『認識と言語の理論 第三部』1(2)規範の矛盾と<文法>構造(PC版ページへ)

2019年03月01日09:14  言語>表現論

『認識と言語の理論 第三部』1(1) <文法>とは何か
『認識と言語の理論 第三部』1(2)規範の矛盾と<文法>構造
『認識と言語の理論 第三部』1(3)規範による言語の形態変換
『認識と言語の理論 第三部』1(4)言語における物神崇拝

『認識と言語の理論 第三部』1(1)~(4) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』(1972年刊)から
  言語における文法と規範 (2) 規範の矛盾と<文法>構造

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.16 

 言語表現を現象的に見るならば、まず一の語が生れ、それに他の語が連結されて文になり、さらに文章が成立するというかたちをとっている。別のいいかたをするならば、まず部分が成立して最後に全体が完成する。この現象に忠実に考えていけば、佐藤のいうように、文の意味は「これを構成する一つ一つの語の意味」から説明されることになり、語の意味の総和として文の意味が存在するということになろう。いま語の可能的な意味として潜在的に存在したものが、文においてはいづれも顕在化して文の中のそれぞれの意味を分担するのだと考えるなら、語についての規範に存在しなかった意味は文においても存在しないということになろう。したがって、ここから逆に、文において存在することの否定できない意味は、すべてどれかの語の意味として語に分担させねばならなくなる。たとえば、われわれが「うまい!」とか「音羽屋!」とかさけぶとき、そこに具体的な意味として判断が存在することは否定できないから、その判断もこれらの<形容詞>や<名詞>によって表現することに、規範として規定されていると解釈しなければならなくなる。

佐藤が山田の文法論を事実上訂正して、<喚体>句での統覚作用(すなわち判断)を、「文の中心となる体言に見出さなければならぬ」と主張したのも、意味論からの論理的強制にほかならない。エイゼンシュテインのモンタアジュ論は、逆立(さかだ)ち理論であったとはいえ、映画における画面の連結が「和」ではなく、「積」をもたらすと受けとっていた。それぞれの画面に直接に表現されていない内容の存在を承認するのであるから、その点では山田=佐藤的文法論よりも前進しているといわなければならないわけである(1)

 日本語は膠着語(こうちゃくご)であるから、個々の語は一概念の表現であるが、西欧の屈折語は必ずしもそうではない。表現内容を形成する実体である認識は、性質の異った二種類のものが結びついているにもかかわらず、語としては一語の形式をとっている場合が多い。英語の<動詞>の語尾変化で、likeliked に変化した場合、附加された dlike とは性質の異った認識を表現しているのであって、単純な語形の変化ではない。それゆえ<不規則動詞>で語尾変化がない場合、たとえば hit で過去を表現する場合には、同じく liked で現在を表現するときとは性質の異った認識が伴っていることを認めなければならぬと同時に、その認識が表現として示されていない(時枝のいうゼロ記号)ことをも認めなければならない。

このように、単に現象としてあらわれているものを整理するのではなく、現象の背後にかくれているものをも見落さず、認識から表現への過程的構造を明らかにしながら語の持つ一般的な性格を法則としてとりあげるところに、語法の研究が存在する。現象と本質、形式と内容の間に存在する矛盾を無視して、形式論理学的に言語表現の構造を扱った言語学者が壁にぶつかるのには、やはりそれだけの理由があるのである。

(1) モンタアジュ論については、三浦つとむ『認識と芸術の理論』(1970年、勁草書房)の中の『モンタアジュ論は逆立ち理論であった』を参照。

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.18 

 語は、その感性的な形においてではなく、一般的な種類において表現を行うのであるから、音声あるいは文字の感性的なかたちをどう定めるかは自由である。「ネコ」という音声を、動物に使わなければならぬ理由はない。「ウミネコ」は「ネコ」の一種ではなく鳥の一種であり、「ネコヤナギ」は動物の一種ではなく植物の一種である。語の形式は、対象や認識の感性的なありかたに束縛されないのであるから、日本語で「ネコ」とよばれるものが英語では cat とよばれて、形式的に何等の共通点を持たないにもかかわらず、同じ概念の表現であるという共通点において形式の相互変換すなわち翻訳が行われる。超感性的な側面における対応であるからこそ、感性的な形式のいかんを無視して言語表現としては同一だと見るわけである。

