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2018年11月08日(木)| 言語>表現論 |  
『認識と言語の理論 第二部』3章(4)「内語説」と第二信号系理論

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第三章 言語表現の過程的構造(その一) (4) 「内語説」と第二信号系理論

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.423 

 概念の発展を歴史的=論理的にとらえていけば、それに感性的な手がかりがむすびつかなければならない必然性がつかめるのだが、それをとらえていくことのできない学者にとってはこの感性的な手がかりは単なる存在として、人間が社会生活の中でいつの間にか頭の中に獲得したものとして、とりあげられるだけである。そしてこの存在は、言語表現と密接な関係があって、この存在の聴覚映像は音声言語とつながっているし、この存在の視覚映像は文字言語とつながっているのだということだけが、経験的につかめるのである。

それで学者たちが、これらの映像を言語からみちびかれてはいるがこれら自体は言語ではないのだと理解するのではなく、人間は頭の中に言語を持っているのだと解釈するふみはずしをやりかねない。現に、われわれは概念を運用して思惟(しい)するときに、この感性的な手がかりを使うから、自分でも頭の中につぎつぎと聴覚映像や視覚映像がならべられていくのを自覚する、「この問題はよく考えてみないととんでもないことになるぞ」と思惟していくと、頭の中にこれらの音声がつぎつぎとひびいてくるのを感じるわけである。

これは頭の中で観念的に音声言語による表現がなされているかのようにも思われるし、感性的な手がかりと言語表現との区別と連関を理解していないと、頭の中に言語あるいは記号そのものが存在している証拠のようにも思われてくる。それでピアジェのように「思考とは記号を用いた探索である」と考えることにもなるし、認識の発展を分析できない・経験主義で言語のありかたを分析しようとする・学者たちが、音声言語や文字言語のほかに「思考言語」が存在しているのだとか、表現された外部の言語だけでなく「内言」もあるのだとか、主張することにもなる(1)

行動主義的心理学を提出したワトソンも、思惟は「音声に出ない語」(subvocal speech) だとか「潜在的言語」(implicit language behavior) であるとか解釈している。ソ連の学者ヴィゴツキーも、この問題についてはワトソンに追従して「内語」説を支持し、単に「内語」の成立過程についてワトソンの主張を修正して「外語――自己中心的言語――内語」であると主張しているにすぎない。この「外語」と「内語」との区別は、「他人のためのことば」と「自分のためのことば」との区別だということになっている。

 外語は、思惟を語に移すこと、すなわち思考の物質化と対象化であるが、内語では、この過程は逆転される。すなわちことばはそこで内向きの思考に移される。当然に両者の構成は相異しなくてはならない。(ヴィゴツキー『思考と言語』(2)

 思惟それ自体が物質化して外に出ていったり、逆にこの物質化したものが頭の中へ入って来てまた思惟に変ったり、するなどということはもちろんありえない話である。子どもはその生活の中で他の人びとの言語表現を理解するようになり、そこから自己の概念に感性的な手がかりを与えて運用し思惟することも可能になる。この感性的な手がかりが、他の人びととの「外語」を通じて与えられることを、過程の逆転と見、ことばそれ自体が思惟に変って「内語」になったものと解釈しただけのことである。

ここでいう「外語」は、精神的な交通のための表現であるから、他の人びとの条件から規定されてくるけれども、「内語」は自分が思惟するだけであるから、感性的な手がかりの使いかたも異ってくる。思惟の場合には何も文法に忠実に概念をならべていく必要はない。それに、感性的な手がかりを使うのは概念を運用して思惟するためであるが、思惟の展開は概念だけに限られないから、「内語」をならべていくかたちの展開と思惟全体の展開とは同じではない。ヴィゴツキーはこの二つの過程が同じものでないことを経験的にとらえはしたものの、「内語」の本質もつかめず、この二つの過程のむすびつきおよび全体の構造を明かにすることもできなかったのである。

 思考言語説ないし「内語」説の正しさを根拠づけるものとして持ち出される現象は、われわれが表現するときに筋肉を動かす習慣が身について、思惟するときにもやはり発声器官を無意識に動かすという事実である。言語表現のときには、まず頭の中に聴覚映像を思い浮かべて、これを現実の音声で模写するのであるから、これが習慣づけられると、頭の中で思惟するときに聴覚映像を概念の手がかりとして役立てていても、反射的に喉(のど)や舌や唇が動くことが多い。

