言語表現は語彙として同一ではあっても、認識構造としてはそれぞれ異っているのだが、これは語ばかりでなく文においてもいえることである。「今何時かね?」と問われて腕の時計を見ながら「七時だ」と答えたのは(16)のように現実的な自己の立場での表現である。これに対して「明日のS君の送別会は何時からはじまるのかね?」と問われたとき、ハガキの通知を読んだことを思い出しながら「七時だ」と答えたのは、(17)のように観念的な自己の立場での表現である。表現が終ってからこの話し手も現実的な自己に復帰してくることはくるのだが、復帰した立場での表現はなされていない。必要と認めないからである。
それに、この送別会そのものは未来のできごとであるから、送別会そのもののありかたをとらえて、「七時だろう?」という形式で表現することもできるし、またハガキの通知を読んだのは過去のことであるから、印刷してあったことばをとらえて「たしか七時だった」という形式で表現することもできる。未来に存在するだろう客体的事実についても、それをいろいろな側面から異った主体的な立場でとりあげて表現することができるところに言語の特徴もあり、また文法学で時制(Tense) といわれるものを理解するための鍵がある。
時制は、俗流反映論では解明することができないから、認識論的に見て言語学者の一つの試金石ともいえないではない。俗流反映論の立場から機械的にむすびつければ、現在は現在形、過去は過去形、未来は未来形というように、対象のありかたと形式とが忠実に対応しなければいけないはずであるが、実際にはいまの例にも見るように必ずしもそうなってはいない。そこから、俗流反映論では時制は説明できないという結論が出てくるが、これが反映論では説明できないのだというところへ飛躍してしまって、カント主義へ抱きついたりしている現状である。
日本語のてにをはにおける時の表現については、すでに『詞の玉の緒(ことばのたまのお)』でも論じていた。ここでは過去の「き」「し」および現在の「き」「し」がとりあげられている。そして江戸時代の末から明治のはじめにヨーロッパの文法書が輸入されるに至って、それらを基準に日本語の時制を論じる学者もつぎつぎとあらわれた。外国人(例えばチェムバレン)も同様のことを試みた。
ところが明治の末になって、山田孝雄(やまだよしお)の『日本文法論』がここに一石を投じて通説を批判し、「き」「けり」「たり」を過去の助動詞と解釈するのはあやまりであるといい、これは過去の事実そのものを語っているのではなくて過去の事実を「回想」するものだと主張した。「む」も未来の事実そのものをとりあげるのではなくて「想像」を表現するものだと主張した。この山田の主張は英語学者にも影響を及ぼして、細江逸記(ほそえいっき)が「今日私の首肯しかねる点もないではないが、然も尚(しかもなお)金玉(きんぎょく)の文字と言ふべきである。」と支持を表明し、英文法の解釈に拡大したのである。
英語の現在形は、The earth is round. のように真理とよばれる規定に用いたり、I start tomorrow. のように確実と思われる未来に用いたり、あるいは歴史的現在とよばれる過去の事実を目の前に見るように表現する方法に用いたり、している。細江もこれらを具体的にとりあげて、現在形には
(a) True Present.
(b) "Everlasting Present."
(c) Habitual Action or Repeated Event.
"Present Tense"
(d) Future Event.
(e) "Present Perfect."
(f) Past Event.
