日本語は体系的に見てまだ未発達な段階にあるといえよう。それは表意文字を使っているからではなく、表現構造がまだ原始的なありかたに近いからである。現象面での文法的な規範が整備していて、鳥は「一羽」「二羽」と「羽」で数え、獣は「匹」で魚は「尾」で鉛筆は「本」で皿は「枚」でテレビは「台」で数えるというように規定されながらも、まとまった思想を表現することになると固定した形態がないというところに、文法的な固定度の重点が現象的な面に置かれている原始的な言語の性格がうかがわれるからである。
数が類別補助語を伴って表現され、魚に「匹」は使えないというのは原始社会の言語に特徴的であるし、英語ならば You are beautiful. と表現することになっていても、日本語では「お前は美しい」「きみはきれいだ」「あなたは美しいです」などとそのときの条件によっていろいろ変った表現ができるのであって、固定されていない。どの表現にしても、文法的にまちがっているのではなく、それぞれ正しいと認められている。
英語がいわばスーツケース的にできているのに対して、日本語はまだ一枚の布を持っている段階で風呂敷的であるともいえよう。英語は中身がどうであろうと見たかたちは固定しているが、これに反して日本語は中身のありかたが見たかたちのちがいとなってあらわれる。
「試験に落ちた。」「だから勉強しろといったじゃないか。」
「準備が完了です。」「でははじめよう。」
「おやじが怒っている。」「でも心配することはないよ。」
われわれの会話では、よくこんなやりとりが行われている。「だ」は助動詞とよばれ、肯定判断を表現する単語であるが、これが文の終りでなく頭に使われるのである。「で」は他の単語を附け加えるときの語形変化で(「だ」の連用形――引用者)、いわゆる活用である。
いったいどうしてこんな単語が冒頭に来たかといえば、その理由はきわめて簡単なことである。われわれは相手の話を聞くときに、その表現を手がかりにしてその背後にある話し手の観念的な体験を追体験している。観念的な自己分裂によって話し手の立場に立ちながら、話し手の体験の展開を追っている。話を理解し終ったときには、話し手の判断を追判断している。
それで、話を理解したよと話し手に知らせるときに、この追判断を行ったことを確認して、肯定判断「だ」「で」を使うだけのことである(1)。「から」はそこを出発点として話し手の立場が移行するときの主体的表現であるが、ここでは過去の時点へと移行していく。認識の展開に非常に忠実な表現であって、まったく風呂敷型だというほかはない。
(1) 追体験の中で追判断だけを表現するから「だ」になるのであるが、追体験を抽象的にとりあげるときには「それ」を加えるのが普通である。「それだから……」「それでは……」「それでも……」というかたちになる。
このような日本語の性格は、語論・文論の場合にも、英語などとは異ったとりあげかたを要求することになる。英語のように大きな枠として固定した形態が成立している場合には、その相対的に独立した形態の中だけで、単語の機能を論じたり形態変化を論じるというかたちでの表現構造そのものの検討が、語論・文論の大きな位置をしめるしまた必要なことでもある。
ところが日本語のような場合には、それぞれの表現構造はそれぞれの認識構造によって大きくささえられているために、認識構造についての理解を欠くならば表現構造の一応の説明さえ困難になってくるのである。
スーツケースはスーツケース自体の形態なり構造なりの検討が大きな意味を持ち、丸いものを入れて運ぼうと四角いものを入れて運ぼうと、それは形態と関係がない。これでは西瓜や野球のバットやステレオは入れられないぐらいのことしか問題にならない。
風呂敷は一応材質や大きさが問題になるとはいえ、丸いものを包めば丸くなり四角いものを包めばかたちは四角くなる。風呂敷自体としての形態や構造の検討は大きな意味を持たないで、包んであるものの形態から風呂敷に与えられた形態を説明しなければならないために、包んであるものの検討が大きな意味を持ってくる。大きな西瓜をっつんだり野球のバットを適当にしばったりしてぶらさげることができるのは、風呂敷の長所であろうが、こわれやすいものを運ぶ場合にはスーツケースのほうが有利である。ほかの荷物の上にのせても、腰をかけても中身がつぶれる心配はない、
