『認識と言語の理論 第二部』2章(6) 言語表現と非言語表現との統一(PC版ページへ)

2018年11月06日03:08  言語>表現論

『認識と言語の理論 第二部』2章(1) 客体的表現と主体的表現
『認識と言語の理論 第二部』2章(2) 記号における模写
『認識と言語の理論 第二部』2章(3) 小林と時枝との論争
『認識と言語の理論 第二部』2章(4) 言語における一般化
『認識と言語の理論 第二部』2章(5) 概念の要求する矛盾
『認識と言語の理論 第二部』2章(6) 言語表現と非言語表現との統一

『認識と言語の理論 第二部』2章(1)~(6) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第二章 言語表現の二重性 (6) 言語表現と非言語表現との統一

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.389 

 言語表現は、人間が自然成長的に工夫しつくり出したものであるとはいえ、きわめて合理的な構造を持っていることが、以上の検討で推察できるのである。

概念は超感性的でありながら感性的な手がかりを必要とする、人間の認識それ自体の非敵対的矛盾が、概念を直接に表現しようとする言語表現においても、この認識の矛盾に照応した表現の矛盾を要求してくることになり、音声や文字が種類として超感性的でありながら具体的な感性的なかたちを持つということになったのである。

ガラス瓶の中の透明な液体とレッテルの上に書く文字や記号のかたちとは相対的に独立している。ガソリンの瓶のレッテルに「ガ」と書こうが「」と書こうがあるいは「!!」と書こうが、そんなことは自由である。同じように、概念はそれとむすびつく感性的な手がかりとも相対的に独立していて、ニワトリの概念に「コケコッコ」をむすびつけようと「クックー」をむすびつけようと「トト」をむすびつけようと、そんなことは自由である。さらに、音声や文字の種類とその感性的な具体的なかたちとの間も相対的に独立していて、ブリューブラックのインクで走り書きした原稿の文字を黒いインクの活字体で複製しようと、赤や青のネオンサインで複製しようと、そんなことは自由である。

この感性的な具体的なかたちの面は、言語表現ではなくて、概念にむすびついている感性的な手がかりの模写という、言語とは別の表現の系列に属しているからである。そしてこのことは、この言語表現とは相対的に独立した感性的な具体的な表現の系列を、非言語表現として意識的に活用する可能性をわれわれに与えているし、現に大いに活用されている。

音声言語から相対的に独立した感性的な具体的な表現の系列を音楽として作曲するところに、歌唱とよばれるものが成立し、文字言語から相対的に独立した感性的な具体的な表現の系列を絵画として創造するところに、文字デザインあるいはとよばれるものが成立している。これらは二つの対立する表現の系列が統一されているばかりでなく、歌唱にあってはそのうたい手の創造の中に作詞者および作曲者の創造が複製再現されているために、これを綜合芸術として扱っているのである。

言語表現の持つ矛盾を理解しなければ、この歌唱の論理構造をとらえることはできないから、言語学者はこのような問題に触れようとはしない。私はこの音声や文字が言語表現と非言語表現との二つの系列を統一している事実を、「言語表現の二重性」あるいは「言語で表現される認識の二重性」と名づけた。

 文学の作者が、文字の言語表現だけでなく非言語表現をも活用した例として、高柳重信の俳句の分かち書きがある。

 これはつぎの宮沢賢治の詩の形式と、同じ系列に属するものである。

 荒木亨はこれを引用して、この詩の「絵画的効果などは、言語理論の如何(いかん)にかかわらず、容易に否定し難いところ」だと指摘し、さらに時枝に向って言語過程説が「従来の音楽性・絵画性の考えをその内部に包摂するよう努力すること」を求め、それによって時枝理論は「一層完全になるように思われる」といった(1)。この荒木の意見はまったく正当である。言語表現の二重性は、これらの例が示すように文章において明かなかたちをとるのだが、これらの例の検討はすすんで個々の語それ自体がすでに言語表現と非言語表現との統一であることの検討へ、さらにその表現の矛盾の背後にある認識の矛盾についての検討へと発展しなければならないのであるから、時枝が荒木の要求にいまもって十分にこたえていないとしてもそれはやむをえないことだと思われる。

 言語表現が対象の感性的に忠実な模写でないという点は、映画至上論者によって言語の弱点として誇大にとりあげられている(2)。時枝はこの弱点が同時に長所でもあることを、「受取る読者の自由な肉付けの余地を残してゐるという点で」、指摘している。われわれは言語表現が対象の感性的に忠実な模写でありえないという性格を、まず表現の側での短所および長所として考えてみよう。