の用途があるといい、つぎの説明を与えた
言語を説き文法を論ずる者は須(すべから)くこれ等(ら)六種の用途全部を包含する説明を下さなければ、未(いま)だ以(もっ)てその任を果したものとは言ひ得ないのである。然らば其様(そのよう)な説明は可能であるか、勿論(もちろん)可能でなければならない。若(も)し不可能なりとするならば、それは人知の及ばざるところであるか、さもなくば考査の不足を意味するものでなければならない。
私は決してこの難問題を解き得たりと自負するものではないし、又如何なる言葉を以てしたならば最も適当であるか、まだ断定を下すことは出来ないが、暫定的に此(この)語形を「直観直叙」の語形と名付ける。即ち "Present Tense" なるものは吾々が「かうだ」とか「かうでない」とか感ずる事柄を、その感ずるが儘(まま)に言ひ表はす用をなすもので、それは思想の所謂「直接表象」の具である。故にその描出表現する事柄が時間の如何なる区分内に存するものであらうとも、それは問題にならないのである。(細江逸記『動詞時制の研究』)(強調は原文)
一九三〇年代のはじめに提出されたこの説明は、問題解決のわずか一歩手前にまで到達していたものといっていい。山田はヨーロッパの文法学を笑って、「所謂歴史的現在などいふ苦しき解釈は過去といふ語法上の型を強(し)ひて立てて自縄自縛に陥(おちい)りたる苦境を脱せむとする附会(ふかい)の説なり。」といったが、細江も強調するように言語学者は時制のすべてを説明できる理論を提出する義務があるので、避けて通るわけにはいかないのである。歴史的現在にしても、表現技法としてひろく使われているのはなぜかを、納得できるように説明しなければならないのである。脚本の「ト書(とがき)」やシナリオにあっては、
ト此(この)弁天小僧あたりへ思入(おもいいれ)あつて、見物へ見へるやうに緋鹿の子(ひがのこ)の布を懐(ふとこ)ろへ入れる。与九郎これを見てびつくりする、佐兵衛も太介に囁(ささや)く、弁天と南郷は知らぬ顔にて捨てゼリフにて模様物(もようもの)を見てゐる、太介奧へはひり、鳶(とび)の者清次を引っ張り出て来たりて
正子が店番をしている。久美子がかえってくる。正子あわてて表に出て久美子に告げる。その声を消すように工場のサイレンが鳴り響く。久美子走り出す。雲水(うんすい)の一段とすれちがう。
などのように書かれているが、これは作者が観念的に頭の中に舞台のありかたやテレビの画面のありかたを創造しながら、観念的な自己の立場でその観客となり、目の前に展開する事実を記録するかたちをとったものである(1)。そこには異った世界への移行が存在しない。また泉鏡花は、文章のリズムを重視して、文語体と口語体とを融合させた独自の文体を創造したのだが、これは俳句の作者たちのいう「名詞止め」の形態を採用することともなった。読者は観念的な自己分裂において、作者の経験を追体験している。
しかし「見た」「した」「あった」のような過去の助動詞が使われている場合には、客体的表現の世界から抜け出して二重化している別の世界へ移行し、つぎの文でまた客体的表現の世界へ入りこまなければならない。たとえていうならば、ある建物からつぎの建物へ行くのに、一度地上へ下りてまた上るようなものである。これに反して、客体的表現で終っているなら、そのままつぎの客体的表現の世界へ入っていけるのであって、ある建物の一室からつぎの建物の一室へ空間をまたいで入るようなものである。読者は作者の与えるリズムに酔いながら、流動的につぎつぎと客体をながめていくことができる(2)。その意味で、鏡花の異った時代の異った文体と、その止めのありかたを比較してみよう。
「だから神月、君自ら感情を制して、其の美人と別れたら可からう」と柳沢は慎重に諭した。
「何、もう子爵家を去つて、寺に下宿したら可いぢゃあないか。僕はね、爵位と、君があの高慢な嬶々(かかあ)とを棄てたといふので、総ての罪を償うてあるもんだと思ふ。借金でも何でも遣(や)ッけッ了(ちま)へ。癪(しゃく)に障ったら片端から弾飛(はねとば)せ。一般の風潮で、日本に容れられなかつたら、天に登るこッた。美しい星が二つ出来るんです。天文学者には分らなくッても、情を解するものには、紫か、緑か、燦然として衆星の中に異彩を放つのが明かに見出される。」といひ放つて、龍田は其の若々しい、美しい顔を仰向けて、腕組をした。毛糸の茶色の襟巻(えりまき)は端がほろほろと解けた。
其の背を叩いて、
