『認識と言語の理論 第三部』1(1) <文法>とは何か(PC版ページへ)

2019年02月25日13:35  言語>表現論

『認識と言語の理論 第三部』1(1) <文法>とは何か
『認識と言語の理論 第三部』1(2)規範の矛盾と<文法>構造
『認識と言語の理論 第三部』1(3)規範による言語の形態変換
『認識と言語の理論 第三部』1(4)言語における物神崇拝

『認識と言語の理論 第三部』1(1)~(4) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』(勁草書房・1972年刊)から
  言語における文法と規範 (1) <文法>とは何か

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.1 

 われわれが言語表現に際して、ひとつの組織活動ないし組立作業を行っていることは、否定できない事実である。この作業の結果として文とよばれるものができあがるのであるが、そこに一定の法則が存在し、その法則に従って作業しなければならぬこともこれまた否定できない事実であるから、この法則を文法とよぶようになったわけである。しかしながらこの事実を学問的にどう解明したかといえば。そこには問題が山積している。言語理論を説く人びとはいずれも<文法>ということばを使い、<文法>について語ってはいるが、その説明は必ずしも一致していない。この<文法>観のくいちがいの最大の原因は、言語とは何かという言語観のくいちがいにあるのだが、宮地裕の論文『言語と文法(1)』もその点を指摘しながらつぎのように述べている。

 文法とはなにか、言語における文法的側面とはどういうものか、という問いに対するこたえは、容易ではないし、定説めくものもないであろう。

   ……………

 定義そのものの持つ一般的なむずかしさは、しばらく別としても、文法の定義、あるいは規定の問題は、結局のところ、言語観にかかわることなのであって、その意味で、前述したところと相関することなのであるが、文法観のがわからは、どう考えられるかを見よう。これには、おおきくは、二つの観点があろうかとおもう。その一つは、言語主体が言語表現をするときに、あらかじめ持っていると仮定される言語のくみたてに関する体系的規範と見ることであり、もう一つは、おおくの言語表現から、抽出帰納される言語のくみたてに関する体系的事実と見ることである。

 これはすなわち、文法を、言語主体の脳中に内在する、ある法則体系と見るか、言語表現のなかに内在する法則体系と見るか、のちがいでもある。(傍点は原文)

 たしかに現在の<文法>観はあとで見るように「二つの観点」のいずれかをとっている。宮地自身も後者の観点をとって、「文法とは言語における単位体の構成についての抽象体系である」と規定している。けれども、二つの観点のどちらなのか、規範なのかそれとも事実なのかという、あれかこれかの発想で<文法>をとりあげようとしているからこそ、文法の定義が容易でなかったのだということを、前もって注意しておかなければならない。したがって、宮地があれかこれかの発想で自分の<文法>観を提出しているところに、われわれは彼の言語観の弱点をも読みとることができるのである。

(1) 時枝誠記監修『講座・日本語の文法』第1巻(1967年)所収

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.2 

 さて、もっとも素朴に<文法>をとらえるなら、それは表現における個々の語の連結のしかたである。言語をその現象において、音声や文字の形式においてとりあげるならば、<文法>観もやはりこのような現象的・形式的なものになる。けれども語は単なる形式ではなくて、内容を、いわゆる意味を持っている。なぜある語を連結して他の語を連結しないかといえば、それでは自分が訴えたいのと別の意味になるからである。連結は意味の問題を無視して論じられない。形式上の連結も語の内容から内面的に規定されていると考えなければならない。

これは形式論にくらべて前進ではあるが、同時にそこには新しいふみはずしを起す可能性が待ちかまえている。語で何を表現するかは、子どものときに親が教えてくれるし、のちには自分で<辞書>をひいて知るようにもなるが、ある特定の語はある特定の意味を表現するように、ある特定の語はある特定の意味を持つものと理解するように、われわれは社会的な約束をむすんでいるのであって、そうしなければ他の人びととの間の言語による精神的な交通が成立しない。たとえば「犬」という文字の種類は、自分がこの文字を使う以前から、ある種の地上を歩く動物の意味に使いかつ理解するという社会的な約束が成立しているのであって、自分が花から花へととびまわっている別の小さな動物の意味で使っても、読者はその意味に受けとってはくれないのである。