忠実に模写できないという短所は、同時に忠実に模写する必要がなく対象の感性的なありかたに足をひっぱられないという長所でもある。この章のはじめに、われわれは写真や絵画にあっては客体的表現と主体的表現とが一つの画面に不可分なものとして存在することを、その特徴としてとりあげておいた。たとえば主体的表現に重点をおいても、客体的表現がついてまわって足をひっぱることを指摘しておいた。

言語表現にあっては、対象の感性的なありかたに足をひっぱられないし、また作者の感性的な・空間的な・位置が否応なしに表現に示されるという制約からも解放されている。すなわち主体的表現ぬきの客体的表現ということが、言語表現にあっては可能であり、また客体的表現と関係ない独立した主体的表現ということも可能である。すなわち言語表現は対象の感性的な模写から脱することによって、主体的表現と客体的表現とが分離して発展する可能性を与えられ、さらには一つの語彙がその双方に用いられる可能性をも与えられたことになる。時枝はこの分離の可能性について語ってはいないが、二種類の対立した表現がありそれらが相互に転化することを具体的に指摘した。これは大きな功績と評価されなければならない。

「らしい」という語にも、つぎの二つの使いかたが行われている。

 (1) 彼は学生らしい態度を失わなかった。
 (2) 昨日訪ねて来たのは学生らしい

 文法でも、(1)を接尾語、(2)を推量の助動詞として区別しているのだが、これは単に内容が異っているだけのちがいではない。(1)はこの話し手が対象としている人間の状態をとらえて表現しているのであるから、客体についての表現すなわち客体的表現である。これに対して(2)はこの話し手が対象としている人間についての自分の推量すなわち主観をそのまま表現しているのであるから、主体の側の認識のありかたの表現すなわち主体的表現である。まず、(2)の主体的表現としての使いかたが行われ、それから推量の対象の状態を表現する(1)の客体的表現としての使いかたが生れたものと考えられるが、ある語彙がその形式を変えることなしにまったく対立した性格の表現へと移行するところに、言語表現の特徴を見ることができよう。

 時枝はこのような二つの使いかたに「根本的な相異」を見出したのであって、その第一歩はすでに学生時代の「客観の世界の表現」「主観の世界の表現」という区別にはじまっている。学生時代の分類の「私案」と一九三七年の論文としての発表について、時枝は書いている。

 一、表象を表はす言葉――客観の世界の表現――名づくるといふ作用が明瞭になってゐる。
 二、情意を表はす言葉――主観の世界の表現――心的内容そのものを表現する。

 助詞助動詞と他の品詞との間には、かなり根本的な相異があることは、以前から注意してゐたことで、これに、第一次表現、第二次表現といふやうな名称を与へて区別して見たりしてゐたのであるが、具体的には、それが何の別に基づくかは、容易に理解出来なかつた。ここに大きな示唆を与へて呉れたものは、本居宣長の門下である鈴木朖(あきら)が与へた規定である。

朖は、語をてにをはと三種の(し)(名、作用の詞、形状の詞)とに分(わか)ち、は物事をさし表はしたものであり、てにをはは詞につく心の声であるとした。もしこれを、今日の言葉をもつて云ひ表はすならば、は表現素材の概念化、客体化による語であり、てにをはは話手の直接表現による語であるとすべきである。この単語分類の基準の設定は、その中に多くの問題とすべき事項を含んでゐるのである。言語を研究対象として把握するためには、解釈作業を前提としなければならないこと、助詞助動詞に属する語の範囲の問題、助詞助動詞と接尾語との本質的相異の問題、更に根本において、話手である言語主体の問題等を含み、私は勢(いきお)ひこれらの問題を解明する必要に迫られた。(時枝誠記『国語学への道』)

 この分類を、彼はもっとも根本的な性質にもとづく分類と理解し、埋もれていた遺産を継承し発展させることによって従来の言語理論を再検討し改作するという大仕事に着手したのである。

 詞辞(しじ)の分類名目は今日に於いても文法上の術語としてかなり広く用ゐられてゐるのであるが、これを概念過程を含む形式、概念過程を含まぬ形式の語の名目と見ることによつて、古来の用語法の本意を掴(つか)むことが出来ると考へるので、実は古い術語の借用ではなくして活用なのである。……私は今、自己の論理的結論から見て、朖の説を正しとするのではなく、寧(むし)ろ、嘗(かつ)て国語学史を調査して朖の学説を吟味した際、彼の到達した思想が、泰西の言語学説の未だ至り得なかつた上に出てゐることに驚嘆し、そこに啓発されて、ここに論理的に彼の学説の展開を試みたのである。……

