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『認識と言語の理論 第三部』1(4)言語における物神崇拝 [PC版ページへ]
2019/03/16 13:09

『認識と言語の理論 第三部』1(1) <文法>とは何か
『認識と言語の理論 第三部』1(2)規範の矛盾と<文法>構造
『認識と言語の理論 第三部』1(3)規範による言語の形態変換
『認識と言語の理論 第三部』1(4)言語における物神崇拝

『認識と言語の理論 第三部』1(1)〜(4) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』(1972年刊)から
  言語における文法と規範 (4) 言語における物神崇拝


〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

『認識と言語の理論 第三部』 p.37 

 言語観の歴史をしらべてみると、言語における物神崇拝は二つの系列をとっていることがわかる。

その一つは表現としての物神崇拝であって、これは絵画や彫刻など他の表現におけるものと共通した性格を持っている。表現はすべて表現主体の精神活動と結びついており、観念的な世界・観念的な事物を直接の基盤としている。そのために、表現が担っている表現主体の精神活動ととの関係を、表現それ自体に精神がのりうつりそこに霊魂が腰を下して、特別な力を発揮することになるかのように、実体化して解釈するふみはずしが起りやすい。名人の作品は「魂」が入っていて、絵に描いた雀がぬけ出して部屋の中をとびまわったとか、木に彫った龍が動き出して不忍(しのばず)の池の水を飲みに行ったとか、いわれたのもそれであり、宗教と関係づけられると仏像やお札が災難を防ぐ力があるとか、十字架の象徴によって吸血鬼ドラキュラと戦うことができるとか、神仏の力がのりうつっているかのように解釈されるのである。

言語観としては、言語表現には霊が存在していて、その力によって表現内容が現実化するという、<言霊(ことだま)>信仰が存在した。めでたいことばを語ればめでたいことが起り、不吉なことばを語れば不吉なことが起きると考えるところから、<忌詞(いみことば)>なども生れて来たわけである。結婚式のときに「帰る」とか「去る」とか表現するのを避けて「おひらき」と表現するのも、<忌詞>としての使いかたであるが、何も<言霊>信仰を持たなくても当事者が不吉なことを連想していやな気持ちになるような表現は避けようという心づかいがあって、このような使いかたがいまもって行われているのである。

いま一つは規範としての物神崇拝であって、これは他の規範における物神崇拝と共通した性格のものであるが、のちに問題にするように日本の学者の言語観においては第一のそれが第二のそれに発展した。

 規範は、秩序を維持する必要から生れた人間の意思の特殊な形態であって、能動的な性格を持つイデオロギーの一種として他の認識から相対的に独立している。他の意志と同じように、実際には頭の中に存在しているのだが、頭の中で観念的に対象化されて固定され、客観的な存在であるかのように扱われて持続的に機能していく。ソシュールのいいかたを借りるなら、対象化されているために「個人を外にした部分」として扱われるのである。そして表現を媒介として、意識的あるいは無意識的に受け継がれていくのだが、複雑なあるいは重要な規範はそれを読みとるための印刷物が成立し、『ルールブック』『時刻表』『六法全書』『国語辞典』などという題名をつけて書店で売られている。

法規範にあっては、かつてのローマ法が大革命後のフランスにおいて法典づくりの基礎として用いられ、スポーツのルールにあっては、アメリカのプロ野球のルールブックを参考にして日本のプロ野球のルールがつくられた。非合法で行われるサイコロやトランプや花札の賭博(とばく)にほ、さまざまな勝負のルールが存在しているが、「丁半(ちょうはん)」とか「追丁株(おいちょうかぶ)」とかひろく普及しているものは、ルールがきわめて単純であるから、勝負に参加した経験やくちコミで社会化され、受けつがれて来たものである。個々の裁判、個々の試合、個々の勝負は終了するが、それらを規定した規範は消滅することなく存在しつづけ、またつぎの裁判や試合や勝負に役立てられていく。