ところでこのような事実を現象的にとらえると、われわれの表現する以前にすでに語には客観的に特定の意味がつながっているということになり、この語のもっている意味とこの語を使って思想を表現したときの意味とは、関係があるけれども別個の次元に属するのだという解釈が生れてくる。つまり、「犬」という文字にはある種の動物という意味がつながっていて、この文字を使って思想を表現するとさらに別の意味がプラスされて現実的な具体的な犬を意味するものになる、というわけである。

この、音声や文字として創造された、現実的な具体的な犬を意味する表現を言語とよぶならば、それ以前に存在して、この表現のために使われた「犬」の語は<言語材料>とよぶのが適当であるかのようにも思われてくる。そこで、すでに与えられている語すなわち<言語材料>を道具として運用し、思想を表現したものが言語だという言語観が成立する。これがいわゆる言語道具観である。

 この言語道具観では、<言語材料>それ自体の持つ構造は表現以前に与えられているから、語は<文法>から除外されることになり、<言語材料>である語をどう連結するかについての法則だけを<文法>と規定することになる。その典型的なものとして、山田孝雄の『日本文法学概論』(1936年)の説明をあげることができよう。

 然らば文法とは如何なるものかといふに、これは既にもいへる如く、ある国語の内部の組織といふ事にして、即ちその国語に同時に共存し且(か)つ一定の体系をつくる所の諸(もろもろ)の言語材料の間に存する所の一定の関係及び組織の法則といふことなり。この事実はその内面にはたらく思想ありてこれを操縦するものなれば、これを簡単にいへば、国語を思想に応じて運用する一般的の法則なりといふをうべし。この法則はある一の語につきて存する個別的の慣例をいふにあらずして一般的の概括的法則をさせるものなり。さてその運用の根拠はいづれにあるかといふに、これ実に思想に存す。即ち思想を基として、その思想に適応すべく国語を運用する法則即ち文法たるなり。されど思想の法は直ちに文法とはなるべからず。即(すなわ)ち文法は思想の法その者にあらざるは明白なりといへども、思想なくして文法といふものは存すべからざるなり。かくの如く思想を全く離れては文法を講究すること能(あた)はざるものなれども、思想は直ちに言語にあらざるが故に思想のみを研究しつくしたりとも文法を研究せりとはいふを得ざるなり。

 上述の如き文法を研究する学問即ち文法学たるなり。

 それでは山田は<言語材料>である語をどう説明するのであろうか。

 即ち語といふは思想の発表の材料として見ての名目にして、文といふは思想の発表その事としての名目なり。この事を更に語を換へて見れば、思想の発表その事と、その発表に用ゐらるる材料との関係を示すものといふべし。即ちこゝに材料なくば、依りて以て思想の発表といふ事を行ひうべくもあらざるものなると同時に、そのこれを使用するといふことなくば、材料といふ観念は生ぜざるなり。即ちこれは同一物をば、その見地の差異よりして二様に見たるに止まれるものなり。

   …………

 語と文との相異は決して発展的の段階によりて生じたる差別にあらずして観察点の差より生じたる区別たるなり。即ちこれは言語といふ一物の表裏両面にすぎざるものにして、人間の言語の初発の時より、いつもこの二方面の観念は与へらるべき性質を有したりしは疑ふべからず。表と裏とが相待的概念として同時に考へらるべきものにして表より漸次(ぜんじ)に発達して裏を生じ、若(もし)くは裏より発達して表を生じたりといふべからぬが如く、語と文との間に発展的の段階などの存すべきものにあらざるなり。

 われわれの住む家は材料として木を用いている。一つの対象を家と見ることも木と見ることもできるから、その意味ではたしかに同一物の観察点の差から生れた区別である。だがこの木は、家の生れない以前から木材とよばれて与えられていたことも、否定できぬ事実である。その意味では発展段階として区別しなければならない。言語表現では、家に対する木材のようなそれ自体として客観的に実在する材料が見当らないから、そこで山田も発展段階説を否定して「表裏両面」と解釈したのであった。

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.5 

山田はここで宮地のいう<文法>事実観を提示しているが、<言語材料>説の論理は結局のところ<文法>事実観の否定にすすまねばすまないのである。すなわち、材料は完成品の生れない以前にすでに存在していなければならぬはずだという論理が、言語表現以前に持ち合わせているであろう材料の探索を要求するのであり、それが人間の咽喉(いんこう)やインクの瓶(びん)の中に客観的に存在していないことも事実であるから、結局表現以前の表現主体の頭の中に<言語材料>を発見したり、頭の中に<文法>があると解釈したりすることになる(2)

