『認識と言語の理論 第二部』3章(1) 身ぶり言語先行説
『認識と言語の理論 第二部』3章(2) 身ぶりと身ぶり言語との混同
『認識と言語の理論 第二部』3章(3) 言語発展の論理
『認識と言語の理論 第二部』3章(4) 「内語説」と第二信号系理論
『認識と言語の理論 第二部』3章(5) 音声と音韻
『認識と言語の理論 第二部』3章(6) 音声言語と文字言語との関係
『認識と言語の理論 第二部』3章(7) 言語のリズム
『認識と言語の理論 第二部』3章(1)~(7) をまとめて読む
三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
第三章 言語表現の過程的構造(その一) (7) 言語のリズム
〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。
〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。
(2) 引用文中の太字は原著のものである。
(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。
(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。
『認識と言語の理論 第二部』 p.449
言語におけるリズムを検討するに当っても、言語表現と非言語表現との統一という観点は堅持されなければならない。言語表現としてのリズムと、非言語表現としてのリズムとを区別した上で、この両者のからみ合いを検討することなしには、問題の正しい解明は不可能だからである。
まず言語表現としてのリズムを考えてみよう。日本語の音節は単一の母音(ぼおん/ぼいん)であるか単母音と単子音(しおん/しいん)との「同時的発音」であるから、言語表現として音声がとるところの時間的な長さはどの音節も共通していることになる。漢字音を日本語に取り入れるときにも、日本語の音節のこの性格がつらぬかれたために、漢字音としては単音節であったのが日本語では二音節に代わったものも多い。そして、長音(ー)・促音(そくおん・ッ)・撥音(はつおん・ン)なども、表現構造としては一音節を加えたものとして、つまり二音節として扱われている。英語の boy も日本語化することによって、「ボーイ」となり、長音は一音節になっている。
ここに日本語の一つの特殊性があり、このような表現構造を与えられることによって日本語化したといわれるわけであるが、時枝はこの日本語の音節によって成立する表現上のリズムを「等時的拍音形式(とうじてきはくおんけいしき)」と名づけている。これは話し手の音節についての意識が「等時」であるところから規定されているのであって、いいかえるなら音声観念における等時である。表現はその近似的な模写でしかないから、物理的な音声が厳密に等時でありえないことはいうまでもない。主観的に「等分」を意識していたとしても、目分量で切ったカステラが物理的な等分ではありえないのと似た問題である。
文章を朗読するのをオッシログラフその他を用いて記録し、一音節に要した時間を比較したが等時でなかった事実から、「等時的拍音形式」を否定するのはまとはづれである。漢字が等方形(とうほうけい・正方形)であるといっても、書かれる文字は大小長短さまざまで不揃いにならないわけにはいかないが、これも同じように考えるべき問題である。
『認識と言語の理論 第二部』 p.450
この日本語のリズムは、アクセントのように個々の語彙の特殊性として規定されたものではなく、すべての語彙の普遍性として規定されたものである。それゆえ個々の規範で示されるかたちをとらないし、アクセントのように辞書を開いてたしかめることもできないが、経験を反省することによって日本語全体に普遍的な一つの規範として自覚することができる。「ミシン」や「ラジオ」のように、外来語が等時拍音に変えられていることからも反省できることである。
しかし時枝は個々の言語規範からの規定を「生命力の機能」にもとづく「個人の普遍的整序能力」の発揮に持っていってしまっている。論理的な一貫性を維持しようとすれば、リズムもやはりこの整序能力の発揮に持っていかなければならないわけであるが、そうはできなかった。それは、音声が語られる以前に、表現に先立ってこのリズム形式を規定してくる客観的な何かが存在しているという、経験である。つまり、事実上規範の存在を認めないわけにはいかなかったのである。
