概念を運用して思惟するための感性的な手がかりは、はじめ認識の対象となる事物の感性的なありかたの記憶から、表象的なものとして固定化したものと思われる。これはブリュールが「形象概念」(concepts-Images) と名づけているところの、原始社会の人びとの認識のありかたからも、当然に出てくる結論である。そして言語表現の感性的な具体的なかたちも、この表象的な手がかりの部分の模写として、擬声語や象形文字や身ぶり言語とよばれる形態をとっていた。
しかしこのやりかたは、実践の中でおそかれ早かれ限界にぶつからないわけにはいかないし、限界を超えるためにはやりかたそれ自体を根本的に変えなければならないが、この根本的な変化の可能性もすでに与えられているのである。
まず、認識それ自体の発展が、このやりかたを許さなくなってくる。人間の生活が次第に複雑になるにつれて、現象的にこまかな差異を記憶し判別することから種類としてとらえることへと、把握の重点が変っていき、いわば固有名詞的なとらえかたから普通名詞的なとらえかたへと変っていく。神秘化した「一般化」ではなくて、現実の世界の忠実な反映としての「一般化」がすすんでいく。
この発展は、概念の感性的な手がかりに影響しないわけにはいかない。感性的に複雑な存在とか、感性的には同じでも種類として異っている存在などを、概念としてとらえた場合にどんな感性的な手がかりを与えたらよいかという問題に、ぶつからないわけにはいかない。「生涯」とか「社会」とか「都市」とかいう概念にふさわしい、単純な感性的なてがかりを対象からみちびいてくることは不可能に近い。
「敵」と「味方」のように、感性的に同じような人間でありながら対立した関係にある場合の区別についても、同じことがいえる。また、それ自体として感性的なものを持たない対象についての概念、たとえば「関係」「価値」「無」などの認識にどういう感性的なてがかりを与えるか、これも解決しなければならない。
さらに一方では、言語表現が体系化および相互転換(翻訳)を必要としている。現実の世界それ自体が無数の種類の物ごとの相互のむすびつきにおいて存在するのであるから、これから強制されて、言語表現もまた個々の語のむすびつきと体系化が必要になる。身ぶり言語の豊富な語彙と体系化も、この現実の世界の視覚的なありかたに対応したものであるが、音声言語もまた音声による言語表現としてそれ自体の体系化をはかる必要にせまられることになり、音を出す事物も音を出さない事物も同じように音声言語で表現しなければならなくなるから、擬声語から象形音へとすすんで身ぶり言語の語彙に対応する音声言語の語彙をつくり出すことになる。
文字による言語表現も同じであって、目に見える事物も見えない事物も同じように文字言語で表現しなければならなくなると、象形文字のありかたも変ってくる。生活の複雑化と実践の発展は、言語表現に相互転換(翻訳)を要求することになる。音声言語の語彙に対応する同じ意味の文字言語の語彙が存在しなければ、音声として語った言語を記録し固定することができなかったり、文字として与えられた言語を読めない人間に音声に翻訳して理解させることができなかったりして、実践上に障碍(しょうがい)をもたらすからである。この対応にあっては、一方が擬声語や象形文字で対象の感性的なありかたからみちびかれていたとしても、それに対応し転換させられる音声や文字は、もはや対象の感性的なありかたとかかわり合いのないものになる場合が多い。
それゆえ、概念およびその表現である言語は、それにつきまとう感性的な部分のかたちを対象から断ち切る方向へすすまないわけにはいかないし、またさきに述べたように言語はその可能性を与えられている。クンクン鳴く犬や唖(おし)の犬を「ワンワン」とよんだり、満月を三日月に表現したり、擬声語や象形文字にあってもすでに対象の感性的なありかたからの遊離がはじまっているわけである。
それでは、概念を区別するために不可欠の感性的な手がかりについては、どういう条件がそもそも要求されていたであろうか。それは概念相互を区別するために、それぞれ異った感性的なかたちが与えられなければならぬという、ただ、それだけの条件である。概念が「恋して」いたのは、要するに感性的だという点であって、それがどこから与えられようと、その「身もと」に対して注文をつけはしない。
対象の感性的なありかたから与えられたのは、従来の習慣であって、もはや対象の感性的なありかたでは限界が来たからほかのところからつれて来るということになっても、すこしもさしつかえない。言語表現のほうで、対象の感性的なありかたから遊離した音声や文字のかたちへとズレて行って、これを概念の感性的な手がかりにしたらどうかと、従来とは逆の表現の側から誘いをかけられたとしても、よろこんでこの誘いに応じていけるわけるわけである。