感性的な形が自由であるだけに、どんなものを採用するかは新しい子どもが生れたり新しい商品を開発したりした場合に大いに苦心するところであって、親の願望が「孝」とか「美智子」とかいう文字になるとか、メーカーの性能の強調が電気コタツの「横綱」とか電気掃除機の「隼(はやぶさ)」とかジャーの「炊きたて」とかいうことばになるとか、それなりの役割が期待されているが、一度ある形式を採用し命名を行って規範が成立すると、今度は同じ対象には同じ形式を用いるべしという強制を受けとることになる。

交通を、左側通行にしようと右側通行にしようとそれは自由であるが、一度、左側通行という形式を採用して交通法規が成立すると、こんどは道の左側を行け右側を通ってはならぬという強制を受けるのと共通している。ボクシングを何回戦と決定しようとそれは自由であるが、一度一〇回戦と決定して試合が始まれば、こんどはいくらスタミナを失ったとしても一〇回目にも戦わねばならぬという強制を受けて、ゴングが鳴っても立上らなければ試合の放棄として敗けになる。東京発福岡行きの空の夜行便を何時何分に出発させようとそれは自由であるが、一度時刻を決定して午前四時出発と時刻表を公けにすると、こんどはその時刻に必ず出発すべきでそれより早くてもおそくてもいけないという強制を受けるのである。

これらの規範による強制は、物質的交通や精神的交通や生活や娯楽などに秩序を形成するものであって、その秩序が利益をもたらすからこそ自然成長的あるいは目的意識的に規範が作られるのである。自由と強制とは対立する。常識的にはこの両者は両立しない。規範でこの両者が不可分の統一であることは一つの矛盾だが、この矛盾が規範を正しく把握することの障害になっている。

矛盾は異常な不合理なものではなく合理的なもので、だから人間はさまざまな利益をもたらす矛盾を積極的に創造しているのだという理解を持たない人々は、この規範における自由と強制の矛盾を当然かくあるべきものとして受けとめることができない。社会的な強制はすべて悪だというような経験主義的な一面的な結論に走って、強制の伴わぬ自由にあこがれている人びとは、言語規範の持つ強制の合理性を理解しがたい。ここから、言語規範を現実の利害関係から唯物論的に論理的に説明しようとはしないで、人間の生れつき持っている能力の所産としてアプリオリに成立するものだという解釈に安易に抱きつく言語学者も出てくるのである。

 言語表現における形式選択の自由は、野放しではなくて、利害関係によるさまざまな制約をはじめから受けている。生まれてくる子に何と命名しようとそれは自由であって、どんな名前がいいかと親たちはいづれも頭を痛めるのだが、すでに<姓>がきまっている以上それを不調和な名をつけるわけにはいかない。岡本かの子の愛読者が自分の娘にも「かの子」とつけたかったが、姓が「大場」なので「オーバカノコ」(大馬鹿の子)になるのでやめたという実話がある。長男がいるときは次男に同じ名をつけるわけにはいかないし、男の子に女の子みたいな名をつけるわけにもいかない。生活の中で混乱や障害を起すからである。新しい商品を開発したときの命名についても、やはりすでに成立している規範を無視するわけにはいかない。他社の商品ですてに登録ずみの商品名を使うことは、法規が許さない。「ボンカレー」という食品でヒットしたメーカーは、姉妹品としてシチューを売出すときは名称をも体系化させて「ボンシチュー」と命名する。そのほうが利益だと見るからである。

