〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。
〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。
(2) 引用文中の太字は原著のものである。
(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。
(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。
『認識と言語の理論 第二部』 p.432
言語表現は絵画あるいは写真などの表現と性格を異にし、客体的表現と主体的表現とが分離しているために、わが国でも古くから詞と辞と二種類の語を区別して来た。時枝はこの区別を理論的に再発見して、ここから敬語の表現構造を吟味し、それまで混乱と曖昧のうちにあった敬語理論を正しくつくりかえることができた。これは、本質的な理論がどのような有効性を発揮するかを、自ら証明したものといえよう。
私が展開してきた言語表現の二重性についての理論は、言語表現を非言語表現との統一としてとらえ、言語に伴っているために従来言語表現と考えられていた音声や文字の感性的なかたちの面を非言語表現として扱うのである。そしてこの理論もまた、これまで混乱と曖昧のうちに置かれていた音韻論を正しくつくりかえることができる。それで音声と音韻との関係をすこし考えてみよう。
言語における意味の研究は何千年の歴史を持っているにもかかわらず、音声の研究はまだはじまって間がないのである。なぜ音声の研究がおろそかにされたかという疑問に対して、人間は言語活動においてまず意味に関心を持ったのであって、音声のほうにまで注意が向かなかったのであろうと説明する学者もある。
実用的な言語としてたしかにそうもいえるであろうが、いま一つの興味ある事実も考え合わせてみる必要があろう、それは、現に音声言語については録音機やオッシログラフなどを使って音声の自然科学的な研究をさかんに行っているのに、文字言語についてはこれと似た研究がほとんどなされていない事実である。音声は生れつき持っている咽喉(いんこう)を使うよりしかたがないが、文字なら万年筆でも鉛筆でもあるいはポスターカラーでもペンキでもネオンサインでも何でも使うことができるし、線の太さや長さや文字のスタイルも自由に決めることができる。文字は音声とちがって個々の表現の差があまりにも大きく、その意味では自然科学的な研究はほとんど問題にならない。しかし文字言語も音声言語と同じく言語なのであるから文字にも音声と共通した個人的な特殊性が存在していることが考えられる(1)。
さらに音声言語について音声と音韻とを区別すべしという見解が定説化し、さまざまな主張が提出されているとすれば、これは文字言語についても当然適用されるはずであって、文字言語について文字と字韻を区別することができるし、字韻とは何かと問われてしかるべきであるが、これについてはほとんど語られていない。文字は音声を写すだけであって言語の代用品でしかないのだという、現在の言語学の定説から考えてみるにしても、写すからには文字にもやはり音韻的なものが存在するはずだと考えることが、論理のすじを通した考えかただといわなければならない。ここにもまた問題が存在しているのである。
なぜ音韻論とよばれるものがあらわれて来たかといえば、佐藤喜代治もいうように、「音声学的には相異る音であつても、言語の上では同一又は同種の音として通じてゐるといふ厳然たる事実に対しては、自ら別個の観察を施すべきであつて、現実はその理論的な説明を要求してゐる」からである。
同じ「ち」(血)という単純な発音をさせても、ソプラノの女の子の音声とドナルド・ダック的な音声とは大きなちがいがあるし、「すし」(鮨)を東京人・大阪人・東北人に発音させてみるならば、それぞれ特徴のある異った音声を出すので、明かに区別することができる。しかしこれらは言語表現としては同一のものとして扱われている。
さらに撥音(はつおん)にあっても、「でんば」(電波)「てんき」(天気)「まんが」(漫画)の「ん」はそれぞれ音声として異った構造を持つにもかかわらず、言語表現としては同種のものとして扱われ同じ文字で表現される。促音(そくおん)の「かつぱ」(河童)「ざつし」(雑誌)「こつき」(国旗)なども、音声として異った構造を持っていながら言語表現としては区別していない。これらは動かしがたい事実であるが、なぜそうなのかが理論的に納得できるように説明されなければならない。
さらにこれに関連して問題になることだが、語と語の接続によって音声が変化するにもかかわらず、意味は依然として変化しない事実がある。動詞が助動詞や接尾語などと接続するときの語尾の変化、すなわち活用とよばれるもの「知らない―知りたい―知るな―知れば」「話さない―話したい―話すな―話せば」などの変化、あるいは連濁とよばれる濁音化「さま―さまざま」「こと―ことごと」「ひと―ひとびと」「つり―うみづり」「かり―さくらがり」「はら―うなばら」「はこ―ボールばこ」などの変化、音便(おんびん)とよばれるもの「病みて―病んで」「死にて―死んで」「学びて―学んで」「勝ちて―勝って」「思ひて―思って」「去りて―去って」などの変化、いづれも音声は明かに変化したにもかかわらず意味に変化はない。これらは発声上の難易によるところの発声条件から規定された音韻の変化ともいうべきものである。これもなぜ意味に変化がないかが説明されなければならない。