熟練者はこれを読みとって、何を思惟しているのか推察することさえ可能である。現象的にこれを音声言語と比較すれば、たしかに「潜在的」な言語行動としか思えない。読心術という看板をかかげて興行しているものは、その大部分がトリックでしかないが、中にはトリックでないものもあるらしい。相手に頭の中で聴覚映像をゆっくりとつぎつぎにならべさせ、そのとき唇の動くのを読みとっていくという方法をとるのである。

 人間の思惟は必ずしも言語からみちびかれた感性的な手がかりによって行われるわけではない。画家はいわば絵画的に思惟するものである。彼がその目でモデルを見るかぎり、感覚的には現実のモデルのありかたが忠実に反映してるのであって、われわれがモデルを見る場合と何ら変りない。けれども彼がピカソの崇拝者でピカソ的に表現しようという意志を持っているときには、彼の記憶しているところのピカソ的な視覚映像がモデルの忠実な反映に作用して、変形した「形象」が創造され、これが画布の上に模写されて絵画が生れることになろう。これを現象的に解釈するところに、芸術は「形象」的認識であるという主張も出てくるのであるが、この「形象」それ自体は絵画ではないし、これを絵画であるとか「思考絵画」であるとか主張する理論家もいない。

また現在のわれわれにしても、言語と無関係に個々の概念を頭の中につくりあげることは可能であって、それが不可能ならば新発見の事物に命名するということも不可能であろう。これは、対象を類的存在としてまず認識し、それを言語でどう表現するかを考えて規範を決定したときに、新しい語彙が生れ同時にその概念に結びつく感性的な手がかりも決定するわけである。それゆえ、思惟はすべて言語とむすびついているのだと、両者のつながりを絶対化するのは形而上学的なとりあげかただといわなければならない。

(1) 観念論者は主観と客観とを正しく区別できないから、この認識のありかたと表現のあり方を混同して、頭の中も外もどちらも言語だと主張するのがむしろその立場に忠実なわけである。経験主義的なふみはずしから頭の中に言語があると考えていくと、外部にある言語が頭の中へ「入りこむ」と説明する観念論者の解釈まで、もっともらしく受けとれてくる。

(2) ヴィゴツキーのこの著作は、子どもの認識の発展をとりあげながら内語説を展開しているので大久保利忠その他子どもの認識と言語について検討している教育者たちが大きな影響を受けることとなった。

 

『認識と言語の理論 第二部』 p.426 

 マールは「思惟なくして言語を語ることはできない」「思想と言語は離すことができない」といい、むしろ両者のつながりを絶対化する態度をとっていた。ただこのばあいの言語には身ぶり言語がふくまれていたし、また言語は上部構造と考えられていたわけである。スターリンとしてもマールと同じように両者のつながりを絶対視していたのだが、彼にとっては身ぶり言語は言語ではなく、また上部構造は土台とともに「根絶」する存在であった。それでマールの思惟と言語のつながりの絶対化も、スターリンにとっては思惟が身ぶり言語すなわち非言語で行われるということになり、思惟が言語なしで行われると主張しているものと見なさないわけにはいかない。また民族語を上部構造と規定したことも、スターリンにとっては民族語が「根絶」してしまうと主張しているものと見なさないわけにはいかない。

 思惟は、ことばに言いあらわされない前に人間の頭脳のうちに発生し、言語という素材なしに、言語という外皮なしに、いわばむきだしで発生する、という者がある。だが、それはまったくちがっている。どんな思想が人間の頭脳のうちに発生しようとも、またそれがいつ発生しようとも、それは言語の素材にもとづいて、言語の語と句にもとづいて、はじめて発生し存在する。言語の素材から自由な、言語の「自然的」素材から自由な、むきだしの思想は存在しない。「言語は思想の直接的現実性である」(マルクス)思想の実在性は言語のうちにあらわれる。観念論者だけが、言語の「自然的」素材とむすびつかない思惟、言語なしの思想を、うんぬんできるのだ。(スターリン『言語学の若干の問題について』)

 概念の感性的な手がかりとそれが頭の中にならんでいくことは、スターリンによって「言語の素材」「言語の語と句」にもとづいて思想が発生するものと解釈されている。だがもしそうなら、「言語の素材」を頭の中に持っていないような人たち、たとえば聾唖者(ろうあしゃ)は思想をつくりあげることは不可能だということになってしまう。ベルキンがそれについて質問すると、スターリンはそれは「まったく別のテーマだ」といい、言語学は「言語をつかう正常な人間を取扱うものであって、異常な人間、言語を持たぬ聾唖者を取扱うものではない」のだから「討論されているテーマを討論されていなかったテーマにすりかえた」と文句をつけた。そしてしぶしぶと、「もし諸君があくまでもそれを固執(こしゅう)するなら、諸君の願いをききいれないでもない」と、つぎのように説明した。

