言語表現における形式と内容との矛盾は、一方では形式が変化したにもかかわらず内容は変化しないというかたちをとり、他方では内容が変化したにもかかわらず形式は変化しないというかたちをとる。活用とか音便とかよばれるものは前者であるが、反語その他同音異義語の成立は後者である。
「笑止」はかつて「きのどく」の意味であったが、現在では反語のほうが正語化していて、昔ふうの使いかたをすると聞き手が妙な顔をする。同音異義語の存在は、これを意識的に利用して、一語に二重の内容を持たせる表現方法を生み出すことになり、洒落(しゃれ)とよばれる当意即妙な創造を楽しむことも日常に行われている。これは「われわれはプロレタリアの誇りを持って活動しなければならん」「おれなんか彼女にもてないんでフラレタリアだよ」というような、言声の類似性を利用して一語に二重の内容を持たせることも可能である。英語のコミックで I have a right hand! と主人公がタンカを切るのも、right を「右」と「すてきな」と二重の内容を持たせた使いかたで、洒落である。
日本語は同音異義語が多いばかりでなく、等時拍音形式をとっているために、多くの音節を持つ単語を部分的に利用して、その部分の音に異った内容をむすびつけることが容易である。懸詞(かけことば)とよばれる文章上の技法も、内容の多重化を意識的に試みたものであって、古歌に「梓弓(あずさゆみ)はるの山辺を越えくれば」とあるのは「はる」に「張る」と「春」という異った内容のものがあるのを利用して二重の意味を持たせ、文の上下を立体的にむすびつけた懸詞の技法である。
江戸長唄のような長い文章になると、「汐汲(しおくみ)」の「君には誰かつげの櫛(くし)さしくる潮を汲まうよ」のように、懸詞をつぎつぎと重ねていくことも多く、「巽(たつみ)八景」のクドキでは「いつか二人が仲町に、心ひかれよるの雨、かたい石場の約束に、話はつもる雪のくれ」と男女のありかたとその背景である深川の景色とを、懸詞で立体化しながら展開している。
言語の意味という場合は、特定の音声にはすでに特定の概念が「かたく相連結」しているのだと考え、われわれが言語で表現するときにはこのような音声をえらんでならべていくのだと解釈しているかぎり、洒落や懸詞に表現されている認識構造を説明することはできない相談である。
時枝が懸詞をとりあげながら、「一音に二(ふたつ)の概念が結合してゐると見ることはどうしても出来ないのである」といい、「音声は意味がそれに結合して言語といふ実体を構成してゐるのでなく、音声は、それに連合し得る概念を喚起するところの媒材たるの機能しか持ち得ないのである。」と機能主義的な解釈に確信を深めて力説したのも、そのためである。
けれども、洒落や懸詞の存在は、音声そのものが客観的に意味を持っていないということの証明にはなりえない。これらについても、「一音に二の概念が結合していると見ることができるし、そう見るのが正しいのであるが、それを実体的に結合していると解釈するからこそ、これらを説明することもできなければ時枝としても納得できないのである。
概念は言語の表現内容を形成する実体ではあるが、内容ではない。概念によって形成され音声に結合している関係が内容なのである。それゆえ、二つの異った概念から形成された二つの異った関係が一つの音声に二重に結合し二重の内容を持っているところに、洒落や懸詞の表現としての特徴があるということになる。この結合のしかたはさまざまなかたちをとることができ、落語のサゲに使われている「多くは(大岡)食わねえ、たった一ぜん(越前)」のように、一語を二つに割って中間に別の単語をいくつかはさんだかたちで結合する例もある。
