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2018年11月10日(土)| 言語>表現論 |  
『認識と言語の理論 第二部』4章(1) 日本語の特徴

『認識と言語の理論 第二部』4章(1) 日本語の特徴
『認識と言語の理論 第二部』4章(2) 「てにをは」研究の問題
『認識と言語の理論 第二部』4章(3) 係助詞をどう理解するか
『認識と言語の理論 第二部』4章(4) 判断と助詞との関係
『認識と言語の理論 第二部』4章(5) 主体的表現の累加
『認識と言語の理論 第二部』4章(6) 時制における認識構造
『認識と言語の理論 第二部』4章(7) 懸詞、比喩、命令
『認識と言語の理論 第二部』4章(8) 代名詞の認識構造
『認識と言語の理論 第二部』4章(9) 第一人称――自己対象化の表現

『認識と言語の理論 第二部』4章(1)~(9) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(勁草書房・1967年刊)から
  第四章 言語表現の過程的構造(その二) (1) 日本語の特徴

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.457 

 日本語は体系的に見てまだ未発達な段階にあるといえよう。それは表意文字を使っているからではなく、表現構造がまだ原始的なありかたに近いからである。現象面での文法的な規範が整備していて、鳥は「一羽」「二羽」と「羽」で数え、獣は「匹」で魚は「尾」で鉛筆は「本」で皿は「枚」でテレビは「台」で数えるというように規定されながらも、まとまった思想を表現することになると固定した形態がないというところに、文法的な固定度の重点が現象的な面に置かれている原始的な言語の性格がうかがわれるからである。

数が類別補助語を伴って表現され、魚に「匹」は使えないというのは原始社会の言語に特徴的であるし、英語ならば You are beautiful. と表現することになっていても、日本語では「お前は美しい」「きみはきれいだ」「あなたは美しいです」などとそのときの条件によっていろいろ変った表現ができるのであって、固定されていない。どの表現にしても、文法的にまちがっているのではなく、それぞれ正しいと認められている。

英語がいわばスーツケース的にできているのに対して、日本語はまだ一枚の布を持っている段階で風呂敷的であるともいえよう。英語は中身がどうであろうと見たかたちは固定しているが、これに反して日本語は中身のありかたが見たかたちのちがいとなってあらわれる。

 「試験に落ちた。」「から勉強しろといったじゃないか。」

 「準備が完了です。」「ははじめよう。」

 「おやじが怒っている。」「も心配することはないよ。」

 われわれの会話では、よくこんなやりとりが行われている。「だ」は助動詞とよばれ、肯定判断を表現する単語であるが、これが文の終りでなく頭に使われるのである。「で」は他の単語を附け加えるときの語形変化で(「だ」の連用形――引用者)、いわゆる活用である。

いったいどうしてこんな単語が冒頭に来たかといえば、その理由はきわめて簡単なことである。われわれは相手の話を聞くときに、その表現を手がかりにしてその背後にある話し手の観念的な体験を追体験している。観念的な自己分裂によって話し手の立場に立ちながら、話し手の体験の展開を追っている。話を理解し終ったときには、話し手の判断を追判断している。

それで、話を理解したよと話し手に知らせるときに、この追判断を行ったことを確認して、肯定判断「だ」「で」を使うだけのことである(1)。「から」はそこを出発点として話し手の立場が移行するときの主体的表現であるが、ここでは過去の時点へと移行していく。認識の展開に非常に忠実な表現であって、まったく風呂敷型だというほかはない。

(1) 追体験の中で追判断だけを表現するから「だ」になるのであるが、追体験を抽象的にとりあげるときには「それ」を加えるのが普通である。「それだから……」「それでは……」「それでも……」というかたちになる。

 

『認識と言語の理論 第二部』 p.458 

 このような日本語の性格は、語論・文論の場合にも、英語などとは異ったとりあげかたを要求することになる。英語のように大きな枠として固定した形態が成立している場合には、その相対的に独立した形態の中だけで、単語の機能を論じたり形態変化を論じるというかたちでの表現構造そのものの検討が、語論・文論の大きな位置をしめるしまた必要なことでもある。

ところが日本語のような場合には、それぞれの表現構造はそれぞれの認識構造によって大きくささえられているために、認識構造についての理解を欠くならば表現構造の一応の説明さえ困難になってくるのである。

