ことばとは何か(1)――言語学の対象と言語過程説(PC版ページへ)

2006年07月23日12:45  言語>言語本質論

言語学とは一体何を対象とする学であるのか。いうまでもなく言語学が考察・研究の対象とするのは言語である。そして言語とは表現されたものとしての言葉である。つまり言葉とは話され、書かれ、手の形あるいは点の配置によって、人間が知覚できる形態で表現された言葉――話し言葉、書き言葉、手話、点字――である。

しかし言葉はそれ自体としては単なる音波、インクや画面のドットの集合あるいは手の形、点の集まりにすぎない。言葉が風にそよぐ木々の葉ずれの音や猫がキーボードの上を歩いた結果ディスプレイに表示された文字の集まり等々と区別されるのは、言葉の背後には表現された対象を認識する過程や認識された対象を表現する際の言語規範の媒介といった一連の過程が存在していることである。

時枝誠記(ときえだもとき)はこれらの一連の過程を〈対象→認識→表現〉のように表わし、言葉はこれらの過程を経て表現されるものであるから、言葉はその背後にこの複雑な過程的構造をもったものとして研究されなければならない、つまりその過程的構造を分析することによってはじめて言葉のもつ真の性格が明らかになると主張した。時枝は「対象→認識→表現という言語活動過程そのものが言語である」と規定したが、三浦は上記のように「言葉とは表現されたもの」とする立場から時枝誠記の上の規定を批判している。しかし、「言語学は対象→認識(意識)→表現という言語活動過程をその研究対象としなければならない」とする時枝の言語学説(言語過程説)を継承する立場から三浦は自らの言語学説を言語過程説と呼んでいる。したがって三浦の言語過程説は時枝の言語過程説を継承しつつもその分析の方法や各種の規定は時枝のそれとは異っている。

三浦の言語学は、認識論(意識論)・規範論・表現論・意味論が相互に関連しあった一つの構造体をなしている。また規範論のうちには認識論(意識論)に裏づけられた文法論や語彙論・語法論、統語論、文章論等ももちろん含まれるが、三浦が成し遂げた仕事はまだそれらの一部にすぎない。

統語論に関しては単語を客体的表現主体的表現の二種に分け、後者が前者を承ける形で文構造を形づくっていることを時枝誠記は風呂敷型文構造で示した。客体的表現・主体的表現というこの分類は、語をその形態からとに分ける江戸時代の国学者たちの詞辞論の継承である。おおざっぱにいえば詞は用言・体言であり主体が客観(客体)としてその指示対象(実体およびその属性)をとらえた語である。そして、辞はいわゆる「てにをは」(助詞・助動詞・接続詞など)であり主体の主観である判断や立場や感情を表わした語である。本居宣長は語の連なりからなる言葉を「玉の緒」にたとえ(詞を玉に辞を緒に)、鈴木朖(あきら)は詞は「指し表わす語」であり辞は「心の声」であると説いている。

時枝は風呂敷型文構造の分析から判断辞の欠落・省略たる零記号を発見した。この零記号の発見と風呂敷型文構造の分析とから時枝は独自の文法論・品詞論を築いた。三浦は時枝のこの文法論・品詞論に再検討を加えている。これらは言葉の内在的構造の検討からなされたものであり、爾来・爾後の機能的・形式的な文法論・品詞論とは一線を画するものである。そして主体的表現と客体的表現とによる統語構造・文構造が意識における観念的自己分裂のダイナミックな運動(自己意識の活動)を言葉として表現したものであることを三浦つとむは明らかにした。また同時にそれを通して三浦は意識の観念的自己分裂運動の中に時制の秘密があることを発見した("present" は「現前」である)。

さらにこの観念的自己分裂の能力獲得こそが人間の意識の胚胎であり、ことば(言語)の誕生の契機となったということを明らかにしたのは三浦つとむの言語過程説を批判的に継承する経済学者宮田和保である(「非在の現前」論は観念的自己分裂の「現前」論によってその矛盾が解決される)。

〔07.26追記〕

時枝の風呂敷型文構造(風呂敷型統一形式・入子型文構造)については高沢公信さんの「言葉の構造と情報の構造」を参照されたい。

かなり以前に私が書いた文章であるが多少は参考になると思われるので以下に転載しておく。

暫定文書「ことばとは何か」〔ことば、認識と表現のページ〕(2004年06月23日) 