 聾唖者の思想は、彼らが日常の生活で、外界の事物やその相互の関係について、視覚、聴覚、味覚、嗅覚によってつくり出される形象や知覚や表象にもとづいてはじめて生れ、亦存在することができる」(同右)

 これではすこしも答えになっていない。聾唖者では言語なしで思想が生れると言いながら、われわれでは言語なしの思想はありえないのでそう説くのは観念論者だという。ではなぜわれわれに不可能なことが聾唖者では可能なのか、それはすこしも説明されていない。「異常な人間」だということで、この可能なことの説明を逃げるわけにはいかないのである。だがわれわれはすでにヘレン・ケラーの例を知っているから、スターリンが何をいおうとわれわれと聾唖者との間に本質的なちがいはないと主張することができる。どちらも頭の中に概念をつくりあげて思惟する点では、変りがない。ただその概念に結びつく感性的な手がかりのありかたがちがうだけである。ヘレンは耳もきこえず目も見えなかったから、音声や文字から感性的な手がかりを導くことができなかった。彼女はサリヴァンの指にふれて、その触覚的な区別から概念の感性的な手がかりをみちびいたのであり、この点がわれわれとちがうだけである(3)

スターリンのマルクスの引用のしかたも正しくない。「言語は思想の直接的現実性である」という意味は、言語は思想を物質的なありかたにおいて示したものであることを、すなわち言語は表現であることをのべているのであって、スターリンの「素材」論を裏書きするどころか反対に否定することばでしかない。

 ヴィゴツキーもスターリンも、言語規範のありかたについて正しい理解を持ち合わせていなかったということは、現在パヴロフの第二信号系における言語の説明が無批判的にかつがれていることと、無関係ではない。パヴロフは、外界の反映を「信号」とよび、言語を「信号のそのまた信号」だと説明した。ここには論理的に大きな混乱がある。反映としての「信号」は認識であるが、言語は表現であるから、頭の中の「信号のまた信号」を言語であるというのは認識と表現を混同したものである。「内語」説を支持する人びとは、頭の中に言語があることを認めるから、パヴロフの説明に別に疑いをはさまないだけである。

さらに、表現としての「信号」は、規範によってささえられているのであって、われわれが道路でつねに見かける交通信号にしても同じである。けれども意志論を展開できない機械論者のパヴロフに、言語規範の説明ができるはずもなく、規範ぬきの「信号」論をとなえる以上に出られなかった。そしてソ連の学者たちは、スターリン批判以後においてもこのパヴロフの主張とスターリンの主張とを折衷して来た。折衷が可能なのは、両者ともに頭の中に「言葉」や「言語の素材」を認めているからである。

   ……………

 折衷ははじめ……両者をならべるかたちで行われたのであるが、やがて完全に融合してしまった。たとえばスミルノフ監修の教科書『心理学』は、心の中で考えるときの言葉として「内語」について論じながら、これは「思想の物質的外皮である」と規定して、現実の言語表現といっしょくたにしてしまっている。権威とされている理論をかきあつめて作文するに当っては、もはや精神的な存在と物質的な存在との混同すら反省しようとはしないで、自らも露骨にいっしょくたにしてとりあげ、しかもそれをマルクス主義とか唯物論とか称して提出しているのである。

 現在のわれわれの頭の中では、言語表現のための規範とこれから相対的に独立してはいるが規範から規定されている感性的な手がかりのついた概念とが、表現および思惟に際して役立てられるように、いわば「心的実在体」として存在している。ソシュールにあっては「言語活動は全体として見れば多様であり混質的である。」から、そこから「単位を引出す」べく努力する場合に、この「心的実在体」に目をつけたということも無理からぬことである。

但し、規範と感性的な手がかりのついた概念とを区別することは、唯物論の立場に立ってはじめて可能なのであるから、それをなしえないソシュールやその他の言語学者がこれを区別できずいっしょくたにして扱ったということも、これまた無理からぬことである。ソシュールの「言語」(langue) の説明は、規範についてとりあげているだけでなく、ときには感性的な手がかりのついた概念をいっしょくたに持ちだしてくる。

 言語はもともと等質的である。

 言語は言とは趣を異にし、切り離して研究しうる対象である。我々はもはや死語を話さないが、その言語的組織を我物にすることができる。

 言語活動によつてかやうに結びついた個人間には、一種の媒体が出来るであらう。彼等は皆、同一概念と結合した同一の――と正確には言へまいが稍(やや)同一に近い――記号を再造するに違ひない。

