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概念(1)――人間の認識は徹頭徹尾概念的である [PC版ページへ]
2006/07/27 15:29

 概念(1)〜(5)をまとめて読む。

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人間は対象を抽象的・一般的な形態で認識する。

人間の認知・認識は感覚→知覚→表象→(純粋)概念の順に抽象化・一般化の程度が上がっていく。しかし、感覚でさえすでに現実の対象から選択的に情報をとらえている。そこではある程度の情報が捨象され人間にとって必要とされる情報だけが抽象されている。


感覚は対象との接触によって受容器が受け取った物理的・化学的刺戟情報が脳において分析された結果生じるものである。脳に伝えられる物理的・化学的刺戟情報自体がすでに抽象されたものである上に、その情報が脳において分析される過程で抽象はさらに進められる。したがって対象との接触を繰り返すうちに感覚は一定のパターンに選り分けられる。知覚は感覚が数次の感覚野において分析された後に連合野において統合されたものであるから、知覚においてはさらに抽象化が進んでおり、記憶中枢からのフィードバックを受けることによって知覚は類別され分類されたものになる。私たちがふつう「感覚」と呼んでいるものは意識において認知・認識されたこの知覚である。対象が異なり、刺戟自体には差があってもいつでも似たような「感覚」を覚えるのはこのためである。これは知覚の恒常性とよばれている。

知覚(いわゆる「感覚」)は俗に五感ともよばれているが、五感のうち視覚・聴覚・嗅覚・味覚の4つはその受容器が頭部にある。残りの触覚は身体全体の皮膚近くに分布している。しかし、それは単一の感覚ではなく触覚・圧覚・温覚・冷覚・痛覚などの複合「感覚」であり、知覚にはこれらの五感のほかに深部感覚(筋腱関節覚)とよばれる位置覚・振動覚・運動覚や臓器感覚などがある。知覚は抽象されたものとはいえかなり明瞭な心像(イメージ)であり対象のかなり忠実な模像である。つまり知覚は心像の一種であるから特に心像であることを示すために知覚表象とよばれることもある(知覚は狭い意味の表象とはふつう区別される)

知覚は短期の記憶ではあまり情報が捨象されずに残ることもあるが、ふつうはさらに抽象された形態で記憶される。表象はこの記憶された知覚の再生・再現(represent)である。(純粋)概念はふつうこの表象や知覚から抽象されるが、知覚や表象が生じるときには記憶された概念からのフィードバックが行われるため知覚や表象は概念を伴っている。逆に純粋概念はとらえどころがないのでそれが脳裏に現われるときには表象を伴うのが普通である。人間が「言語」つまりシニフィアンと結合させなくても「もの」や「こと」や関係を意識の中に対象認識として作り出せるのは概念が表象を伴っているからである。

純粋概念は概念の内包そのものであり、表象を伴った概念がその概念の外延を形成する。したがって多くの対象と出会い経験を重ねるごとに概念の内包はより明瞭な区分(概念の境界規定)を有するようになり、外延はその範囲(概念の境界・外枠)を広げることになる。

私はこれまでの稿で知覚・表象・概念・観念という言葉を何の規定もせずに用いてきたが、以上のことから分かるように知覚や表象は概念を伴っており、概念もまた表象を伴っているから、表象・概念という言葉は形態規定として用いられる時以外はほとんど同じものを指しているわけである。昔の人が観念という言葉で表わしたのはそのような概念を伴った表象、表象を伴った概念のことであり、日本語に限らず表象・概念・観念という言葉が相互に転用されているのは上のような理由からであろうと私は思っている。

会話をしているときにあるものごとを表わす言葉が見つからず「あれ」とか「それ」としか表現できない対象認識がときに現われるが、このことは「言語」つまりシニフィアンの介在しない概念(観念・表象)が脳裏に対象認識として生じていることを意味している。また名の知れぬ鳥や草木の概念(観念・表象)が私たちの意識に上ることことはごく普通のことであり、これもまた「言語」の介在しない概念(観念・表象)が存在することの証である。

したがって「言語」が介在していようがいまいが人間の認識は徹頭徹尾概念を伴った形態で意識に現われるのである。



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