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2006年07月31日(月)| 意識>観念的自己分裂 |  
対象意識(1)――類的存在としての人間の意識

何か書こうと思っているのですが今は考える時間も書く時間もありません。以前書いたまま放置してある稿がありましたのでちょっと中途半端ですがお目汚しに。

〔2006.02.14記・2006.07.31追記

マルクス『経済学・哲学草稿』(城塚登・田中吉六訳、岩波文庫)から

 人間が肉体的で、自然力のある、生きた、現実的で感性的で対象的な存在であるということは、人間が現実的な感性的な諸対象を、自分の本質の対象として、自分の生命発現の対象としてもっているということ、あるいは、人間がただ現実的な感性的な諸対象によってのみ自分の生命を発展できるということを意味するのである。対象的、自然的、感性的であるということと、自分の外部に対象、自然、感性をもつということ、あるいは第三者にたいしてみずからが対象、自然、感性であるということは、同一のことである。

自然力」とは人間の身体を形成するさまざまな組織・器官の諸作用・諸機能およびそれらの連携的・総合的な諸作用・諸機能であり、それらを媒介し統御している意識をも含む神経系諸組織・諸器官の諸作用・諸機能である。対象に対して働きかける能動的・受動的なこれらの力をマルクスは人間の本質力と呼ぶ。人間のもつさまざまな本質力つまり本質諸力は対象に働きかけ加工する生産・労働(精神的なものを含む)において発現され生産物として外化(物質的あるいは精神的な形態で自己の肉体の外部および内部に対象化・客体化)される。ただしここでいう生産物とは人間が作り出す物質的・精神的なあらゆるもののことであり、生産・労働とはそれらを作り出す活動(物質的・精神的生産活動)である(したがってマルクスは労働を精神的労働と身体的・肉体的労働との協働・統合・統一としてとらえている)。また、同時に人間の本質諸力は対象を享受する活動として発現する。生産物を消費することは本質諸力によって対象に働きかけ対象を享受することである。

類的本質・類的存在人間の人間たる証、その本質は人間の意識のあり方にある、とフォイエルバッハはとらえた。そして人間以外の動物と人間とを区別する人間的な意識のその実践的なあり方すなわち「理性・意志・心情」を人間の類的本質Gattungswessen)と呼んだ。

フォイエルバッハ『キリスト教の本質』(船山信一訳、岩波文庫)から

 もっとも厳密な意味での意識はただ、自己の・自己の本質性が対象になっているところの存在者のところにあるだけである。 …略… 人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。 …略… 人間は自己自身にとって私であり君である。人間は自己自身を他人の地位におくことができる。そしてそれはまさに、人間にとってはただ自己の個体性が対象であるだけではなくて、自己の類・自己の本質もまた対象であるからである。
 人間が意識しているところの人間の本質とはいったい何であろうか? または、類――人間のなかにある本来の人間性――を形成するものは何であるか? 理性意志心情がそれである。 …略… 人間は対象において自己自身を意識する。対象の意識は人間の自己意識である。君は対象から人間を認識する。対象において君に人間の本質が現われる。対象は人間のあらわな本質であり、人間の真実で客観的な自我である。(同上)

人間は他の人間および自分の姿・あり方(生き方)を通して人間というものの姿・あり方(生き方)を知る。そればかりでなく、他の人間および自分が対象と関係する姿・あり方(生き方)を通して、つまり人間に対する対象の姿・あり方を通して人間のあり方(生き方)を知る。こうして類としての人間のあり方を知った人間にとって自己の「目」に現われる対象のあり方は同時に、対象の「目」に現われる自己のあり方である。そして他者の意識のあり方はまた自己の意識のあり方でもあるから人間が他者との関係を通じて自己のあり方を自己の意識の対象とする自己意識の契機となる。フォイエルバッハは対象に現われる人間の本質を「客観的な自我」と呼ぶ。そして、対象に現われるこの「客観的な自我」を自己自身として認識する意識を「自己意識」と呼び、人間のこのような実践的な意識のあり方を人間の類的本質ととらえた。

しかし、人間がこのような自己意識をもって自然や他の人間と関係をむすぶ存在であることをマルクスは類的存在Gattungswessen)と呼ぶ。フォイエルバッハが人間の類的本質Gattungswessen)を「理性・意志・心情」であるとし、人間の本質が人間の内的実践にあるとしたのに対して、マルクスは人間の本質は生活の生産・自然の加工・労働・協働を通じて自己を実現する内的・外的な実践にあるととらえたからである。その上でマルクスはフォイエルバッハの「類的本質」を「類的性格」としてとらえ直して「自由な意識活動が人間の類的性格である」とした。

『経済学・哲学草稿』(同上)から

 人間はひとつの類的存在である。というのは、人間は実践的にも理論的にも、彼自身の類をも他の事物の類をも彼の対象にするからであるが、そればかりではなくさらに――そしてそのことは同じ事柄にたいする別の表現にすぎないが――さらにまた、人間は自己自身にたいして、眼前にある生きている類にたいするようにふるまうからであリ、彼が自己にたいして、ひとつの普遍的な、それゆえ自由な存在にたいするようにふるまうからである。 …略… 生命活動の様式のうちには、一種属〔species〕の全性格が、その類的性格が横たわっている。そして自由な意識的活動が、人間の類的性格である。
…略…

