『認識と言語の理論 第二部』4章(1) 日本語の特徴
『認識と言語の理論 第二部』4章(2) 「てにをは」研究の問題
『認識と言語の理論 第二部』4章(3) 係助詞をどう理解するか
『認識と言語の理論 第二部』4章(4) 判断と助詞との関係
『認識と言語の理論 第二部』4章(5) 主体的表現の累加
『認識と言語の理論 第二部』4章(6) 時制における認識構造
『認識と言語の理論 第二部』4章(7) 懸詞、比喩、命令
『認識と言語の理論 第二部』4章(8) 代名詞の認識構造
『認識と言語の理論 第二部』4章(9) 第一人称――自己対象化の表現
『認識と言語の理論 第二部』4章(1)~(9) をまとめて読む
三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
第四章 言語表現の過程的構造(その二) (2) 「てにをは」研究の問題
〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。
〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。
(2) 引用文中の太字は原著のものである。
(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。
(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。
『認識と言語の理論 第二部』 p.463
日本語においては、辞(じ)すなわち主体的表現に属する語が多いが、それは右のような理由で客体的表現から独立した単語として存在しているためであり、これをさまざまに使いわけて微妙なとらえかたのちがいを示すことができる。ここに、古くからてにをはの問題が修辞論の問題としてとりあげられてきた理由を見るのである。てにをは観あるいはてにをは論の歴史的な展開は、日本語における主体的表現論の展開であるから、日本語の構造を知るために役立つばかりでなく、ひいては言語における主体的表現の位置づけを考えるためにも有効であろう。
てにをはということばは、最初から単語の分類に使われたのではなかった。これは昔漢文を訓読するときに、漢文には欠けているが日本語には存在する単語を読み添える必要があるところから、そのために点をつけ加えたのであって、この点をさすことばとして生れたのである。したがって、中国語にはないが日本語にはある、独自な表現の種類をさすこととなり、ひいてはそこに日本語の持っている独自な法則性が反映しているものという意識が確立していった。
この法則性の意識は、のちにてにをはを単語の分類として使うようになったときにも統一して存在していた。それらの単語はそれぞれの特殊な意味を持ちながらも、すべて共通した性格をそなえ共通の法則性につらぬかれていて、辞と称されたのであり語形変化のあるものは「動辞」とか「はたらくてにをは」とか名づけられた。それらの辞の間に、相関関係のあることは、その関係がいったい何を意味しているか理解できなかったにもかかわらず、すでに意識にのぼっていたわけである。
このてにをは論は、和歌の解釈および創作という、芸術上の実践に関する指針を打ち立てるために進められたのであって、単なる理論上の関心から論を試みたものではなかった。この実践的というところに、重要な特徴を見なければならない。「てにをはを和歌の表現に即して考察して行つた事は、てにをはの本質を明かにするには寧(むし)ろ幸(さいわい)なる道程であつたと考へられる」(時枝誠記『国語学史』)のである。
和歌を創作するに際して、単語をいかにえらぶべきか、どのような使いかたをしてはならないかという、修辞論としててにをはを論じるときには、語彙の蒐集や整理とはちがって、表現の指針としての有効性が要求されるわけである。表現構造全体にわたっての、具体的な説明が要求されるわけである。したがってそこでは、単語そのものの選択についてだけではなく、和歌全体の表現構造との関連における「留(とま)り」とか「切れ」とかいうありかたや、さらにはどのような辞ではじまったときにはどのような辞でむすぶかという呼応関係が、具体的に展開されていたのである。
本居宣長(もとおりのりなが)の『詞の玉緒(ことばのたまのお)』は、彼の皇国イデオロギーと一応別な、右の意味で実践的かつ学術的な古典であり、古来のてにをは研究を継承し発展させたものとして国語学者から評価されているが、この評価は妥当というべきであろう。そこでは具体的に古歌の例をあげてその解釈の方法が論じられ、てにをはとよばれる単語の内容と使いかたが示されている。題名の「玉緒(たまのお)」とは、玉をつらぬくところの緒(お)という意味であるが、ここにてにをはの役割が象徴されている。詞すなわち客体的表現を玉にたとえ、てにをはすなわち主体的表現を緒にたとえて、美しい玉に対しては美しい緒をつけることによってはじめて玉の美しさも十分に発揮できるのであり、その意味で主体的表現の正しいありかたを説こうというのである。
詩といわれる種類の文学における感情や感動の表現に、修辞論の立場からこまかく心をくばることの重要性は、いまさらいう必要もないであろう。言語表現はすべてそれなりの普遍性を持つ、この著作の素朴な発想にも、日本語のみならず言語についての普遍的な構造論がひそんでいたのであった。