そこで、宮地のいう<文法>規範論が生れるわけである。ソシュール言語学では、語とそれを連結する原理は社会的なものであるが、「個人の頭の中に貯蔵され」ていると説明し、これを「言語(ラング)」と名づけて、言語学の対象にすえている。小林英夫はソシュールを部分的に修正して、表現活動それ自体を言語と規定し、ソシュールの「言語(ラング)」をその<活動の材料>として承認する。小林にとって<文法>とは頭の中に存在する表現活動のための論理である。『言語学通論』(1947年)はいう。

 しかしながら、ロンリにわ、二つの種類がある。その一わ、先験てきロンリである。これわ民族やシャカイの境界をこえて、全人類に普遍的に妥当すべきものである。その二わ、民族的ロンリ、またわシャカイてきロンリである。先験てきなものでわなくて、後天てきな、経験てきなロンリである。

 ゲンゴカツドーのロンリわ、この第二類に属すべきことわ、ゆ~までもない。ただし認識発生の順序からいえば、第二類は第一類に先だっている。どの民族も、自己のゲンゴの反省のうちに、一般人間的な普遍ロンリを発見するに至ったのである。ギリシャにおけるロンリ学の発生をみても、なおギリシャ文法からの離脱が容易でなかったことが知られる。

 ゲンゴカツドーのロンリの研究を文法学と称する、

 これに対して橋本進吉は、<文法>を意味に属するものと認めながらも、あくまでも形式においてとらえるべきだと主張する。『国語法研究』(著作第2巻、1950年)は述べている。

 文法は意味を有する言語単位の構成に関するものであつて、しかもその意味の方面に属するものではあるけれども、その意味が何らかの方法で形にあらはれたものでなければならない。その意味が、何等(なんら)形にあらはれず、唯前後の意味の関係とか、又はその文が用ゐられた時の話手と聞手との立場といふような、純粋の言語以外の、思想とか事情とかによってのみ明かになるやうなものは、勿論(もちろん)文法の範囲にははひらない。

 形にあらわれないところの意味のちがいがあっても、それは「純粋の言語」以外の問題であるから<文法>で論じないのだとすれば、これはまさしく形式主義的文法論である。「雨が降る。」「花が赤い。」など、<動詞><形容詞>の終止形にあっては、表現主体の判断が内容として存在しながら形式的には示されていない。これは主体が必要ないと認めて行(おこな)った表現の省略ではなくて、言語規範によって規定されたところの表現の省略であるから、当然<文法>として取り上げられなければならないが、このようなものは範囲外とされるわけである。

 時枝誠記は言語道具観を拒否して言語過程説をとっているから、<文法>についての規定もこれらと異ったものになった。彼も語が一つの単位であることを承認するのだが、それは表現以前に<言語材料>として存在したところの単位ではない。語はあくまでも、表現によって成立するものであって、現実的な言語表現の質的な単位を意味している。したがって多くの学者のいう<文法>が語を前提とし、これを組立てたり組織したりして文を形成する場合の論理や法則だけをさすのに対して、時枝は語・文・文章をいづれも言語表現における質的な単位であると理解し、これらの全体が文法学の対象とされねばならぬと主張するのである。『日本文法・口語篇』(1950年)はいう。

 文法学は、言語における単位である語、文、文章を対象として、その性質、構造、体系を研究し、その間に存する法則を明らかにする学問であって、同じく言語研究ではあるが、言語の構成要素である音声、文字、意味等を研究する学問とは異なるのである。文法学は以上のやうなものであるから、古来、それが言語研究の中枢的な位置を占め、時には言語学と同意のやうに考へられたのである。

 これは山田と同じく<文法>事実観ではあるが、山田が語と文とを「同一物」と見たり、具体的な意味を持つ現実の言語表現をすべて文とよんだりしているのに反して、現実の言語表現の中に語と文とを別のものとして区別すべきだといい、意識的に対立しているのである。

われわれがここで考えなければならぬのは、絵画も文字も同じように紙とペンを使って表現しながら、絵画には表現以前に道具としての<絵画材料>などとよばれるものが存在しないし、また<文法>や<文法>学も存在しないという事実である。絵画の中でもストウリイを展開する長編漫画や、あるいは映画などでは、多くの画面ないしカットを連結するかたちをとっているから、これを言語における語の連結の場合にたとえて、<文法>ということばを使う者もあるけれども、それらの画面ないしカットは言語における語とは表現の質が異っている。<言語材料>などというものの先行を認めるのは、言語理論だけである。

