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自己の二重化(5)――認識の外化・対象化 [PC版ページへ]
2005/01/31 09:19

 自己の二重化(1)――独り言と自己分裂

 自己の二重化(2)――鏡と自己分裂

 自己の二重化(3)――観念的自己分裂

 自己の二重化(4)――認識の発展

 自己の二重化(5)――認識の外化・対象化

 自己の二重化(6)――鏡としての表現

 自己の二重化(7)――他者を鏡とするということ

 自己の二重化(1)〜(7)をまとめて読む。

 関連:二つの主観(1)〜(3)

 関連:対象意識(1)〜(5)

さて、「行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」(『経済学・哲学草稿』)というマルクスの言葉に対して三浦つとむは次のように書いています。


「人間は意識における如く単に理知的に自分自身を二重化するばかりでなく、行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」

 ここで行動的な現実的な自分自身の二重化といわれているが、これだけを読んでも何のことだかわからないかもしれない。これは人間の自然に対するはたらきかけであり、労働をもってする物質的な生産活動を指しているのである。マルクスはこれを「自然の人間化」(『草稿』)「人の客体化」(『経済学批判序説』)などとよんでいるのだが、これまでのマルクスの史的唯物論について解説した教科書には、この現実的な自分自身の二重化という見かたなど爪のアカほどもでてこないのにおどろく。われわれは労働能力を支出して生産物をつくりあげるという点で「人の客体化」が行われていることも大体わかるが、そればかりではない。「労働過程の終りには、その初めに当って、すでに労働者の表象のうちに、かくしてすでに観念的に・存在していた一の成果が出てくる」(『資本論』(16))という意味で、生産物は観念的な面での「人の客体化」をも含んでいるのだ、マルクスは「自然の人間化」を、肉体と観念との統一である人間が、それぞれの面でことなった統一体としての生産物をつくりあげる点において、現実における分身・二重化としてとらえているのである。人間が労働能力を支出するのは労働能力を獲得するためでもある。これはひとつの矛盾だが、自然をまず人間化し、この人間化された自然をふたたび人間にとりもどす(使用あるいは消費)という生産的実践は、まさに実在する矛盾の発展、現実的な否定の否定である。ヨゼフ・ディーツゲンも、精神が自分自身について理解することは「円をえがいて走っているかのような観がある。」と、鋭い直観のひらめきを示している。マルクスがこの肉体的な観念的な活動の相互の結びつき、すなわち人間実践をヘーゲルのように観念論的な関係における弁証法ではなく、唯物論の立場からガッチリつかんだからこそ、弁証法も神秘の幕の中から救いだされ、ヘーゲルは正しく顛倒され、フォイエルバッハの欠陥も克服されたのであった。(スターリンの『弁証法的唯物論と史的唯物論』では、弁証法の根本法則である否定の否定が姿を消してしまっている。哲学者たちはこの尻馬にのって、否定の否定は重要ではないのだ、これはヘーゲル主義の残りかすだ、とエンゲルスを非難する口吻をふりまいた。その点の批判はここでは遠慮するが、スターリンの言語観にあらわれた史的唯物論の公式に対する理解と、この否定の否定の軽視とは、いろいろなかたちで内面的につながっているように考えられる。)

ミーチンたちが書いた認識論の論文をいくらさがしたところで、意識における自分自身の二重化の説明はない。だが書物でなく生きた現実の人間の認識を相手にする場合には、いやが応でもこの問題にぶつからざるをえない。(『三浦つとむ選集3 スターリン批判の時代』 p.62〜62「スターリンの言語学論文をめぐって」から)

生産物の中には投下された人間の労働力が結実しているという意味で、生産物が「外化(がいか)された労働力」「対象化された労働力」であるということは比較的納得しやすいことですが、マルクスの指摘のように、生産物の中には「すでに労働者の表象のうちに、かくしてすでに観念的に・存在していた」認識活動つまり精神的な労働力も含まれており、その意味で生産物は「外化された意識」「対象化された認識活動」でもあるわけです。つまり生産物は人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、生産物はそれらの現実的な統一体として人間の肉体・精神の外部に対象化されたものであるとマルクスはいっているのです。

対象意識(3)――対象意識と観念的自己分裂」から 

マルクスの「人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも自分を二重化するからであり、またしたがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観するからである(『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳、岩波文庫)における「意識のなかで知的に自分を二重化する」の部分は人間が自己の意識の中に観念的な世界つまり対象意識を作り出すことをいっており、「制作活動的、現実的にも自分を二重化する」の部分は、人間が外部の自然を加工し作り出した生産物は人間の本質諸力が結実したものであり、人間がその肉体的な力(労働力)・精神的な力(認識)を注ぎ込んで作り上げた自己の分身とでもいうべきものであるといっているのである。それゆえ「人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観する」つまり、人間によって作り出された生産物は彼にとって自己の本質諸力が対象化(外化)されたものであり、生産物のうちに彼は自己の本質諸力の結実を見るのである。

ところで人間が肉体的活動および精神的活動を投入して生産するのは何も商品生産物に限られたものではありません。日常生活において人間がつくりだすさまざまな生活用品や道具、工作物、料理などはすべて人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものです。

また表現とよばれるものも人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、そこでは対象化された精神的活動つまり、表現物に直接的・間接的に結びついている表現者の意識内容・認識内容がとりわけ重要なものとされています。それは表現とよばれる活動が人間相互の精神的交通のためにつくりだされ、人間が人間として社会的生活を送るために不可欠なものとなっているからにほかなりません。

言語表現も表現の一つであり、表現された言語(話し言葉・書き言葉・手話・点字等)は物質的生産物であるという側面(音声や文字)と精神的生産物であるという側面(内容)とが分かちがたく結びついたものとして存在しています。つまり言語表現の意味とは表現された言語に直接的・間接的に結びついている表現者の認識活動(意識内容・認識内容)であり、それは言語規範を介して言語表現に対象化されているのです。

(関連記事)

自己の二重化(3)――観念的自己分裂
自己の二重化(4)――認識の発展
長谷川宏訳『経済学・哲学草稿』――「解説」〈疎外・外化・弁証法〉
城塚登・田中吉六訳『経済学・哲学草稿』――「訳者解説」ほか



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