音声それ自体が言語表現ではなく、言語表現としての音声は具体的な音声のありかたから区別されているという事実を経験的にとらえた結果、音声と音韻とを、具体的音声に対する抽象的音声として説明しようとする人びとがあらわれた。同じ「すし」という音声も、みなそれぞれに個性を持ち、時には異様な発音で語られることもあるが、話し手は異った音声で語ることを意図しているわけではないから、その実際の発音とは別に発音するつもりの音、音声概念(2)が存在していることになる。
聞き手にしても、具体的な音声をそのまま受けとるのではなくて、そこから話し手の発音するつもりの音、音声概念を受けとろうとする。それゆえここで抽象が行われているわけであって、この抽象の産物を音韻とよぼうというのである。音声観念すなわち音韻ということになれば、音声観念は話し手の頭の中の「心的実在体」として抽象的かつ普遍的に用いられる存在であるから、ソシュールのいう「言語」なるものと一致してくるし、ソシュール理論からは当然に音声観念すなわち音韻という説明が生れてくる。
(1) 書かれた文字には書き手の癖があらわれるところから、「筆跡鑑定」による書き手の推定が古くから行われている。これと同じように、音声にも特徴があることを利用して、話し手を推定することも考えられ、すでに実用に供されている。
(2) 言語を単なる「道具」として、思想と切りはなしてとりあげようとする学者にとっては、この「道具」が認識の特殊なありかたと対応しているという事実をどう扱うかについて当惑しないわけにはいかない。そこから音韻を認識の特殊なありかたに押しつけてしまうことにもなるわけである。
『認識と言語の理論 第二部』 p.435
これ以外に、異色なものとしては、有坂秀世と時枝誠記の音韻論が存在する。有坂は音韻を理念として解釈した。「音韻は発音運動の理想であり、音声現象の背後にあって之を意味づけるものである。」という。理想は現実と一致せず、まだ実現されていないし、発音としての理想であるから語の意味としての区別とも直接の関係を持たないというわけであって、これによって前にあげた二つの問題は統一的に説明されているかに見える。佐藤はこの音韻論をつぎのように批判した。
音韻は発音行為を指導する理念であるとしても、それが何らかの形を以て実現されなければ、観察の対象とはならない。意図といひ、観念といつても、それが実現されて、相手に到達し、それと聴き分けられて、始めて言語上の問題となる。音韻が音声現象の背後にあつて、これを意味づけるものとすれば、その現象と意味との間には一定の関係が成立してゐなければならぬ。具体的な音声現象の中に、これは特定の音韻を意味して、他の音韻を意味しないといふ、何らかの目印がなければならぬ。さうでなければ、「意味する」といふことは不可能である。
その理念は十全な姿を以て実現されるとは限らぬ。むしろその一部分しか実現されてゐない方が普通であるかも知れぬ。それでもその事実が一の理念を意味して他の理念を意味しないといふことが明瞭である場合には問題とならぬ。Aを発音するつもりでも、現実には理想的なAが実現しないかも知れぬ。ただA以外のものと紛(まぎ)れるやうなものであつてはならぬ。実現されたものは他と区別するに足るべき特徴を備へることが条件である。従つてAを観察するためには、AをBC……等と相関的に考察し、その全体系の中でいかなる地位を占めるかといふことを考へねばならぬ。(佐藤喜代治『国語学概論』)
これは不十分でありながら、言語表現の持つ矛盾を意識して、音韻の問題の解明に一歩をすすめたものということができる。音声それ自体の中に特定の音韻を意味する「なんらかの目印」が存在しなければならないという発想は、音声と認識との対応を指摘するものであって、非言語表現と言語表現と二重化しているという自覚への接近であるとともに、このことはまた言語表現相互の区別ということと無関係ではなく、そこに「区別するに足るべき特徴」が存在しなければならない点が指摘され、ヨーロッパで音韻論があらわれたのはけっして根拠のないことではなかった点が確認されている。これは結局、音声それ自体の表現構造を、話し手の認識の過程をたどりながら解明することによってしか解決できない問題である。
時枝は音声それ自体の表現構造を、そこに存在する矛盾をとりあげることができなかった。そのために、音声と音韻とを段階の区別であると説明した。