 動物はその生命活動と直接的に一つである。動物はその生命活動から自分を区別しない。動物とは生命活動なのである。人間は自分の生命活動そのものを、自分の意欲や自分の意識の対象にする。彼は意識している生命活動をもっている。〔人間は生命活動をもつものとして規定されるとしても〕それは人間が無媒介に融けあうような規定ではないのである。意識している生命活動は、動物的な生命活動から直接に人間を区別する。まさにこのことによってのみ、人間は一つの類的存在なのである。あるいは、人間がまさにひとつの類的存在であるからこそ、彼は意識している存在なのである。すなわち、彼自身の生活が彼にとって対象なのである。ただこのゆえにのみ、彼の活動は自由なる活動なのである。
 人間は自己自身にたいしてあるところの存在であり、それゆえ類的存在であって、人間は、その有〔現実的存在・現実的実践――引用者注〕においても、その知識〔意識的存在・理論的実践――引用者注〕においても、自分をそのような存在として確証し、そのような存在としての実を示さなければならない。(同上)
 対象的世界の実践的な産出、非有機的自然の加工は、人間が意識している類的存在であることの確証である。 …略… それゆえ人間は、まさに対象的世界の加工において、はじめて現実的に一つの類的存在として確認されることになる。この生産が人間の制作活動的〔welktätig〕な類生活なのである。この生産を通じて自然は、人間の制作物および人間の現実性として現われる。それゆえ労働の対象は、人間の類生活の対象化である。というのは、人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも自分を二重化するからであり、またし たがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観するからである。(同上)

人間は他の人間を〈〉として他の人間の中に自己を、自己および他の人間の(つまり人間という種の)類的性質を見る。そして意識の中に自己の認識として映し出だされたこの類的性質が類的存在である人間としての自己意識である(「意識のなかで」「知的に自分を二重化し」自己の類的意識それ自身を意識の対象とする)。人間が類的存在であることと人間が社会的存在であることとは同じことである。そしてそれはまた人間の意識が類的意識であること、類的性格をもった意識つまり意識の内部に自己意識をもつ意識であることとも同じである。したがって類的存在としての人間の意識は社会的な意識であるから類的存在である人間にとっての自然は他の動物にとっての自然とはちがう。自然に対する人間の働きかけは他の動物のそれとは異なった性格をもつものである。

しかし個人としての人間ははじめから自己意識をもって生まれてくるわけではない。物質的・精神的な社会的生活つまり類的生活の中で他の人間との交通を通じてはじめて自己意識・類的意識を獲得するのである。

マルクス『資本論』から

 人間は鏡をもって生まれてくるものでも、フィヒテ流の哲学者として、我は我であるといって生まれてくるものでもないのであるから、まず他の人間の中に、自分を映し出すのである。ペーテルという人間は、パウルという人間にたいして、自身に等しいものとして相関係することによって、初めて、自分自身に人間として相関係する。しかしながら、このようにしてペーテルにとっては、パウルなるものの全身が、そのパウル的肉体のままで、人間という種の現象形態と考えられるのである。

人間の歴史そしてそのことは種(類)としての人間つまり人類の場合も同じである。人類は他の人間との物質的生活の中で、すなわち社会的生活を通じて自己意識・類的意識を獲得したはずである。そして人間の歴史は社会とともにはじまるのであるから、人間の前史は自己意識・類的意識の獲得とともに終わりを告げ、そこから類的存在としての人間の歴史すなわち「人間の真の自然史」が始まるのである。

「あらゆる自然的なものが生成してこねばならないのと同様に、人間もまた自分の生成行為、歴史をもっているが、しかし、この歴史は人間にとっては一つの意識された生成行為であり、またそれゆえに意識をともなう生成行為として、自己を止揚してゆく生成行為なのである。歴史は人間の真の自然史である」(『経済学・哲学草稿』同上)

〔2006.07.31追記〕

二つ上の引用文中の「人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも自分を二重化するからであり、またしたがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観するからである(『経済学・哲学草稿』)については、「自己の二重化(4)――認識の発展」(2005.01.25)および「自己の二重化(5)――認識の外化・対象化」(2005.01.31)で観念的自己分裂および認識の外化という観点からもう少し詳しく触れています。

対象意識(3)――対象意識と観念的自己分裂」から 

マルクスの「人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも自分を二重化するからであり、またしたがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観するからである(『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳、岩波文庫)における「意識のなかで知的に自分を二重化する」の部分は人間が自己の意識の中に観念的な世界つまり対象意識を作り出すことをいっており、「制作活動的、現実的にも自分を二重化する」の部分は、人間が外部の自然を加工し作り出した生産物は人間の本質諸力が結実したものであり、人間がその肉体的な力(労働力)・精神的な力(認識)を注ぎ込んで作り上げた自己の分身とでもいうべきものであるといっているのである。それゆえ「人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観する」つまり、人間によって作り出された生産物は彼にとって自己の本質諸力が対象化(外化)されたものであり、生産物のうちに彼は自己の本質諸力の結実を見るのである。

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(68歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことだけをこなす日々です。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学三浦つとむ『認識と言語の理論 I』

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ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
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そうして最後になぞがとける
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