スーツケースはスーツケース自体の形態なり構造なりの検討が大きな意味を持ち、丸いものを入れて運ぼうと四角いものを入れて運ぼうと、それは形態と関係がない。これでは西瓜や野球のバットやステレオは入れられないぐらいのことしか問題にならない。

風呂敷は一応材質や大きさが問題になるとはいえ、丸いものを包めば丸くなり四角いものを包めばかたちは四角くなる。風呂敷自体としての形態や構造の検討は大きな意味を持たないで、包んであるものの形態から風呂敷に与えられた形態を説明しなければならないために、包んであるものの検討が大きな意味を持ってくる。大きな西瓜をっつんだり野球のバットを適当にしばったりしてぶらさげることができるのは、風呂敷の長所であろうが、こわれやすいものを運ぶ場合にはスーツケースのほうが有利である。ほかの荷物の上にのせても、腰をかけても中身がつぶれる心配はない、

 外国の言語学者は新カント主義であっても大きな顔をして言語論をやってのけ、語法・文法についての見解もほとんど一致しているのに、日本の言語学者の語法・文法についての見解は各人・各説といっていいくらいくいちがっているのは、右のような事情にもとづくものである。日本語の理論的な分析は形式論や機能論ではやっていけないにもかかわらず、認識構造について理解しようとする努力が欠けているからである。

英語が屈折語とよばれるのに対して日本語は膠着語といわれ、現象的に語と語との切れ目が与えられていない。そこから日本語では、ある表現を一語と認めるか二語と認めるかについても、学者の間の見解が対立してくる。一語か二語かは、究極のところ内容から決定されるのであって、音声あるいは文字によって決定されるものではない。形式から決定している場合も、それが内容的に別であることのあらわれとして別な形式をとっているからにほかならない。

表現内容を形成する実体は話し手あるいは書き手の認識であるから、結局のところ認識における区別から一語か二語かを決定することになる(2)。しかも、この認識のありかたは歴史的に変化するものであって、かつては合成語として成立したものも現在では単なる一語に過ぎない場合がある。

その著しい例は外来語であって、「ワイシャツ」は原語としては二語であるが、日本語としては white を意識した合成語として成立し、間もなくこの意識も消滅して、洋服を着るときに下につける特殊なシャツという認識を表現するものになっている。それゆえ「色の着いたワイシャツ」と 表現しても、何ら不自然には感じない。黒板の筆記用具を「白墨」と名づけ、野菜を「唐辛子」と名づけたときも、はじめは「白」や「唐」を意識した合成語であったであろうが、やがてこの意識は消滅して、現在では一個の実体をとりあげて表現するものでしかない。それゆえ「赤い白墨をとってくれ」と表現しても何ら不自然には感じない。漢字で書くときに、いくらかひっかかるものを感じるくらいである。

これとは逆に、語の形態が変化する場合に、その中で変化しない部分をとらえて語幹とよび、変化の背後には必ずや認識の変化があるであろうと考えることも危険である。認識の変化がないにもかかわらず、音声の変化することは、音便(おんびん)といわれる現象からも明かであって、音便だけが発音の便宜によって臨時に音声の変化するものであり、その他の場合にはすべて認識の変化を伴っているだけだときめてしまうわけにはいかないのである。前の会話の例でいうならば、「だ」が「で」に変化したからといっても、そこに認識の変化は存在しないのである。

 日本語で動詞とか形容詞とかよばれる単語と、英語でのそれとは異っている。

 英語、独逸(ドイツ)語などの動詞 (verb) と形容詞 (adjective) との差は動詞には陳述(ちんじゅつ)の力含まれ、形容詞には陳述の力欠けたる所より区別せられてあるものなり。然(しか)るに、わが形容詞は動詞と同じく陳述の力含まれてあり、然るが故にわが所謂(いわゆる)形容詞は彼(か)adjective とは全く性質を異にするものにして、verb ならざるべからざるものなり。かかる次第なれば verb は用言に該当するものにして、これを今いふ所の動詞とするは不十分といわざるべからず。随(したが)つてわが所謂動詞は彼れの verb に当るといふことは全く不当といふべきにはあらねど、それは一面のみの真にして、完全に一致するものと云ふこと能(あた)はざるものなり。かくてわが動詞、形容詞を合せたる用言といふものが彼れの verb に当るといふ事の実なるをさとるべきなり。(山田孝雄『日本文法概論』)(以下山田の引用はすべてこれによる)

 英語の形容詞は時の観念がない。だから beautiful, white は「美しい」「白い」を意味しない。また「美しかった」「白かった」にあたる英語の形容詞はない。copula の助けをかりなければならないのである。日本語の「い」形容詞はその点が違う。形容詞そのものが時の観念をもつのである。

  寒い。  It is cold.

