『認識と言語の理論 第二部』3章(1) 身ぶり言語先行説
『認識と言語の理論 第二部』3章(2) 身ぶりと身ぶり言語との混同
『認識と言語の理論 第二部』3章(3) 言語発展の論理
『認識と言語の理論 第二部』3章(4) 「内語説」と第二信号系理論
『認識と言語の理論 第二部』3章(5) 音声と音韻
『認識と言語の理論 第二部』3章(6) 音声言語と文字言語との関係
『認識と言語の理論 第二部』3章(7) 言語のリズム
『認識と言語の理論 第二部』3章(1)~(7) をまとめて読む
三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
第三章 言語表現の過程的構造(その一) (2) 身ぶりと身ぶり言語との混同
〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。
〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。
(2) 引用文中の太字は原著のものである。
(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。
(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。
『認識と言語の理論 第二部』 p.408
対象の感性的な模写としての音声でも、絵画でも、あるいは身ぶりでも、この非言語表現としての性格を捨てて、言語表現へと移行することができる(1)。いわゆる擬声語は、対照の感性的な模写から移行した言語表現であって、たとえば「かっこう」の声の模写としての性格を持つとともに鳥についての概念を表現しているわけである。この種のごく低い段階の音声言語と、身ぶりから移行した身ぶり言語とは、どちらが多種多様な現実の世界をヨリ広汎にとりあげることができるかといえば、それは後者である。身ぶり言語がこの段階で優勢であったとしても、別に驚くには当たらない。
この身ぶり言語の一時的な優勢は、やがて概念的把握の発展と音声言語の発展によって消滅することになる。それは言語の本質がそうさせるのであって、合理的な変化である。言語表現は、身ぶりであろうと音声であろうと、その種類の面でなされるのであって、物質的なささえ手から相対的に独立している。擬声語の「ワンワン」や「かっこう」は、概念に対象のなき声の感性的な模写が手がかりとしてむすびつけられているのであるが、手がかりは何も対象からみちびいてこなければならぬ必要はない。感性的で区別に役立ちされすればいいわけである。対象を文字言語で「犬」と表現するときは、概念にこの視覚映像が手がかりとしてむすびつく。音声言語で「いぬ」と表現するときも同じである。それゆえ、概念に新しい感性的な手がかりを連結させることによって、新しい言語規範をつくり出し翻訳することができるから、音声言語から文字言語への翻訳も身ぶり言語から音声言語への翻訳もすすめられていく。身ぶり言語がいかに豊富な語彙をもっていても、暗黒の中では相手に通じないし(2)、むこうを向いている者によびかけることもできないし、それに音声にくらべて重労働でもある。
それゆえ言語としての本質が、身ぶり言語の語彙を音声言語の語彙に翻訳し音声言語の語彙が豊富化するというかたちをとって発展していくときに、暗黒の中の相手にもむこうを向いている相手にも簡単に呼びかけることのできる音声言語に対して、身ぶり言語はその優勢を失うに至ったのである。だが身ぶり言語の弱点は同時に長所でもあって、向こうを向いている相手にさとられれることなく、マイクを使って盗聴されたり録音されたりすることなく、文字のようにあとに証拠を残すこともなしに、精神的な交通が可能なのであるから、音声言語や文字言語が大きく発展した現在でも、われわれはなおいくつかの身ぶり言語の語彙を持っている。親指と人差指で円形をこしらえて貨幣を表現したり、……、指のサインでテレビの出演者に意志を通じたり、しているわけである。
すべてが、言語表現がその物質的なささえ手から相対的に独立していることからくる、合理的な発展であって、これに勝ったとか負けたとかいう考えかたを持ちこむのは、一つには発展をすべて闘争的なものとする矛盾論の偏向からの悪影響であろう。
……………
映画と言語とは本質的に異なった表現であるが、どちらも表現としての共通点があるために、この共通点を誇張して本質的なちがいを無視する傾向も出てくるのである。特に形式にひきずられる者には、映画の演技としての手の動きすなわち感性的な表現と、身ぶり言語としての手の動きすなわち超感性的な種類としての表現とが、現象的に似ているために区別することができないで、同じものであるかのように思いこむ危険がある(3)。
……………
言語学者にしても、言語の表現としての性格を理解していなければ、身ぶりと身ぶり言語とを区別することができない。やはり形式にひきずられて、単なる身ぶりを身ぶり言語の中へ押し込んでしまうのである。
……………
……… 広い意味での身ぶりをすべて言語の一種であると認め、音声言語こそ本当の言語であるという考えかたのもとに、身ぶり言語は音声言語に従属するものであってそれだけの価値しかないと位置づけるのが、言語学者の間の定説といえよう。この従属説が、身ぶり言語先行説をとる者に、「下僕」になったといわせる一つの原因といえないでもない。
この定説はあやまりで、身ぶりの中にまず単なる身ぶりと身ぶり言語とを区別する必要がある。身ぶり言語は音声言語に従属するものではなく、語彙は少いが立派な言語であるのに対して、単なる身ぶりは音声言語に伴いそれの欠を補うものとして使われることが多いというべきである。
「釣り落した魚はこれくらいの大きさだったよ」とか、「花をいける花瓶はこんなかたちのがいいね」とか手を使って表現するのは、感性的に忠実な表現であって、いわば身体で描いた絵画であるから、身ぶり言語ではなく、単なる身ぶりにすぎない。
……………
言語と非言語との区別は、言語としての本質をそなえているか否かによってなされるのであって交通手段としての機能が偉大であるか極度にまずしいかによって区別されはしないのである。ジャイアント馬場と生れたばかりの赤ん坊と、その力においてどんなにちがいがあろうと、人間としての本質をそなえている点でわれわれは同一視するし、木鍬(きぐわ)も近代的トラクターも、労働手段としての本質をそなえている点では同一視することこそ正しいのである。
(1) 言語の本質から考えるなら、音声言語も文字言語も身ぶり言語もそれぞれ独立した言語の系列であり、その一つが基盤で他がその代用品であるとか従属的であるとかいう序列的解釈は成立しない。これは言語芸術である文学の中に、詩・小説・戯曲・シナリオ等多くの種類が存在していても、その一つが基盤で他がその従属物であるという序列が存在しないのと同じである。語彙の多少や語数の多少は形式上の問題であって、本質とはかかわり合いのないことである。
(2) マールは身ぶり言語の優勢が失われた理由を、生産の発展に伴って身ぶり言語がその弱点から実践的な要求を満足させられなくなったところに、求めている。
(3) 日本だけでなくヨーロッパにも「映画言語」という概念を持ち出す人びとがある。これは単なる比喩としてしか意味を持ちえないのであって、文字どおりに解釈するのはあやまりであり、映画理論を混乱にみちびくことになる。
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