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2018年11月20日(火)| 言語>表現論 |  
『認識と言語の理論 第二部』4章(9) 第一人称――自己対象化の表現

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『認識と言語の理論 第二部』4章(9) 第一人称――自己対象化の表現

『認識と言語の理論 第二部』4章(1)~(9) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第四章 言語表現の過程的構造(その二) (9) 第一人称━━自己対象化の表現

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第二部』 p.519 

 時枝の第一人称についての説明は、観念的な自己分裂に直面して分裂の存在を経験的に認めながらも、認識論的に正しく説明するに至っていないところが特徴的である。第一人称の「私」は「言語の主体」とは別だと時枝は主張した。

 主体はそれ自らを如何なる方法によつて言語に表現するか。屡々(しばしば)文法上の主格が言語の主体の如く考へられるが、主格は、言語に表現せられる素材の関係の論理規定に基くものであつて、言語の行為者である主体とは全く別者である。例へば、「猫が鼠を食ふ」といふ表現に於いて、「猫」「鼠」「食ふ」といふ素材的事実相互に於いて「猫」が「鼠」「食ふ」に対して主体となるようなものである。かふいふ場合の主体は、素材間の関係に過ぎないのであつて、「猫が鼠を食ふ」といふ事実の主体であってはならないのである。

次に文法上の第一人称が主体と考へられることがある。成る程、「私は読んだ」といふ表現に於いて、この表現をしたものは、「私」であるから、この第一人称は、この言語の主体を表してゐる様に考へられる。しかしながら、猶(なお)よく考へて見るに、「私」といふのは、主体そのものではなくて、主体の客体化され、素材化されたものであつて、主体自らの表現ではない。客体化され、素材化されたものは、もはや主体の外に置かれたものであるから、実質的に見て、「私」は前例の「猫」と何等択(えら)ぶ処がなく、異る処は、「私」が主体の客体化されたものであり、「猫」は全然第三者の素材化されたものであるといふことであつて、そこから第一人称、第二人称の区別が生ずる。従つて、「私」は主格とはいひ得ても、この言語の主体とはいひ得ないのである。

この様に第一人称は、第二、第三人称と共に全く素材に関するものである。後に述べることであるが、第二人称も場面即ち聴手そのものでなく、聴手の素材化され、客体化されたものであるのと斉(ひと)しい。この考方は極めて重要であつて、かやうにして、言語の主体は、絶対に表現の素材とは、同列同格には自己を言語に於いて表現しないものである。

これを譬(たと)へていふならば、画家が自画像を描く場合、描かれた自己の像は、描く処の主体そのものではなくして、主体の客体化され、素材化されたもので、その時の主体は、自画像を描く画家彼自身であるといふことになるのである。言語の場合においても同様で、「私が読んだ」といつた時の「私」は主体そのものではなく、主体の客体化されたものであり、「私が読んだ」といふ表現をなすものが主体となるのである。

 画家が自画像を描くときにはどんな方法をとるか、鏡を見て描くのである。鏡には自分の像が映っているから、ここに画家は「自分」を見ることができ、主体は客体化され素材化されるのである。

だが、現実には映像であるものを、「自分」と意識するのは観念的な自己分裂によって成立した観念的な自己であり、そのときの観念的な自己はもはや「他人」の立場に立って「自分」をながめていることになる。なるほど、「描く処の主体」は、観察的立場からながめるかぎり、たしかに「自画像を描く画家彼自身」ではあるけれども、画家自身の主体的立場としては、「自分」を一定の距離のところからながめているところの観念的な「他人」なのである。『認識と言語の理論 第一部』1章(4) 「主体的立場」と「観察的立場」を参照――引用者注)

客体化された主体と、それを対象として描く主体との間の距離は、このようにして観念的な自己分裂によって生ずるのであって、現実の画家彼自身とそれを描く主体との間には何ら距離は存在していない。現実には距離が存在していないが観念的には距離が存在しているところに、第一人称の特殊性がある のであって、前の図にも見たようにこの認識構造にささえられて「これ」も第一人称的に使われることになるのである。

 山田は代名詞に反射指示と称格指示とを区別したが、これは再検討を必要とする。

 先(ま)ずわが代名詞にありてはこれをその指し方如何によりて反射指示と称格指示との二類に分(わか)つべし。この類別はその指示のし方性質によるものなるが、既にいひたる如く代名詞は指すといふことを第一義とするものなれば、その類別につきても亦さし方如何といふことを以て主点とせざるべからず。この点よりして先ずこれを上の二類に分つ必要を見る。