……語を詞と辞に二大別することは、語の意味内容によるものでもなく、又語が独立するか否かによるものでもなく、実に語の最も根本的な性質に基(もとづ)く分類である。(時枝誠記『国語学原論』(3)

 日本語で古くから詞および辞とよばれているものは、私のいう客体的表現および主体的表現に一致するのであって、時枝がこれらの古い術語を活用しようとしたことはあやまりではない。それでは詞および辞とよべば、もはや客体的表現とか主体的表現とかいう術語は不要なのかというと、決してそうではない。なぜなら、言語表現に不可分についてまわる非言語表現においても、これまた客体的表現や主体的表現が存在するのであって、これが言語表現における主体的表現や客体的表現にからみ合ってくるからである。時枝は言語表現の二重性を見おとしたために、これらのからみ合いを正しく区別して説明することができず、混乱が生れることとなった。

(1) 荒木亨『文学における言葉の機能――言語過程説の具体的検討――』(『文学』1959年12月号)

(2) 「文字は現実の抽象で実物とは似ても似つかぬものです。『人』という字も『花』という字も、実際の人や花とは何ら共通するところもありません。それは私たちにとってただの記号にすぎないものです。『文学はそれを読解し、それに必要な想像力を養うための長い練習の期間を必要としています。また読者は抽象的な文字から具体的なイメーヂをつくりだすための努力を要求されます。しかし映画はこの努力を必要としません。まったく無教養な人たちが、チャップリンの喜劇のをかし味やシリー・シンフォニーの楽しさを理解できます。彼らにはイメーヂを思い浮かべる手数がまったくはぶかれているからです。」(今村太平『映画論入門』)

(3) 詞と辞の区別は、時枝の意味における「内容」からすれば「内容によるものでもなく」性質によるものだということになるが、これこそ正しい意味での表現内容に基(もとづ)く区別なのである。

 

『認識と言語の理論 第二部』 p.395 

 さきに示した俳句や詩にあっては、「谷間」や蛾(が)の「飛び立つ」ありかたを絵画的に示しているわけであるが、これらは言語表現としての客体的表現と非言語表現としての客体的表現との統一ということができる。客体についての認識が二つの表現系列で二重に表現されているといってもいい。だがこのような二重の表現は特殊な文字だけに見られる例外ではなくて、われわれの日常の会話にもつねに見られるものである。

他の人間に「おい!」とよびかけるような、もっとも単純な表現をとってみても、これは間投詞または感動詞とよばれ、自分の訴えかける意志を表現するものであるから、言語表現としては辞に属するもので主体的表現といわなければならない。ところがこの表現には感情が伴っていて、親友には親愛の感情をこめ、臆病者には軽蔑の感情をこめ、敵には憎しみの感情をこめて声を出すために、語彙には変りがなくても音声の感性的なありかたいわゆる声色(こわいろ)がちがってくる。それで、よびかけられた人間も、自分がよびかけられていることだけでなく、話し手がどんな感情を持っているかを大体推察するのがつねである。これは話し手の能動的な認識が、意志と感情とが、言語表現としての主体的表現と非言語表現としての主体的表現という二つの表現系列で、二重に示されているわけである。

「バカ!」という場合には、言語表現としては詞に属するものであって、客体的表現といわなければならない。しかしこの語彙は、対象について話し手が特殊なとらえかたをしているために、客体的表現ではあってもそこから話し手の主観を読みとることができ、従的ではあるが主体的表現の面をも持っていることは否定できない。それゆえこれは、詞に属しながら辞的性格が浸透しているもの、客体的表現と主体的表現とが未分離のものとして扱うべきであろう。

しかも、これを語る場合には、言語表現に浸透している軽蔑感だけではなく、それと同時に存在する怒りや、憎しみや、悲しみや、あるいは愛情などが、非言語表現としての主体的表現すなわち声色によって示されるのがつねである。頑固おやじがいたづら息子を叱りつけるときの声色と、新婚の夫が妻の失敗をいたわるときの声色とは当然ちがってくる。わずか一語ではあっても、言語表現としての客体的表現とそれに統一されている主体的表現と、さらに非言語表現としての主体的表現と、三重の表現によって複雑微妙なものを読みとることが可能なのである。