それゆえ、概念を運用して思惟するのになくてはならない感性的な手がかりの根拠は、実践の発展の中で対象の側から表現の側へと逆転し、対象の模写から「自己創造的」なものへと転換するが、これによって認識と言語表現とのぶつかっていた限界が打ち破られ、大きな飛躍が実現する。
この場合、言語表現に用いられた音声や文字や身ぶりは、まだ完全に対象の感性的なありかたをぬけ出してはいない。またそこに、対象の側から表現の側へと概念の手がかりの根拠を逆転させる道も開けていたわけであるが、手を用いた身ぶり言語や象形を用いた文字言語にあっては、まだ対象の感性的なありかとのつながりを保存しながらもそれに「自己創造的」な部分を附加するような、過渡的(かとてき)な不明瞭な形態があらわれてくる。
漢字もこの種のものが非常に多く、その大部分を占めている形声(けいせい)とよばれる種類の文字はその代表的なものである。日へんの「明」「暗」「映」「昨」「時」のように、感性的なありかたから抽象的なありかたの表現へとすすんだり、木へんの「松」「梅」「材」「机」「札」のように、種類の区別から木によってつくった生活資料のありかたの表現へとすすんだり、つくりとよばれる部分の自己創造によって発展が行われているわけである。
擬声語や象形文字ならば、経験に照らしてその内容を理解することもそれほど困難ではないが、音声や文字の感性的なかたちが対象の感性的なありかたと縁を切ることになると、もはやそれに接するだけで内容を理解することはできない。話し手や書き手がどういう概念をその音声や文字の種類で表現したのか、それを知らないと理解が不可能になる。
それゆえ、おたがいに、この概念にはこの種類の音声や文字を使うことにしようと、意志を統一して社会的な約束をつくっておくことが必要になる。こうして言語に社会的な規範が成立し、語についての規範から文についての規範へ、さらには文章についての規範へと発展していくのである。現在の「吾々は一つの物をAといふ記号によつて、他の物をBといふ記号によつて表はすことが出来る」ということならば、「符合や記号は、それが表現する事物とは似ておらぬ」という感性的なちがいならば、誰だってすでによく知っている事実である。
問題は、なぜこのような自己創造的な記号による表現が可能なのか、それは人類の出現以来つねに行われて来たところの超歴史的な行為なのか、という点にある。マルクス主義者は、従来の哲学や言語学においてはかつて試みられなかった、概念における非敵対的矛盾の成立と発展を歴史的=論理的にたどるという仕事、すなわちなぜ自己創造的な表現が可能かつ必要になったかを実践と認識との発展の中で検討するという仕事を、すすめるための遺産を与えられているのであるから、不可知論者の口まねをする必要などすこしもないのである。この仕事を精力的に遂行(すいこう)するならば、言語の謎も消滅し、人間は言語表現以前にア・プリオリに「整序能力」を持っていたというような、超歴史的な・規範の成立を無視した・観念論的な解釈も終極的に克服されるのである。
たとえ自己創造的に語彙のありかたを決定できるとはいっても、それは言語表現の体系化によって規定されているばかりでなく、究極的にはやはり現実の世界のありかたによってささえられているのであるから、語彙のありかたそれ自体の歴史的な屈折や移行にもやはりそれなりの根拠が存在する。セントペテルスブルグは革命後に革命の指導者の名を反映してレニングラードとなり、スターリンの名を反映していたスターリングラードはスターリン批判ののちにヴォルガ河にちなんでヴォルゴグラードと改名した。東京の町名は江戸時代のものを受けついでいるところが多いが、駕籠町(かごまち)や馬喰町(ばくろうちょう)は特殊な職業の人びとが住んでいたり集まって来たりしたことから、春日町(かすがちょう)は特定の個人が住んでいたことから自然成長的に生れたものである。掃除町(そうじまち)も同じであるが、感じがよくないというので、大正のころに八千代町(やちよちょう)と改名した。
そこに邸(やしき)のあった大名の姓や、地形や、風景を町名にしたところも多いが、土地の歴史を反映している町名を役人が机上(きじょう)のプランで改名しようとすると、しばしば反対運動になやまされる。こんな文字は当用漢字表にないとか、小学校ではこんな読みかたは教えていないとか、もっと単純化したほうが便利だとか役人が結論づけても、住民にとっては改名によって土地の歴史から切りはなされることが堪(た)えがたいのである。言語表現のための社会的な規範は、重要な文化的遺産の一つであって、事務的な便不便を基準にして簡単に改廃すべきものではないということが、ここでも反省されなければならない。