外国の言語学者は新カント主義であっても大きな顔をして言語論をやってのけ、語法・文法についての見解もほとんど一致しているのに、日本の言語学者の語法・文法についての見解は各人・各説といっていいくらいくいちがっているのは、右のような事情にもとづくものである。日本語の理論的な分析は形式論や機能論ではやっていけないにもかかわらず、認識構造について理解しようとする努力が欠けているからである。
英語が屈折語とよばれるのに対して日本語は膠着語といわれ、現象的に語と語との切れ目が与えられていない。そこから日本語では、ある表現を一語と認めるか二語と認めるかについても、学者の間の見解が対立してくる。一語か二語かは、究極のところ内容から決定されるのであって、音声あるいは文字によって決定されるものではない。形式から決定している場合も、それが内容的に別であることのあらわれとして別な形式をとっているからにほかならない。
表現内容を形成する実体は話し手あるいは書き手の認識であるから、結局のところ認識における区別から一語か二語かを決定することになる(2)。しかも、この認識のありかたは歴史的に変化するものであって、かつては合成語として成立したものも現在では単なる一語に過ぎない場合がある。
その著しい例は外来語であって、「ワイシャツ」は原語としては二語であるが、日本語としては white を意識した合成語として成立し、間もなくこの意識も消滅して、洋服を着るときに下につける特殊なシャツという認識を表現するものになっている。それゆえ「色の着いたワイシャツ」と
表現しても、何ら不自然には感じない。黒板の筆記用具を「白墨」と名づけ、野菜を「唐辛子」と名づけたときも、はじめは「白」や「唐」を意識した合成語であったであろうが、やがてこの意識は消滅して、現在では一個の実体をとりあげて表現するものでしかない。それゆえ「赤い白墨をとってくれ」と表現しても何ら不自然には感じない。漢字で書くときに、いくらかひっかかるものを感じるくらいである。
これとは逆に、語の形態が変化する場合に、その中で変化しない部分をとらえて語幹とよび、変化の背後には必ずや認識の変化があるであろうと考えることも危険である。認識の変化がないにもかかわらず、音声の変化することは、音便(おんびん)といわれる現象からも明かであって、音便だけが発音の便宜によって臨時に音声の変化するものであり、その他の場合にはすべて認識の変化を伴っているだけだときめてしまうわけにはいかないのである。前の会話の例でいうならば、「だ」が「で」に変化したからといっても、そこに認識の変化は存在しないのである。
日本語で動詞とか形容詞とかよばれる単語と、英語でのそれとは異っている。
英語、独逸(ドイツ)語などの動詞 (verb) と形容詞 (adjective) との差は動詞には陳述(ちんじゅつ)の力含まれ、形容詞には陳述の力欠けたる所より区別せられてあるものなり。然(しか)るに、わが形容詞は動詞と同じく陳述の力含まれてあり、然るが故にわが所謂(いわゆる)形容詞は彼(か)の adjective とは全く性質を異にするものにして、verb ならざるべからざるものなり。かかる次第なれば verb は用言に該当するものにして、これを今いふ所の動詞とするは不十分といわざるべからず。随(したが)つてわが所謂動詞は彼れの verb に当るといふことは全く不当といふべきにはあらねど、それは一面のみの真にして、完全に一致するものと云ふこと能(あた)はざるものなり。かくてわが動詞、形容詞を合せたる用言といふものが彼れの verb に当るといふ事の実なるをさとるべきなり。(山田孝雄『日本文法概論』)(以下山田の引用はすべてこれによる)
英語の形容詞は時の観念がない。だから beautiful, white は「今美しい」「今白い」を意味しない。また「美しかった」「白かった」にあたる英語の形容詞はない。copula の助けをかりなければならないのである。日本語の「い」形容詞はその点が違う。形容詞そのものが時の観念をもつのである。
寒い。 It is cold.
寒かった。 It was cold.