「こんにちは!」とか “Good morning” とかいう挨拶ことばは、それ自体としては客体的表現であるが、客体的表現としてそれぞれ規範によって規定されている意味と、挨拶ことばとしての内容は同じではない。これは客体的表現の形式をとってはいても、特定の対象について語ることに重点があるのではなくて、相手に親愛の情を抱いていることを示したり自分の存在をよびかけたりするための表現なのである。親愛の情は言語表現には示されておらず、それはもっぱら非言語表現が受け持つ(4)のであるから、平社員が重役に向っていうときと、魚屋のご用聞(ごようきき)が勝手口でいうときと、教師が生徒の挨拶にこたえるときと、それぞれ声色がちがってくるし、親愛の情を持たない通り一ぺんの口さきだけの表現も行われているわけである。

客体的表現が形式にとどまっていることから、「こんにちは!」が「ちは!」というようにいわば退化する現象もあらわれてくる。挨拶ことばは、普通の会話から客体的表現の内容が変化していくかたちで成立することも多く、主婦が道であったときの「どちらへ?」「ちょっとそこまで」というやりとりも、挨拶ことば化している場合がすくなくない。特に行先を問いただしているわけでもなければ、それに正面から答えようとしているわけでもなく、相手の質問に腹を立てるわけでもなければ、曖昧な答に不満を示すわけでもないのである。社交的なやりとりでしかないのである。

 右の例から読者も気がついたと思うが、言語表現に伴うところの非言語表現は、音声言語の場合と文字言語の場合とで異ってくる。音声言語の場合には主体的表現としての非言語表現が伴うことが多いのに対して、文字言語の場合には客体的表現としての非言語表現が伴うことが多いのである。しかもこれはさらにからみ合ってくる。たとえば詩の場合には、文字言語として表現されてはいても、読者がこれを読むときには音声言語として発音したり、あるいは発音せずに黙読したりすることを予想できるから、音声言語としての非言語表現と文字言語としての非言語表現とを二重に意識して創造することも試みられるわけである。

だがこうなると、客体的表現と主体的表現の区別もできなければ言語表現と非言語表現の区別も出来ない学者では、会話のときのことばのやりとりも、詩の「視覚効果」やリズムも理解できない。非言語表現が言語表現といっしょくたにされ、非言語表現の内容までが言語としての「意味」にされてしまうのである。しかも形式主義者は、声の出しかたによって特殊な「意味が生れる」かのように、さらに逆立ちさせて解釈するからまさに戦慄(せんりつ)的である。

 「さう」という一語も、それが使用された前後の状況と、使用者の引きのばし方、アクセント、抑揚、強弱、その他のニュアンスによって、無数の異なる意味が生れる。(大熊信行『現代文章の問題』)

 ソシュールが「言語活動は、全体として見れば、多様であり混質的である。」といって具体的な言語表現の検討から逃げ出したり、あるいは言語学者の多くが「意味」論をタナあげしたりするのも、表現構造をとらえることができず手が出せないからである。時枝はソシュールを「具体的対象より逃避」と批判したが、彼も言語表現と非言語表現との区別なしに、言語における感情表現の問題を説明しようとしたのだった。

 今、目前に火事を見て「火事」と叫んだ時には、この表現には、表象と同時に、この表象に対する判断、感情等が伴つてゐることは確かである。

 例へば「蛙飛び込む水の音」は、単に特定の音響表象ではなくして、かかる表象の表現と同時に、それに志向する複雑な感情が、言語形式零(れい)の形を以てこの客体的表象を包んでゐると考へられる。図によつて示せばは零記号を表している――引用者・シカゴ)

┌────────┐
│蛙飛び込む水の音│
└────────┘

これが文と認められる所以(ゆえん)である。但しこれらの場合、言語形式が全く零の場合であると見るのは、正しくないのであつて、何等(なんら)かの形式即ち抑揚、強弱等によつて表されてゐると見るべきで、このことは既に述べた如くである。(時枝誠記『国語学原論』)

 彼のいう「言語形式」には言語表現と非言語表現とが存在するにもかかわらず、それが区別されていない。表現のときの「何等かの形式」は、すべて言語表現の形式と考えられている。もし「蛙飛び込む水の音」と音声で語ったとすれば、そのときの話し手の感情の表現は「こんにちは!」の場合と同じように、この客体的表現全体を通じて非言語表現によって行われるであろう。そしてその意味では、感情が表象を「包んでゐる」ように受けとられるわけである。これに対して、文の終りに「よ」とか「かな」とかあるいは「なり」とか、言語表現によって主体的表現が行われることがあり、この文ではそれが言語形式零(零記号にて示す)として扱われるのであるが、これは当然非言語表現とは区別さるべき問題である。