客観的生理的方面の観察であるとされてゐる音声の研究が、はたして同一対象に対する異つた立場の観察であるか否かを検討して見るのに、それは同一対象に対する異つた立場の観察ではなくして、同一物の異つた段階に対する観察であることを知るのである。これを〔ン〕について説明するならば、……生理的物理的条件としては異った〔m〕〔n〕が、主体的音声意識としては同一〔ン〕として意識されるのである。……所謂(いわゆる)音声観察と音韻観察とは、客観と主観との別でもなく、具体と抽象との別でもなく、生理的段階と意識的段階とに対する別であつて、この両者の観察を俟(ま)って始めて音声の全貌を把握することが出来るといふべきである。私は以上の様に音声と音韻との別を発音行為全体の段階的区別と考へる処(ところ)から、言語音声の研究には、特にこの二を
区別する必要はなく、又区別すべきでなく、音声研究は、音声の意識的方面も、生理的物理的条件も共にその中に包含しなければならないと考へるのである。(時枝誠記『国語学原論』)
佐藤にいわせれば、「生理的物理的条件」としては多種多様の音声の中に「主体的意識」としての音声をとらえるための「なんらかの目印」が存在しなければならないことになる。それゆえ「段階的区別」であると説明するだけでは納得できないにちがいない。生理的物理的にすなわち客観的には多種多様でありながら、主体的意識としてすなわち主観としては同一だと受けとるのだというなら、これは音声と音韻とを客観と主観との別で説明するやりかたの一変種にほかならないからである。
われわれはさきに、多種多様の色彩を言語で表現しようとするならば、まず対象に主観的な境界線を持ちこんで、それらを「一般化」してとらえなければならないことを検討した(第二部 第二章 (4) 言語における一般化――引用者)。表現は認識と逆の過程をとる。それゆえに、多種多様の音声を言語表現に用いようとするならば、この音声にも主観的な境界線を持ちこんで、それらをやはり「一般化」して扱うことが必要になってくるのではないか、と予想するのは決して不合理ではないはずである。
色彩に対して主観的に一つの幅を設定し、その幅の中では感性的なちがいがあってもそれらを無視してすべて同じ種類の色として扱うように、音声に対しても主観的に一つの幅を設定し、その幅の中では生理的物理的条件のために音のちがいがあってもそれらを無視してすべて同じ種類の音声として扱うことが、言語表現には必要なのである。色彩に対して設定する幅が、子ども・大人・染色の専門家などによって異ってくるように、音声に対して設定する幅も、昔と現在、あるいは日本語と外国語とで異ってくる。人間の側から主観的に設定するために、条件に応じてこのような差異が生れるわけである。
……日本語の〔ン〕は…音声の幅を持っているということになる。この幅の中で具体的な音声のありかたが異っていても、それは無視されるのである。しかしながら、これを〔m〕と〔n〕とにさらに小さな幅に区別して、言語表現に使ったとしても何らさしつかえないわけであるし、その意味での民族語における音声の幅のちがいも問題になってくるわけである。日本語の〔ア〕が英語ではさらに小さな幅に区別されているということも、英語を学習するに当って知らねばならないことであるからこそ、具体的な音声のありかたの中で音声の幅がどのように設定されているかという観点から、音韻の問題に関心を持つことになる。
『認識と言語の理論 第二部』 p.438
さてこう考えてくると、言語表現相互の区別ということは、どこに境界線が引かれているかその境界線のありかたをどういう「特徴」で示すかということにほかならない。表現それ自体と境界線のありかたとは、切りはなせない関係にあるが、区別しなければならない。これは時間それ自体の進行とそこに人間が主観的に設定した境界線による午後一時とかそれから三〇分すぎているとかいう時刻のありかたとが、切りはなせない関係にあるにもかかわらず区別しなければならないのと論理的に同じことである(3)。両者を混同すると、時刻がたくさん集まって時間になるような錯覚さえ生れてくる。意識的段階の音声が生理的段階の音声になり、音韻が音声になるという考えかたは、この錯覚と共通したところがある。
音韻論が音韻を抽象的音声と考えたのには、やはりそれだけの根拠があった。言語表現において話し手が意識するところの音声は、規範に規定されている音声の種類であって、それ以外のものではないからである。だが、この音声の種類を創造する場合には、そこに具体的な多種多様の生理的物理的条件から規定された音声のありかたが伴ってくることも、経験的に明かであって、われわれはその具体的な音声において他の種類とを区別するための目じるしを与えなければならない。この目じるしは相対的なものであって、規範がすでにその限界を教えている。それは場合によってはアクセントで限界づけられていて、「はし」(箸)と「はし」(橋)とは別の種類に属するものとして区別して用いなければならない。文字でいうならば「未」と「末」とは別の種類の表現として区別して用いなければならない。
言語表現それ自体は、音声あるいは文字の種類すなわち超感性的な側面において行われ、表現相互の区別は音声あるいは文字の具体的なかたちの面すなわち感性的な側面において行われるのであるが、この二つの側面は同時に創造されるだけでなく切りはなすことのできぬ関係におかれている(4)。