しかし
(1) 寒い冬 cold winter
(2) 寒かった冬 winter that was cold
の (1) では「寒い」に時の観念のある場合と、ない場合とが考えられる。(空西哲郎『英語・日本語』)
英語の形容詞は、動詞とちがって独立して述語にならず、繋辞(けいじ/copula)を伴うことになっている。日本語ではこの繋辞に相当するものを使わない。その点で同じではないわけである。
では「時の観念」はどうかというと、形容詞は対象の属性をとらえて表現するのであって、対象そのものはたしかに時間的ではあるが、時間的なとらえかたをしているわけでも何でもない。属性を静止的・固定的にとらえて表現するところに、その特徴がある。けれども静止とか固定とかいうありかたにしても、それを大きな目で見ればやはり運動のとる一つの形態なのである。「弁証法的な見解からすれば、運動がその反対物である静止によって表現されうるということには、まったくなんの困難もない。」(エンゲルス『反デューリング論』)
現実の運動が現実に静止というかたちに、現実の運動が認識で静止というかたちに、さらには認識の運動が表現で静止というかたちに、あらわれうるのである。いまの例でいうならば、過去の時点で「美しい」とか「白い」とかいう静止した状態にあったとしても、現在の時点ではもはや醜くなっていたり黒くなっていたりすることもありうるわけである。それゆえ、形容詞で表現する場合でも、その話し手あるいは書き手は一定の時点に立っており、その時点としての現在において対象を扱ってはいるのだが、それは形容詞では示されない。時の観念は表現上示されないのであって、存在しないのではないことを忘れてはならない。それゆえ、「美しかった」「白かった」とか表現するときにいたって、はじめて「時の観念をもつ」のだということにはならない。ここでは、美しいとか白いとかいうことが過去の時点であったということを表現上示すことになるから、「美しい」「白い」の表現の背後にある時点とはちがった時点の表現が加わっているものと見なければならない。
動詞は対象の属性を運動し変化するものとしてとらえ、表現するのであるから、すでにそこに時間的なものが意識されている。したがって英語の動詞がその語尾変化によって時の観念を表現しているのも、それなりに理由のあることである。だが、形容詞が独立して述語にならず、繋辞を伴うことになっており、時の観念をこの繋辞であらわしていることとは、ただ表現形式が異るだけであって、認識構造からいえば同じことなのである。別のことばでいえば、時の観念の表現は主体的表現において行われるのであるが、これが動詞の語形あるいは語尾変化として客体的表現に浸透ないし融合した形態をとるか、独立した単語として繋辞で行われるか、のちがいにすぎないのである。
「ヨーロッパの言語に於いては、詞的表現と辞的表現とが、屡々(しばしば)合体して一語として表現されるのに対して、日本語に於いては、この両者が多くの場合に別々の語として表現されてゐる」(時枝誠記『日本文法・口語篇』)のであるから、ヨーロッパの言語に見られる動詞の語尾変化とその解釈をそのまま日本語に押しつけるのはあやまりだということになる。山田は「受け―させ―らる―べから―ざら―しめ―たり―き」のような例をあげて、これを複雑な語尾変化を持つ一語だと説明しているが、時枝とすればそれは受け入れられないことになろう。山田の説明に対して論理的に反駁できない人びとも、このような例を見せられると直観的に何か納得できないものを感じるのである。これは全体として一語ではなく、詞的表現と辞的表現がいろいろ組み合さったものであり、日本語の風呂敷的な性格を特徴的に示したものである。ここでは辞的表現の累加(るいか)という問題が提起されている。だがこの問題は、辞が詞を「包む」機能を持つという機能主義的な考えかたでは説明できないばかりでなく、かえって正しい理解へすすむことが阻止されてしまうのである。同じことは山田のいう係助詞の問題を検討する場合にもいえるのである。
(2) これは俗流唯物論者にとって、観念的に受けとられやすい。そのために、俗流唯物論者のほうが主観以外のところに区別の基準を求めて、かえって形式主義におちいってしまうのである。