言語規範も同じであって、個々の音声言語や文字言語は瞬間的にあるいは相当の時間を経て後に消滅するが、それらを規定した言語規範は消滅することなく存在しつづけ、またつぎの言語表現に役立てられていく。歴史家が数千年前の古文書を読むためには、その数千年前の規範を自分の頭の中に獲得し・再現しなければならない。もはや現在では言語表現が行われなくなったという意味での死語にしても、のこっている文字言語を理解するにはその規範が生きていて追体験を媒介しなければならない。

 法規範がさまざまの条文を民法とか刑法とか一つの体系にまとめているように、言語規範もさまざまな語についての規範を〈名詞〉とか<動詞>とか分類することができ、それらを相互に関係のある一つの体系にまとめることができる。<辞典>では、それぞれの語がどの品詞に属するかを示すとともに、使用上の便宜を考えて五十音順やABC順にならべてある。

そして、われわれが<日本語>とか<英語>とかいう場合にも、個々の表現がどの民族語に所属するかをとりあげている場合と、民族語の言語規範の体系をとりあげている場合とがあるから、一面的に扱ったり混同したりしてはならない。「この手紙は英語らしい」というときは前の場合の意味で、「昔英語を覚えたがいまではすっかり忘れた」というときは後の場合の意味である。<和英辞典>の場合には、二つの民族語の表現の転換のために規範を対応させているのであるから、あとの場合の意味である。<文語><口語><方言><標準語>などという場合にも、やはり二つの使いかたがある。

言語規範は言語表現をささえる存在であり、個々の表現は成立後直ちにあるいは徐々に消滅しても、規範は依然として維持され持続して存在するだけに、規範の側を重視すること自体は誤りではないが、これを<日本語><英語>などとよんでいることから二つの使いかたがあることを無視して、言語イクオール規範だという言語と言語規範との混同が生れがちである。

言語規範の体系は言語体系ではない。規範それ自体は一つの制度を形成するから、言語表現のための制度とはいえるが、言語制度ではない。ソシュールは「言語(ラング)」について、「すべての社会制度のなかで、もっとも個人の創意にとらわれぬものだ」と主張したが、「言語」が実は何をさしているかを考えてみるならば、当然の主張だということがわかる。フランスの評論家の雑文も、この意味で<言語制度>を語っているのであって、それをうのみにして日本の評論家がふりまわすなどあまり利口な話ではない(1)

(1) 「まず、純粋に言語学的レヴェルで、つまりできるだけ文化的、社会的要因を排除あるいは捨象して考えてみると、すべての自然言語の体系において、われわれは、知覚、思考、表現のいずれに際しても、音韻的、意味的に分節化された語彙と文法にのっとることが、基本的に要求される。語彙と文法から成る言語の体系は、目に見えない制度あるいは規範として、われわれを内面的に、また、それと感じさせずに、支配せずにはおかない。」(中村雄二郎『言語の支配と人間の行方』――『言語生活』1974年3月号)(傍点は原文)これは宮地のあげた前者の観点であるばかりでなく。言語イクオール文法イクオール規範と、すべてを頭の中に入れてしまうのだが、ここから「われわれを深く貫き、われわれに先だって存在し、時間と空間のうちでわれわれを支えてくれるもの、それは言語の体系にほかならない。」(同上)というフーコー的発想へいくにはただ一歩ふみ出せばよい。観念的に客観的な規範を現実的に客観的な存在にスリ変えるというただの一歩である。中村はヘーゲルを支持して現実的に客観的な意志を認めるのであるから、フーコーのヘーゲル的発想を批判できないのは当然である。

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.40 

 規範は観念的に対象化されて「個人を外にした部分」として扱われ、しかも「かくすべし」「すべからず」と行動を規定してくる能動的な存在である。自分で自分に命令するのであるけれども、現実に他人が存在して自分に命令するのと同じ機能を持っている。そのために、これを現実に他者が存在して自分を規定してくるものととりちがえる可能性がある。こうして規範に対する物神崇拝が生れてくる。

