われわれの会話には、まず当事者がいるし、さらに当事者以外の第三者がいる。この第三者は、会話をする場所にいるが会話に参加しない人間、たとえば観客の会話に対する舞台の俳優や競馬の騎手などのような人々もあり、またその場所にいない人間や空想の世界の人間、たとえば外国の将軍やテレビドラマの主人公などもある。そしてこの会話では、それぞれの人間を表現するために、特殊な語彙を使用している。
A は B を「きみ」とよぶが、B も A を同じように「きみ」とよぶ(1)。第三者は C も D も E もすべて「彼」であり、学校の教師も松本清張も毛沢東もすべて同じよびかたをされている。第三者が女性なら「彼」が「彼女」に変るだけで、同級生もキャバレのホステスも山田五十鈴もすべて同じよびかたをされるのである。
図に書いてみると容易に理解できるように、これらの特殊な語彙は会話という人間関係の構造を踏まえて成立しているものである。「中村君がいないじゃないか」と問われて、「彼は今日休みました」と答えるような場合に、「彼」は「中村君」という名詞に代って使われるから、現象的にはたしかに名詞に代るものということもできよう。また、「ほほう、彼女をはじめて見たがなかなか美人だね」と語るような場合は、姓名すなわち固有名詞を知らないために、それに代えて使うものであり、「これは何だろう?」と語るような場合は、対象が何と名づけられているのか知らないために、それに代えて使うものであるから、これらを名前 (name) に代るものだということもできよう。この種の語彙を、名詞 (noun) に対して代名詞 (pronoun) とよぶのは、やはりそれだけの根拠があるわけである。
しかしこのような理解のしかたは、あくまでも現象的なとりあげかたでしかない。なぜならば、代名詞とよばれるものは名詞のように実体をとりあげるのではなく、いま見たように関係をふまえているからである。個人の特殊性がどうあろうと、男性ならばすべて「彼」とよばれるのは、その人間が会話の当事者にとって第三者という関係におかれているからである。文学でも、作者と読者との間に一方交通の会話が行われるのであって、それゆえに作者は作中の人物を「彼」「彼女」と表現するのである。
代名詞を現象的にとりあげることへの疑問は、すでに多くの学者によって語られている。イェスペルセンの発言はよく知られているし、山田や時枝もそれぞれ独自の理解に立って代名詞を論じている。英語のスーツケース的な性格と、日本語の風呂敷的な性格とは、この代名詞のありかたにもあらわれていて、英語には関係代名詞というような、ある意味で代名詞の本質を露骨に示した性格の語彙が存在するけれども、日本語には存在しない。
そしてこの代名詞は、さきにとりあげた時制と共通点を持っているのである。時制は主体的表現であって代名詞のような客体的表現ではないが、時制においては話し手が対象との時点における客観的な関係を扱い、時点のくいちがいをどうとらえどう表現するかが問題になっていて、この客観的な関係を扱うという点で代名詞と共通しているのである。
代名詞ではいまの例で見るように会話という特殊な構造の中での人間関係あるいは事物との関係がとりあげられるのであって、そこでは時は捨象されている。それゆえ同じ客観的な関係でも、主体的表現で扱うというような屈折したかたちをとらずに、客体的表現で扱われるわけである。ところが、名詞のように実体を直接とりあげるのではなくて、関係を扱っているために、これを「主観的」なものだと解釈するふみはずしが生れてくる。
山田の説明がそれである。彼は代名詞を「形式体言」の中に入れたのであるが、「それが意義に対しての一定の実在は存せず、吾人の思想によりて或(あるい)は甲をも乙をも丙をも丁をも思惟しうる或(ある)抽象的の形式」をとっているという意味で、このような扱いかたをしたのであった。
主観的の形式体言とは説話者自身の主観と特別の関係を生じたる場合に於いて客観その者を指示する場合の区別をあらはせるものなり。而(しか)してその各語に対して一定の実質なく、説話者の観察又は思惟の態度如何(いかん)によりて任意に或る実体をさすをうるものなり。
