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『認識と言語の理論 第二部』2章(5) 概念の要求する矛盾 [PC版ページへ]
2018/11/05 09:53

『認識と言語の理論 第二部』2章(1) 客体的表現と主体的表現
『認識と言語の理論 第二部』2章(2) 記号における模写
『認識と言語の理論 第二部』2章(3) 小林と時枝との論争
『認識と言語の理論 第二部』2章(4) 言語における一般化
『認識と言語の理論 第二部』2章(5) 概念の要求する矛盾
『認識と言語の理論 第二部』2章(6) 言語表現と非言語表現との統一

『認識と言語の理論 第二部』2章(1)〜(6) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第二章 言語表現の二重性 (5) 概念の要求する矛盾


〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.381 

 概念とよばれる認識は、特定の個物を対象とした場合にその普遍性を抽象しているのだが、この概念それ自体は頭の中の精神的な特定の個別にほかならないのである。認識の内容は個別を超えた普遍性でありながら、形式としては個別でしかないというのは、これまた一つの矛盾であり、認識における内容と形式の矛盾として理解すべきものである。具体的にいえば、人間も犬も猫も鳥も木も花も山も川も、特定の個別として存在すると同時にそれはある種類に属するところの類的存在であるから、類としての普遍性を持っており、この普遍性を抽象することによって、それぞれの個々の概念がつぎからつぎに頭の中に成立するわけである。

 われわれの感性的なありかたは絶えず変化しているにもかかわらず、人間という種類に属している事実は一生の間変化することがない。これを論理的にいうならば、ここに特殊性と普遍性という二つの側面が対立しながらも統一されており、両者は切りはなし得ないにもかかわらず一つの側面が他方と関係なしに変化し運動するという、相対的な独立を示している。

これと同じことが、これらを反映した認識についてもいえるのであって、感覚や表象を通じて概念が成立したという点では概念と感性的な認識とは切りはなしえないにもかかわらず、概念は感性的な認識と関係なしに運動できる。それゆえわれわれはこの概念の相対的な独立を利用して、概念を頭の中で運用し思惟(しい)しようとするのであるが、そこでたちまちぶつかるのは、概念が感性的なものを捨象してしまっているという意味で感覚や表象に対立しており、超感性的であるにもかかわらず、これらを運用するためにはそれぞれを正しく区別して扱わなければならぬという問題である。

つまり、個々の概念はいずれも異った認識なのであるから、それなりに区別しなければならぬにもかかわらず、いづれも同じように超感性的でありいわば透明な認識であるために、それ自体にはそれらを区別するに必要な手がかりが存在していないという問題である。このままではそれらを運用し思惟することができない。

だがわれわれは現に概念を運用し思惟しているのであるから、この問題を解決したことは疑いない。自分では解決したにもかかわらず、どのようにして解決したかその方法についての自覚を持っていないだけである。マルクスのことばをかりると、「彼らはそれを意識していないが、しかし彼らはかく行うのである。」(『資本論』)どのように行っているかを検討しなければならない。

 まず、現実の事物をわれわれはどう区別しているか、それから反省してみよう。ある事物がどんな種類に属しているかは、そのその種類に共通した感性的な特徴をつかんで、それを手がかりとして判断をすすめていく。犬はワンワンとほえ、猫はニャーゴとなき、鳥は空をとび、人間はまっすぐに立ってあるくというような、それなりの独自な感性的な特徴があることに目をつけて、未知の動物に接したときにもその鳴き声や行動のありかたから、たぶんこの種類に属しているものであろうと見当をつけていく。魚は水の中に棲(す)んでいるという特徴から、クジラを魚の一種だと思ったり、鳥は空をとんでいるという特徴から、コウモリを鳥の一種だと思ったり、誤った判断を下すことも時にはあるのだが、大体の見当はつくのである。

ところが問題は、感性的な特徴のつかみにくい存在であり、透明な事物である。ガラスの板とプラスチックの板とは、重さを調べてみれば大体区別がつくし、水とアルコールとガソリンとは、臭気をかいでみれば大体見当がつくし、食塩水と砂糖水と酢酸とは、なめてみれば大体見当がつくというように、見たところ透明な事物を区別するための手がかりはあるにはあるが、見るだけで区別せよといわれたのでは手のほどこしようがない。

六つのガラス瓶(びん)にそれぞれ性質の異った透明な液体を密封して、正しく区別して扱えといわれても、扱いようがない。頭の中に成立した諸概念を正しく区別して運用し思惟しようとする場合にも、すべて透明だという点でちょうどこのガラス瓶の場合と同じ事態にぶつかっているのである。

 それでは、ガラス瓶の中に入っている透明の液体を区別するという問題を、われわれはどのように実践的に解決しているであろうか、おそらく読者は、すぐに答えるにちがいない。「そんなことは簡単だ。瓶に液体を入れるとき、レッテルをはって中身を明かにするために文字なり記号なりを書いておけばいい。あとからそれを見ればすぐ区別できる。」