妙なタイトルで申し訳ありません。しかし、言語あるいはことばとはいったい何か、ということをはっきりさせておかないと、ことばについての当たり前の談義さえわけがわからないことになりかねません。ですから「ことばとは何か」について共通の了解をしておくことはとても大事なことだと私は考えています。以下では私が考えている“ことば”のことを<ことば>、あるいは<言語>と表記することにします。

では、私の考えている<ことば>あるいは<言語>とはどんなものかといいますと、それは昔から日本人が「ことば」と呼んできたもの、ふつうに日常生活で使っている「ことば」のことです。話しことばとか書きことば手話点字…など、人々がお互いの意思疎通のために使っているモノ、そういうモノが<ことば>であると私は考えています。

もちろん「んぱしごぶへ」などといったでたらめな発声や、たとえ紙に書かれてはいても「めろげのほにけ」などのような単なる文字の集合などは<ことば>とはいえません。手話や点字でも同じです。「意味のない」こういったモノは<ことば>とはいえません。したがって<ことば>とは「意味のあるモノ」です。

モノとは人間が五官を通じて知覚できる物理的・化学的な物質あるいは現象のことで、話しことばや書きことば、手話、点字…はすべて知覚可能な物理的・化学的な物質や現象ですから、<ことば>がモノであるということについては異論はないと思います。問題は「意味がある」とはいったいどういうことなのかということでしょう。これについては私自身もなんとなくそんな気がするといった程度の認識しかもっていませんでした。そんな私に明確な認識を与えてくれたのが三浦つとむでした。

『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)の中で、三浦は

〔14ページ〕
言語も絵画も、人間がその認識を見たり聞いたりできるような感覚的なかたちを創造することで外面化し、それによって他の人間に訴えるという点で、別のいいかたをするなら、作者の表現であり精神的な交通の手段であるという点で、共通しています。

〔44ページ。太字は原著〕
音声や文字にはその背後に存在した対象から認識への複雑な過程的構造が関係づけられているわけで、このようにして音声や文字の種類にむすびつき固定された客観的な関係を言語の「意味」とよんでいるのです

と書いています。

つまり、人と人との精神的な交流のために、ある社会のなかで規定された一定の種類の音声や文字などを用いて個々の人間が創造した表現が<言語>であり、表現された文字や音声にはその社会の中で規定された固有の言語規範に媒介されて成立する客観的な関係として意味が結びついている、というのです。ここでいう言語規範とは「ある概念にはどういう語を用いるか」とか「ある一定のことがらやある一定の関係の概念を表すにはどのような語順やいい回しを用いるか」とかいった社会的な約束のことで、簡単にいえば語法や文法、文章法などの規則、すなわちその社会における言語表現についての普遍的な規範のことです。

そこで、言語表現に関するこの普遍的な規範の中に、どのような音声や文字を用いるのかについての規定も含めて、これを<言語規範>とよぶことにすれば、<ことば>とは<言語規範>の規定にもとづいた表現であり、<言語規範>に媒介されて成立する客観的な関係として<意味>が結びついているものである、ということになります。もちろん、これだけでは<ことば>について定義したことにはなりませんが、<ことば>について議論するための土台にはなるのではないかと思います。

さて、三浦が指摘するように、個々の具体的・個別的な言語表現の背後にはその言語表現を行なった個人の 対象→認識→表現 という肉体的・精神的過程である言語表現活動が存在しており、その過程の内には、言語規範に媒介されたその個人の個別の特殊な認識・表現過程が存在しています。いいかえれば、<ことば>には言語規範に媒介された客観的関係としての<意味>が、つまり表現者の個別の特殊な認識・表現過程が結びついているのです。

したがって<ことば>には、普遍的側面だけでなく、表現者の個別の特殊な認識・表現過程としての特殊の側面が、<言語規範>に媒介された関係として結びついていることになります。このように認識・表現過程においては、概念(意味)は二重化(普遍/特殊)しており、表現された<ことば>にもこの二重化した概念(意味)が結びついています。

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