代名詞の性質は既に述べたるが如く主観的のものにして、そのさす実体は説話者の観点の置き所又思惟のし方によりて任意に補填(ほてん)せらるべきものなり。而して代名詞の代名詞たる特徴即ち名詞と異なる点はこれがただ概念たるに止まらずして、その内容が主観によりて如何様(いかよう)にも変更せらるべき点にあり。たとえば甲といふ特定の人もそのさし方によりて第一称格ともなり、第二称格とも第三称格ともなるなり。又第一称格、第二称格は何人(なんぴと)がなりても差支(さしつかえ)なく、第三称格に至りては人、事物、場所、方向等を種々にさし示すことを得(う)べし。かく心のおき様によりて種々にさしうる点は明かに普通の名詞と区別せらるべき特徴なり。これ初めに示せる定義に「さす」という語を用ゐて説明したる所以なり。(強調は原文)
時制の場合には、過去や未来のことを現在形で表現しているという事実から、時制は時の区別と何の関係もないと結論づけられた。いいかえるなら、時制は「主観により如何様にも変更せらるべき」ものであるということになった。いま代名詞にあっても、自分をさす「われ」が会話の相手をさすために使われたり、相手をさす「おのれ」が自分をさすために使われたりしているという事実から、これを「主観的」なものだと結論づけられているのである。
われわれは、時制が現実の時の区別と無関係ではないことを見たが、ここでも代名詞が現実のありかたと無関係ではないことを見ていかなければならない。そしてこの検討に際して心にとめておかなければならないことが二つある。
その一つは時制も代名詞も、客観的な関係を扱っているという共通点が、これらの共通したふみはずしと関係があるのではないかという、予想が立つことである。
いま一つは、時制の場合に、話し手が観念的な自己分裂を行って、観念的な自己が移行していくというかたちが存在していたが、代名詞の場合にも同じようなかたちが生れるのではないかと、考えてみることである。
そして、俗流反映論者あるいは不可知論者の形而上学的な発想では、このような認識構造を正しく処理できないために、時制と同じく代名詞をめぐっての論議も納まるべきところへ納まらずにいるのではないか、と疑って行ったとしても、決して検討はづれではないのである。
(1) ここに一つの矛盾があることに注意すべきである。A から B が「きみ」であると同時に B から A が「きみ」であることは、自分からすれば相手が他人であるとともに、相手からすれば自分が他人であることを意味している。それゆえ自分は他人であるということになる。代名詞はこのような矛盾の上に成立しているのである。
時枝は『日本文法・口語篇』で、彼の認識論の限界内で可能なかぎりではあるが、代名詞についての正しい説明を与えたのであった。山田その他多くの学者が、代名詞を「さす」語であると説明しており、「代名詞の機能」として「自己を中心として『もの』または『こと』がどういう位置をとり、どの方向にあり、どういう有様を呈しているかについての立言が、直接にこれによって指される」(佐久間鼎『現代日本語の表現と語法』)とも述べられているのだが、この「さす」とは表現としていかなることをいうのかそこにこそ問題があると、時枝は切りこんでいく。「それは代名詞の表現の特質を云つたものであるよりも、その特質から来る結果について云つたものである」として、あくまでも結果ではなく表現の過程的構造をとらえようとする。
第一人称の代名詞は、話手が自分自身を話手といふ関係に於いて表現する時にのみ用ゐられ、第二人称の代名詞は、話手が他者を聞手としての関係に於いて表現する時にのみ用ゐられ、第三人称の代名詞は、話手が他者を話題の事物としての関係に於いて表現する時にのみ用ゐられるのである。……代名詞の特質を、以上のやうに、話手との関係概念といふことに求めるならば、そのやうな関係に置かれるものが人であるか物であるかといふことは、代名詞の本質を左右するものではない。そこで、そのやうな関係にあるものが、事物、場所、方角である場合には、これを指示代名詞といふ。
