抽象して扱ったところで、そこで捨象される色の差異もさほど大きなものではない。「丸い」とか「四角い」とかいう、かたちの幅を設定する場合も同じであって、多少のいびつや不揃(ふぞろ)いが捨象される程度である。

このような感性的のありかたの一般化ではなくて、実体としての普遍性をとりあげることになると、そのときはもはや感性的なありかたがどのように変化してもそれは無視されなければならない。抽象のレベルが高まらなければ、言語表現に必要な一般化は不可能である。たとえば、今日の私は葬式に参列するので昨日の私とはまったく異った服装をしているし、赤ん坊のときの私と現在の私とは肉体的にも精神的にも社会的な生活関係でも非常に大きな差異ができている。それらの差異がどんなに大きかろうと、私はつねに同じ私として扱われるのであって、誰でも赤ん坊のときよばれたのと同じ名前で「太郎」とか「花子」とかよばれるなら、やはり同じように返事をしなければならない。

敗戦直後の焦土と化した東京と、現在のテレビ塔が立ちならび高速道路が交叉(こうさ)し自動車の洪水状態にある東京とは、まったく異っているけれども、地図の表示も手紙の住所を記すときもやはり同じ名前を使っている。

固有名詞は、このように個別的な存在をとりあげながらもその感性的な変化や差異をすべて捨象して、同じ実体としてとらえた言語表現である。さらに、私と隣りの家の娘さんとは、年令も性も異っており職業も服装も異っていて、それぞれ多くの特殊性を持つ二個の実体として存在しているのだが、それらの多くの差異にもかかわらず動物の種類として見れば同じであるといわなければならない。もし、あなたは人間かそれともちがうかと質問されれば、私も娘さんも同じように人間だと答えるであろう。人間はそれぞれ特殊性をそなえているが「その中に同時に普遍相を持つ」からこそ、これを抽象して一般的な認識をつくりあげ、質問したり答えたりできるわけである。

 われわれは結婚したり養子になったりすると、姓を変更することがある。固有名詞も条件によって変化するのであって、昨日までは木村であったのが結婚して川島になり、年賀状の署名に(旧姓木村)などと括弧註(かっこちゅう)を施(ほどこ)したりしている。これは人間個人の感性的な・実体的な・ありかたと直接の関係なしに、役所へ届けを出せば、それで変るのであるが、変るにはやはりそれだけの現実的な根拠があるのである。現実的に何が変ったかといえば、家族関係である。家族関係は、感性的な目で見え手でつかむことのできる生きた人間のむすんでいる関係ではあるが、この関係それ自体は目で見ることも手でつかむこともできない、超感性的な存在であり、しかもそれぞれ質的に異っている。ある個人が、それまで所属していた家族との関係を絶って、他の個人あるいは他の家族との関係をつくり出すとき、その関係の変化をとらえて固有名詞を変えるのである。

 対象には以上のようにさまざまなありかたがある(2)。そして感性的なありかたの中の差異を捨象したり、感性的なありかたそれ自体を捨象したり、あるいは超感性的な存在をとらえたり、そのとらえかたには差異があるけれども、「一般化」するなり「普遍相」をとらえるなりして、あらゆる対象を言語表現で扱うことができる。つまり、「一般化」して表象としてから概念化するなり、あるいは直接に「普遍相」を概念としてとらえるなりして、それを表現するのであるから、概念以前の対象や認識のありかたの差異は表現の向こう側にかくれてしまって、聞き手や読み手が言語表現から直接にとらえることができるのはすべて話し手や書き手の概念でしかないのである。

(2) 永田は記号を物の「存在」を示すものと見たのであるが、その「存在」自体が実はさまざまでありながら「一般化」されていることを把握しなかった。言語表現ととりくむことをしないで、輸入した哲学の文献に依存する、哲学者の限界である。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(70歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説を学びながらことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことをマイペースでやっています。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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