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2005年01月31日(月)| 意識>観念的自己分裂 |  
自己の二重化(5)――認識の外化・対象化

さて、「行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」(『経済学・哲学草稿』)というマルクスの言葉に対して三浦つとむは次のように書いています。

「人間は意識における如く単に理知的に自分自身を二重化するばかりでなく、行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」

 ここで行動的な現実的な自分自身の二重化といわれているが、これだけを読んでも何のことだかわからないかもしれない。これは人間の自然に対するはたらきかけであり、労働をもってする物質的な生産活動を指しているのである。マルクスはこれを「自然の人間化」(『草稿』)「人の客体化」(『経済学批判序説』)などとよんでいるのだが、これまでのマルクスの史的唯物論について解説した教科書には、この現実的な自分自身の二重化という見かたなど爪のアカほどもでてこないのにおどろく。われわれは労働能力を支出して生産物をつくりあげるという点で「人の客体化」が行われていることも大体わかるが、そればかりではない。「労働過程の終りには、その初めに当って、すでに労働者の表象のうちに、かくしてすでに観念的に・存在していた一の成果が出てくる」(『資本論』(16))という意味で、生産物は観念的な面での「人の客体化」をも含んでいるのだ、マルクスは「自然の人間化」を、肉体と観念との統一である人間が、それぞれの面でことなった統一体としての生産物をつくりあげる点において、現実における分身・二重化としてとらえているのである。人間が労働能力を支出するのは労働能力を獲得するためでもある。これはひとつの矛盾だが、自然をまず人間化し、この人間化された自然をふたたび人間にとりもどす(使用あるいは消費)という生産的実践は、まさに実在する矛盾の発展、現実的な否定の否定である。ヨゼフ・ディーツゲンも、精神が自分自身について理解することは「円をえがいて走っているかのような観がある。」と、鋭い直観のひらめきを示している。マルクスがこの肉体的な観念的な活動の相互の結びつき、すなわち人間実践をヘーゲルのように観念論的な関係における弁証法ではなく、唯物論の立場からガッチリつかんだからこそ、弁証法も神秘の幕の中から救いだされ、ヘーゲルは正しく顛倒され、フォイエルバッハの欠陥も克服されたのであった。(スターリンの『弁証法的唯物論と史的唯物論』では、弁証法の根本法則である否定の否定が姿を消してしまっている。哲学者たちはこの尻馬にのって、否定の否定は重要ではないのだ、これはヘーゲル主義の残りかすだ、とエンゲルスを非難する口吻をふりまいた。その点の批判はここでは遠慮するが、スターリンの言語観にあらわれた史的唯物論の公式に対する理解と、この否定の否定の軽視とは、いろいろなかたちで内面的につながっているように考えられる。)

ミーチンたちが書いた認識論の論文をいくらさがしたところで、意識における自分自身の二重化の説明はない。だが書物でなく生きた現実の人間の認識を相手にする場合には、いやが応でもこの問題にぶつからざるをえない。(『三浦つとむ選集3 スターリン批判の時代』 p.62~62「スターリンの言語学論文をめぐって」から)

生産物の中には投下された人間の労働力が結実しているという意味で、生産物が「外化(がいか)された労働力」「対象化された労働力」であるということは比較的納得しやすいことですが、マルクスの指摘のように、生産物の中には「すでに労働者の表象のうちに、かくしてすでに観念的に・存在していた」認識活動つまり精神的な労働力も含まれており、その意味で生産物は「外化された意識」「対象化された認識活動」でもあるわけです。つまり生産物は人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、生産物はそれらの現実的な統一体として人間の肉体・精神の外部に対象化されたものであるとマルクスはいっているのです。

対象意識(3)――対象意識と観念的自己分裂」から 

マルクスの「人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも自分を二重化するからであり、またしたがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観するからである(『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳、岩波文庫)における「意識のなかで知的に自分を二重化する」の部分は人間が自己の意識の中に観念的な世界つまり対象意識を作り出すことをいっており、「制作活動的、現実的にも自分を二重化する」の部分は、人間が外部の自然を加工し作り出した生産物は人間の本質諸力が結実したものであり、人間がその肉体的な力(労働力)・精神的な力(認識)を注ぎ込んで作り上げた自己の分身とでもいうべきものであるといっているのである。それゆえ「人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観する」つまり、人間によって作り出された生産物は彼にとって自己の本質諸力が対象化(外化)されたものであり、生産物のうちに彼は自己の本質諸力の結実を見るのである。

ところで人間が肉体的活動および精神的活動を投入して生産するのは何も商品生産物に限られたものではありません。日常生活において人間がつくりだすさまざまな生活用品や道具、工作物、料理などはすべて人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものです。

また表現とよばれるものも人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、そこでは対象化された精神的活動つまり、表現物に直接的・間接的に結びついている表現者の意識内容・認識内容がとりわけ重要なものとされています。それは表現とよばれる活動が人間相互の精神的交通のためにつくりだされ、人間が人間として社会的生活を送るために不可欠なものとなっているからにほかなりません。

言語表現も表現の一つであり、表現された言語(話し言葉・書き言葉・手話・点字等)は物質的生産物であるという側面(音声や文字)と精神的生産物であるという側面(内容)とが分かちがたく結びついたものとして存在しています。つまり言語表現の意味とは表現された言語に直接的・間接的に結びついている表現者の認識活動(意識内容・認識内容)であり、それは言語規範を介して言語表現に対象化されているのです。

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年10月生れ(74歳♂)。国語と理科が好き。ことばの持つ意味と自然界で起きるできごとの不思議さについて子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。長い間続けた自営(学習塾)の仕事を辞めた後は興味のあることに関して何でも好き勝手にあれこれ考える日々を過ごしています。千葉県西部在住。

2021年の2月下旬から海外通販(日系法人)を通じてイベルメクチンのジェネリック(イベルメクトール:インド Sun Pharma 社製)を購入し、定期的に服用しています。コロナワクチンは接種していません。

ツイッターは okrchicagob(メインアカウント)、または Chicagob Okr(サブアカウント)。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
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        朝永振一郎

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