この時枝の主張は、認識論的に山田のそれとちがっている。対象が実体ではないということと、実在ではないということとは別である。関係は実体ではないが実在している。山田はカント主義者と同じように、関係を実在と認めない。それゆえ山田は「説話者自身の主観と、特別の関係を生じたる場合」だと、関係がからんでいることは認めながらもそれを主観的なものに解消させてしまったのに対し、時枝は対象である人あるいは物の持っている客観的な関係を概念としてとらえたものとして、代名詞の本質を話し手との「関係概念」の表現に求めるのである。そこからさらに、つぎのような重要な指摘が生れてくる。
次に、左の文について見るに
この絵は立派な絵ですね。この作者はだれですか。
ここに用ゐられてゐる「この」といふ語は、「庭の桜」「川の水」等に於ける「庭の」「川の」等が、或る事物的概念を表現して、「桜」或は「水」の修飾語になつてゐるのと相異して、話手と事物との関係概念だけを表現して「絵」或は「作者」の修飾語になつてゐる点で、既に述べてきた代名詞の性質に共通してゐるものである。従つてこれらの語は、本質的には右の代名詞の範疇(はんちゅう)に所属せしむべきものなのである。
ただ既に述べて来た体言的或は名詞的代名詞と異なるところは、「この」の「こ」が、話手と事物との関係概念だけを表現して、そのやうな関係にある物を含めてゐないといふことである。代名詞の基本形式は、このやうな関係概念だけを表現すべきものであるかも分らないのである。事物をも含めるといふことは、代名詞と名詞との複合語と認むべきものなのである。
古く用いられた人称代名詞の「われ」「なれ」「かれ」なども、「わ」「な」「か」が関係概念の表現であって、「わが名をよぶは誰ぞ」とか「かの君との別れを惜しみ」とかいう使いかたがそれを証明しているといえよう。
「この作者は誰ですか」の「こ」は、時枝もいうように絵をさしているのであるから、そこには物としての認識は存在しているが、表現が省略されているものと見ることができる。英語の代名詞は日本語とちがって、このように認識構造が読みとれるかたちになっていないのであるから、ここでも日本語は風呂敷的に内容のありかたを察知できるような性格を持っているといってよい。
代名詞の本質が関係概念をとらえるところにあることは、会話における人間関係の構造ばかりでなく、その関係そのものそれ自体の持っている差別をもとりあげることを可能にした。そこから、近称、中称、遠称、不定称などとよばれる、話し手との関係が近いか遠いかによって使いわけることのできる語彙が成立したのである。人間関係としては「彼」であっても、その遠近によって「こいつ」「そいつ」「あいつ」「どいつ」などと使いわけられるわけである。
この場合には、関係概念が「こ」「そ」「あ」「ど」によって表現されるところから、佐久間鼎のように代名詞は「指す語」であり「こそあどの体系」であるととらえる学者もあらわれて来た。しかしながらここで文法学を体系づけようとする学者がひっかかるのは、人称代名詞と指示代名詞との間にあれかこれかという明確な境界線が引けないことである。人称代名詞で「第三人称」というものが、指示代名詞と同じように扱われることになり、人の場合には人称代名詞ともいえるが、物の場合には指示代名詞ということになってしまう。
それで、人であろうと物であろうと、代名詞はすべて「さす」語ではないか、それなら人称とか指示とか境界線のダブった区別をすることなど「文法上無益の徒労」であるばかりか、「かへりて有害なる結果をもたらすもの」だという山田の批判も出てくるわけであり、何でも明確な境界線があるのが当然だという考えかたの人々にとってもっともらしく思えてくるわけである。
