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対象意識(3)――対象意識と観念的自己分裂 [PC版ページへ]
2006/08/05 23:21

 対象意識(1)――類的存在としての人間の意識

 対象意識(2)――自己意識の契機

 対象意識(3)――対象意識と観念的自己分裂

 対象意識(4)――他者意識・自己意識

 対象意識(5)――意識・認識の発展

 対象意識(1)〜(5)をまとめて読む。

 関連:自己の二重化(1)〜(7)

 関連:二つの主観(1)〜(3)

人間が「意識する」というとき、意識の内部には意識する主体と意識される客体とが存在している。つまり「表象化・概念化されたものごとを対象・客体として意識している主体」と「主体によって意識される特定のものごとの表象・概念という形態の対象・客体」がかならず存在していて、意識している意識の内部では主体と客体とが常に対峙している。


このとき主体は概念化・表象化されない形態で存在している。この主体は身体・知覚を介して現実の世界との交渉を保っている現実の自己・主体とは性格を異にしているがこの二つの主体が互いに交通をしながら結局は現実の自己・主体のもとに統括されることは、「もの思いにふけっていたら時間を忘れてしまったが時計の音で我にかえった」というような経験からも分かる。もの思いにふけっていた間も現実の自己・主体は現実の世界との交渉を保っているから、後になって「あのとき母に声をかけられて確か生返事をしていたなあ」などと思い返すことができる。

ところで現実の世界と交渉をもって生きている現実の人間の意識は知覚および表象・概念をそれぞれその認知・認識の内容としており、認知と認識との間に相互の交通関係があるからこれらを完全に分離することはできない。しかし表象や概念を対象認識という形態で直接とらえている認識は、意識外部の対象を知覚(=対象認知)としてとらえている認知とは分けて考えることができる(「二つの主観(1)〜(3)」参照)

上記のような意識の形態に留意するなら、対象意識というものはつぎのように考えるのがいいのではないかと私は思っている。

対象意識とは脳裏に何かを思い浮かべている意識状態である。「脳裏に浮かべる」という表現は、意識内のスクリーンに何かを映し出している状態をいい表わしたものであり、意識において何かを認識している状態を比喩的にいったものである。そして「脳裏に浮かべる」という言葉は脳裏に浮かべるイメージを作り出し、それを見ている者すなわちそれを認識している主体を前提としている。これを認識主体と呼べば、対象意識とは、意識内部において表象・概念として客体化されたものごと=対象認識を認識主体が認識しているその意識のあり方とみるのがいいのではないだろうか。

つまり対象意識においては、意識が意識される客体と意識する主体とに分離しそれらが対峙しつつ現実の自己の意識に内包され・統括されている。対象意識とはそのような意識の状態をとらえた概念であると私は考えている。したがって対象意識は現実の自己によって現実の自己の意識の内部に作られたもう一つの意識状態、もう一つの世界である。この世界は三浦つとむのいう「観念的な世界」であり、その中で意識する主体(認識主体)は「観念的な自己」すなわち「現実の自己から分離して観念的な世界に移行したもう一人の自己」である。

したがって三浦のいう観念的自己分裂は意識の自己運動を概念規定したものであり、対象意識はその運動過程における意識の一つの状態を概念規定したものだと位置づけられる。

対象意識における客体は知覚から直ちに取り出されるものもあれば、記憶された表象・概念群から取り出されるものもあるし、それらを再構成して作り出されるものもある。このような客体を作り出しているのは現実の自己から分離し現実の自己に統括されている認識主体である。したがって意識内に作り出される客体は認識主体の担い手である現実の自己の状況ひいてはその立場や判断や感情・意志…の影響を少なからず受けている。したがってその認識が適切なものであるかどうかは認識主体と現実の自己との連携によりその認識と現実のあり方との間に齟齬がないかどうかを突き合わせて確かめてみるしかない。このような現実的・理論的実践を通して認識主体の作り出す客体の質も内容も変化・発展し、またそれを認識する現実の自己の立場や判断や感情・意志…もその認識の影響を受けて変化・発展するのである。

対象意識――つまり観念的自己分裂を介した観念的な世界――と現実の世界との相互浸透がこのように人間の認識の発展をもたらしていることは私たちの日常の現実的・理論的な目的的活動を自省してみれば容易に理解できる。現実世界の客体のあり方とそれを原型として観念的な世界内に作り出した観念的な認識とを相互に対照し、現実的・理論的活動を通じて、認識を発展させその認識をもって外部世界にふたたび働きかけることができるのが人間という存在である。

マルクスの「人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも自分を二重化するからであり、またしたがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観するからである(『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳、岩波文庫)における「意識のなかで知的に自分を二重化する」の部分は人間が自己の意識の中に観念的な世界つまり対象意識を作り出すことをいっており、「制作活動的、現実的にも自分を二重化する」の部分は、人間が外部の自然を加工し作り出した生産物は人間の本質諸力が結実したものであり、人間がその肉体的な力(労働力)・精神的な力(認識)を注ぎ込んで作り上げた自己の分身とでもいうべきものであるといっているのである。それゆえ「人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観する」つまり、人間によって作り出された生産物は彼にとって自己の本質諸力が対象化(外化)されたものであり、生産物のうちに彼は自己の本質諸力の結実を見るのである。

〔2006.08.16注記〕

以前の稿では「対象意識」を「対象認識」と同じ意味で用いたことがあったが、対象認識は対象意識における客体であるから、「対象意識」と「対象認識」とは異なる。以後「対象意識」という語はこの稿で書いたような概念として使用する。

(関連記事)

対象意識(1)〜(5)
タグ【観念的自己分裂】



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