時刻表には、特急の「さくら」が16時40分に東京駅を発車すると規定されていて、列車運転の当事者はこの規定に従って活動しなければならない。しかしこの規範は、列車運転の秩序をつくり出すために、自分たちが目的意識的に創造し設定したものだと知っているから、天から降って来たとも神によって与えられたとも考えはしない。賭博の規範にしても同じである。

ところが法規範や言語規範は、はじめ習慣であったものが自然成長的に規範化し、その後に目的意識的に設定するようになった規範であるばかりでなく、物質的な交通やスポーツや賭博など生活の一分野を設定する規範とは異って、人間生活の全領域にわたって広汎に持続的に精神的活動さらには物質的活動を規定している。

規範の成立の過程的構造が必ずしも明らかでない上に、それから受ける規定は広汎で体系的であって、生活がいわばがんじがらめにされている。そのために、人間の観念的に対象化する作業が蓄積されて体系化に至ったことが無視され、その体系がはじめから自然の中に存在していたかのように、人間の創造的活動から切りはなされて論じられることにもなる。人間が観念的に客観的な意志をつくり出し、それによって自分自身をコントロールしているのを、現実的に客観的な存在が人間に先だって支配者として君臨していたのだと、スリ変えて説明するのである。つまり、その体系あるいは制度が、はじめから人間の外部に目に見えないものとして自立して存在し、これが人間に能動的に働きかけてくるばかりでなく、現実の世界それ自体も創造しているかのような、逆立ちした解釈による世界観が生み出されるのである。

中世においては、神の規範・神の法によって世界が存在するのだという神学的世界観が広く信じられ、また近代においては、国家の規範・国の法によって現実の社会が成立するのだという法学的世界観が生れた(2)。そして最近には、言語規範の体系を「思考以前の思考」「あらゆる体系に先立つ体系」として、あらゆる人間存在・あらゆる人間の思考に先だって存在するものだと位置づけ、これが人間の思考及び行動を支配するのだと解釈する、言語学的世界観ともいうべきものが出現した。構造主義者フーコーの説がそれである。

列車の時刻表やスポーツのルールの場合には、規範からの強制に従うけれども、それは人間がつくり出した強制であって、人間と無関係に存在する規範が人間に運転や試合を強制しているのではないことを、誰でも知っている。ところがフーコーは、われわれの認識を人間が自ら創造した存在とは考えないで、われわれに先だって存在しわれわれをささえてくれる「言語の体系」すなわち言語規範の創造だと解釈する。「わたしが考えている」のではなくて「わたしが考えさせられている」のであり、「わたしが語っている」のではなく「わたしが語らせられている」のだという。この「考え」「語って」いる主体はわれわれではなく、無意識的な構造体としての「言語の体系」そのものだという。

人間が観念的に対象化したものを現実の世界へ移して創造の主体に据えることは、昔から宗教で行われて来た。神がそれである。そしてヘーゲル哲学における絶対的なイデーも、やはり同じ方法で創造の主体に位置づけられたものである。フーコーは、彼自身「ある意味でわれわれは十七世紀の観点へもどる」といい、「神のいた場所に人間をおくのではなく、ある無名の思考、主体なき知識、身もと不明の理論をおく」と人間以前の思考を論じている点で、神学者ないしヘーゲル的にふるまっている客観的観念論者である。ヘーゲルを唯物論の立場から批判し、かつ宗教を認識論的に解明批判したフォイエルバッハは、すでにフーコー的言語観を嘲笑していた(3)

 言語学的社会観も、フーコーがはじめてとなえたわけではない。百数十年も昔に、江戸末期の国学者によってすでに提出されていたのである。この小論のはじめに指摘しておいたが、言語表現の過程的構造が正しく解明されないかぎり、暗黙にあるいは公然に、ぬけ出し論を提出しないわけにはいかない。言語表現の持つ意味を、表現主体の認識との関係において関係概念でとらえるのではなく、音声ないし文字の中に認識それ自体がぬけ出してふくまれているのだと、実体概念でとらえるのである。