また、規範のありかたが不利益と思われる場合には、さまざまな方法で改革が行われる。戸籍に記載されている<名>にしても、非常に読みにくいとか音声がおかしなものを連想させるとかで生活上で大きな障碍となるときには、改名することが許されているし、文筆業者や芸人などは本名に代えて筆名や芸名や四股名(しこな)などを使っている。「赤札堂」という店名が、安物やハンパ物を投げ売りする大衆相手の小商店を連想させ、「ほてい屋」という店名が、古くさい老人の集っているくすんだ感じを持たせるとすれば、豪華で近代的で若い人びとの求める新しい流行の品々を陳列するデパートにはふさわしくない名前であるから、「アブアブ」とか「コニー」とかモード雑誌の題名に似たフィーリングのものに改名するということになる。革命によって新しい権力が生れると、国名を変えたり都市名を変えたりすることもしばしばである。日常語の中でも、不快感や軽蔑感のある表現を改めようと、「監獄」や「女中」を「刑務所」や「お手伝い」に変えたりしている。さらには、これまで自然成長牲にまかせておいたためにさまざまな表現上の習慣が不統一のまま存在し、混乱や交通障害を起しているような場合に、目的的に整理統一して新しい規範に従うように呼びかけることも必要である。但しこの必要を認めることは、戦後に行われた一連の改革が正しいものだということを意味するものではない。

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.20 

 家族は<姓>によって統一され、さらに<名>によって個々人が区別される。<姓名>についての規範は、家族構造に対応している。男であろうと、女であろうと、日本人であろうと外国人であろうと、家族の一員になりさえすれば同じ姓でよばれ、個人は幼児であろうと成人していようとあるいは老人になろうと同じ<名>でよばれている。「犬」や「山」は同じ名で呼ばれる個々の事物がたくさん存在するのに、「佐藤栄作」のような<固有名詞>では、この名でよばれる事物が一つしか存在しないという差異はあるけれども、これは言語としての本質的な違いを意味していない。対象が森林で覆われていようと伐採のために地肌が露出しようと自動車道路がつくられようと、それらの形や色の変化を超えていづれも「山」とよばれ、対象がまだ小学生であろうと首相になって国会のイスに腰を下していようとあるいは列車の寝台で眠っていようと、それらの生活の変化を超えていつでも「佐藤栄作」とよばれる。すなわち対象を感性的なものを超えた一般性で切りとって把握することにおいては、<普通名詞>も<固有名詞>も同じであって、ここに言語学における認識の特徴が存在する。

戸籍に<姓名>が記載され、「佐藤栄作」という規範が成立したとき、われわれはこの一個人を一般性において把握するならばこの文字を使って表現しなければならぬという社会的な約束に従うことを強制されるのであって、この対象の一般性において規範が<意味>づけられている。これがつまり、佐藤喜代治のいう可能的意味である。本人や家族はもちろん、政治学者や新聞記者や自民党幹部など、いずれもこの規範に従うのであるが、それら個人の対象の認識は一般性だけでなくさまざまの特殊性の把握がつきまとっていて、一つとして同じ認識はない。しかし規範はそれらの特殊性と直接の関係を持たないから、新聞紙上の「佐藤栄作」は誰の表現であろうとすべて同じ活字で印刷することができる。そしてそれらの現実的意味は、それぞれの特殊的把握をふくんでいるゆえに一つとして同じ意味ではない。

 ところで、われわれが具体的な対象について語るときには、一般性においてとらえるだけでは不充分であって、その特殊性についても語ることを必要とする。特定の個人を一般性においてとらえて「佐藤栄作」と表現するだけなく、そのある時点における特殊なありかたについても表現する必要があるならば、その表情や態度や服装などの具体的な認識を、これまた一般性においてとらえかえして、「笑った」「腰をかがめた」「タキシードの」などと、同じように規範に従った表現を加えていく。

言語においてはどこまでいっても一般性で把握しなければならないから、同じようにどこまでいっても具体的な認識はその表現の背後にかくれていることに変りはない。

言語が表現する認識をこのように吟味してみると、規範に定められた<意味>と言語表現の持っている意味ないし内容との区別と連関が明らかになる。この両者は対応を持つと同時にくいちがっており、関係を持つと同時にそれぞれ別個であって、可能的と現実的という解釈で片づくような問題ではない。規範の<意味>が不変なのに、個々の言語表現の意味はそれぞれ異っていることは、誰もが経験的に知っているけれども、これを理論的に理解しないと<文法>論のふみはずしを起すのである。