私はリズムの本質を言語における場面であると考へた。しかも私はリズムを言語における最も源本的(げんぽんてき)な場面であると考へたのである。源本的とは、言語はこのリズム的場面に於いての実現を外にして実現すべき場所を見出すことが出来ないといふことである。宛(あたか)もそれは音楽に於ける音階、絵画における構図の如きものである。かく考へて来る時、音声の表出があつて、そこにリズムが成立するのでなく、リズム的場面があつて、音声が表出されるといふことになる。
更に他に類例を求めるならば、それは所謂(いわゆる)「型」に類するものである。舞(まい)の型、剣術の型である。舞は反射的な手足の運動ではなくして、舞ふ者は或る特定の型に自己の運動的表現を拡充して行くのである。如何(いか)なる舞も――たとへそれが我流であつても――型のない舞はない。舞は何等(なんら)かの型に於いてのみ自らを実現することが出来るといふ意味に於いて、型は舞に於いて最も源本的な場面であるといふことが出来る。従つて、我々は舞そのものを離れて舞の型を認識することは出来ない。只(ただ)我々は「型にはまる」「型を破る」という様に、型そのものを抽象して考えへることは出来るが、型の舞に対する本質的関係は、舞に於ける場面としての関係であるといはなければならない。
かくの如く、型は舞に対しては舞の実現せられる場面であるから、舞そのものとは次元を異にした存在であると考へられるのである。型が表現を通してのみ看取(かんしゅ)される様に言語のリズム形式も言語表現の上にのみ認識されるのであるが、その本質は、何処(どこ)までも表現に於ける場面としての関係にあるといふことは、注意すべきことであつて、それは木の葉に於いて緑色を見、風に於いて寒気を知覚するのとは異るものである。(時枝誠記『国語学原論』)(強調は原文)
リズムの規定はすべての言語表現に普遍的であるという意味で、これを「源本的」だとする主張もそれなりの根拠を持ってはいる。だが、絵画における構図は、何の精神活動もなしに忽然(こつぜん)と画布の上へ出現するわけではない。剣術の上段・中段・下段の構えの型にしても、同じである。構図は画家の頭の中にまず抽象的に成立し、ついで画布の上へ模写されていく。門弟は教師のありかたから、剣なり舞なりの「型そのものを抽象して考」えているからこそ、それをさらに自分の剣や舞の型として実現しうるのである。
それゆえ、構図や型について論じるならば、まず抽象的なものとして頭の中に成立する構図や型と、それが絵画や舞として実現した場合の現実に成立する構図や型とを、過程的構造において区別して扱うことが必要である。しかも、構図や型は抽象的なものとして成立するにもかかわらず、それらが観念的に対象化されたかたちをとって、絵画や舞を実現させるための客観的な原型というかたちをとって、存在することを見のがしてはならない。
それゆえ、この原型は頭の中に観念的に対象化されたかたちをとって表現を規定してくるが、その模写である現実の絵画や舞に対しては「次元を異にした存在」であって、絵画や舞が生れてそこにはじめて構図や型が成立すると見ることはできないのである。
時枝は観念的に対象化されて扱われていることから「場面」と解釈しながらも、「場面は表現に先立って存在」するが「表現の実現する場所」であるといい、観念的な場面と現実的な場面とを混同した(1)のであった。「宛(あたか)も鋳型(いがた)に熔鉄(ようてつ・溶鉄)を流し込む様に、リズムの中に音声を表出して行くのであるが、リズムは鋳型の様に具象的な存在ではない。」という。鋳型が現実の存在であるように、リズムの「場面」も現実の存在として扱ってはいるのであるが、しかもそれが「次元を異にした存在」であることもまた経験的に認めないわけにはいかなかったのである。
言語表現におけるリズムが、型に類するという発想それ自体は正しい。だがそれを認めるならば、個々の音声や文字のかたちにしても、やはり反射的に喉(のど)や手が動いて成立するのではなく、頭の中の音声や文字の「構図」ないし「或る特定の型」を実現しているのではないかという、主張を受け入れないわけにはいかないであろう。これはとりもなおさず、頭の中に言語表現の規範が認識されていて、それからの規定を受けていることを意味している。