「江戸ッ児! 相変わらず暢気(のんき)なものだな、本人の神月は、君より餘程(よほど)訳が分つてるよ。だから心配をするんじゃあないか。」と隠(おだやか)に云ひながら柳沢は老実々々(まめまめ)しく、卓子(テイブル)の上に両方からつないで下げた電燈の火屋(ほや)の結目を解いたが、堆(うずたか)い書籍を片手で掻退(かきの)けると、水指(みずさし)を取つて、ひらりと其の背の高い体で、靴のまゝ卓子の上に上つて銅像の如く突立つた。天井はそれよりも遙に高いが、室は狭く、五人を入れて、卓子を真中に、本箱を四壁に塞()ふさいだ上に、戸の入口には下駄箱が並んで、これに、穿物(はきもの)が脱いであるなり、衣服は掛けてあり、外套(がいとう)は下つてる。避(よけ)て通らなければ出られないので、学士はその卓子越の間道を選んだので、余り臨機(さそく)な働であつたから、其の心を解せず、三人は驚いて四方を囲んで、斉(ひと)しく高く仰ぎ見た。為(ため)に国史専修の学士も、暫(しばら)く岩見重太郎に別れなければならず余儀なくされた。(泉鏡花『湯島詣』一八九九年)
「あい」
と僅(わず)かに身を起すと、紫の襟(えり)を噛むやうに――ふっくりしたのが、あはれに窶(やつ)れた――頤(おとがひ)深く、恥かしさうに、内懐を覗いたが、膚身(はだみ)に着けたと思はるゝ……胸やや白き衣紋(えもん)を透かして、濃い紫の細い包、袱紗(ふくさ)の縮緬(ちりめん)が翻然(ひらり)と翻(かえ)ると燭台に照つて、颯(さっ)と輝く、銀の地の、あゝ、白魚の指に重さうな、一本の舞扇(まいおうぎ)。
晃然(きらり)とあるのを押頂くやう、前髪を掛けて、扇を其の、玉簪(ぎょくさん)の如く額に当てたを、其のまま折目高にきりきりと、月の出汐(でしお)の波の影、静に照照と開くとともに、顔を隠して、反らした指のみ、両方親骨にちらりと白い。
又川口の汐加減、鄰(となり)の広間の人動揺(ひとどよ)めきが颯(さっ)と退(ひ)く。
唯(と)見れば皎然(こうぜん)たる銀の地に、黄金の雲を散らして紺青(こんじょう)の月、唯(ただ)一輪を描いたる、扇の影に声澄みて
「其時(そのとき)あま人申様(もうすよう)、もし此たまを取得たらば、此御子を世継の御位になし給へと申しかば、子細あらじと領承し給ふ、扠(さ)て我子ゆゑに捨(すて)ん命、露ほども惜しからじと、千尋(ちひろ)のなはを腰につけ、もし此珠をとり得たらば、此なはを動かすべし、其時人々ちからをそへ――」
と調子が緊(しま)つて、
「……ひきあげ給へと約束し、一の利剣を抜持つて」
と扇をきりゝと袖を直すと、手練(てだれ)ぞ見ゆる、自(おのず)から、衣紋の位に年長(た)けて、瞳を定めた其の顔(かんばせ)。硝子戸越しに月さして、霜の川浪照添ふ俤(おもかげ)。膝立据えた畳にも、燭台の花颯と流るゝ。
「ああ、待てい。」
と捻平(ねじべい)、力の籠(こも)つた声を掛けた。(泉鏡花『歌行燈』一九一〇年)
(1) 現象的に見ると、演劇や映画はまず文学として成立し、これを媒介としてはじめて演劇や映画が存在するもののように思われる。しかしこれは、綜合芸術という創造上の特殊性から規定されて、創造に参加する各人が正しい協力体制が組めるように、固定的な表現を媒介するだけのことであり、脚本やシナリオの作家の頭の中ですでに観念的にではあるが演劇なり映画なりが創造されているのである。音楽の作家が五線紙の上にペンを走らせるのも同じである。ただ、脚本そのものが演劇でなくシナリオそのものが映画ではないように、楽譜そのものも音楽ではない。
(2) シナリオが歴史的現在のかたちをとって書かれるということは、逆にいうならば、歴史的現在のかたちをとって書いたり「名詞止め」で文章を綴っていったりした場合には、読者が映画的なものを感じることになろう。その意味で鏡花の文体も映画的である。
時制が時の区別と関係があるか否かは、単に現在形といわれるものがさまざまに使われているという事実だけから、結論づけるわけにはいかない。対象とする世界のありかたが、認識としてとらえられ、さらにそれが表現されるという立体的な構造を持っているのであるから、まず現実の世界のありかたとして現在・過去・未来とは何をさしているのか、それを明らかにしなければならない。
時間はすべての事物の根本的な存在形式として、現実の事物にそなわっている。カントのいうような、主観の側から先天的直観として事物に与えられる形式ではなくて、客観的に存在している。時計が六時をさしている現実をとらえて、「現在六時です」という。その時点からすれば、「三時に目をさました」は過去になり、「九時に迎いに来るでしょう」は未来になる。現実の世界は a から b に、そして c にと変化していくから、これだけを見ると a そのものが過去、b そのものが現在、c そのものが未来とよばれるのだとか、a が過去から現在へそして未来へと変るのだとか、考えやすい。
