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2018年11月15日(木)| 言語>表現論 |  
『認識と言語の理論 第二部』4章(5) 主体的表現の累加

『認識と言語の理論 第二部』4章(1) 日本語の特徴
『認識と言語の理論 第二部』4章(2) 「てにをは」研究の問題
『認識と言語の理論 第二部』4章(3) 係助詞をどう理解するか
『認識と言語の理論 第二部』4章(4) 判断と助詞との関係
『認識と言語の理論 第二部』4章(5) 主体的表現の累加
『認識と言語の理論 第二部』4章(6) 時制における認識構造
『認識と言語の理論 第二部』4章(7) 懸詞、比喩、命令
『認識と言語の理論 第二部』4章(8) 代名詞の認識構造
『認識と言語の理論 第二部』4章(9) 第一人称――自己対象化の表現

『認識と言語の理論 第二部』4章(1)~(9) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第四章 言語表現の過程的構造(その二) (5) 主体的表現の累加

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.485 

 言語の表現構造について説明する学者は、まず「私は少年だ」とか「それは犬である」とかいう、現実の世界のありかたを直接にとりあげた簡単な文を示して、それを解説する。それから、過去の時には助動詞「た」を加えるかたちにするとか、iswas に変えるのだとか、同じように簡単な文例をあげて解説していく。たしかに形式的には、異った思想を伝えようとするときに、他の単語を加えるとか、繋辞(けいじ)とよばれるものを他のかたちに変えるとか、するにはちがいない。

だがこれは現象的な事実を指摘しただけのことであって、それだけの変化ではないのである。われわれはいつでもそうしているではないか、だからそれが法則なのだと主張したところで、それだけではまだ学問の名には値しないのである。なぜそうすることにするのか、その現象の背後にかくれている法則性をさぐり出して明かにしなければならない。

 形式の変化だけをとりあげる現象論からぬけ出すには、認識構造との対応について反省してみる必要があるから、観念的な自己分裂の問題をここで思い出してみることにしよう。過去の追想であれ、未来の予想であれ、現実を離れての空想であれ、あるいは他の人間の表現に対する追体験であれ、われわれが夢と自覚して夢を見る場合には、それらの頭の中に形成された夢の世界とわれわれが生きている現実の世界と、世界が二重化することを検討して来た。このときわれわれは観念的な自己分裂を起して、夢の世界における観念的な自己と、現実の世界における現実的な自己と、二つの異なった立場に立つことを検討して来た。

「犬がいる」とか「見ろよ」とか「腹が痛い」とか、言語表現は現実の世界のありかたを直接にとりあげるにとどまる場合もすくなくないが、「火事を見た」や「五時に来るそうだ」「うまいものが食べたい」など、追想や予想や空想をとりあげる場合のほうが多いわけであるし、このような言語表現をとりあげる場合には世界の二重化および観念的な自己分裂がその背後に存在するものとして、認識構造を考えてみなければならないわけである。

いま、この認識構造を図式化するために、時枝の「風呂敷型統一形式」を借りることにしよう。但し時枝にあっては、この統一は機能主義的に解釈されていて、辞は風呂敷に、詞は風呂敷の内容にたとえられ、主体の側が客体を「包む」ものということになっているけれども、前述のように「包む」という解釈はとらず、対立する両者が統一されているというだけの意味で使うことにする。

①は夢の世界であって、A は夢の世界の対象となっている事物の認識、a はそれに対している観念的な自己としての判断や感情や欲求や願望などである。②は現実の世界であって、B は現実の世界の対象となっている事物の認識、b はそれに対している現実の自己としての判断や感情や欲求や願望などである。

われわれが追想や予想をしているときには、頭の中に対象化された夢の世界の事物を認識しているかたちをとっているのであるから、③のような入子型(いれこがた)が成立していると考えることができる。A に対する a の判断と B に対する b の判断とが、表現では ab累加(るいか)するかたちになるわけである。

ところで、われわれは a の立場にいるかぎり、A は目の前に与えられているのであって、それは b の立場にいるときの B と変りがない。b の立場にいるとき B を現実的な存在と見るように、a の立場にいるときは A を「現実的な存在」だと思っている。ねむって夢を見ているとき、死んだ父親が A としてあらわれて来ても、夢の中の自己すなわち a では自分と同じようにやはり現実に生きているものと思っている。目がさめて現実的な自己 b にもどってから、はじめて「ああ、いま死んだ父親を夢で見たな」と、それが夢であったことに気がつくのである。

 a の立場にいるかぎり、夢を夢ということができず、a から b に移行して夢の世界から抜け出したときはじめて a のときの対象 A を夢の中の存在だと認めることができる。――この夢についての自覚のありかたは、追想や予想や空想の場合でも同じことである(1)