――まったくそのとおりである。誰でもそんなことは実行している。ただ、それがどんな論理構造を持っているかについて、意識していないだけである。

ここではまず透明な超感性的な存在が与えられ、それらは感性的に区別できないにもかかわらず、瓶の上からレッテルの文字や記号という感性的な存在をむすびつけてやるのであるから、ここに超感性的な存在と感性的な存在との対立の統一が生れ、一つの矛盾がつくり出されたことになる。しかもこの矛盾がつくり出されることによって、問題が解決したのである。

これを別の側面から見るならば、透明な液体それ自体も、見たところはみな同じに見えるが質的に異っているという矛盾した存在なのであって、この質的な差異に対応するようなレッテルの文字や記号を与えるという方法をとるのであるから、これによって矛盾が視覚的な存在にまで発展させられたことになる。

 自称マルクス主義者の矛盾論では、すべての矛盾は闘争することになっており、闘争しない調和する矛盾も存在するのだからそれも認めるべきだというと、そんな主張は修正主義だとはげしく攻撃してくる者が多い。だがいまの透明な液体と瓶のレッテルの文字や記号とは、何ら闘争しているわけではなく、液体の質に調和し照応した文字や記号がむすびつけられている。闘争の結果矛盾が消滅して解決するという矛盾も多いが、この場合は瓶のレッテルをはがしてはならぬとか文字や記号を消してはならぬとかいわれるだけで、つくり出した矛盾を消滅させるな維持していけと主張しているのであるから、それらとは異質の矛盾だということも明かである。

この矛盾は非敵対的矛盾で、矛盾を実現し維持していくこと自体が解決なのである。……われわれは……生活の中で実践の必要上いろいろ非敵対的矛盾をつくり出している……

 人間は現実の世界の事物の区別の方法を、意識することなしに概念の区別にも適用して来た。頭の中の超感性的な透明な認識を区別するために、ガラス瓶のレッテルに文字や記号を書くのと同じような方法をとったのである。超感性的な概念に感性的な手がかりを与えて、それで区別をしながら運用し思惟するやりかたを、自然成長的に採用し実現させたのである。

概念は一方では対象の感性的な認識である感覚や表象と手を切って、感性的なありかたと無関係にになることによってはじめて概念としての自己を確立しなければならないと同時に、他方では自己を相互に区別するための何らかの感性的な手がかりを「恋して」おり、何とかそれと手をにぎって離れないでいたいと願うという、これまた矛盾した立場におかれている。それゆえ、この「恋」を何とかしてかなえてやり、概念にも瓶のレッテルの場合と似た矛盾を実現し維持していかなければ、思惟するという実践的な要求に応じることはできないのである。……

 

『認識と言語の理論 第二部』 p.384 

 さて、概念と手をにぎりむすびつくところの感性的な手がかりは、まず現実の世界での事物の区別のしかたから、自然成長的に生れてくると考えてよいであろう。現実の生活においては、犬と猫とを声で区別することから、犬の概念にはワンという聴覚映像がむすびつき、猫の概念にはニャゴという聴覚映像が感性的な手がかりとして結びつくであろうということも、想像するに難(かた)くない。人間がワンとかニャゴとか動物のなき声を模写(もしゃ)することも、対象のありかたを忠実にとらえ忠実に表現した場合と、この概念にむすびついた感性的な手がかりを表現してそこから概念を伝えようとする場合とを、区別しなければならなくなっていく。

 ことばをかえれば、擬声語が多く使われる時代を見いだすのであり、子どもが「ニャゴは黒ニャゴ、首輪は赤で、ニャゴよニャゴよとおどるニャゴほしや」などとうたっているのもほほえましい光景であるが、この背後には認識の発展における概念の感性的な手がかりの獲得という、重要な問題がかくれているのである。

これと同じように、現実の生活においては、太陽がつねに円形であるのに月は三日月形になって視覚的に区別できるところから、太陽の概念には円形の視覚映像が感性的な手がかりとしてむすびつき、月の概念には三日月形の視覚映像が感性的な手がかりとしてむすびつくであろうということも、想像するに難くない。人間が円形を描いたり三日月形を描いたりすることも、対象の感性的なありかたを忠実にとらえ忠実に表現した場合と、この概念にむすびついた感性的な手がかりを表現してそこから概念を伝えようとする場合とを、区別しなければならなくなっていく。ことばを変えれば、絵画象形文字との区別があらわれてくるのである。