規範の<意味>は、観念的に表現形式と認識との対応をとりあげたものであって、この場合の認識は表現すなわち一般的な種類の面に対応する一般的な認識以上のものではない。表現主体はこの規範の<意味>から規定されて、それに対応する一般的な認識をつくりあげねばならぬとはいえ、それは直接に表現されるところの認識の一面にほかならず、言語表現の持つ意味ないし内容はこの一般的な認識を含む全体の認識によって形成された表現に結びついているところの現実的な関係にほかならない

これを逆に表現の側から見ていくと、そこに直接に表現されている一般的な認識は規範の<意味>から規定されて成立したものであるから当然規範の<意味>につながっている。このつながりの面だけに目を向けると言語表現の背後に先在した規範の<意味>それ自体が、表現における現実的な関係としての意味にすがたを変え、顕在化したかのようにも受けとれるのである。

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.22 

 <姓>と<名>とを結合して複合語に表現することは、なんら恣意的なものではなく、対象である個人の家族関係という客観的な秩序構造から規定されてのことである。すなわちこの複合語の語法には、対象の構造が規範を媒介として反映しているのである。<文法>は恣意的なものでも先験的なものでもなく、反映論の具体化において説明すべきものなのである。けれども言語は人間のさまざまな特殊な認識のありかたを伝えねばならないから、言語を論じるときの反映論はそれらの認識のありかたを正しく扱うことができなければならないし、反映論に欠陥があると言語論のふみはずしを起すことになる。その代表的なものをあげてみよう。

 まず、非現実的な<文法>構造が<文法>とよばれるか否か、しばしば問題になっている。「鳥は卵を産む」なら<文法>的には正しいが、「馬は卵を産む」と表現することもできるし、現実にありえない「馬」と「卵」との関係をこのように規定することが<文法>上(じょう)許されるかどうかという疑問でもある。もし許されるというならば、<文法>は非現実的な関係を恣意的に設定できることになり、反映論では言語の問題は扱えない、と結論づける者も出てくるのである。

この文法についての疑問は、人間の空想を反映論で扱えるか否か、どう説明するかに帰着するのであって、空想の世界の創造ということを認識論的に理解できるなら、簡単に解決する。たとえば童話作家が空想の世界を創造するときに、卵を産む魔法の馬を登場させてはならぬという禁止令はない。この動物はいうまでもなく現実の卵と現実の馬とを材料にして創造したものであって、両者の間に空想的な関係を設定し、空想の世界に実在する動物として観念的に対象化したのである。この場合の童話作家すなわち表現主体は、どうしても「馬が卵を産む」と表現しないわけにはいかない。それは空想の世界に実在する馬のありかたを忠実に把握したものであって、<文法>的にも正当な表現なのである。

われわれの日常生活に使われる実用的な表現から例をあげれば、「鳶(とんび)が鷹(たか)を生む」「瓢箪(ひょうたん)から駒が(こま)出る」「臍(へそ)が茶をわかす」「のどから手が出る」などと、文字どおりにはまったく非現実的なあり方を平然として口にしているし、<文法>的に許されるかどうかなどという疑問は誰もいっこうに持たない。「のどから手が出る」などは、シュール・リアルズムの絵画にふさわしい構造であるが、こんな関係を設定できる<文法>は先験的な能力の所産なのだとチョムスキー的に考えはしないのである。

 つぎに、<日常言語>と<芸術言語>とを本質的な差異だと主張して、言語それ自体をさまざまに分類する傾向が存在する。これは機能をそのまま本質ととりちがえる機能主義の産物であって、フランスあたりの機能主義者に多く見られるが、日本の例をあげると、田近洵一(たぢかじゅんいち)の『非文学の世界』(2)はつぎのように主張している。

 日常の用足しの言語は、それによって実在の対象、事実を指示するという機能を持つ。そして、用足しが終わった時、それは存在の必要を失って消滅する。すなわち、日常の言語の本質は、言語以外のものに還元されうるところにある。

 ……ところが、小説「坊っちゃん」の読者は、架空の坊っちゃんなる人物を自分の頭の中につくりあげる。それは、まったく想像の世界における人物像なのであり、漱石の表現に支えられて初めて存在するものである。すなわち、文学の言語の本質は、実在するものを指示するというところにではなく。現実とは違う別の世界をつくり出すというところにある(それをここではひとまず言語のもつ創造的機能とよんでおくことにする)。(傍点は引用者)