だがそうではないのである。なぜ b を現在ととらえたのかといえば、話し手 d がやはり現実の事物として時間的な存在であり、d と b が同じ時点にあるというこの客観的な関係を現在とよぶのであるが、この現在の関係にある現実の事物の中で、d の認識にとって直観的にとらえられ表現できるものも存在している。それゆえ細江の「直観直叙」は現在と無関係どころか、この関係こそが現在とよばれるものに他ならないのである。
a は d にとって過去とよばれる関係にあるが、a のありかたはすでに消滅してしまっていて、直接に与えられてはいない。但し、d はかつて e の時点において a を直接とらえていたのである。a は b からは過去であるが e からは現在である。d は e の時点に観念的にもどって a を追想することができるのだが、この e 点においては a を「直観直叙」できるわけである。現実の d が a について語ろうとするときには、d から観念的な自己分裂によって観念的な自己が e の時点に移行し、ここで a を「直観直叙」してからふたたび d に復帰し、この現実的な自己において「た」と表現する。「た」はそれまでの表現が a と e の関係でなされたことを示すだけのことである。
もし d に復帰しないで、e の立場でつぎつぎに対象をとらえていくならば、いつでも「直観直叙」であるから現在形の表現がつぎつぎとつづいていく。いわゆる歴史的現在になる。現実のありかたとして、過去・現在・未来は正しく区別されなければならない。しかし過去や未来を直接にとらえることはできず、過去は追想のかたちをとって未来は予想のかたちをとってとりあげなければならないところに、観念的な自己がそれぞれの対象に直面する認識構造が成立し、その限りにおいて現在とよぶことのできる関係が成立している。
現在を認識し表現するときの語形ないし助動詞が、過去や未来を扱うときに使われるのも、このような認識構造に媒介されてのことにほかならない。「いつ出発するか?」に「明日七時だ」と答えるのを、直ちに「だ」が未来に使われているのだと誤解するところに、認識構造の無理解があらわれている。この「だ」はいわば未来の予想における現在をとらえる立場なのである。
以上のように、言語表現における時制は対象における時の区別と直接に対応しないけれども、決して無関係ではなく、これは相対的な独立として理解すべきものである。過去が追想のかたちを、未来が予想のかたちを、それぞれとることの説明なしに、時制を論じることを非難したり、過去を追想に未来を予想に解消したりすることは、あやまりである。カント主義の立場に立つ学者は、過去も未来も先天的直観だと考えることになるから、これを追想や予想に解消するのがむしろ理論的な筋を通したことになる。
習慣の表現、たとえば毎朝九時に出勤することをとりあげるときには、話し手はそれぞれの時点に同時に観念的な自己を位置づけることになるから、a と a'、b と b'、c と c'、d と d'、e と e'、f と f'、等々の観念的な自己と客体との関係はすべて現在である。それゆえ現在形を使うのはまったく合理的である。話し手が現実的な自己に復帰しても、その復帰は対象の認識と無関係である。さらに、ガリレオが「地球は動く」という場合のような、対象の時間的な経過と関係のない不変な法則性をとりあげる場合には、習慣の場合の abcde…… が連続しているもの、それに対応する話し手の観念的な自己の位置 a'b'c'd'e'f'…… もこれまた連続しているものと見ることができる。それゆえ法則の表現にも現在形を使うのである。
過去や未来を表現する場合を見ると、われわれは時点的に現在とはくいちがった対象のありかたについてとりあげるにもかかわらず、そのために話し手自身が時点的に移動するのである。エンゲルスの口まねをすれば、「弁証法的な見解からすれば、対象の時点のくいちがいがその反対物である話し手の時点のくいちがいを通じて表現されるということには、まったく何の困難もない」のである。ただ俗流反映論者あるいは不可知論者の形而上学的な発想では、何の困難もないどころか手に負えない難物だということになり、時制をめぐってさまざまな論議が重ねられたにもかかわらず、いまもって理論的な解決に至らないという事態をまねいているわけである。