音韻論者はこの二つの側面が同時に創造されることに目を奪われ、両面を混同して説明しようとする傾向があったのに対し、有坂は表現の側面に音韻論を限定する点でこの混同からのがれてはいるものの、音声の構造についての検討が不十分だったために表現相互の区別の問題を説明できなくなってしまったのである。
それでは、活用や連濁や音便などをどう解釈すればよいか。これも簡単な問題である。音韻を音声の種類による表現だと理解すれば、音韻はすなわち音声言語における表現形式である。活用や連濁や音便などは、音声の種類が変化するにもかかわらず意味が変化しないという事実であって、これは言語における表現形式と表現内容との相対的な独立を、表現形式が表現内容と関係なしにある範囲で変化しうることを、示しているだけである。音声の種類は超感性的であるだけに、そもそも「自己創造的」に決定できるのであるから、生理的物理的条件から規定される語の接続のときの発声の難易によって、種類のありかたに変化が生れたとしても、それは表現形式の内部の問題であって、表現内容と直接の関係を持たない。
外国語においても、造語法や動詞の語尾変化や省略などで、日本語のそれに似た表現形式の変化が存在している。I am, I will, He is を I'm, I'll, He's などと省略したからといって、内容に変化はない。音声の種類イクオール音韻ではなく、表現形式としての音声の種類イクオール音韻として理解するならば、いわゆる「音韻の変遷」なるものも表現形式の歴史的な変化以外の何ものでもなくなるのである。
一九世紀末から「音韻の変遷」に共通性のある事実が注目され、ここから音韻法則なるものを主張する学者たちがあらわれて、この法則が話し手あるいは聞き手の意志とは無関係に必然性をもってつらぬくと主張した。どのような音声の種類を組合せて表現形式として使用するかは、一応規範に規定されているとはいえ、音声の創造が生理的物理的条件によってささえられているだけに、ある創造での変化が習慣的に他の創造に波及していくことも当然である。
日本語には、古代の p音 が f音 にさらに h音 に変化した、唇音退化とよばれる事実が指摘され、また五十音図のヤ行やワ行もその多くが消滅している。これらの音韻の変化につぎのような説明を与えている者もある。
とにかく、古代ニッポン語の音のくみたては非常にふくざつなもので、のちになるにしたがい、しだいに統一され、合理化され、単純化されて、とうとう、今のような、世界でもっとも進んだ形にまで進化したものだ。つまり、今のニッポン語の持っている世界にほこるべき要素は、けっしてそのすべてが大むかしからそなわっていたのではなく、私たちの祖先の、数千年にわたる、たゆまないくんれんによって、初めてえられたものだ。ここに、祖先の、おどろくべき努力と、たぐいない独創力にたいして、心から頭をさげないわけには行かないものがある。
ニッポン語は、かつて、母音に男声・女声・中声の三種があり、ひじょうにふくざつな音のくみ立てを持っていた。それが、取りも直さず、ニッポン人の生活そのものが当時のトルコ人やモーコ人やマンシュウ人のそれと大きなへだたりがなかったしょうこだ。ところが、その母音が、今はわずかに五つになり、何の区別もなく、自由に使われている。ニッポン人のちえが他の「ウラル・アルタイ語族」の民族とは比べものにならず高くなり、生活もだんちがいに高くなったためだ。(タカクラ・テル『ニッポン語』)
このような説明からすれば、現在大衆が「デパート」を「デバート」と発音し、さらに「アパート」を「アバート」と発音するような p音 が b音 に変化する現象も、日本人の独創力ないし生活の向上のしからしむるところであろう。言語学が現象の蒐集(しゅうしゅう)や現象の変化の追求以上に出られなかった段階では、このような形式面での変化が過大視され、自然科学の法則と同視されたのであるが、この変化を生産の発展と直結して過大視する自称マルクス主義者の説明も本質的にはそれと変りがない。
(3) これも混同されやすい。「時間はいま何時ですか?」とか、「もう時間が来たから行かねばなりません」とか表現することが多い。
(4) 抽象的労働が商品の価値を、具体的労働が商品の使用価値を創造するのだが、これは同時に創造されるのであって、使用価値なくしては価値がありえない。論理的にはこれと似た関係にあって、音声あるいは文字の感性的なかたちが表現相互の区別を与えないような場合には種類としての性格を持たないから言語表現にはなりえない。使用価値それ自体から価値が成立するかのように解釈する経済学者が少くないように、音声あるいは文字のかたちそれ自体から言語表現が成立するかのように解釈する言語学者が少くないのは、論理構造をたぐっていく能力を持たないからである。
(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)