 学者とよばれる人間がこんなことを平気でいえるのは、現実の言語表現ととりくんでそこから理論をひき出す態度に欠けているからである。「日常の用足しの言語」も「現実とは違う別の世界」をつくり出している。「才色兼備のすてきなお嫁さんと楽しいスイートホームをつくりたい。」「明日天気がよかったら日光へ行って紅葉を見ることにしよう。」など実在しない生活や実在しない行動について語っている。「文学の言語」における世界が想像だとか人物が架空だとかいうのも、われわれの観察であって、作者も読者もその世界の中にいるかぎり、すべてが「実在の対象、事実」なのである。漱石は自分が坊っちゃんになって自分の行動や赤シャツの陰謀について語っているかぎり、それらはすべて事実を指示している(3)のであり、読者もこの小説を読むときは自分が坊っちゃんになって同じように事実にぶつかり事実を体験していく。

日常の言語も文学の言語も本質的に差異はなく、個々の文章の持つ特殊性でその文章を<文学言語>とか<芸術言語>とかよぶことはできても、表現主体の創造を言語の本質にスリ変えて言語に「創造的機能」を押しつけた「文学の言語」などというものはナンセンスである。けれども俗流唯物論者が、実在の世界の忠実な認識と観念的に対象化された空想の世界の忠実な認識とをまったく異質なものとして切りはなし、それぞれの世界を言語に表現した場合の文章の内容の特殊性をそのまま本質であると規定するなら、そこから言語そのものに「創造的機能」があるという、言語に対して人間の創造能力を肩代わりさせる物神崇拝のふみはずしが生れてくることにもなる。

(2) 『国語の教育』1971年10月号。

(3) 漱石は自分の頭の中に「坊っちゃん」をめぐる人物や事件をイメージとして創造し、それを観念的に対象化し、現実の世界と同じように客体の位置においてとらえかえして表現したのである。但し森本和夫は、イメージが頭の中で対象化されることを否定して、世界それ自体を言語もろともすべてイメージなのだと主張する。「世界がイメージによって織りなされていることは、世界が言語によって織りなされているということを意味することになる。……ここでは、すべては言語なのであり、すべては語るのである。もちろん、山も語り、海も語るであろう。なぜなら、それらはイメージなのだからである。あらゆるイメージは語るのであり、『読む』とは、イメージをして語らしめることにほかならない。」(『イメージとしての言語)彼はこのようにフーコーの言語学的世界観を受け売りするのであるが、世界をイメージすなわち観念のありかたと解釈するのはいうまでもなく客観的観念論である。ヘーゲルは絶対的なイデーの外化したありかたとして山や海を解釈したけれども、フーコー=森本的言語観では絶対的なイデーの位置に言語と名づけるイメージが代って座を占めているだけのことである。フーコーその他構造主義者の妄想については、三浦つとむ『マルクス主義の復元』(1969年、勁草書房)第三章参照。

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.25 

 言語の本質的な特徴、すなわち、対象をその一般性においてとりあげるという特徴を把握すれば、現実の世界の対象のありかたに即して成立した言語規範が対象の一般性に媒介されて特殊な世界へ延長されることの合理性も、理解できるはずである。右に見るように、対象の感性的な特殊性だけでなく、現実の世界に存在するかそれとも想像や空想の世界に存在するかという特殊性をも超え、さらには現実の対象かそれを表現した対象かという特殊性をも超えて、きわめて広汎に、一定の種類に属するものであるならばその一般性において同じ規範を使うのである

現実の子は、親の想像の世界にもさまざまな姿で登場してくるのであって、生れたばかりの赤ん坊を見ながら歩く姿を想像したり、まだ幼稚園に通っているのに花嫁姿を想像したりする。小学校から帰りがおそいのを心配して、自動車にはねられた血まみれの姿を想像することもある。これらの場合も言語表現では現実の生きた子どもと想像の世界の子どもいう特殊性を超えて、同じ規範を用い同じ語において表現する。