企業経営者も、その生産するさまざまな商品に特定の名称を与えている。ここにも言語表現のための一つの規範が設定されるわけであるが、この名称も日常使われている言語規範からいろいろな屈折や移行によってつくられるのが常である。心臓薬が「救心」と名づけられ、毛生薬(けはえぐすり)が「加美乃素」と名づけられ、脱臭剤が「ノンスメル」と名づけられ、調味料が「味の素」と名づけられるというような、それらの内容あるいは機能を表現するものも多い。商品のありかたがそれに用いられる言語規範のありかたを規定してくることは、さらに商品の社会的性格についてもいえるのである。商品に国籍がないことは、言語規範をも無国籍的なものに変えていき、Coca-Cola や SONY のようなものが生れてくる。
商品に関する契約すなわち所有者間に成立する規範が法的な保護を受けるように、商品の所有者がつくり出した言語規範すなわち商品名もまた法的な保護を受けている。しかも、言語表現の二重性は、この保護のあり方をも特徴づけている。規範による言語表現だけでなく、文字デザインすなわち非言語表現をもふくめた二重の保護が、商標登録として行われているのである。この登録によって商品名および文字デザインがその特定の商品以外に使われないように独占することができ、これを®の記号を使って表示している。
他の企業がその生産する商品にこれと同じあるいはこれときわめてまぎらわしい商標を使うことは、法的に禁止されているわけである。ただし、この禁止の根拠は経済的な利害関係であって、莫大な宣伝費を投下して大衆の間に普及した商標を盗用し、商品の質にささえられた商標に対する信用を悪用して質のよくない商品をつかませるようなことが行われたのでは、その企業が大きな損失を蒙(こうむ)るから、これを防止するところにある。
大衆がその言語規範を日常の表現に使うことは、企業にとって利益にこそなれ損害を蒙ることにはならないから、それまで禁止してはいない。ベークライト・ナイロン・セロテープなどの名称は、ベークランドとかデュポンとか日絆(「ニチバン」のこと――引用者)とか企業が生産する特定の商品の名称として登録されていて、他の企業が勝手にこの名称を商品名として使うことはできない。けれどもわれわれが他の企業の生産したこれらの商品と類似したものを、同じ名称でよんだとしても、それは固有名詞を普通名詞に転化させたものとして扱われ、法的に処罰されるようなことはない。
マールは身ぶり言語先行説をとって、音声言語の発生を身ぶり言語の発展したあとに位置づけたために、音声言語を遊戯および呪術(じゅじゅつ)と直結し、かつ階級と直結して説明するふみはずしにおちいった。「音声言語への要求は、踊、歌謡、遊戯における神秘的呪術的行為の社会的部別が呪術とむすびついてつくりあげられたとき、階級的分化の芽ばえの形成とともに発生した。」というのである。タカクラ・テルはこれをうのみにして、日本の古代の言語が複雑な発音を持っていたのを、「あそび」の結果だと解釈したのであるが、このマールのふみはずしはタカクラの著書が出るよりも一〇年も前にマールの弟子によってすでに指摘されていた。
ところがスターリンは言語学論文で、マールとは反対のふみはずしを行い、階級制の不当な強調を是正すべきであるのに階級制の存在を否定するところにまでつっ走り、マールが言語を「生産と生産関係にもとづいた上部構造的カテゴリーである」と規定したことにまで反対して、言語は「上部構造とは根本的にちがっている」と主張した。
われわれの若干の同志たちに、…… 「階級的」言語や「階級的」文法といったおとぎ話をささやいたりするのは、マルクス主義の諸問題に対する無知と言語の本質に対する完全な無理解のせいにすぎない。
上部構造が土台によってつくられるのは、土台に奉仕するためであり、土台が形成されつよくなるのを能動的に援助するためであり、古い、寿命のつきた土台をその古い上部構造もろとも根絶しようと能動的にたたかうためである。
言語が存在するのは、言語がつくられているのは、人間の交通用具として社会全体に奉仕するためであり、社会の成員にとって共通であり、社会の成員にとって単一のものであり、また社会の成員の階級的地位のいかんにかかわらず彼らにへだてなく奉仕するためである。
マルクス主義者は言語を土台の上に立つ上部構造とみなすことはできない。言語を上部構造と混同するのは重大なあやまりをおかすことである。(スターリン『言語学におけるマルクス主義について』)