そして日本語は風呂敷的に、この認識構造をそのまま表現構造に対応させている。現実の世界での対象が「少年」であるときには、図の(1)のようにそれをそのままとらえて、これを話し手の肯定判断「だ」を加えてそれですむ。これが追想になると、観念的な世界での対象「少年」をとらえて、観念的な自己としての肯定判断「だ」を加えてから、現実的な自己へもどって来て「た」をさらに加えるのである。(2)のかたちになる。このとき「だ」の語形が変化して「だっ」と促音になるが、これは音便の場合と同じように認識構造とは何の関係もないことである。敬語を使って「少年」「です」というときは、追想になると「です」が「でし」に語形が変化する。これも認識構造とは何の関係もない。

 過去を表現するときに「た」を使うことから、「た」を一般に過去の助動詞とよんでいる。「だ」が肯定判断そのものを表現しているのと同じように「た」も過去の認識そのものを表現していると思いやすいのだが、それはこの認識構造を見ればわかるようにまちがいである。過去の認識そのものは「少年だっ」なのであり、現実的な自己の立場に移行してはじめてそれを過去だと指摘できるのだから、「た」はいわば目を覚ました現実的な自己の立場でこれは現在の主体的表現である。「た」はそれ以前の表現が過去の認識表現であることを指摘しているだけで、その表現が過去の認識なのではない。助動詞といわれるものが累加(るいか)される場合には、そこに自己の立場の移行が存在することがしばしばであるから、その点に注意しなければならない(2)。「である」のように、肯定判断を重ねるものは、いわば強調のための累加であるが、「であった」とさらに累加されるときは、(2)のように移行が存在しているのである。

 (3)(4)は肯定判断に否定判断を累加(3)した形式の表現であるが、ここでもやはり自己の立場の移行が存在する。「このコップをこわしたのはおまえだろう!」と詰問されて、「私じゃない」と否定したわけであるが、この場合相手の追想を追体験するのであるから、相手の頭の中の世界に観念的に入りこみ、観念的な自己の立場で追体験がすすめられていく。そして相手の思想の重点となっているところの、自分だと判断された部分「おまえだ」をさらに「わたしだ」というかたちで確認し、この追判断をいわば念のために復誦(ふくしょう)してから、つぎに「ない」で否定したのである。いいかえれば、相手が何をいっているのかそれを一応受けとめ、その意味で肯定判断をくりかえした上で、その判断はちがうのだと否定したわけである。

「私」ではなく、事件そのものを、代名詞「そう」を使ってとりあげ、「そう」「じゃ」「ない」と否定することもある。人間ではなく鼠があばれてひっくりかえしたような場合、「そうじゃない。鼠があばれたんだよ」と答えたりしている。文語では「あら」「ず」になるが、単純な質問の場合には判断だけを確認して否定することもありうる。「汝の役目か?」に対して「さにあらず」といったり、あるいは「あらず」と答えたりする。これは(4)のような認識構造をとっていて対象についての認識は追体験によって成立しているのだし、またそれだからこそ答えることができるわけだが、この部分の客体的表現は「零記号(れいきごう/ぜろきごう)」になって表現されていない。もっと単純化されたものとして、「異議あるか?」に対する「ない」という答がある。これは(5)のように追体験の部分はすべて「零記号」になってしまっている。追体験を確認する必要がないくらい単純な質問だからである。これは助動詞による一語文の例であるが、「零記号」を心理主義として否定する人びとはなぜこの答が可能になったかを説明すべきであろう。

(1) 映画の鑑賞に際しては、鑑賞前からそこに夢の世界があることを知っているのだが、鑑賞中はそれを夢の世界だと思っていないし、映画はそこに存在しないことになっている。鑑賞を止めたときに、それを夢の世界と認め映画が映っていると認めるのである。

(2) 時枝の入子型構造形式では、世界の二重化がとりあげてないから、この点が脱落している。

(3) まず肯定してから否定するという形式がなぜとられるのか、二つの判断の関係はどうなのかを、主体的立場の入子型として説明しなければならないわけである。「ず」について「『花咲かず』の否定『ず』に対応するものは「花咲く」といふ事実ではなく、『花の咲くことが存在しない』といふ客体的事実である」と時枝は指摘した。

 

『認識と言語の理論 第二部』 p.489 

 敬語は敬詞すなわち客体的表現に属するものと、敬辞すなわち主体的表現に属するものとに区別される(4)。 (1)の例を敬辞を使って表現すると(6)のかたちになり、肯定判断の表現が敬辞に変ることになる。時枝のいうように、敬辞は「単純なる陳述の変容としてのみ存する」わけである。この場合の話し手の敬意は、「少年」に対するものではなく、この表現を受けとる相手すなわち聞き手に対するものであって、その意味で対象と無関係な感情である。それゆえ、(2)の例を敬辞を使って表現するときには、(7)のかたちをとることもあるが、また(8)のかたちも比較的多く使われるようになった。話し手の立場は、観念的な自己としての立場と、現実的な自己としての立場と、ここでは二重に存在しているし、「少年」と無関係であるから必ずしも観念的な自己の立場において敬意を示さなければならぬわけでもない。それで、現実の立場で敬辞を加える方法をとってもさしつかえないわけであるし、「彼は来られなかった」のように助動詞がいくつも累加する場合にあっては現実の立場でさらに「です」を加える習慣があるために、この習慣からも規定されて(8)が使われている。