懸詞で一語の形式にむすびつけられる二語は、いろいろ異った性格を持つものを選択することが可能であって、そのために懸詞を使った全体の文章の認識構造もいろいろ異ったものが生れてくる。これについて時枝が具体的に分析している。しかし共通していることは、懸詞を使うことによって二つの異った文が癒着することになり、懸詞を通して読者が一つの文から異った文へと移行していくのであるから、これは一つの世界から他の異った世界へと流動的に導いていく方法でもあるともいえるであろう。これを建物にたとえるならば、二つの建物の二つの室を廊下でつないであるわけでもなく(1)二つの室の間の空間をまたいでわたるわけでもなく、二つの建物の二つの室が一室にしてあってこの室へ入ることによって自覚なしにいつか別の建物へ移っていくようなものである。リズムを重んじる詞的表現においては、この流動性が大きな役割を果すことになるから、短い文章の中で立体的な世界を扱う和歌の場合に特に効果的に駆使されることになった。
「わが身よにふるながめせしまに」や「まだふみもみず天の橋立」が、二つの世界をいわば並列的にとらえて癒着させているのに対し、「有明のつれなく見えし別れより」は、二つの場面をいわば重ね合わせて癒着させているともいえる。この二つをさらに併用したかたちもある。歌舞伎で助六が登場するときに、河東節で
傘さして、濡れに郭の夜の雨
と唄うのは、形式的には
傘さして、濡れにくる
くるわの夜の雨
の二つの文の癒着であり、二つの場面が懸詞を軸としていわば映画の移動撮影のように展開し、一つの文からつぎの文へと主体的立場が流動的に移動していく。ところが、ここで「濡れ」るというのは、雨に濡れることと恋人揚巻との交情と、これまた二つの世界にまたがって二重の内容を持たせて使っているのであるから、ここでは主体的立場がさらに二重化する。表現形式は単純ではあるが複雑な内容を扱ったものといわなければならない。
また、弁天小僧のセリフで
……百が二百と賽銭(さいせん)のくすね銭せえ段々に悪事はのぼる上の宮、岩本院で講中の枕さがしも度重(たびかさ)なり、お手長講(おてながこう)と札付(ふだつき)にたうとう島を追出され、それから若衆(わかしゅ)の美人局(つつもたせ)、ここやかしこの寺島で小耳に聞いた祖父(じい)さんの似ぬ声色(こわいろ)で小ゆすりかたり、名さへ由縁(ゆえん)の弁天小僧菊之助といふ子若衆さ。
とあるが、「寺島」というのはこの弁天小僧に扮(ふん)した市村羽左衛門(いちかわうざえもん)、後の五代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)の姓である。俳優は観念的な自己分裂を行って演劇の登場人物になり、いわば二重人格として演技するのだが、登場人物すなわち観念的な自己としてのセリフの中に、俳優すなわち現実的な自己としてのありかたを語らせるという、二重の立場での表現がなされているわけである。この二重の立場を、観客は自己の主体的立場を二重化させて、立体的に受けとって楽しむことになる。そしてこの二重化の出発点は、登場人物が悪事を働く場所としての「寺」と俳優の姓である「寺島」とを懸詞として用いるところである。そのためにリズムを断ち切ることなく、「ここや―かしこの―寺島で」と七五調のかたちをとって、流動的に二重化が行われている(2)。
河内山宗俊が松江侯の玄関先で
とんだ所へ北村大膳
というのも懸詞ではあるが、リズムを重視するところからこの形式をとったのであって、内容的に何ら複雑なところはない。この種の、地名や人名など固有名詞を使って二重の内容を表現する方法は、長い単語の部分をえらんで利用するだけに、創作が比較的容易である。『喜撰』のちょぼくれの、「誰でも彼でも二世の契りは平等院とやさりとはこれはうるさいこんだに」とか、『太平記』の「いつかはめぐり逢坂の」「末はいづくと遠江(とおとうみ)」とかいうように、いたるところといってよいほど使われた。また、江戸時代の落首とよばれる大衆詩にあっても、題材が地名や人名に関係するだけに、この種の方法がさかんに使われている。例えば、麻布の鳥居坂にある戸川内膳の邸から出火して、多くの死者を出したときの落首に
この火事は人の命を鳥居坂
これより上の戸川内膳
とあったという。