「猿」や「兎(うさぎ)」は、動物園で現実に生きている動物だけでなく、桃太郎の家来になって鬼ヶ島に鬼退治に行ったり、蟹(かに)の持っているにぎりめしを柿の種と交換したり、亀と向この小山のふもとまでかけくらべをしたり、月の世界で餅をついたり、空想の世界でさまざまな生活をしているのだが、これも同じ規範を用い同じ語において表現する。また、現実の生きた人間であろうと、それを対象として撮影した写真であろうと、漫画であろうと、それらの表現は一般的に見て同じ個人のありかたであるから、「佐藤栄作」とよばれることに変わりはない。

 このように広汎に対象の一般性を同じ規範で扱うことによって、言語表現は精神的な交通の媒介物として真に有効性を発揮することとなったのである。われわれは日常の簡単な会話においてさえ、過去へ未来へ仮定へと現実に存在していない世界へ自由に往来し、さまざまな事件や問題の発展過程を追跡しているけれども、言語表現が時・所・条件のいかんを問わず同一の種類に属する対象は同一の種類の音声で表現できるよう規範で規定されているからこそ、それらを簡単に語りうるのである。しかしながら、この特殊性を超えた対象の扱いかたにとどまっていたのでは、相手が現実の対象かそれとも想像や空想の対象かを区別できず、誤解することにもなり、正しい精神的な交通が妨げられる危険がある。

この問題の解決のためには別の形で特殊性をとりあげねばならない。一般的な「猫」を、その色の特殊性をとりあげて区別する必要があるときに、特殊性をやはり一般的にとらえて「黒」「白」などという語を附(つけ)加えるのだが、この問題の解決のためにもそれらの対象全体が現実的かそれとも過去の追想か未来の予想かそれとも仮定か、それらの特殊性をやはり一般的にとらえた別の語を附加えて表現することを、規範で規定することになった。英語では過去の追想の場合に<動詞>の語尾に ed を加えるとか、日本語では過去の追想の場合に<助動詞>の「き」や「た」を連結するとか、規範によって定めている。現実の世界と想像や空想の世界とを、対象のとらえ方としては区別しないと同時に表現主体のとらえる立場としては区別するという、矛盾した表現の構造が<文法>として成立しているのである。これも調和する矛盾の一つのありかたである。(この段落における文字の色づけは引用者)

 人間の認識の発展を人類レベルで考えてみるならば、はじめは表象がきわめて豊富であるのに反して概念は貧弱であって、のちに概念が豊富化する。この超感性的な認識(=概念――引用者)の人類レベルでの変化は、当然にそれを言語に表現するための規範の発展、変化をもたらしたものと考えねばならないし、そのことはすでに実証されている。しかもはじめには音声言語以外に身ぶり言語や象形文字などがそれなりの複雑な文法を持って存在する可能性があって、言語形態としての発展・変化も存在したし、日本語の場合のような、高度に発展した段階にある音声と文字(漢語)が外国から流入することも起こりうるのである。言語規範はこのような歴史的条件によってそれぞれの人間のグループにおいてそれなりの特殊性を持つことになった。それぞれの民族語はそれとしての特殊な性格の規範を持つばかりでなく、さらに地方的な条件の特殊性が<方言>とよばれる特殊な規範を持つことになった。人類的規模でいうならば、民族語もまた一つの<方言>にほかならない。

いわゆる<標準語>は、この民族語における自然成長的な<方言>を超えて、民族全体に普遍的に使われる規範を目的意識的に選択選定したものである。もちろん新しく生まれてくる子や新商品に命名するような場合には、目的意識的に規範を設定するのであるが、これらの場合もすでに存在する規範を真似たり改作したりすることが多い。自然成長性であろうとなかろうと、対象の構造とそれに対する認識のあり方を示す場合の秩序のために規範が生れる点では同じことである。

対象の構造の持つ矛盾、認識の持つ矛盾、言語表現の持つ特殊な矛盾、規範の持つ矛盾――と考えていくなら、矛盾の論理学すなわち弁証法を武器として使えるか否かが言語研究にとってきわめて重要であることも、自覚できるであろう。

 

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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