どんなおかしな主張でも、それが多くの人びとの支持を得て通説となっているのは、やはりそれなりの根拠があるからであって、言語理論が具体的な意味を持つ現実的な言語表現以前に<言語材料>を認めているのをナンセンスとして片づけるわけにはいかない。この考えかたが、言語表現のどんな特殊性を根拠としているかを検討し、それを正しく把握することによって理論的に克服しなければならない。

 さきにも指摘したように、<言語材料>と呼ばれる何かがあるというならば、それは思想の発表以前に存在していたと考える必要がある。山田が現実的な言語表現の見かたを変えるのだといい、「見地の差異」を主張したときにも実際には現実的な言語表現をとらえる見地からその過程的構造を逆にたどって、背後に表現以前に存在したものをとらえる見地へと移行したのである。

実は現実的な表現の背後に、表現のための規範が存在していて、表現主体の頭の中でこのような認識にはこのような音声や文字を使うべしという、観念的な語のありかたが規定されていた。これをとらえる見地へと(山田は)移行したのである。言語は規範によってささえられ、規範の媒介によって具体的な意味を持つ表現が成立したのであって、この表現に対する規範の先行と媒介という点で絵画や彫刻などと本質的に異っている。

山田は、現実的な言語表現としての語から語法すなわち規範を読みとることを、「同一物」に対する見かたのちがいだと思いこみ、規範の存在とそれによる媒介という表現の立体的な構造を、「同一物」の異った側面であるかのように平面化して解釈したのであった。

一つの語ですら、規範の存在とそれによる媒介が行われなければ、言語表現として存在しえない。山田のいうように、「人間の言語の初発の時より」言語規範が表現の「裏」に存在したことを認めなければならない。言語の本質を論じるときは当然言語規範をとりあげねばならないのであって、言語表現の過程的構造に規範を正しく位置づけることを必要とするのである。

しかし時枝の言語過程説は、<言語材料>説を破ってすてただけで、規範の存在をとりあげてはいない。また規範についての正しい理解をもたない学者にしても、規範の存在によって生れる特殊な現象に気づいた者は、それに何とか説明を与えなければならぬわけである。

(2) 構造言語学の<文法>は、言語表現を形式的にとらえてその語のならびかたの法則をさすのであるが、この形式論の欠陥を是正するためにチョムスキーは表現される認識を<表層構造>と<深層構造>とに区別して、<文法>を頭の中の<深層構造>へ持っていった。<表層構造>は物理的な表現のありかたと直接に結合している部分、<深層構造>はさらにその奥にあって文の意味を決定している部分だという。表現形式が同じで内容が異る、同音異義語のような場合には、<表層構造>としては同じだが<深層構造>が異るのであるという。この二つの層は<変形規則>なるものによって結びつけられていて、これが人びとの頭の中に存在するために、同じ表現形式であっても異った<深層構造>へ結びつくことができ、内容を区別して受けとることができるのだという。このチョムスキーの<変形文法>論では、<変形規則>や<深層構造>は人間が生れつき持っている能力の所産と解釈され、デカルトの<本有観念>ideae innatae すなわち「我の本性それ自体」から出てくるものという解釈と一致するために、デカルトが礼賛されている。この妄想の批判は、宮下信二『構造言語学の変形としての変形文法』(『試行』31号――1970年10月)参照。「宮下眞二」をgoogleで検索――引用者註)

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.9 

 佐藤喜代治の『国語学概論』(1952年)は、時枝の言語観を吟味しながら時枝に欠けていた言語規範をとりあげた点で特徴的であり、言語活動が「社会的規範によつて指導される」ことを強調し、「言語は表現形式としての音声と表現内容としての思想との二面をもつ。」といい、「全的な心的内容を分析し抽象して得られた個々の要素に対する表現形式が普通には語といはれるもの」だと規定している。語イクオール表現形式イクオール音声と見るのであるが、その語に可能的と現実的と二種類の意味を認めるところに特徴が存在する。