 反射指示といふは称格の如何に関せずして専(もっぱ)ら実体その者につきて指すものをいふ。即ち実体その者を絶対的に指示するものにして、多くは一旦あらはれたる体言につきてそれ自身をさすに用ゐらる。これに属するものは「おのれ」の唯一つあるのみ。この「おのれ」といふ語は称格に関係せぬものなるが故に、第一者に対しても第二者に対しても第三者に対してもそが指示として立ちうべく、随(したが)つてその指示せる実体は必ずその処(ところ)に明かに存在すべき筈(はず)のものなり。之を反射といふは吾人と其者との思想上の関係は実体より出て又かへりて実体をさすこと恰(あたか)も物影の反射するが如き性質を有するを以てなり。

 この「おのれ」は「おのが身はかへりみずしてともすれば人のことのみいふ世なりけり」などと、「おの」だけを独立に使うところから見ても、時枝のいうように「おの」と「れ」との複合語であって、「れ」が実体を表現し「おの」が関係概念を表現するものと考えなければならない。そうなると、ますます「おの」は特殊例外な代名詞のように思われてくる。こんな代名詞が存在することは奇妙なようにも思われてくる。しかしながらフレンチ警部もいうように、「最初は謎を深めるように見えることが往々にして謎を解く鍵になる」のだから、この「おの」について検討して見よう。

 山田が「おの」を反射指示というのは、図のように、B から出てまた B にかえり B をさす関係が存在するからである。

この関係をひき出して来て B にさし向けるのが、A の活動である。それゆえ B から出て B にかえる円環的な関係と、これをひき出してさし向ける AB に対する関係とが、ここではとらえられなければならない。

ところで、反射指示と区別されるところの称格指示として「わ」がどのように示されるかを具体的に見よう。この話し手の身ぶりは、ちょうど「おの」と同じように、腕から指が円環的なかたちをとって、AB 線上で自分のほうへ向けられることになる。敬礼のときのように顔の横に指が行くことはなく、B にいる聞き手の視線に一致させて自分をさすのである。実はここに、主体の客体化が行われているのであって、A は観念的な自己分裂を行って BA の線上に観念的な自己を B から A に向けるかたちで位置づけ、A を対象としてとりあげているわけである。

それで、この「わ」の図を上下ひっくりかえし、A を上に B を下にしたかたちで「おの」と比較してみるならば、「おの」のときは観念的に B から出て B にさし向ける関係を設定するが、「わ」のときは現実的に腕から指が円環のかたちをとって目で見えるというちがいがあるだけで、両者は論理的に同じ構造をとっていることが明かになる。

したがって、反射指示と称格指示との区別は現象的なもので本質的なものではないわけである。論理構造をそのままにして、話し手が聞き手と入れかわるなら、第二人称は第一人称に、第一人称は第二人称に用いられることになり、「おのれ」が第二人称だけでなく、「おのれの不明を恥じ入り申す」と第一人称に使われたり、「われ」が第一人称だけでなく、「われが持てる胡蝶(こちょう)の香合(こうごう)、きりきりおれに渡してしまへ」と第二人称に使われたりしているのも、やはり客観的な根拠があるのである。

 

『認識と言語の理論 第二部』 p.522 

 さて、このように検討してくると、第一人称の認識構造にあっては、主体が客体化され対象化され、観念的な自己が分裂している点で共通してはいるが、そこにさらに二つの形態があることがわかる。

その一つの形態は、「われ」のように、現実的な自己はそのまま動くことなく、観念的な自己のほうが動いて外へ出ていって現実的な自己からある距離をおいた位置を占め、そこから現実的な自己を対象として扱うかたちである。謡曲で「これは……なり」と表現する場合も、やはり観念的な自己のほうがそとへ出ていって、「こ」の距離から現実的な自己を対象として扱うかたちをとっていた。

これらに対して、いま一つの形態は、自画像を描く場合や「私は読んだ」と表現する場合のように、現実的な自己から観念的な自己が分裂しても、現実的な自己と同じ位置で観念的に他人になったり、あるいは現実的な自己と関係ない過去の世界へ行ってしまったりして、現実的な自己との関係を設定しないかたちである。

そしてこれらの場合では、鏡の映像とか、あるいは過去を追想した観念的な世界の中とか、現実的な自己の存在していないところに客体としての「自分」を想定し、対象として扱うのである。一つの形態では、表現する主体の方がうごいていき、いま一つの形態では、客体化する主体の方が動いていくという、対立した二つの形態が見られるわけである。

 第一人称はこのような自己対象化という認識構造の上に立っているのであるから、表現形式として第二人称を用いようと、第三人称を用いようと、あるいは名詞を用いようと、認識構造がこのような形態をとっているとすればそれは本質的に第一人称としての表現である(1)