「等時的拍音形式」という言語表現としてのリズムは、表現に際して非言語表現としてのリズムがつくり出されるとき、これとからみ合ってくるから、リズムは二重性においてとらえられることが必要である。時枝は言語表現の二重性を理論的にとらえていなかったけれども、リズムの二重性を経験的にとらえて、「詩歌的(しいか)リズム」を論じている。
国語はその基本的リズム形式によって特殊な群団化を構成する。かかる群団化のうち、我々の美的感情を満足さす処(ところ)のものが、詩歌的リズムとして取上げられる。詩歌のリズムとは、換言すれば、我々の詩歌的表現に於ける特殊なるリズム的場面であるといふことが出来る。従来の詩歌のリズムを論ずるものは、かくの如く群団化されたものをリズムの単位と考へ、この単位にリズムの概念を適用して、説明を試みようとした。五音或(あるい)は七音を単位として、それによつて国語のリズムを考へようとしたのは即ちそれである。
音数律とは即ちそれであるが、この考(かんがえ)から日本詩歌の最も普遍的形式である短歌形式或は俳句形式を説明することは困難の様に思はれる。私は国語のリズムの基本形式より見て、五音七音は、詩歌の進行的リズム形式の単位と見るよりも、詩歌の建築的構成的美の要素となるものであると考へたいのである。即ち音節数は、リズム的周期を以て美を構成するのではなく、3…4…5 或は 5…4…3 或は 5…7…5 の如き、構成的美の要素として価値があるのではなからうかと考へる。(同右)
日本語としての共通なリズムと、詩歌の「特殊なるリズム」とを時枝が区別したのは、「一切の特殊的現象は、その中に同時に普遍相を持つ」という弁証法的な方法論と無関係ではあるまい。言語表現としてのリズムと別のところに非言語表現としてのリズムが存在するのではなく、特殊な非言語表現としてのリズムそれ自体が同時に等拍でもあり言語表現としてのリズムでもあるという、直接的な二重性が成立している事実を指摘するのは重要なことである。
(1) 「場面は純客体的世界でもなく、又純主体的な志向作用でもなく、いはば主客の融合した世界である。」(時枝誠記『国語学原論』) 二つの世界にまたがっていることと、融合していることとはちがう。この融合説に、現象学の観念論的な性格から受けた影響を見ることが出来る。
『認識と言語の理論 第二部』 p.453
ところで、表現におけるリズムの展開という問題になると、表現形式と表現内容との統一としてとらえて、まず内容におけるリズムを考えてみることが要求される。日本語の表現構造は、客体的表現と主体的表現(あるいは省略されて零記号(れいきごう)化する)との「風呂敷型統一形式」をとるために、これが内容的にリズミックな単位として意識されるが、同時にこれは形式的にも一つのリズム集団をつくっている。短歌とよばれる詩のありかたを見ると、文章上の規範としては五音・七音・五音・七音というリズム集団を休止部を挟んで連結し展開していくことになっているのだが、これをさらに表現構造からのリズム集団に分割してみるならば、
わが―いほは みやこの―たつみ しかぞ―すむ
よを―うじやまと ひとは―いふなり
のようになる。つまり、表現構造からのリズム集団が展開されながらも(2)、それをふくみつつ否定したかたちでのさらに大きなリズムとして五・七・五・七・七の規範を満足させているのであり、このリズム集団の休止部は同時に表現構造の切れ目にもなっている(3)。同様に唱歌を表現構造からのリズム集団に分割すると、
としの―はじめの ためしとて
おわり―なきよの めでたさを
まつたけ―たてて かどごとに
いはう―けふこそ たのしけれ
となり、七五調とよばれているものが、三・四・五あるいは四・三・五のリズム集団から成立していることがわかる。
