まず「が」であるが、この使いかたはいくつかあるにしても、そこには共通点がある。「わが涙」「わしが在所」「梅が枝(え)」「夢が浮き世か浮き世が夢か」など、体言をつなぐかたちのものが文語に多く、また「言わぬが花」「知らぬが仏」「目に見るがごとく」など、用言の下につくこともある。これらは、むすびつきとして意識する以上のものではない。
風が吹いて、木がゆれる。
彼が行かなければ、私が行きます。
これらのかたちをとっても、物ごとのありかたをやはり単純なむすびつきでとらえていることは同じである。風については吹いていることだけをとらえ、木についてはゆれることをとらえている。彼と私は対置させられているが、彼のありかたも私のありかたも単純なむすびつきでとらえている以上のものではない。
これが父で、これが母です。
これは父で、これは母です。
たとえ同じ対象をとりあげても、この対象をとりあげる話し手の意識にはちがいがある。「が」を使うときは個人を一人一人別々にとりあげているにすぎない。ならんでいる動物を、「これが犬で、これが猫です」というのと同じような意識である。しかし「は」を使うときには、父のときはそれ以外の人間ではなく母のときはそれ以外の人間でないことを意識して、集団の中でとりあげている。山田のいいかたを借りれば、「排他的」なとらえかたをしている。
誰が何といっても、私は平気だ。
彼が行かなくても、私は行きます。
ここでは「排他的」なことがさらに明かである。他人のことは単純なむすびつきでとらえるが、それと対置されている自分のほうは、全体の中の自分として異質な存在であることを意識したり、彼と自分とは異質な人間で自分は主体性を持っていることを意識したりして、「は」でその差異を強調する。
梅は咲いたか、桜はまだかいな。
梅は春に咲く。
この二つは、「は」の使いかたがちがっている。前者はこれまた「排他的」で、花全体の中での梅や花全体の中での桜を、それぞれ他を意識してとりあげているのだが、後者は「梅」といわれているものすべてに共通した普遍的なありかたをとりあげている。この二つは正しく区別しなければならない。
反作用はつねに作用と方向が反対で大きさが等しい。
全体は部分より大きい。
科学の法則は、普遍的に存在する関係をとりあげているのだが、このときもわれわれは「は」を使っている。
以上のように見てくると、われわれは対象を概念としてとらえて言語で表現するとは言うものの、その概念がまず個別的概念か、特殊的概念か、普遍的概念かに区別することができるし、これらの概念の自己自身による規定作用としての判断も、個別的判断か、特殊的判断か、普遍的判断かに区別することができる。そしてこれらの判断は、当然に肯定判断や否定判断と認識構造においてむすびついている(1)ものと見なければならない。宣長は直観的に、てにをはにおける係と結とのつながりをとらえたのだが、用言そのものが「力を持つ」わけでもなければ、係助詞そのものが「支配する」わけでもない。
さて係助詞といわれるものの中で、現象的にもっとも特徴的なのは口語の「しか」であり、これは結となる単語が固定している。「これを受くる述語は必ず打消の意をあらはすに限らる」と山田は指摘して、係助詞が一定の陳述を要求し「陳述の力」を「支配する」ことの証明に役立てている。佐藤もまたその点を強調している。
百円しかない。
彼は臆病者でしかない。
前者は非存在を表現する形容詞を、後者は否定判断を表現する助動詞を使っているとはいえ、どちらも「ない」で受けている。「退却しかありえない」とか「正しいものとしか思われなかった」とか、「しか」に対してはつねに何らかのかたちで「ない」がついてまわるのである。問題はこのような現象を指摘することではなく、なぜ「ない」であって他の単語ではないのか、その理由を明かにすることであろう。山田も佐藤もその理由を説明してはいない。これらの場合の対象を考えてみると、対象としては現に「百円」が存在するのであり、「臆病者」にちがいないのであるから、それらの対象に対して「ない」といっているのだと考えるわけにはいかないのである。