 いはゆる語はそれだけを取り出してみる時は多義的で、いはば可能的な意味を表すに過ぎず、それが一つのまとまりをもつた表現としての文において一義的に決定せられる。

   ……………

 この可能的意味は言語記号に内在しているのではなく、習慣的に定められた社会の約束であり、且つ言語活動によつてでなければ現実に存在し得ない。……言語活動がこれを媒介とし、これにしたがつて行はれるといふ点から考へれば、可能的意味は言語表現の形式であり法則である。

 語の可能的意味が文において現実的意味となるのは、語が文という一定の秩序組織の中で具体的なあり方を示すからである。一般的な意味が文の中で個別的な意味に限定され、転化するのではない。可能的潜在的なものが現実的顕在的なものとして現れるのであり、又それ以外に現れ方はあり得ないのである。従つて文の意味といふものもこれを構成する一つ一つの語の意味と離れて存在するわけではない。文の意味も実際は一つ一つの語の意味を、ただ全体的連関を考へ合せつつたどつてゆくより外はない。この点から考へれば、言語の解釈において全体と部分との先後を論議することは無意味である。この全体的連関もしくは秩序が文法といはれるものである。

   ……………

 以上述べたところによつて、具体的な言語表現総体の中で、前後の言語と形式上関連せず独立した一くぎりの文に存する秩序を文法といふことが明らかになつたと思ふ。

 ここで「いわゆる語」は文の中の語すなわち現実的な表現であるが、「それだけを取り出してみる」というときには録音テープの音声や印刷物の文字を切りとることではなく、山田と同じように観念的に表現を逆行してその語に使われた規範における観念的な語のありかたをさしている。これは<辞典>における規範が規定している語であって、佐藤が可能的な意味とよんでいるのも<辞典>の示すような意味なのである。

いま佐藤にならって可能的ということばを使うなら、可能的な意味は同じく可能的な形式を伴うのであって可能的な語の一部でしかない。ハイキングのとりきめで、三時になったら腰を下(おろ)して休憩するという規範が成立しているならば、その可能的な休憩地は同じく可能的な休憩者を伴って観念的に存在しているのであって、現実に三時になりみんなが腰を下して休憩者になったときそれといっしょにその場所が現実的な休憩地になるのと似た問題である。

現実的に意味を持つ語があっても、初めから可能的に意味をふくんでいたのではない。原稿用紙の上に書いた文字は現実的に意味を持っているが、それに使われたインクがインク瓶やカートリッジの中に入っているときに可能的に意味をふくんでいたわけではない。

佐藤は「社会の約束」すなわち規範が存在し、「言語活動がこれを媒介とし」て行われることを認める。この規範の言語表現における現実的な意味への規定を認める。この点は正しいのだが、つぎにたちまちにふみはずしてしまうのである。

約束それ自体すなわち規範は、頭の中にある認識であり、約束の持つ形式はとりもなおさず認識の形式であって、これを原型とするところの物質的な模写が表現の形式となる。ところが佐藤は、一方で音声を表現形式といいながら、他方で可能的意味すなわち言語記号に内在していない約束をも「言語表現の形式」と解釈し、音声と規範表現の形式と認識の形式をいっしょくたにした

実は言語道具観が頭の中に<言語材料>なり「言語(ラング)」なり「社会の約束」なりの存在を認め、それらが具体的な意味を持つ現実的な音声ないし文字になるという場合にも、その頭の中と頭の外とのかかわり合いを理論的に解明してはいないのであって、暗黙のうちにそれらが頭の中からぬけ出して現実化するかのようなぬけ出し論で片付けているのである(3)。このぬけ出し論の論理の一つが、認識の形式と表現の形式とのいっしょくたによる頭の中と頭の外とのありかたの同一視なのである。このぬけ出し論の論理によって、頭の中の可能的潜在的な意味が頭の外の現実的顕在的な意味として「現れる」と説明されるのである。

現実的に存在する個々の語は、形式と内容との統一であるから、語についての規範は音声や文字のある種の形式に対してある種の内容すなわち意味についての規定を伴っている。「くび」という語は、肉体の一部分を意味することもあれば、解雇を意味することもあって、この種の可能的意味はいくつもあるが、現実的な語の意味は表現主体がえらんだ現実的な意味を持つのである。同じ形式が異った意味を持ちうるということは、一つの矛盾であるが、規範がその矛盾を認めている以上それをあるがままに認めるところに言語学の観点があるのであって、同じ形式は同じ語として扱うといった形式的な扱いかたには限界があることを承知していなければならない。

