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2018年11月09日(金)| 言語>表現論 |  
『認識と言語の理論 第二部』3章(6) 音声言語と文字言語との関係

『認識と言語の理論 第二部』3章(1) 身ぶり言語先行説
『認識と言語の理論 第二部』3章(2) 身ぶりと身ぶり言語との混同
『認識と言語の理論 第二部』3章(3) 言語発展の論理
『認識と言語の理論 第二部』3章(4) 「内語説」と第二信号系理論
『認識と言語の理論 第二部』3章(5) 音声と音韻
『認識と言語の理論 第二部』3章(6) 音声言語と文字言語との関係
『認識と言語の理論 第二部』3章(7) 言語のリズム

『認識と言語の理論 第二部』3章(1)~(7) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第三章 言語表現の過程的構造(その一) (6) 音声言語と文字言語との関係

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.442 

 文字言語にはさまざまな字体が存在する。ローマ字の活字には多くの異った字体のものがつくられており、漢字の活字にも明朝・清朝・宋朝などがつくられている。同じ漢字を書くときにも、楷書・行書・草書・隷書などの異った字体が使われている。どの活字を使いどの書き方をしても、それは同一の文字として扱われるのである。この事実は、多種多様の文字のかたちそれ自体が文字言語としての表現ではなく、それらが同じ種類のものとして扱われるところに表現があることを考えさせ、字韻ともいうべきものの存在を想定させることになる。文字言語の場合には音声言語と異って、類的存在をきわめて多く創造することができるところに特徴があり、莫大な数の漢字が存在することにもなった。さらに必要とあれば、略字を採用することもできるし、音声のありかたに対応させるにしてもローマ字的な方法もとれれば仮名文字的な方法もとれるわけである(1)

 言語のありかたを歴史的にながめると、まず音声言語が成立しその後に文字言語が出現している。現に、音声言語で語り合っていながら、それを記録する文字をもたない種族も存在しているのである。音声言語が単なる身ぶりから移行したように、文字言語も単なる絵画から移行したものと考えられる。文字言語の最初が象形文字であって、数字が人間の指のかたちをしていた事実も、これを裏書きするものと見てよいであろう。そしてほかならぬ実践上の要求が、すなわち音声言語を文字にうつしかえて記録したり、文字言語を音声にうつしかえて読みあげたりする必要にせまられたことが、両者の連関・対応をおしすすめることとなって、いわゆる表音文字が工夫されたのである。

この文字言語それ自体の歴史を無視して、音声言語の歴史的な先行と表音文字のありかたとを現象的にむすびつけると、言語は音声言語こそその本来のありかたであって、文字は音声言語を写すところの従属物ないし代用品にすぎないという主張が生れてくる。言語道具説は文字従属説へ進んでいく

 一体、語は人の思想を表はす為の道具で、字はその道具を写すだけのものである。知識思想は無論大事であるし、又語は各国民に固有のものであり且つ国民の思想感情と極めて親密な関係のあるものだから、それは勝手にかへられないものであるが、字となると、其の語を写す為に人為的に作ったものに過ぎないから、どうでなければならないと云ふものではない。(田丸卓郎『ローマ字国字論』)

 もともと、文字は、ことばとむすびついて以来、ことばをうつす道具として存在するものだから、ことばのはったつと平行してはったつしなければならないものだ。もしも、ことばだけが進んで、文字のはったつがそれに伴なわないと、ひじょうに不自然な事がおきる。(タカクラ・テル『ニッポン語』)

 言語のある発展段階で文字が表現手段として加わるが、これは音声手段による本来の言語を前提するもので、数式や交通標識の類(たぐい)は言語の代用品、補助手段にすぎない。(粟田賢三・古在由重編・岩波小辞典『哲学』)