(9)は勧誘を断る場合で、観念的な自己としての肯定判断の表現が省略され、「零記号」になっているから、これを敬辞を使って表現すると(10)のように「零記号」の部分が敬辞に変ることもあり、また(11)のように現実の立場で「です」を加えることも行われている。さらに、(12)のように二重に存在する立場にそれぞれ敬辞を使って、敬意を強調することもある。(8)の場合にも「でしたです」と表現できないこともないではないが、「です」を二回使うのは発音がぎこちなくなるので、ほとんど使われない。

 「あらず」の逆のかたちの「ずあり」は、「ざり」と発音される。「働けど働けどなおわがくらし楽にならざり」「美しからざりき」などのように使われる。これは観念的な世界がさらに二重化した、全体で三重の世界をかたちづくっている認識構造のときに、あらわれてくる。過去についての想像があり、過去における現実の世界のありかたは想像を否定するものであったことを、現在の現実的な世界でとりあげるような、(13(14)(15)のような認識構造を見れば、「ずあり」「なくあり」などの「あり」を補助用言と解釈する、橋本進吉の考えかたのあやまりも明かであろう。「んです」の「です」が用言でないことはいうまでもあるまい。話し手は、まず過去についての想像の世界から出発し、その想像の世界を否定するのであるが、その否定した立場は過去の現実的な自己の立場であって、現在の自己からすれば追想の世界の観念的な自己の立場にほかならない。想像の世界を「なく」と否定すると同時に、その立場は過去ではあっても現実的な自己の立場であったことを「あり」と確認しておいてから、さらに以上が追想であることを、「た」で指摘するわけである。

 言語表現の特徴の一つとして、主体的表現が客体的表現から分離することをあげておいたけれども、この分離はさらに主体的表現の累加を可能にすることとなり、この累加によっていろいろな主体的立場の差異とその移行とを表現するようになった。われわれは観念的な世界を創造するだけでなく、時にはそれをいくつか並列的にあるいは立体的に構成していく。「彼は大阪に生まれ、私は東京に生まれた」は並列型であり、「彼は大阪に生まれ、東京で育った」は立体型であるが、この観念的な世界の中の異った主体的な立場を話し手は移行しながら、最後に現実的な自己の立場に帰って来る。さらに「雨が降らなかった」は過去の時点において天候の予想があり、その予想が現実から否定されたことを追想するのであって、この種の二重化された観念的な世界で観念的な自己の移行と現実的な自己の立場への復帰が「なかった」の背後に存在していながら、話し手は別にそんな移行を自覚してはいない。このような複雑な立体的な認識構造を単純に線条的に表現できるところに言語表現の大きな特徴があるなどとは自覚していない。

 橋本進吉の文節論は、竹の節(ふし)のように文が節を持っているものとして、表現構造を説いている。

  私は|昨日|本を|買いに|いった。

 この種の構造論は、形式上の切れ目から内容上の切れ目を経験的に指摘するにとどまって、認識構造へ立ち入って検討したものではない。そのために「ずあり」「なくあり」という表現も、全体の認識構造から見てどのような位置をしめているかという観点でとりあげることができず、まちがった解釈を下すことになったのである。

 「あらず」「ずあり」は、肯定と否定あるいは否定と肯定とがむすびついている。明かにこれは一つの矛盾である。「有難迷惑(ありがためいわく)」とか「痛し痒し(いたしかゆし)」などの客体的表現が、対象の持つ矛盾を忠実にとらえているように、「あらず」「ずあり」などの主体的表現についても、これが合理的な表現であるとするならば、その矛盾の根拠をさぐっていかなければならない。それが主体的立場の矛盾であり、その根拠には観念的な世界と現実の世界との矛盾あるいは観念的な世界相互の矛盾が存在していることを、明かにしなければならない。いま一度、時枝のことばを借りてくりかえすなら、「ただ現象的なものの追求からは文法学は生れて来ない」のである。

(4) この本質的な区別をまず明確におさえて、両者のからみ合いを追求したところに、時枝の敬語論の群を抜いてすぐれた分析が可能となったのである。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年10月生れ(74歳♂)。国語と理科が好き。ことばの持つ意味と自然界で起きるできごとの不思議さについて子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。長い間続けた自営(学習塾)の仕事を辞めた後は興味のあることに関して何でも好き勝手にあれこれ考える日々を過ごしています。千葉県西部在住。

2021年の2月下旬から海外通販(日系法人)を通じてイベルメクチンのジェネリック(イベルメクトール:インド Sun Pharma 社製)を購入し、定期的に服用しています。コロナワクチンは接種していません。

ツイッターは okrchicagob(メインアカウント)、または Chicagob Okr(サブアカウント)。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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