したがって、現実に与えられている対象と、「ない」を使う対象とは別なのだということになろう。「ない」を使う対象は、実はこの話し手の頭の中に存在しているところの先入見ないし予想であり、あるいは客観的に存在している誤解のたぐいである。話し手の漠然とした期待であろうと、あるいは「千円ある」とか「勇敢な人間だ」とかいう具体的な予想であろうと、多くの人びとに信じられている評価であろうと、それらの観念的なものが現実によってくつがえされ、現実によって否定されているところから、それを認める話し手の「ない」が生れたのである。
(相当入っているとにらんだが)百円しかない。
(千円へそくっておいたのに)百円しかない。
(しっかり者のように見えたが)彼は臆病者でしかない。
(評判と実際とは大ちがいで)彼は臆病者でしかない。
現実は先入見や予想や評判と必ずしも一致するわけではなく、現実をとりあげるときにこの観念的なものとの差異を強調することが必要な場合もある。これは特殊性についての判断を下すことにほかならない。「しか」が観念的なものとのつながりで現実をとらえていることを表現し、「ない」が観念的なものを扱っているのである。
自動車事故を目撃した人間が「自動車がひっくりかえった!」「人が死にかけている!」とさけんだときは、対象の個々のありかたをとりあげているのである。個別的な対象と属性とのむすびつきをとらえた、個別的判断が存在している。たとえ集団が存在していても、一人一人をつぎつぎと対象にして、「これが田中君で、これが木村君だ」というときは、個々の対象をとりあげているのでそれぞれ個別的判断である。
集団の存在が意識されてその中での位置づけとして「こちらは兄の子だが、これは私の子だ」と区別を与えているときには、それぞれ特殊的判断である。「父は尾張の露と消え、母は平家に捕えられ、兄は伊豆に流されて、おのれ一人は鞍馬山」とか「都々逸(どどいつ)は野暮でもやりくりは上手」とかいう区別も、特殊的判断である。
「生れては死ぬるなりけりおしなべて、釈迦も達磨も猫も杓子も」というときには、すべての生物に共通した普遍的なありかたをとりあげているので、もちろん普遍的判断である。このように、われわれはどんな判断かという自覚はないにしても、助詞を習慣的に使いわけているのであって、個別的な対象のときは「が」を使うが、特殊的判断や普遍的判断のときは「は」を使わないと何かおかしい感じがしてくる。
これらの助詞に呼応する単語のありかたは、この判断の性格によって規定されないわけにはいかない。個別的な対象をとりあげるときには、その個別的な対象のありかたやそれに対する話し手の感情や欲求や願望なども、それぞれの対象によってそれぞれ異ってくる。千差万別である。それゆえ、個別的判断すなわち「が」を使う場合には、それを受ける部分の表現もやはり千差万別にならざるをえない。特定の形式の単語が呼応することにはならない。現象的に、係(かかり)と結(むすび)というかたちが見られないわけである。
ところが、特殊的判断すなわち「は」「も」「こそ」「さえ」「しか」などを使う場合には、対象の特殊なとりあげかたをするだけに、そこに特殊な判断や特殊な感情が伴うこともしばしばであって、ここからそれに呼応する特定の単語がむすびつくという現象もあらわれてくるわけである(2)。
さらに、普遍的判断のときの「は」になると、この場合の対象は過去・現在・未来にわたって普遍的なものとしてとりあげているだけに、時を超越した扱いかたとしての特徴があらわれてくる。このときは話し手の主体的な位置づけが一定不変になり、「はたらくてにをは」を使うようなことが起らない。ここでも呼応の現象を見ることができる。
時枝は助詞を五種に区別して、山田が係助詞とよんだものを「限定を表はす助詞」と名づける。そして口語についてはつぎのような説明を与える。
例へば、甲が勉強してゐるとする。この事実の表現は、ただこの事実そのものが表現を成立させるばかりでなく、周囲の事情によつて話手の事実に対する認定に相異があり、従つて表現も異る。その事情といふのは、甲の外(ほか)に、乙も丙も勉強してゐる場合、甲以外は乙も丙も勉強してゐない場合、怠者である甲が勉強してゐる場合、優等生である甲が勉強してゐる場合等によつて、この事実そのものの認定のしかたを異にする。従つて次のやうな表現が成立する。
甲が勉強してゐる。
甲も勉強してゐる。
甲でも勉強してゐる。
甲は勉強してゐる。
甲だけ勉強してゐる。
甲ばかり勉強してゐる。
甲まで勉強してゐる。
右の表現に対する助詞には、話手に甲に対する期待、評価、満足等が表現されてゐることが分る。(時枝誠記『日本文法・口語篇』)