 この種の見解はヨーロッパの言語学の定説となっているのだが、この定説からすれば表音文字こそが真の文字であり模写物としての役割を忠実に果すものであって、いわゆる表意文字は文字としての役割さえ満足に果していない未開野蛮時代の遺産だということにならざるをえない。そして、漢字が封建的な時代に支配階級によって用いられ大衆の間に通用しなかったという歴史的事実をこれとむすびつけ、このような「封建的」な存在は1日も早く撲滅することこそ革新的な人間の義務であると信じこんだ人びとが、出現することとなったのである。

(1) 表意文字を使っても、言語であるからには言語表現と非言語表現とが統一されている。表音文字は「音韻を写したもの」だといわれているけれども、それは音韻と字韻とが対応させられているというのが正しい。

 

『認識と言語の理論 第二部』 p.444 

 文字言語が抽象的な事物を扱ったり主体的表現に用いたりする必要から、対象の感性的なありかたとのむすびつきを絶っていくことは、漢字においても明かである。漢字それ自体の表現構造の発展としては、象形(しょうけい)指事(しじ)会意(かいい)形声(けいせい)の四種のありかたがあげられているが、会意および形声においては主体的表現が行われ、また形声は表音的性格が強く浸透している。さらに使用法の発展としては、転注(てんちゅう)および仮借(かしゃ)とよばれる内容上および形式上の転化移行があげられているのであって、言語表現のありかたとしても決して単純ではない。

言語表現の本質は、漢字の体系それ自体の中にやはりつらぬかれているのであって(2)、その観点から漢字を理解しようとせずに軽視するようでは、言語学者と名のる資格を欠いたものといわなければならない。

漢字はなぜ表音文字にまで発展しなかったかを、中国人の言語に対する無自覚から説明しても、あるいは「アジア的生産様式」の停滞性とむすびつけて解釈しても、それは解決にはなりえない。文字言語は音声言語との連関・対応において、相互に規定し合いながら(3)発展するのであるから、文字言語が表音文字にまで発展しなかった最大の原因は音声言語それ自体の表現構造に求められなければならないことになる。その意味で中国語が漢字を維持しつづけて来たことも、それなりの合理性を持っていたわけである。

中国語は孤立語とよばれる単音節語であるが、古代には多音節でありながらこれが漢字からの規定によって単音節化したものと思われる。単音節語にあっては、文法構造もきわめて単純である。これは現象的な大きな変化を必要としないという意味であって、この現象的な変化は漢字それ自体の表現構造にいわばしわよせされ、主体的表現が必要な場合にも語尾変化の形式をとらずに他の単音節語をプラスする形式をとる。

単音節であって子音が重複していなければ、子音だけを特別に表現するいわば「音素」文字を必要としない。単音節のために負わねばならぬマイナス面は、アクセントの相異(いわゆる四声(しせい))と漢字の多様性とによって埋められているというのが、中国語の特徴である。そしてこの論理構造の発展は、漢字および漢字音を輸入した日本においても、条件を異(こと)にしそれなりの特殊性を示しているとはいえ、くりかえされたものと見ることができる。

(2) それゆえ漢字を簡略化したり制限したりするときも、その表現構造についての理論的な理解にもとづいて系統的に検討されなければならないことになる。大衆の習慣に追随してそれをそのまま固定化するような、自然成長性の拝跪(はいき)はよくないのである。

(3) 石黒魯平は文字従属説をとって「文字はたしかに附けたりのものである」と主張しながらも、「文字は文字自らの生命を持ち、然(しか)もその元であるところの言語の力を左右する力があること」を事実上認めないわけにはいかなかった。

 

『認識と言語の理論 第二部』 p.445 

 日本語は中国語と異って、膠着語(こうちゃくご)とよばれている。それは主体的表現が客体的表現につねに伴うという、時枝のいう「風呂敷型」の文法構造をとり、さらに活用のような内容と直接関係のない音声変化が語の接続に際してあらわれるからである。