規範が語について可能的な意味を規定しているといい、意味に可能的と現実的とを区別するならば、当然形式にもまた可能的と現実的とを区別しなければならないはずであるが、佐藤はこの区別を行っていない。たとえば「佐藤喜代治」という固有名詞にしても、戸籍に記載されることによって成立した「社会の約束」にもとづくものであり、家族や知人や学生たちがこれを口にしたときにはこの一個人についてのそれぞれ異った具体的なあり方を認識しているのであるから、その点でそれぞれの音声の持つ現実的な意味は異なっている。それと同時に、規範としての形式は戸籍にあるようなこれこれの種類の漢字を並べるということであって、漢字の具体的なかたちを規定しているわけではない。現実にはあるいは毛筆の手書き、あるいは活版印刷、あるいはTVの字幕、あるいは音声への転換などそれぞれ異った具体的なかたちをとるのであるから、その点でそれぞれの現実的な形式は異っていることになろう。

けれども現実的な形式が異ったところで、それは意味と直接の関係はない。履歴書の文字が悪筆であったり、看板のペンキで描いた文字がデザイン的に拙(つたな)かったりすれば、それを見て顔をしかめる者もあろうが、それは<文法>とは直接関係のない問題である。そのために現実的な形式がそれぞれ異るという事実が無視されがちになる。われわれは、言語の意味だけでなく形式もまた表現以前には現実に存在しないこと、音声や文字による表現において形式が成立すると同時にその内容すなわち現実的な意味もまた成立するということを、確認しておかなければならない。

 言語には他の表現に見られない<辞書>とよばれる表現ないし理解のための手引書が作られているが、これが「社会の約束」すなわち規範を読みとるためのルールブックである。言語は人類の歴史の中で自然成長的に発展して来たものであって、その規範も、習慣から観念的に蒸溜された自然成長的な規範としてまず成立したものと考えられる。原始的な言語には、擬声語や身ぶり言語や象形文字などのように、まだ対象の感性的なありかたが反映していて、規範を知っていない者でもその意味を大体推察できるようなものが少くなかったけれども、発達した言語では規範を知らなければその意味を読みとることは不可能に近いのである(4)

そして語ないし文についての規範は、人間の認識の発展にとって特殊な機能を果たすことになる。語は一つの概念を直接に表現するものであって、超感性的な概念と感性的な音声ないし文字とが対応関係におかれるのであるから、これを規定するところの規範でも、ある種の概念をつねにある種の聴覚映像(聴覚の表象――引用者註)ないし視覚の表象と結びつけ、これらの表象から音声ないし文字の形式をみちびき出すことになっている。そのために、頭の中の概念にはつねにある種の聴覚ないし視覚の表象が結びつく可能性があり、たとえ表現しない場合でもこのような概念のありかたが成立しうる。そこで、このような観念(概念と聴覚表象あるいは視覚表象とが結びついたもの――引用者註)を頭の中で運用し、聴覚ないし視覚の表象を頭の中で文的に連結することで、概念の展開すなわち思考を行うようになる。この意味で、言語の成立は人間の思考能力の発展に決定的な役割を果(はた)すこととなった。学術用語が規範として成立することによって学問が発展し、学術用語の多くが漢字を使用している現状では、漢字の学習の軽視が愚民政策となるゆえんである。

ところが、規範が取りあげる概念はその内容いかんと関係ない概念一般であるのに対して、個々の言語表現の場合の概念はすべてそれなりの内容を持ったそれぞれ別個の概念であるから区別と連関においてとりあげねばならないにもかかわらず、聴覚ないし視覚の表象が結びついている点では規範のそれと共通しているために、これがまた<言語材料>であるかのように解釈されてしまう。そこで、たとえ規範の存在を認めたとしても、規範と表現される概念との媒介関係を正しく説明することができなくなる。

(3) 観念的な語が物質的に模写されて現実的な語になるとき、可能的な意味もまた現実的な意味になるのであるから、言語表現の特殊性をふまえてこの模写の論理構造を明らかにしなければならない。その能力がないかぎり、アカデミズムの学者であろうと自称マルクス主義者であろうと、暗黙のうちにぬけ出し論で片づけるほかないのである。