 人間が対象を一般化してとらえる点では、現在のわれわれも原始社会の人びとも変るところがない。

その相異は、われわれがきわめて多くの概念をつくりあげて駆使するのに対して、彼らは一方では事物を超現実的なむすびつきにおいて神秘化したかたちで一般化するとともに、他方では感覚的なさまざまな印象から位置やかたちのありかたを一般化してとりあげて、対象それ自体の内部へと深く入りこんでいなかったところにある。まだ抽象的な推理がほとんどできず、計算も二つか三つ以上は不可能な段階にある人びとが、他方では感覚的なさまざまな印象をきわめてこまかな部分まで忠実に記憶していて、それを言語に表現していたところにある。

この「一般化」はその多くが表象をほとんど出ていなかったために、表現にも身ぶり言語が多く用いられ、これに対応した豊富な語彙と複雑な文法とを持った音声言語が併用されたものと思われる。その実証的な研究にまで入らない人びとにしても、クンクン鳴く犬でもやはり「ワンワン」とよび、満月について表現する場合でもやはり三日月形を描き、木が一〇本でも一五本でも木を二つならべて「林」と書き、鋳貨でなく紙幣や小切手の場合もやはり親指と人差指で円形をつくって見せるというように、擬声語や象形文字や身ぶり言語に接すれば、その表現の感性的なかたちが対象のそれから遊離しているとはいえ、その表現のかたちがどこから生れてきたかを推測することは容易である。

だがここから人びとは、はじめ対象の感性的なありかたの忠実な表現であったのが、次第に忠実でなくなった、模写であったのが次第に模写でなくなったと、現象的な解釈をしがちである。なぜ表現のかたちが対象のそれから遊離することができたのかと、遊離することのできた理由をさぐって、見たところ対象の感性的なありかたを忠実にとらえ忠実に再現しているように思われる擬声語や象形文字が、すでに物まねや絵画と本質的に異なっていることや、言語表現の持っている感性的なかたちそれ自体は決して言語としての表現でないからこそ対象の感性的なありかたからいくらでも遊離できたのだということを、理解すべきであったのである。

擬声語や象形文字の表現の感性的なかたちは、物まねや絵画のように直接に対象からひき出されて来たものではなくて、概念の感性的な手がかりからひき出されて来たものであり、その意味で、表現のかたちと概念の感性的な手がかりとの間に相互関係が成立し発展していくのである。

 それでは、言語としての表現はいったいどこにあるのか。時枝は事実上その答を提出していながら、それに気がつかなかった。「一切の特殊的現象は、その中に同時に普遍相を持つといふこと」が「一切の事物について云ひ得る」ならば、それは言語表現における音声や文字についても妥当するはずである。

「イヌ」という音声は人によって異るし、また同一人が語ってもそれぞれの場合に異っているから、この感性的な具体的な音声はすべてそれなりの特殊性をそなえている。「犬」という文字も楷書・行書・草書・ネオンサイン・電光ニュース等々、感性的な具体的なありかたはすべてそれなりの特殊性をそなえている。だがそこには「普遍相」が存在するのであって、それをわれわれは同じ語彙に属するものとしてとらえている。さらに端的にいうならば、それらの音声や文字は同じ種類に属するという普遍性につらぬかれている

たとえ、感性的な具体的なありかたとしてどんなに異っていても、行書で書かれた原稿用紙の文字を活字や電光ニュースで複製することが許されたり、あるいは文字を読みあげて音声で複製することが許されたりするのは、ほかならぬ種類として同一と認められているからである。これは、種類としての普遍的な側面こそが言語としての表現であって、種類として対応する複製ならば感性的にどのような変化があろうとも表現として忠実な複製であることを、実践的に承認しているのである。

たとえ、小さな感性的な変化であっても、「犬」の点の位置を変えて「太」にしたり、pig の線をずらして big にしたりすることが許されないのは、それによって文字が異なった種類のものに転化してしまうからであって、感性的な変化それ自体の問題ではないのである。

 われわれが言語によって表現するということは、音声や文字を創造することにはちがいないが、その感性的な具体的なかたちそれ自体で表現するのではなくて、その音声や文字を一つの種類として創造することによってこの種類としての側面で表現するのである。対象の感性的なありかたわ感覚として忠実にとらえ絵画やカラー写真に忠実に表現するのが模写であるならば、対象を類的存在において概念として忠実にとらえ音声や文字の類的構造において忠実に表現するのもこれまたりっぱな模写でなくてなんであろうか。自称マルクス主義者である永田や原の主張とは反対に、人間は対象を類的存在において概念として忠実にとらえ、これを模写として忠実に表現すべき実践的な必要に迫られたところに、自然成長的に言語が成立したのであり、符合や記号を概念の摸造・映像と認めることこそマルクス主義言語理論にとって不可避なのである。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

『認識と言語の理論 第一部』1章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』2章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』3章(1)〜(5)

『認識と言語の理論 第二部』1章(1)〜(8)

『認識と言語の理論 第二部』2章(1)〜(6)

『認識と言語の理論 第二部』3章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第二部』4章(1)〜(9)

三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき

三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章

三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』 まえがき



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