そして、単音節の語が相当の数を占めるとはいえ、二音節以上の語もすくなくない。しかしながらその音節は、単一の母音であるか単母音と単子音との「同時的発音」であって、子音を重複することがない。それゆえ二音節以上の語であっても、それを単音節の重加されたものとして扱うことができる。それゆえ、漢字それ自体を表音的意図の下(もと)に使用し、これを音節文字に発展させうるだけの条件がすでに日本語の音声言語に存在していたのであって、漢字の字劃(じかく・字画)を大胆に省略したり変態化したりして成立した仮名(かな)が、多くは音節文字としての表音文字であって、「音素」文字としての表音文字がわずかでしかないのも、日本語の特殊性にもとづく合理性をそなえているわけである。

そして漢字と同じようにこの仮名は逆に音声言語を規定する結果になり、日本語の音韻のありかたを単純化したのであって、そこから生れる単音節ばかりか多音節の語においてさえ同音異義語がすくなくないという音声言語のマイナス面が、これまた表意文字としての漢字の多様性によって埋められることになった。まことに日本語の文字言語こそ、文字が言語の代用品ではなく自立した言語表現であることを、音声言語との相互規定において発展し音声言語の持つ表現構造上の弱点をカヴァーしうることを、証明しているのである。

 漢字が輸入された当時にあっては、日本語を記録するのに漢字を表音的意図で使用していたのであるが、このような一音一字のあてはめでは表現が冗長になってしまう。さらに日本語に比較して漢字は高度に発展した段階の文字言語であるためにその表意性は日本語の語彙とはくらべものにならぬほど多岐にわたっており、かつ複雑微妙なありかたを表現できるのである。

これらの理由から、漢字の表意的意図での使用がすすむにしたがって、客体的表現は漢字による表意的表現を(活用による内容と直接関係のない形式の変化の部分を除く)、主体的表現は仮名による表音的表現をというかたちで、内容上の対立が表現形式のありかたの差異としてあらわれることとなった(4)。音声言語として客体的表現の語彙が成立しているにもかかわらず、これに対応するふさわしい漢字が存在しないときには、新しく漢字を創案して(いわゆる「和字」または「国字」)使うことも行われた。

合成語あるいは科学上の術語は、いずれも客体的表現であることから、漢字による語彙が生れたのであって、これを「学者のことばは、エド時代に、百姓のことばを使うのを恥のように思った武士が、中国の言葉を入れて、むりに作りあげたものだ。」(タカクラ・テル『ニッポン語』)と解釈するのは、一面的な真理を誇張するあやまりにおちいっているばかりでなく。日本語の性格についての無理解を示すものである。俗語がそのまま科学の術語として役立ちうるかのように思いこむ傾向は、俗流大衆路線論者の大衆追随の一つの形態として、くりかえし再生産されてくることも、附言しておきたい(5)

 文字言語が音声言語よりもおくれて出現したという事実は、音声言語に対する表現上の従属性を何ら意味するものではない。表現としてではなく、表現から切りはなされた「道具」として音声文字とを比較するところに、この従属説がもっともらしく受けとれるのであって、音声表現文字表現とを比較し、形式ではなく内容について比較するならば、従属説の不当なことか直ちに明かになる。

文字表現は人類文化の一定の発展段階に至ってはじめて可能になった言語表現として、音声表現の弱点を補っているのである。音声による創造は、直後に消滅するのに対して、文字による創造は、固定され維持されていく。この文字の持つ特徴は、複雑膨大な体系としての認識、体系的な思想や理論をその内的連関をたどりながら表現し、これを受けとる側もその連関を忠実に受けとめながらあやまりなく理解する必要があるという場合には、固定された表現を忠実につぎつぎと追っていくばかりでなく、時にはある部分に立ち止って沈思黙考するとか、時にはさきに戻ってくりかえしくりかえし検討するとかという受けとりかたが必要である。

学校での講義はそれ自体音声表現であっても、教師の読書がその基礎になっているとかあるいは教師自身のノートを読みあげるとかいうかたちをとっているのであるから、ここでは音声のほうが文字に従属しているといわなければならなくなる。文字従属説や文字代用品説は、いわゆる形式主義的偏向の一形態ということができよう。