時枝は二つの異った系列の表現の問題を、それがともに主体的表現であるところから混同してしまって、そこから言語表現による主体的表現すなわち辞に対して、詞を包むという機能を認めるところにふみはずしていった(5)。しかもこれは観念論の一種である現象学によって認識論的にささえられ、「文を主体的統括作用によって説明しようとする点で、山田博士の統覚作用の説と根本に於いて相通ずるものである。」と、結局においては山田のカント的解釈と癒着する結果になるのである。

 言語表現における客体的表現と主体的表現との分離およびその相互転化が、なぜ日本の学者においてとりあげられたのにヨーロッパの学者においてとりあげられなかったか、その理由を考えてみることもけっして無意味ではない。その大きな理由として、つぎの二つをあげることができよう。

その一つは、日本語の表現構造が原始的な単純なものだという点にある。日本語は大陸から多くの漢字漢語を輸入吸収することによって、複雑多様な表現が可能になり、その意味では飛躍的な発展を示したと同時に、他方では独自の発展が阻止されて表現構造としては原始的な単純なものにとどまった。そのために、昔の国語学者も直観的に本質的な区別を与えることができたのである。

ヨーロッパの諸言語は表現構造が現象的に複雑化していて、名詞のような客体的表現あるいは繋辞(けいじ)のような主体的表現もあるが、動詞においては語尾変化のかたちをとって客体的表現と主体的表現とが癒着結合している。これは現象的には一語としか見えない。日本語のように動詞+助動詞として二語として理解することを、現象が妨害している。そのために、ヨーロッパ諸言語の現象的な解釈を日本語に持ちこんで、助動詞を一語として理解するのではなく語尾変化として解釈しようとする、自称革新的言語学者の改革的文法論さえあらわれてくる始末である(6)

いま一つは、ヨーロッパの言語学者の哲学的立場が制約になったという点にある。彼らはソシュール学派やカッシラーに見られるように、不可知論ないし観念論の立場に立って言語表現を説明しようとする者がその大部分を占めている。それゆえ、そもそも客観と主観とか客体と主体とかいう関係を正しく理解していなかったり、この区別を否定したりする状態なのである。

客体の反映としての認識の表現が客体的表現となり、これから相対的に独立して生れた感情や意志の表現が主体的表現となるというような区別は、唯物論の立場に立ってはじめて与えられるのであるが、彼らは唯物論の立場に立つことを拒否している。新カント主義ともなれば、すべての認識は「自己創造的」であって、対象の忠実な反映と区別するなどということははじめから考えていないのであるから、表現の本質的な区別が出てくるわけがない。

 しかしながら、客体的表現と主体的表現との分離はどの言語にも共通しているのであって、記号論理学の諸記号さえその例外ではありえない。それゆえ現実の言語のありかたは、中でも論理実証主義者のように意味論を追求する人びとに対して、この分離を認めるよう強制してくることになる。現に、スティヴンソンの『倫理と言語』(一九五〇年)にあっても、言語に「叙述的意味」を持つものと「情緒的意味(emotive meaning) を持つものとを区別しながら倫理学について論じているのである。

 日本の言語学者ないし国語学者が、鈴木朖の規定をなぜ正当に評価できなかったか、それについてもいくつか理由が考えられる。その一つは外国の言語学に対する盲信ないしコンプレックスであって、明治以前の国語研究など幼稚な非科学的なものときめてかかり、外国の言語学で説くところとくいちがっているような主張は頭から蔑視する傾向である。

いま一つは国語研究を蔑視しない学者であっても、認識論的にふみはずしていたりあるいは常識以上に出られなかったりして、朖の規定が理解できない場合が多い。たとえば辞を「心の声」であると説明しているが、これを常識的な心の意味に、すなわち認識一般の意味に誤読したりするのである。

(4) 時枝も挨拶ことばをとりあげて、「相互の感情の融和をはかる媒介としての機能」すなわち「社交的機能」を持つことを指摘している。しかしそれが非言語表現によってなされることは無視され、「表現の行われる環境によって決定される」と説明されているのである。

(5) 言語表現としての一つの文は、非言語表現として主体的表現を伴(ともな)う場合もあれば、また客体的表現を伴う場合もある。前者の場合を辞の機能だと解釈しないで、別の主体的表現だと理解するならば、宮沢賢治の詩のような後者の場合も、別の客体的表現だと理解する道が開かれたであろう。時枝は前者をあやまって解釈したために、後者を理解する道をも閉(とざ)してしまったのである。

(6) こういう解釈で文法の教科書をこしらえて、小学校の子どもを教育しようとする試みさえ行われている。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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