 言語は言語活動の社会的部分であり、個人を外にした部分である。(ソシュール『言語学原論』)

 言語規範は社会的に成立するのであり、個人の頭の中にありながら観念的に対象化されて個人の「外部」から表現を規定するかたちをとるものであり、表現を媒介する認識にすぎないから表現と切りはなして研究できるし、ラテン語のような死語の規範をわがものにして学名に生かすこともできる。だが規範と「概念と結合した記号」とは別であり、さらに新しく対象を認識して表現するときにこの概念に新しく規範から媒介された感性的なてがかりが結合することも別であって、この三者の関係を正しく説明しなければならない。ソシュールは前二者をいっしょくたにし、また新カント主義的に最後の問題を切りすててしまったのである(4)

時枝は自然成長的な唯物論の立場でソシュールをながめたから、「個人を外にした部分」という説明を規範の観念的な対象化であると見やぶって正しく書き変えることができず、最後の問題を切りすててしまった観念論的ふみはずしに強く反対してこの問題だけを強調することとなった。

 成立した「言語」なる概念が、直(ただち)に個人間の思想の伝達をなす媒体であると考へたことは、認識的所産を実在と考へたことになるのである。

 「言語」が個人間を結ぶ媒体であると考へることは、個人の普遍的整序能力を外在的なものに置き換へたことである。

 我々の具体的な言循行に於いて経験し得るものは、聴覚映像と概念との聯合(れんごう)したものではなくして、聴覚映像が概念と聯合すること以外にはない。

 かく見て来るならば、ソシュールが摘出した「言語」は、決してそれ自身一体なるべき単位ではなく、又純心理的実体でもなく、やはり精神生理的継起的過程現象であるといはなければならない。(時枝誠記『国語学原論』)(強調は原文)

 このように、時枝は「言語」と名づけられたものを、対象から概念をつくりあげるときの感性的な手がかりが聯合する現象に対するあやまった解釈だと批判し、これに解消させてしまった。正しい規範論を持たなかったために、ソシュール理論を正しくつくりかえるまでに至らなかった。ところが他方には、ソシュール理論を正しいものとして受けとめると同時に、ソシュール理論の観念的ふみはずしに反対して提出されたオグデン=リチャーズの表現過程論をも正しいものとして受けとめるという、何でもござれの言語学者もいるのである(5)

 言語は社会にあつて個人にはないこと、といふと語弊があるが、言語は社会にあつて個人がそれを写し取つて使ふものであること、之は極めて新しい、そして殆んど革命的な言語の解釈であつて、言語は社会的の出来ごとだといふ命題は、この点を考へると、決して安値なものではない。鶏が先きか卵が先きかといふ煩瑣哲学の問答見たやうに、言語は社会にあるか個人にあるかといふ、長い間の水掛け論が、之で一刀両断に解決せられたわけである。

 その字義通りの言語活動といふ働きは、言語といふものを使って自分の体験を、自覚的に効果をねらつて表出する言といふことを行ふことによつて実現せらるる、――社会学派がこんな風に説明してゐるのを吾々は、既に度々(たびたび)述べた通り、最も信頼するに足るものであると考へてゐる。

 ケンブリッジ大学の文芸批評家リチャーズ氏とロンドン大学の心理学者オグデン氏との共同研究で『言語の思想に及ぼす影響、及び象徴主義の科学の研究』としての意味の意味は、事、心、言葉の関係を明快に説いている。(石黒魯平『言語学提要』)(強調は原文)

(3) 盲人の使う点字も、いわば触覚的表現であって、言語の一つの形態にほかならない。唖者(あしゃ)が会話に使っている指文字は、いうまでもなく身ぶり言語の一種である。彼らの概念の感性的な手がかりは、これからみちびかれている。

(4) 現実の世界がつねにわれわれに新しい概念をもたらすという考えかたは、唯物論を排する不可知論者として認めるわけにはいかない。彼らとしては概念はア・プリオリに頭の中に発生するのだが、これはすでに「社会的事実」として記号とかたくむすびついてしまっているから、新しい概念に感性的な手がかりを新しく結合させなければならぬという問題も、概念と感性的な手がかりとがすでに結合して存在しているという別の問題に解消させられてしまう。

(5) 小林英夫は多くのソシュール批判に接しているだけに、オグデン=リチャーズは「徹底てきにソシュール学に反対の立場をとるもの」だと認めている。

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(70歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説を学びながらことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことをマイペースでやっています。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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