ここでは二つのことに気づく。第一は例の「しか」についてであって、時枝はこれをこの種の助詞としてあげてはいるものの、「甲しか勉強していない」というかたちでここに入れて説明を加えてはいない。これは「包む」という辞の機能の解釈に禍(わざわ)いされて、「しか」が「ない」と関係づけられている事実を説明できなかったように思われる。
第二は限定ということが特殊性を意味することである。甲の勉強の例にも見るように、この種の助詞はいづれも特殊的判断の場合の表現であるから、限定を表現する助詞だけをまとめたのでは普遍的判断の「は」の居(い)どころがなくなってしまう。事実時枝の分類では、格を表現する助詞のほうへ入れられてしまっている。
日本語の表現構造には「――は――が――」というかたちをとる場合が非常に多い。英語の文法などを学んだ人びとにとっては、これが奇妙に映るようである。「象は鼻が長い」について、草野清民が「象は」を総主となづけて以来、この構造は文法学者の間でいろいろ論議されている。たしかに、文は主語と述語とから成立するものだという考えかたでこれを見ると、三つの項から成立していて主語らしきものが二つもあるから、異常に見えることはたしかである。
だが主語に対する述語という考えかたは、いわばスーツケースの標準規格のようなもので、風呂敷を使うときにはスーツケース的に見えるときもあるがそうはみえないときも多いから、形式論をふりまわして日本語の表現構造を解釈しようとすることに問題がある。内容のどのような構造がこの形式としてあらわれているのか、それを考えなければならない。われわれの言語表現は、立体的な認識構造を線条的に単純化してとりあげるという要求にこたえるように努力している。
判断のちがいに対して係助詞といわれるものを使いわけるのは、対象の構造に主体的表現を対応させる日本語の特徴的なありかたであって、これを利用するところに立体的な対象に対する立体的な認識構造を単純な文で示すという独自な形式が生れたわけである。前にも述べたように(『認識と言語の理論 第二部』第四章の三(p.474)――引用者)、これには二つの系列があって
父は頭が白い。
紳士は金髪がお好き。
は認識構造がちがう。「父」と「頭」は一つの実体の全体と部分の関係にあるが、「紳士」と「金髪」とはそれぞれ別の実体である。ここでの「は」は特殊性をとりあげるものであって、「父」のからだの特徴的なありかたや「紳士」の生活の特徴的なありかたについて語ろうとするのであるから、一方は「頭」に他方は「お好き」にむすびついている。そして「が」はそれらの特殊性そのものをさらに目に見えるような現象の面からとりあげ、個別的なありかたにおいて扱うのである。
「頭」を見るならば現象的に「白い」し、「お好き」なのを見るならば現象的に「金髪」なのである。対象はまずその特殊性において、さらに特殊性の側面の個別性において、二重にとらえられながら一つの文に統一して(3)表現され、立体的な認識が「は」と「が」の使いわけで区別して示されている。
「反作用はつねに作用と方向が反対で大きさが等しい」という科学の法則の表現も、やはり立体的な認識を扱っている。「は」は普遍性をとりあげて「つねに」以下にむすびつき、普遍性の中での部分的な現象をとりあげるときに「が」が使われている。
いうならば「――は――が――」の形式は、日本語的なスーツケースとして独自性を持つと見るのが適当であろう。助詞について説明しながら、この形式について正しく解説することが、文法書の任務であるように思われるのである。
(1) 判断そのものが立体的なのであって、対象を全体の中で位置づけるときには特殊性としてとらえながらも、さらにその特殊な存在がある属性を持っているか否かについては肯定したり否定したりするわけである。対象の立体的な構造が判断の立体的な構造をみちびき出すことを、反映論としてつかめないような不可知論的な判断論では、言語学の正しい協力者になれないのである。
(2) 文語の場合に多いところから、文語ではいくつかの係と結を認めるが、口語ではほとんど結としてのかたちが存在しない。それゆえ「しか」が特に注目されることになる。
(3) この二重の把握の統一を、時枝は入子型構造の例としてとりあげているが、判断のちがいにまですすんではいない。