それゆえ、人称と指示の区別を抹殺してしまって、第一称格即ち自称、第二称格即ち対象、第三称格即ち他称とし、これに不定称格を加え、これらに「こ」「そ」「あ」「ど」をそれぞれ配して代名詞全体を「こそあどの体系」に仕上げて見せ、もともとこそあどこそが代名詞の本質的な骨組みをなしていたかのように説明されると、まったく合理的な説明であるかのような気もしてくる。形式にひきずられた形式主義ではないかとか、「われ」「なれ」「かれ」「おのれ」などもともと第一称格すなわち第一人称である証拠には、謡曲では「これは西塔の傍に住む武蔵坊弁慶にて候」とか、「これは竹生島参詣の者にて候」とか、話し手自身を「これ」とよんでいるではないかといわれると、もっとものように思えてくるのである。
佐久間は人称代名詞の「わな・た」と指示代名詞のこそあどを、体系として区別しながら対応させて、「なわばり」説を提出した
話し手と相手との相対(あいたい)して立つところに、現実の話の場ができます。その場は、まず話し手と相手との両極によって分解して、いわば「なわばり」ができ、その分解も自然に決まってきます。
対人関係の「対話者の層」と対事物関係の「所属事物層」とは、それぞれ別個の体系を形ずくっていますが、その間に対応が認められるという次第です。
第一人称に「これ」を使ったり第二人称に「そなた」を使ったりするのは、これで説明できるし、問題は解決したかに見える。けれども、このようなスタティックな構造では、第一人称の「われ」を第二人称に使ったり、第二人称の「おのれ」を第一人称に使ったりする、人称代名詞のダイナミックな相互転換を説明することができない。「わのなわばり」とか「なのなわばり」とかいうような、認識の矛盾を切りすてた客観的な構造では処理できないのである。
時制の場合をふりかえってみよう。対象と話し手との時点における客観的な関係は、過去とか現在とかよばれて区別されているのだが、この区別は話し手にとって絶対的な区別ではない。現実の話し手としては、対象は過去の時点にあるけれども、それを追想する観念的な世界の中の観念的な自己にとっては、対象は現在の時点にあるわけである。それゆえ過去と現在の区別は相対的であって、いわゆる現在形を使っても過去形を使っても、表現できることになる。観念的な自己が、時間的に移行して過去の時点に位置を占めるというところに、この問題を解く鍵があるわけである。
代名詞でもこれと似た関係がないか考えてみよう。対象と話し手との人間関係は、話し手が自分をさすか第三者をさすかによって区別されているのだが、この区別も話し手にとって絶対的な区別ではない。現実の話し手としては、対象と話し手とは同じ位置にあるけれども、もし話し手が観念的な自己分裂によって観念的な自己を空間的に移行させ、現実的な自己すなわち対象を「こ」とよぶにふさわしい地点に位置づけるとすれば、この観念的な自己にとっての対象は現実の話し手でもあれば観念的な自己と会話の相手とに対して第三者でもあるわけであって、区別は相対的となり、人称代名詞の「おれ」でも指示代名詞の「こ」でも表現できることになる。観念的な自己が分裂し移行する(2)というところに、この問題を解く鍵があるわけである。
きみが何といったって、このおれが承知するものか。
と代名詞を二重に使う場合、「こ」の位置にある「おれ」を対象にしている話し手のありかたは、図のような地点に観念的に位置づけられているのである。
そもそもこれはこの島に住んで神を敬ひ国を守る弁財天とはわが事なり。
も同じように理解すべきものである。
(2) 山田が「主観と特別の関係」で代名詞を説明しようとしたことも、全然無根拠ではなかったのであって、「内容が主観によりて如何様にも変更せらる」ものだというのも「心のおき様」すなわち観念的な移行をそれなりに意識していたからである。観念的な自己からすれば、A'B および A'A の関係が存在することになっているが、それは現実の関係ではなくて「主観的」なものにすぎない。それゆえ、まず現実の AB の関係が実在することを認めた上で、それをふまえた A'B および A'A の主観的な成立過程を説明すべきなのである。だが山田の認識論はこの立体的な関係を正しくとらえることができなかった。そして話し手との関係を観念的に「主観的」なものに解消させたのである。