 表音主義者は文字言語従属説にもとづいて、日本の文字言語をいじりこわしつつある。文字従属説から生れた音声の偏重は、助詞を「は」「を」「へ」で表現することさえ否定しにかかり、現状を大衆の習慣に妥協した不徹底な改革としか見ていない。同音異義語を文字表現で区別するということは合理的であって、この前むきの解決は音声のほうを変えることであり、文字表現の区別を抹殺しようとするのは後退ないし反動を意味している。しかも、助詞は主体的表現であるから、これらの文字を客体的表現の単音節語として非常にしばしば使われている「わ」「お」「え」に解消させたくないという気もちは、単に習慣上の安定感がしからしめるというだけでなく、表現内容の対立からも規定された合理性がふくまれているのである。

 送(おくり)仮名は、一つの矛盾であってまったく性格の相反した二種類の文字表現がむすびつけられ、仮名はその漢字の読みかたを示すために加えられただけである。それゆえ他の読みかたと区別さえつくならば、送仮名はできるだけ少いにこしたことはない。これが従来の方法であった。ところが表音主義者にとって、漢字を撲滅させるための一つの段階として考えられる方法は、漢字と音声の対応を固定させるやりかたである。「聞く」「聞える」という送りかたでは、統一を欠くものとして、「聞く」「聞こえる」にすべきだというのである。これは見たところ混乱を整理したもののようであるが、実は従来と異った原則を持ちこんで漢字の表音化をねらったものである。

動詞においては活用の部分を送るというのも、この部分が単なる形式の変化であって内容の変化を伴わないという、表現としての特徴とむすびついているのであるから、名詞の「取組」を「取り組み」と表現させようとするのは、表音主義者にとってわが意図を実現するチャンスでもあろうが、名詞と動詞との文字表現上の区別を抹殺する後退でしかないのである。日本語が漢字仮名まじりであることを認めてそれを維持しつつ改革を加えていくのか、それとも完全な表音化を目ざして抜本を加えていくのか、明確にせよという意見が出るのも当然であろう。

時枝は「表音文字の表意性」として、「表音文字と雖(いえど)も語を表す以上、その文字が語の意味と必然的な関係を持つてゐる様に考へられて来るのは当然である。」「表音文字が表意性に移り行くといふことは、言語としての機能が発揮されればされる程著しくなつて来るのである。」と指摘した。これも音声と文字とを比較せずに、音声表現と文字表現とを比較する者にとっては、納得できることであって、表意文字の言語表現に対する表音文字の言語表現の相異は、表音文字のそれぞれが音声にむすびついているというただそれだけにすぎないからである。表現としての本質や、一語の表現としての相互の区別はその具体的な感性的な側面で行わなければならない点は、何ら異るところがないからである。そしてこの相互の区別のありかたを明確にし特徴づける点を、時枝は「表意性に移り行く」とよんでいるわけであって、「表意性」というよりは文字表現としてのあるべきすがたというのが適当である。

(4) 主体的表現に用いられる「歟(か・や)」「哉(か・や・かな)」「奚(なんぞ)」「可(べし)」などの漢字も、次第に仮名に変っていった。また、客体的表現においても、「在(あ)る」「致す」「居(お・い)る」「為(な)す」などの抽象動詞は戦前にあっても次第に仮名化する傾向を示していた。

(5) 「科学上の新しい見かたは、いずれも、その科学の術語における革命をふくむものである。このことは化学を見ればもっともよくわかるのであって、化学では全用語がほぼ二十年ごとに根本的に変更されており、そしてそこでは、つぎつぎと様々に名称を変えられなかった有機化合物はおそらく一つも見出せないであろう。経済学は概して、商業的および産業的生活の諸用語をそのままに受けとり、それらを運用することで満足して来たのであって、そうすることにより経済学は、これらの用語によって表現された諸理念の狭い範囲内に局限されたということにはまったく気づかないで来たのである。」(エンゲルスの『資本論』英語版への序言)

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(70歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説を学びながらことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことをマイペースでやっています。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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