起りうべき誤解を防ぐために一言しておくが、中世から近世にかけて説かれた歌論や歌学をそれなりに評価することと、その論者の属する階級や階級イデオロギーを容認することとは別である。
マルクス主義がギリシァ哲学に高い評価を与え、いまもってわれわれの学ぶべきものが存在することを認めたとしても、それは当時の奴隷制を容認し貴族の側に味方することを意味しない。また、評価することと絶対視することとも別である。
『詞の玉緒』に、表現についての本格的な理論が体系的に展開されているなどとは、皇国イデオロギーを支持する学者でさえ思ってもみなかったことである。歴史的条件がそんなことを宣長に許さないくらいは、学者のはしににつらなる人間なら経験的に自覚できるのである。表現論が科学の名に値するものになるためには、やはりその基礎となる認識論がある水準に達しなければならないのであって、昔も今もこのことに変りはない。
歌学は認識論を持たない弱さの中で、経験を通して表現のあり方を手さぐりでさぐっていった。そこでは同じ単語がいろいろに使われている事実を指摘するとか、単語の相互の関係に法則的なものがあるのを曲りなりにもとらえるとか、表現構造をつらぬくものに直観的な説明を与えるとか、ある程度表面から内部へ入りこんでいくくらいのところに止まらないわけにはいかなかった。したがって表現構造や呼応関係についての説明も、現象論を完全にぬけ出すことができないために、あちらこちらに不満やまちがいを見出すのである。
『認識と言語の理論 第二部』 p.466
古典にはすべてそれなりの限界がある。ましてや科学とよびうるまでになっていない著作にあっては、そこから完成した理論や明確な説明をもらって来てすぐ役立てられるかのように思うなら、大きなまちがいである。だが自分の考えに都合のいい例を集めるのではなく、具体的な作品にとりくんで説得性のある説明を与えるべく努力し、そこから修辞論を展開していった人びとは、それなりに成果をあげていたのであって、そこにいくつかの注目すべき見解を見出すことができる。この遺産を無視することはできないし、この実践的な態度を軽視することもできない。国語学者といわれる人びとは、宣長の研究を評価するとともに、それをさらに訂正発展させるべく努力した。
明治以後にいたってもそのことに変りはなかったが、ここでは外国から輸入した認識論ないし論理学の助力をも求めて、てにをは論を完成する仕事が続けられたのである。山田も時枝も、その点では共通していた。けれども山田の立場がカント主義であり時枝が現象学にたよっていたことは、彼らの研究の足をひっぱる結果となったのである。
まずはじめに山田から、用言についての説明を聞くことにしよう。彼は用言が「陳述の力」と「属性」とその両者を表現しているものと解釈するのである。
用言の用言たる特徴は実にその陳述の作用をあらはす点にあり。この作用は人間の思想の統一作用にして、論理学の語をかりていへば主位に立つ概念と賓位(ひんい)に立つ概念との異動を明かにしてこれを適当に結合する作用なり。凡(およ)そ人の思想を発表する機関として個々の概念の必要なることはいふを俟(ま)たざるところなれど個々の概念のみ存してもこれらを統一判定する作用なくば、思想の完全なる結成となることなし。かく統一判定する作用を言語にあらはしたるもの即ち用言なり。
この点より見れば、用言はすべての品詞中最も重要なるものにして談話文章の組立もこれが存在によりてはじめてその目的を達するを得(う)べきものたり。而(しか)してその用言はその陳述の力と共に種々の属性をあらはせるもの大多数を占(し)むれども、もとその属性の存在は用言の特徴と目すべきものにあらざることは既に上に述べた所なり。
この故に用言特有の現象は実にこの陳述の力に存するを知るべし。されば、その属性甚(はなはだ)だ汎(ひろ)く、漠然として属性の捉(とら)ふべきものなく、又は殆(ほとん)ど全く属性の認むべからざる場合にても陳述の力といふ用言特有の現象を有するものは用言たる資格十分なりといはざるべからず。
山田の考えかたは、たとえば「甘み」は名詞で、「甘さう」は副詞で、「甘い」は用言であるから、「甘」という対象の属性の表現はどれにも共通していてこれが用言に特有ではないと見、この属性を除いたところに用言の本質があるとするのである。これでは、用言の本質は対象の属性をとらえた客体的表現ではなくなってしまう。そして「甘」の部分を除いた残り、すなわち活用の部分が「陳述の作用をあらはす」ことにならないわけにはいかない。
国語の動詞はその活用形にて種々の陳述をなすものなるが、それらのみにては、その属性の表現の状態、又は陳述の委曲(いきょく)なる点等をあらはし得ざることあるが故にさる時に、その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。かゝる場合の複語尾に該当するものは西洋文典にいふ所の時、態、法等の助動詞と称せらるゝものなり。西洋の動詞にはそれら時、態、法等の区別を助動詞にて示す外(ほか)になほ不定形 infinitive 分詞 Participle 名動詞 gerund などと称する区別あり。かれらの動詞は此(かく)の如く複雑なるものなり。
すなわち、一般に日本語の助動詞とよばれているものは、山田によると用言の語尾の複雑に発達した「複語尾」であり、用言の「内部の形態上の変化」にすぎないのである。