それゆえ、名詞で表現すべきところを代名詞で表現するという現象から、 noun に対して pronoun という区別を与えたことも一応根拠はあるけれども、これと逆の、代名詞で表現すべき認識構造でありながら名詞を用いて表現するという事実、すなわち名詞を代名詞に代用するという事実を理解するための障碍(しょうがい)になっているともいえよう。この代用は、聞き手の追体験を考慮してなされるものであるが、固有名詞を第一人称に代用する方法に

  川島はただいまから外出いたします。

の昔の軍隊方式の表現や

  居所定めぬ南郷力丸、面を見知って貰ひやせう。

  おい、石松の兄さんを見そこなうな。

の舞台のセリフがあげられる。これらはいづれも、聞き手に自分の姓名を記憶させたり、思い出させたりして、聞き手の追体験を具体化させ、実践に役立たせることを意図したものであって、代名詞による抽象的な表現の弱点がカヴァーされるのである。また

  お母さんはちょっとお使いにいって来ますよ。

  おまえにはお父さんの心配がわからないのか。

は、敬語のかたちをとっている。この種の話し手が自己に対して敬語を用いるという方法は、古代から行われているのであるが、天皇が自己に対して敬語を用いるとか親が自己に対して敬語を用いるとかいう事実を、表現だけでながめると、自分が自分に対して敬意をもっていることになり、不自然なことのように思われ、敬語としては特殊なもののように思われてくる(2)

しかしながら、このような場合に「お母さん」「お父さん」は客体化された主体であり、これを表現する主体は観念的な自己として現実的な自己の外部に位置づけられている。A が「お父さん」と表現する時の観念的な自己の位置は、BA 線上の A の外部に、B のところに位置づけられている。

それゆえ B は、A に対して「おやじ」という意識を持っていたとしても、この表現を追体験するかぎり「お父さん」と敬意あるとらえかたをしなければならない。相手の主張や判断を拒否し否定する場合にも、まず相手のいうことを正しく受けとめなければならないし、そこに敬意を表す表現があるならば、その敬意を追体験しなければならない。

この受けとめかたを経験的に利用して、たとえ聞き手が自分に敬意を持っていなかったり軽蔑していたりしたとしても、追体験で否応なしに敬意を持たせるために、聞き手が追体験するであろう観念的な自己の立場からその対象すなわち現実的な自己に対して敬意を示すという、かたちをとるのである。

認識構造としてはきわめて合理的であり、言語表現によるしつけを意図したものであるが、現象的には不合理に見えるという、いわば「ぬすびとのひるね」的な存在なのである。

母親が「お母さん」と表現する時も、やはりしつけ的な意味を持つとはいえ、このときは子どもが敬意を持っていることが多く、時枝の言葉をかりるなら「子供の世界に於ける把握の仕方を母がそのまゝ用ゐ」ることによって、追体験が円滑に行われるように、抵抗なしにそのまま表現された世界へ入りこんでいけるように意図したものが多い。「私」では、対等での追体験になるから、子どもとしてそのような対等な観念的な自己を形成しにくいわけである。

  お父さんの顔を見なさい。

という表現は B の位置から「こ」の距離にある主体を客体化してとらえたものであり、さらに追体験を意識して距離までとらえて表現してやっているものである。

(1) 人称代名詞を指示代名詞に解消させてはならないというのも、第一人称が自己対象化という特殊な認識構造をとっているからである。これに第二人称や指示代名詞を用いることができるという形式的なありかたから、解消すべきもののように思うなら、認識構造を無視して形式にひきずられる形式主義にほかならない。

(2) 「しばしば問題にされる処の古代敬語法の特例即ち至尊が御自らの事を述べられる時敬語を用ゐられるといふことも、話手であられる至尊が、第一人称者ご自身の位置を他の関係に於いて認識された結果御使用になる処のものであつて、いはば湯沢氏の所謂尊大語に入るべきものであるが、厳密にいへば尊大語でもなく、正しく敬語法の正当な用法と認めて差支へないのである。……母が自己に用ゐる敬語の如きは、子供の世界に於ける把握の仕方を母がそのまゝ用ゐたのであつて、そこに母子一体の気持ちが表現されてゐるので、決して敬語の特例とはいふことが出来ないものである。」(時枝誠記『国語学原論』) これらの用法が正当であるという点で、時枝の指摘は正しかったが、同時に認識論の限界からくるところの理解の限界もここに示されている。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(70歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説を学びながらことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことをマイペースでやっています。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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