日本語のように一音節語が多い場合には、個々の音声にはそれぞれ個々の「意(こころ)」をふくんでいるという解釈になっていく。これを音義説(おんぎせつ)とよぶが、「其の五十聯(れん)の音声に、各(おのおの)自然に意あり」(平田篤胤(ひらたあつたね))「いろは四十七字の心をだに知らば、世の中の理(ことわり)はつくしつべし」(大国隆正)と、音声が自然に含んでいる「心」の研究をすすめようとするのである。これは言語表現に霊(たましい)が存在しているという<言霊(ことだま)」信仰の系列に属するばかりでなく、<言霊>の力の根源についての解釈を提出するところへ発展していく。日本語の<文法>的研究がすすんで、言語表現が法則的であることが明らかになって来たけれども、国学者たちはその法則が人間の創造した概念に媒介されていることを理解できず、「意」「心」のありかたであると解釈し、その法則から<言霊>の力が生まれてくるものと見なしたのである。

一方、古代インドの言語であるサンスクリット(梵語)においても、この文字を記せば悪魔を防ぐ力があるというような物神崇拝(4)が存在し、また梵字字母を背景にして五十音図がつくられたことが、この悉曇(しったん)学における物神崇拝の五十音図の解釈へ浸透する契機ともなって、五十音図それ自体の物神的解釈が出現する結果を生んだのである。大国隆正は五十音図をもってあらゆる存在の根本と見なし、天地万物(言語をふくめて)はすべてここから発生したものと主張したのである。これは事実上言語規範の物神化であって、言語学的世界観を提出したものといわなければならない(5)

実践的な要求に応(こた)えて行われた本居学派の研究に対し、江戸末期の<言霊>学派は純学問的・哲学的な解釈に出て、本居学派と対立する結論へと向ったのであるが、すでにその萌芽は本居学派の言語解釈の中に音義学的発想として存在していた(6)のである。俗流唯物論がヘーゲル的観念論へ移行する契機をふくんでいるように、言語の俗流唯物論的なとりあげかたはそれなりに多くの成果をあげたとしても、なおそこに言語学的社会観へ移行する契機をふくんでいて、対立物へ転化することを、言語観の歴史は証明しているのである。

(2) 「それは神学的世界観の俗界化であった。教義や神の法の代りに人間の法が、教会の代りに国家が登場した。経済上、社会上の諸関係は、以前には教会の認可するところであったから、教会および教義によって創造されるものだと観念されていたのであるが、今やそれらは法律によって基礎づけられ、国家によって創造されるものだと考えられるようになった。」(エンゲルス『法学者社会主義』)

(3) 「もし人が、世界を、感性的な物体的な世界を、ある精神の思想と意志とを通じて発生させることを恥としないならば、また事物はそれが存在するから思惟(しい)されるのではなく、思惟されるから存在するのだと主張することを恥としないならば、人はまた世界を言語を通じて発生させることを恥としてはならないし、また事物が存在するから言語があるのではなく、事物は言語のゆえにのみ存在するのだと主張することをも恥としてはならない。」(フォイエルバッハ『宗教の本質に関する講義』)

(4) よく知られているように、これはいまもって仏閣の諸行事にのこっているし、信者たちもそれを受けいれている。

(5) これも歴史のいたづらの一つである。言語学の誤謬の歴史は、後進国日本をして先進国フランスの先手を打たせたわけである。だがこのような先手は森本和夫などによって「わが祖先たち」の功績に解釈されかねないのである。

(6) 鈴木朖(あきら)の『雅語音声考』の中にはこの発想が存在していた。その冒頭にも「音声に形あり、姿あり、心あり」と記されている。

 

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

『認識と言語の理論 第一部』1章

『認識と言語の理論 第一部』2章

『認識と言語の理論 第一部』3章

『認識と言語の理論 第二部』1章

『認識と言語の理論 第二部』2章

『認識と言語の理論 第二部』3章

『認識と言語の理論 第二部』4章

『認識と言語の理論 第三部』1

『認識と言語の理論』 まえがき

『言語過程説の展開』 冒頭の文章

『認識と言語の理論 第三部』 まえがき



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