  寒かった。  It was cold.

しかし

  (1) 寒い冬  cold winter

  (2) 寒かった冬  winter that was cold

の (1) では「寒い」に時の観念のある場合と、ない場合とが考えられる。(空西哲郎『英語・日本語』)

 英語の形容詞は、動詞とちがって独立して述語にならず、繋辞(けいじ/copula)を伴うことになっている。日本語ではこの繋辞に相当するものを使わない。その点で同じではないわけである。

では「時の観念」はどうかというと、形容詞は対象の属性をとらえて表現するのであって、対象そのものはたしかに時間的ではあるが、時間的なとらえかたをしているわけでも何でもない。属性を静止的・固定的にとらえて表現するところに、その特徴がある。けれども静止とか固定とかいうありかたにしても、それを大きな目で見ればやはり運動のとる一つの形態なのである。「弁証法的な見解からすれば、運動がその反対物である静止によって表現されうるということには、まったくなんの困難もない。」(エンゲルス『反デューリング論』)

 現実の運動が現実に静止というかたちに、現実の運動が認識で静止というかたちに、さらには認識の運動が表現で静止というかたちに、あらわれうるのである。いまの例でいうならば、過去の時点で「美しい」とか「白い」とかいう静止した状態にあったとしても、現在の時点ではもはや醜くなっていたり黒くなっていたりすることもありうるわけである。それゆえ、形容詞で表現する場合でも、その話し手あるいは書き手は一定の時点に立っており、その時点としての現在において対象を扱ってはいるのだが、それは形容詞では示されない。時の観念は表現上示されないのであって、存在しないのではないことを忘れてはならない。それゆえ、「美しかった」「白かった」とか表現するときにいたって、はじめて「時の観念をもつ」のだということにはならない。ここでは、美しいとか白いとかいうことが過去の時点であったということを表現上示すことになるから、「美しい」「白い」の表現の背後にある時点とはちがった時点の表現が加わっているものと見なければならない。

 動詞は対象の属性を運動し変化するものとしてとらえ、表現するのであるから、すでにそこに時間的なものが意識されている。したがって英語の動詞がその語尾変化によって時の観念を表現しているのも、それなりに理由のあることである。だが、形容詞が独立して述語にならず、繋辞を伴うことになっており、時の観念をこの繋辞であらわしていることとは、ただ表現形式が異るだけであって認識構造からいえば同じことなのである。別のことばでいえば、時の観念の表現は主体的表現において行われるのであるが、これが動詞の語形あるいは語尾変化として客体的表現に浸透ないし融合した形態をとるか、独立した単語として繋辞で行われるか、のちがいにすぎないのである。

 「ヨーロッパの言語に於いては、詞的表現と辞的表現とが、屡々(しばしば)合体して一語として表現されるのに対して、日本語に於いては、この両者が多くの場合に別々の語として表現されてゐる」(時枝誠記『日本文法・口語篇』)のであるから、ヨーロッパの言語に見られる動詞の語尾変化とその解釈をそのまま日本語に押しつけるのはあやまりだということになる。山田は「受け―させ―らる―べから―ざら―しめ―たり―き」のような例をあげて、これを複雑な語尾変化を持つ一語だと説明しているが、時枝とすればそれは受け入れられないことになろう。山田の説明に対して論理的に反駁できない人びとも、このような例を見せられると直観的に何か納得できないものを感じるのである。これは全体として一語ではなく、詞的表現と辞的表現がいろいろ組み合さったものであり、日本語の風呂敷的な性格を特徴的に示したものである。ここでは辞的表現の累加(るいか)という問題が提起されている。だがこの問題は、辞が詞を「包む」機能を持つという機能主義的な考えかたでは説明できないばかりでなく、かえって正しい理解へすすむことが阻止されてしまうのである。同じことは山田のいう係助詞の問題を検討する場合にもいえるのである。

(2) これは俗流唯物論者にとって、観念的に受けとられやすい。そのために、俗流唯物論者のほうが主観以外のところに区別の基準を求めて、かえって形式主義におちいってしまうのである。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(70歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説を学びながらことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことをマイペースでやっています。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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