(4) 言語規範の学習を必要とすることが、国際的な規模での精神的交通を困難ならしめているところから、学習の容易な国際補助語がいろいろ考案されて来たわけであるが、現在では絵画言語の工夫がいくつかあらわれている。象形文字の現代的な形態における再現であるが、漢字の歴史について理解があるだけに、日本人の工夫(たとえば太田幸夫の「LOCOS」)が大きく評価されている。但し考案者たちは、象形文字の限界を無視して、すべての表現がこれによって可能であるかのように度はずれに考えがちである。

聴覚や視覚の表象だけでなく、その他の感覚表象(知覚表象)つまり味覚や触覚、運動覚…などの表象も概念と結びついて脳内にさまざまな観念を形成し、想念として思考内容に現れる。

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.14 

 語についての規範は、概念と聴覚ないし視覚の表象とをどう結びつけるかについての規定であるから、これは頭の中での概念の運用による思考以前の規定で、運用と直接の関係を持っていない。そこで、頭の中の<言語材料>を論じる学者にあっては、語についての規範を言語規範の中で別扱いにし、<文法>から切りはなして、概念の運用においてそれを連結する法則だけを<文法>とよぶことになったわけである。この種の学者の中でも、山田はさきに見たように<材料>の運用が法則的であることを認めながらそれを思想それ自体の法則から区別しているが、これは規範が思想と関係を持ちながらもそれから相対的に独立した存在であること、この規範が<文法>成立の基礎であることをそれなりに把握したからにほかならない。彼は「ややもすれば論理学を以て句の説明を下し、以て能事(のうじ)(おわ)れりとする如き傾向あり。」といい、この傾向に反対して論理学と<文法>との区別を論じている。

 言語における語の過程的構造を規定する規範も、文や文章としての秩序を規定する規範も、他の諸規範と同じように、過失または故意に違反する場合がある。法規範は社会秩序のきわめて重要な部分を規定しているだけに、違反した場合の罰則が定められているし、ギャング団の掟(おきて)に違反すれば殺し屋をさしむけられるし、スポーツのルールに違反すれば減点とか敗けになるとか決められているが言語規範は表現の秩序についての規範であるから、別に罰則は存在しない。戦前のように「天皇陛下」を「天皇陸下」と誤植して大問題になったというような事件は、言語規範としての罰則ではない。但し規範に違反したときには、表現主体が相手に伝えようと思っていることが伝わらず誤解されるとか、軽蔑されるとか笑われるとか思いもかけぬ怒りを招くとか、自分にとって不利益をもたらすという罰を受けることになる。それで誰でも規範に違反しないように努力するのであるが、時には故意に違反することによって、自分の真意をかくし相手を混乱させるとか、思いがけぬ意外なことばで相手を笑わせて楽しませるとか、それなりの利益をもたらす場合も存在する。

文章は見たところ文の集りで、独自の規範を持たぬかに見えるが、文字で文章を綴(つづ)る場合には、大小の段落を設けるとか題名や小見出しをつけるとか作者名を添えるとか、やはりそれなりの独自の表現が存在し、一つの秩序を持つことが要求されているという事実を無視するわけにはいかない。

 以上述べたように、言語は規範にもとづく特殊な表現であって、語・文・文章という言語表現の諸単位諸段階にわたってさまざまな規範が表現の構造を媒介するのであるから、それぞれの単位における法則を語法・文法・文章法とよび全体を言語法とでも名づけるのが適当であろう。けれどもすでに言語学においては言語表現の組織ないし秩序の法則を<文法>とよぶことになっているから、ここでも全体を<文法>の名でよんでおくことにしよう。

それで<文法>とは何かといえば、諸規範の媒介によって成立するところの言語表現の構造についての法則をさすことばだ、ということができる。規範を過程的構造に正しく位置づけることによって、宮地のいう「二つの観点」は止揚されねばならないのである。このように言語は規範に従うことによって表現の秩序が形成され法則性が与えられるものであって、言語道具観の<文法>論にしても一つ一つの語の構造を前提としその上に立つのであるから、<文法>学が「言語研究の中枢的な位置を占め、時には言語学と同意語のやうに考へられた」のも当然である。<文法>の研究は、直接には具体的な意味を持つ現実的な表現を研究するのだが、そこから一般的な法則をとらえることはとりもなおさず表現を一般的に規定している規範を明らかにする結果になり、表現の法則の相互のつながりをとらえることはとりもなおさず規範の体系をたぐっていく結果になるからである。

 

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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