マルクス主義に対する無知と言語の本質に対する完全な無理解を示しているのは、スターリン自身である。土台と上部構造というマルクスの区別は、社会発展の究極の原動力は物質的な生活で精神的な生活は第二義的だという意味から両者に対して与えられたのであって、両者が「もろとも根絶」しようものなら社会全体が消滅し人間がこの世の中からなくなってしまうわけである(2)。階級の消滅した共産主義社会でも、両者の区別は当然に存在するのであるから、階級制の有無と上部構造があるかないかとは関係がなく、精神的な生活過程に属する存在ならばすべて上部構造に入れることこそマルクス主義の立場であり、その意味では言語をも上部構造と理解するのがマルクス主義である。
なるほど、言語はプロレタリアにもブルジョアにも、精神的な交通という点では「同じように奉仕」している。セロテープという規範を会話や文章に使うのは、社会全体に許されている。しかしこの規範がこれを登録している企業に経済的な利益をもたらしており、その意味で資本家に独占され「奉仕」しているという階級制をも見のがすことはできない。社会全体に奉仕するかしないか、あれかこれかという発想は形而上学的であって、社会全体に奉仕すると同時に資本家にも奉仕する、あれもこれもという発想でとりあげることこそ、弁証法的である(3)。スターリンはここでは形而上学者としてふるまっているわけである。
天皇あるいは皇族に使われる特殊な語彙、「朕(ちん)」「親王(しんのう)」「行幸(ぎょうこう)」「崩御(ほうぎょ)」などにしても、会話や文章に使うことは別に禁止されていないし、その意味で社会全体に「同じように奉仕」しているが、われわれ国民のありかたの表現に使うことは不敬(ふけい)であるとされていて、その意味では国民全体に「奉仕」しているということはできない。……
言語表現の規範も他の規範と同じように、究極的には現実の生活によって規定されているから、新しい事物の出現はその言語表現に必要な新しい規範を要求することとなり、反対に従来あった事物が姿をかくせばそれに使われた規範も不要になり消滅していく。けれども、新しい規範がこれまでの規範とまったく無関係に独立して成立する例は、きわめて少ない。
日常の会話に使われる規範を身につけている人たちなら、すぐ理解できるように、新しい事物の諸特徴をとらえて合成語のかたちをとり、「原子爆弾」「週刊誌」「霊園」「新幹線」などとつくっていく。象徴的に他の規範を横すべりさせて、人気者を「スタア」超特急を「ひかり」などと名づけていく。文学からの横すべりには、小倉百人一首のことばから宝塚の女優の芸名をつけた「天津乙女」や「霧立のぼる」などがあり、またイギリスの小説の主人公の名を自動車につけた「セドリック」などもある。
これらとは逆に、言語表現上の新しい習慣・加工・改作による新しい規範の成立もすくなくない。略語あるいは通称は、実践上の要求から生れる規範の加工あるいは改作であって、芸名あるいはペンネームにも本名を改作した場合が多いけれども、これらはさらに他の規範との関係を考慮しなければならない。
芸人のにせものはほんものとまぎらわしい芸名をつける。まぎらわしい文字を使うやりかたとして「天中軒雲月」に対する「天中軒雪月」を、まぎらわしい音声を使うやりかたとして「市川左団次」に対する「市川左半次」を、大衆の愛称を悪用するやりかたとして、目玉の松ちゃんこと「尾上松之助」に対する「目玉松之助」をあげることができる。
他国の芸術家に対する尊敬からその音声を借用したものには、エドガア・アラン・ポオに対する「江戸川乱歩」やバスター・キートンに対する「益田喜頓」などをあげることができる。
……… 日本銀行を「日銀」明治製糖を「名糖」などと略語でよぶが、……… 日本語の略語は、このように漢字を二つ重ねてつくられる場合が多く、そこから四音節のものが多くなるため、これが外国語の略語をつくる場合にも影響をおよぼして、やはり四音節になっているものが多い。「ビフテキ」「マスコミ」「ロケハン」「プロレス」「アフレコ」「プレハブ」「リモコン」「エンスト」などとなる。混血の場合でも「カーキチ」(自動車狂)というようなかたちになる。
(2) それゆえマルクスの唯物史観の定式はスターリンのように「根絶」などとはいっていないし、こんなことばを使うはずもない。土台は「変動」するとか、上部構造は「変革」されるとか述べているのである。
(3) スターリンの上部構造論を正しいと思いこんでいる人びとの間でも、どちらの「奉仕」をとらえるかによって、上部構造ではないとかいや上部構造であるとか意見が対立することになる。これはいくら論争しても解決がつかない。はじめから問題の立てかたがあやまっているからである。文学や教育なども、社会全体に「奉仕」する面と特定の階級に「奉仕」する面とを持っているために、それんで論争が起っただけでなく、日本でも高橋義孝が口火を切った文学の上部構造論争や海後勝雄が問題を投げかけた教育の上部構造論争が起った。