これは用言の語尾にのみあらはるゝものにして、その用言の作用又は陳述の委曲を尽(つく)さしむる用をなすに止(とど)まれるを以て用言の内部の形態上の変化を見るを穏当なりとすべき性質を有せり。されば、吾人はこれを語尾の複雑に発達せるものにして語尾の再び分出せるものなりといふ意を以て仮に名づけたるなり。
用言はそのつぎに助動詞が加えられるとき語形が変化するけれども、これは形式上の変化で何ら内容の変化を伴うものではない。いわゆる活用の部分は何ら陳述の表現を意味するものではない。これは山田が「陳述の力」と称するものを、認識構造として理解すれば明かになる。彼は、概念を統一する作用そのものを陳述の作用と理解した。
しかしヘーゲルもいうように、概念以外に概念を統一する作用があるのではなく概念そのものの発展によって統一が行われるのであり、「概念の自己自身による規定作用」を「判断作用」とよぶ(ヘーゲル『大論理学』)のであるから、山田の「陳述の力」なるものは概念の発展であるが概念とは区別されるところの認識のありかた、すなわち判断にほかならないのである(1)。
それゆえ複語尾の問題は、用言のあとに接尾語とか判断辞とか思われるものが多数加えられているときに、それらはすべて用言の内部の問題であり属性の表現といっしょに一語として扱うべきか否かの問題でもあることになる。
時枝は複語尾説をとらず、判断辞を一語と認めている。そしてそれの欠けているものに「零(ゼロ)記号」を設定する。
陳述の存在といふこと自体は疑ふことの出来ない事実であつて、若(も)し陳述が表現されてゐないとしたならば、「水流る」は「水」「流る」の単なる単語の羅列に過ぎないこととなる。そして陳述の本質を考へて見れば、それは客体的なものではなく、全く主体的な肯定判断そのものの表現であるから、明かにそれは辞と共通したものを持つてゐるのである。
繋辞の加はつたものから逆推して行くならば、「咲くか」(―ね、よ、さ、わ)「高いか」(―同上)「犬か」(―同上)等は皆零記号の判断辞のあるものと考へることに合理性を認めることが出来るのである。(時枝誠記『国語学原論』)
判断は対象の認識とは区別しなければならないが、用言は対象の認識を表現するに止まっている。それゆえ、文が用言で終るときには形式と内容との間に矛盾が存在している(2)のであって、内容としては判断が存在していながら形式には示されていないものと見なければならない。「水流る」にあっては、肯定判断そのものの表現は省略されているのであって、用言が文としての完結を示す形態をとっているために、この形態から判断の存在を推定することはできるが、この形態に肯定判断そのものが実現されていると見ることはできない。
しかし山田は形式と内容とを強引に一致させようとする。形而上学的に、内容として存在しているからには表現されていなければならないはずだときめてかかっている。それゆえ用言は属性と陳述とを「共に」あらわすものと解釈し、たとえ客体的表現としての性格を持たずに主体的表現としての性格を持つものに転化しても、これを転化とは認めずに、単に属性の表現を失ったものでむしろ用言の特徴を発揮したものと解釈する。たとえば「あり」も「存在を示す」客体的表現の場合と「ただ陳述の義をあらはす」主体的表現の場合とがあることを指摘しながらも
上の二列は口語に於いては極めて明かに認識せらるゝなり。即ち存在をあらはして陳述する場合には
こゝに梅の樹がある。
といふ如く、「が」という助詞を加へたる語の下に用ゐらるゝものなるが、陳述の力のみをあらはす場合のものは
これは梅の木である。
といふ如く、必ず「で」といふ助詞を伴ひてあらはるべきものなりとす。
というにとどまって、この二列の「ある」を一括して存在詞と呼んでいる(3)。時枝は存在を示す場合は詞であり陳述を表現する場合は辞であるから、「ある」を二種類に区別すべきだと主張した。この主張は正当であった。
山田が「陳述の力」とよぶものの本質は判断であることを、時枝が指摘したのには重要な意味がある。これはてにをは論を判断辞の観点から再検討すべきことを、またてにをはの呼応関係を判断相互の関係において再検討すべきことを暗示しているからである。だが時枝にとってこの再検討の障碍(しょうがい)となったのは、例の辞は詞を「包む」ものだとする機能主義的解釈だった。
(1) ヘーゲルはカントとちがって認識の発展における移行を重視する。概念と概念とが、概念以外のところから結合せられるというような解釈を排している。山田はカント主義的に「思想とは人の意識の活動にして、種々の観念が、ある一点に於いて関係を有し、その点に於いて結合せられたるもの」と、この「統合作用」を論じてこれを「統覚作用」とよんだ。時枝も「文を主体的概括作用によって説明しようとする点で、山田博士の統覚作用の説と根本に於いて相通ずるものである」という。これはどちらも観念論的な認識論ないし論理学の助力を求めている点で、根本に於いて相通じていることと無関係ではない。
(2) 時枝の「零記号」は、経験的に導き出されたものであるから、この矛盾を矛盾として正しくとらえていない。言語表現は形式だけで内容が存在しないという考えかたも、この矛盾を正しくとらえる道を遮断している。
(3) 「ない」のほうは一括しないで、客体的表現を用言に入れて形容詞として説明し、主体的表現を複語尾に入れて区別している。分類に論理的な一貫性がないのである。
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