日本語が膠着語であるために、現象的に表現の切れ目は存在しないにしても、内容的な切れ目が「風呂敷型統一形式」として存在するために、ここから規定されて自然に読むときにもこの切れ目でわずかながらも休止するようになってくる。そして語彙のありかたとしては、客体的表現は一音ないし四音、主体的表現は一音ないし二音からなるものが多いから、両者を統一すると二音(「わが」「よを」)三音(「いほは」「たつみ」「しかぞ」「ひとは」)四音(「みやこの」「いふなり」)五音(「うじやまと」)のようになってくる。これらの言語表現としてのリズム集団を、構成的美のための文章上の規範にふくむことになるのであるから、二音と三音であるとか、三音と四音であるとかリズム数を増加させるかたちにならべて変化を示そうとすれば、五とか七とかいう数にならないわけにはいかないのである。三音・四音・五音というリズム数の規則的な増加による強調をねらって美的な表現をしようとすれば、たとえ文章上の規範でしばられていないにしてもいわゆる七五調にならないわけにはいかないのである。
歌舞伎のセリフが「つきも―おぼろに―しらうおの」「あくに―つよきは―ぜんにもと」というかたちになり、しりとりでも「したや―うえのの―やまかつら」「かつら―ぶんじは―はなしかで」「でんでん―たいこにに―しょうのふえ」と区切って発音するかたちになった(4)。固有名詞は一語であるが、姓と名の間でわずかながらも休止して発音するわけである。
文章上の規範に合致させるためには、それなりのやりくりを必要とする。音数が足りない場合には別の語を加えることもそれほど困難ではないが、はみ出した場合に削ることはむづかしい。主体的表現は省略できても客体的表現を一音だけ削るわけにはいかない。それゆえ「字あまり」がしばしば出現するのもやむをえないということになる。内容は形式を規定する。どうしてもこういう内容を訴えたいと意図すれば、時には文章上の規範を破ることになるし、たとえ破ったにしても破るだけの正当な理由があればそれを容認するのが、規範としての正当なありかたなのである。
リズム集団を形成するそれぞれの語は、すでに規範に定められた一定の音節結合を有している。それらの音としての相互の関係は、言語表現にとって何ら本質的な問題ではないけれども、非言語表現としてのリズム集団に位置づけられることになると、音節結合のありかたが問題になり、さらにリズム集団全体との関係においても問題になる。リズムが鑑賞の対象となるからには、音節結合は明晰なものでなければならない。融合してリズムが曖昧になることは好ましくない。「まつかぜ」ということばが快く耳に響くのは、内容ばかりでなく、この意味での明晰さにも関係のあることである。さらにこの問題は五・七・五の句頭と句尾についてもいえることであって、非言語表現におけるこの音節のありかたの反省および技法としてどう生かすかの問題は、短詩型文学にとって重要な意味を持つために古くからとりあげられて来たわけである(5)。
(2) 言語表現としてのアクセントから規定されるリズムと、このいわば小リズム集団とは直接の関係がない。そして詩歌のリズムを直接に規定するのは後者であって前者ではない。山田美妙の『日本韻文論』(1890年)は前者について詳細に論じながら、後者を表現構造として内容とのつながりにおいてとらえることなく、この媒介なしに「音数」と形式的にむすびつけた。これに対して森鴎外は、言語が「句」のかたちをとることによってリズムをなすことを指摘している。また、このいわば小リズム集団を意識的にとらえて、「なこそ―ながれて なお―きこえけれ」というような別のリズム表現も成立するわけである。
(3) 休止部の切れ目は、「風呂敷型統一形式」としての切れ目であるから、これが文章構造としての大きな切れ目と一致するか否かはまた別のことである。文章構造としていわゆる文節を考えると、その間に乖離(かいり)を見ることにもなる。
(4) 「君が代」を子どもに歌わせると、「さざれ―いしの」と区切って発音する。日ごろ小さく区切って発音する習慣がついているし、また息もつづかないからである。
(5) 時枝の「五韻連声」「五韻相通」の説明にあっては、「音の階調と意味の階調とが分析されて意識されなかった」ことが、すなわち非言語表現と言語表現とが区別されなかったことが指摘されている。これをふくめて、『国語学原論』の国語美論の部分は多くの興味ある問題を提起しているものといえよう。
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