詩の形態は言語の持つ性格によって規定されずにはすまない。ヨーロッパの詩が、詩行の末端に位置づけられている異った内容の二つの単語を、同一の音声に還元されるよう工夫してその楽しみをねらったのに対し、日本の詩は、一つの単語が異なった二つの内容を持って、読者がそこを流動的に移行したり二重化したりできる楽しみをねらった点で、それぞれの言語の持つ性格の特徴を生かしていると見ることができよう。しかし、日本語でも一つの行の音声が次の行の音声へと連続していく楽しみをねらった、文章形式がないわけではない。一音節の単音を尻とりのかたちでくりかえしていくものとしては、『都路往来(みやこじおうらい)』の
都路は五十(いそじ)あまりに三つの宿、時得て咲くや江戸の花、浪しづかなる品川や、やがて越来る川崎の、軒端ならぶる神奈川は、はや程ヶ谷ほどもなく、暮て戸塚に宿るらむ、紫にほふ藤沢の、野もせりつづく平塚も、ものの哀れは大磯か、蛙鳴なる小田原は、箱根を越て伊豆の海、三島の里の神垣や、宿は沼津の真菰草(まこもぐさ)……
と東海道五十三次を述べていくものが一つの例であり、さらに一音節のワクを越えているものとして尻とりことばの
牡丹に唐獅子竹に虎、虎を踏まえて和藤内、内藤様は下り藤、富士見西行うしろ向き、むきみ蛤ばか柱、柱は二階と縁の下、下谷上野の山かつら、桂文治ははなし家で、でんでん太鼓に笙の笛、閻魔は盆とお正月、勝頼様は武田菱、菱餅三月雛祭、祭万燈山車屋台、太閤様は関白じゃ、白蛇の出るのは柳島、縞の財布に五十両……
がある。『都路往来』のほうは内容上のむすびつきがあり、尻とりはその移行を流動的にするために使われているが、このほうは単に尻とりそのもののおもしろさが七五調でリズミックに楽しめるだけであって、内容はそれぞれ独立している。
(1) これは接続詞を使った場合を意味している。
(2) 所作事(しょさごと)の伴奏に用いる長唄の歌詞にも、登場する俳優の紋所を懸詞に使ったかたちのものがある。『蜘蛛拍子舞(くものひょうしまい)』に「さまにあふ夜は月かげに丸にいの字をゆひわたに、かさね扇の比翼紋、はなれぬ仲じゃないかいな、さいなそんれもよふいふた、さいなそんれもよふいふた、さまと一夜の契りさへ、ささりんどうに抱柏(だきがしわ)、たが睦言を菊蝶の、はなれぬ仲じゃないかいな、さいなそんれもよふいふた、さいなそんれもよふいふた。」とあるが、「丸にいの字」は沢村宗十郎(源頼光)、「菊蝶」は瀬川菊之丞(白拍子亀菊、実は女郎蜘蛛の精)、「かさね扇」は尾上松助(碓井貞光)の紋所である。
詩に使われるさまざまな喩(ゆ/たとえ)は、いづれも内容が多重化している(3)から、主体的に多重化することによってはじめて正しい理解が可能になる。その意味で訓練の欠けている読者にとっては、「難解な詩」が少なくないわけである。けれどもわれわれが会話の中で、何げなく「そりゃ鬼に金棒ってところだな」とか「山椒は小粒でピリリと辛いぞ」とか語っているのも、暗喩(あんゆ)であって、これを理解する相手はここで語られている表象とそれに二重写しになっている現実の人間のありかたをとらえなければならない。もっと単純な形態は綽名(あだな)である。「猿」という綽名をつけることは、現実の人間のありかたの上に感性的に近似した動物のありかたを二重写しにしてとらえるいのであるから、すでに主体的立場が二重化しているわけであって、この理解もやはり追体験の中で二重化しなければならないことになる。
昔は祭のときや納涼売出しのときなどに、商店街に地口行燈(じぐちあんどん)とよばれるものを飾ることが行われた。例えば、行燈に魚のヒラメがタイにかみついている絵が描いてあり、そこに「ひらめがたいくってたいくって」とある。ここから「虱(しらみ)が痒(かゆ)くって痒くって」の意味を読みとって笑うわけであるが、この種の遊びも表現としての性格は、芸術として高く評価されている象徴詩と共通したものを持っている。
日常生活の中では、他の人間に対して「立て!」とか「食べろ!」とか命令することもしばしばであるが、なぜこんな表現をするのかと特別に考えてみるわけではない。しかし反省してみると、そもそも動詞の活用として命令形と名づけられているもののありかたさえ、奇妙なことに気がつく。山田もその現象だけは指摘している。
六種の活用形のうち命令形のみは特に注意すべき現象あり。即ち四段活用及び変格にありてはその形のまゝにて命令の用をなせども、他の二段一段三段の各活用にありては現今にては必ず「よ」といふ助詞を添へてはじめて命令の用を完(まった)くするものなることなり。(古(いにしえ)にありては必ずしも然らず。)それらの関係を示せば次の如し。
行け 来れ 四段活用
死ね 奈行変格
有れ 良行変格
起き よ 上二段活用
受け よ 下二段活用
着 よ 上一段活用
蹴 よ 下一段活用
来(こ) よ カ行三段活用
為(せ) よ サ行三段活用
四段活用の命令形は「よ」を添へずして命令をなし得ること既に説ける所なるが、これに関して従来の文法書に、四段活用の命令形は「よ」助詞を添ふべからざるものにして、之を添ふるは破格なりといふ如き説明をなせるもの往々あり。しかれどもそれは僻説(へきせつ)なり。これらの文法論の典型とせる平安朝の語にも四段活用の命令形に「よ」を添へたるもの少からず。
時枝は命令の表現について、図のような形式を示し、「一は詞の音韻の転換により、又辞の転化による。」と説明している。
「よ」「ろ」が助詞であるとすれば、「起き」「受け」「着」「蹴」などはその下に判断を表現する部分を「零記号」化したものを作って命令を表現するものであると考えなければならない。これまでの検討からもそれは明かであり、現に、母親が子どもに「早くそれをお着!」とか、名詞を使って「全員起立!」とか命令しているところからも、判断辞が「零記号」化されていると見なければならない。
時枝の説明も「立て!」の場合の「e」も主体的表現になるから、「気をつけよ!」の場合には主体的表現は「 eよ」にならなければならぬはずである。それゆえ説明に矛盾があるわけであり、これは命令における主体的立場の特殊性が理解されていないところから生れたものである。
命令のときの「立て」は現実の対象のありかたではなく予想であるから、その主体的立場は観念的な自己の立場でなければならないが、この話し手は同時に立っていない現実の対象のありかたをながめて現実的な立場にも立っている。
立っていないことを見ているからこそ「立て」といっているのである。立っていない現実の対象を見ている現実的な自己の立場と立っている予想世界の対象を見ている観念的な自己の立場とが、分裂してはいるものの、分離しないでそのまま二重化している。これも内容の矛盾であって「立て」や「起き」の背後にすわっていたりねていたりしていることの認識が存在しているにもかかわらず、表面化していないのである。
判断がそのまま二重化していたのでは主体的表現は不可能であって、客体的なありかたのちがいを語形を変化させて示すことが可能な場合だけ語形変化を行うが、それも不可能なときには現実的な自己としての分裂していない立場で「よ」「ろ」と表現し、命令であることを理解させる方法をとっているのである。したがって命令形は活用の中に入ってはいても、他の場合と異った性格を持つものとして区別して扱わなければならない。
上二段活用では「け」が使えず、下二段活用ではすでに「け」が使われてしまっているために、「起きよ」「受けよ」と「よ」の助けを借りることが必要なのである。
そしてこの話し手の分裂・二重化は、話し手自身が二重化を否定することで片づくのではない。たとえ「起きよ」と現実的な自己に復帰したとしても、相手が起きなければまた「起きよ」と二重化をくりかえさなければならない。相手が起き、話し手の予想が実現し、話し手自身の二重化が現実の対象のありかたによって否定されることをのぞんでいるからである。
(3) 吉本隆明が『言語にとって美とは何か』で、喩について多くを論じながら、この内容的な創造において価値を問題にしたゆえんである。