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2006年08月19日(土)| 意識>観念的自己分裂 |  
自己の二重化(7)――他者を鏡とするということ

「他人(ひと)の振り見てわが振り直せ」「他山の石」のようなことわざや故事、あるいは「人をもって亀鑑(かがみ)となす」といった表現の存在は人間が他者の姿や行動をわが身にあてはめて自己を反省する動物であることを示している。

マルクスはこのことを、ある商品A(リンネル)が他のある商品B(上着)に関連することによって自己の相対的価値を示すことを述べる部分の注で取りあげている。注の直前の段落と注とを以下に引用する。

『資本論』大月書店「マルクス=エンゲルス全集第23巻」所収、71ページ

こうして、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(一八)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値はこのように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである。

一八 見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分自身を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、ペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的肉体のまま で、人間という種族の現象形態として認められるのである。

人間ペテロは人間パウロを鏡としてつまりパウロの身を自分の身に置き換えて、パウロの姿の中に人間種族つまり類としての自分の姿を見るのである。

これは観念的自己分裂の一つの形態(想像→移行)であるが、宮田和保はマルクスのこの記述が自己意識の形成と発生についての解明の手がかりを与えるとして詳細に分析している。

意識と言語』桜井書店、49~50ページ

 「価値形態」論で着目すべきことは、リンネルを織る私的労働の社会的性格が上着商品で表され、リンネルの価値が商品上着を媒介にして表現されている、という論理である。マルクスはこのおなじ論理が自己意識にも妥当するとして、つぎのように論及している。

「人間は、鏡〔Spiegel〕をもってこの世に生まれて来たのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる〔bespiegelt sich der Mensch zuerst in einen Menschen〕。人間ペーターは、彼と等しいものとしての人間パウロとの連関を通してはじめて人間としての自分自身に連関する〔Erstdurch die Beziehung auf den Menschen Paul als seinesgleichen beziehtsich der Mensch Peter auf sich selbst alsMensch〕。だが、それとともに、ペーターにとってパウロの全体が、そのパウロ的肉体のままで、人間という種族の現象形態として通用する」(『資本論』第一部 七一~七二頁)

 この叙述は、自己意識の形成が「どのようにして」発生するのか、についての解明の手がかりを与えている。すなわち、「鏡」に自分自身を「映してみる」ことによって自分の姿を知るように、「鏡」としての「他の人間」から現実の自分を反省し、「自分自身に関連する」ことにより、自分自身の存在を意識するのだ、という、他者を媒介とした自己内反省がそれである。

 さらに、この自己内反省のための「鏡」としての「他の人間」が自己に内化すること――これは同時に自己が他人となることでもある――によって、「自己の二重化」が確定する。ここでのちの論述のために注意しておかなければならないことは、「観念的な自己」が自己のうちに内化した「他者」であるがゆえに、「観念的な自己」はこの「他者」にふたたび「転換」でき、「他者」の立場から「現実的な自己」を「客体化する」ことが可能となる、ということである。

宮田が指摘しているように観念的自己分裂(自己の二重化)とは「「鏡」としての「他の人間」が自己に内化すること――これは同時に自己が他人となることでもある」つまり自分の他人化なのであり、それゆえ「「観念的な自己」はこの「他者」にふたたび「転換」でき、「他者」の立場から「現実的な自己」を「客体化する」ことが可能となる」わけである。

観念的自己分裂はさまざまな<鏡>を媒介にした観念的な世界への移行とそこからの復帰という意識の自己運動であるが、宮田はその機序を三浦つとむが用いた「観念的な置き換え」と「観念的な転換」という二つの概念を使って詳細に分析している。転換主体の立場の移行である。置き換えには客体の置き換え主体の置き換えとがある。長くなるが引用する。なお強調は私がつけたものである。

『意識と言語』、94~97ページ

 私たちが日常生活における人々の共感能力を理解するためには、まず〈観念的な置き換え〉と〈観念的な転換〉について正しく把握しなければならない。そこで、三浦つとむが「観念的な自己分裂」を説明するさいに、たびたび取りあげる「人のふり見てわがふりなおせ」という諺(ことわざ)の具体的な場面を取りあげてみよう。

 他人が酔っぱらってベンチで醜態を演じているとき、私がそれを眺めながら、「こんな醜態を演じたなら、恋人が婚約解消というだろうから、注意しよう」と思ったとする。これを具体的に分析してみよう。(1)私は、酔っぱらって醜態を演じている「この現実の他人を観念的に自己[想像上において現実的な自己]に置き換え(三浦つとむ『言語過程説の展開』 三〇頁)、そのことによって、(2)「こちら側の自己を現実的な自己から観念的な自己に置き換える(同上)。このことは、私たちが日常的に鏡をみているとき、鏡のなかの自分は映像と知りながらも、想像のなかで「鏡のなかの自分」をあたかも「現実的な自己」に「観念的に置き換え」(=「観念的な対象化」)、それに照応して、こちらの側の「現実的な自己」が「観念的な自己」に「置き換わる」のとまったくおなじである。このようにして自分がみずからを客観的な位置に置く。

 この「観念的な自己」が、(3)想像のなかでの「現実的な自己」つまり醜態を演じている自分(酔っぱらった他人と観念的に置き換わった自己)を対象として取りあげ、「こんな醜態を演じたなら」と思う。さらに、(4)この「観念的な自己を恋人に観念的に転換させ」 て、この恋人の立場からこんな醜態を演じている自分をみて、「こんな自分をみたら婚約解消をいう―で―ある」と考える。ただし、このでの「で―ある」は、「恋人」が「こんな自分をみたら婚約解消をいう」ということを「観念的な自己」が判断したことをあらわす二重の〈指定(判断)の助動詞〉である。(5)「それからふたたび現実のありのまま眺める立場にもどり、観念的な自己分裂から復帰」した「現実的な自己」の立場から、「婚約解消をいう―で―ある」ということを〈推量〉し、そこで「う」(推量の助動詞)を追加する。「で―ある―う」が「だろう」と形式を変える。最後に、(6)おなじ立場からまずい事態を招く「から」、「注意しよう」(注意する・う(意志の助動詞「う」)→注意しよう)となる。このようにして「自己分裂のときの認識は現実的な自己の認識に止揚される」。

 …… 中略 ……

 一方で「現実の他人を観念的に自己[想像上の現実的な自己]に置き換え」、他方で「こちらの側の自己を現実的な自己から観念的な自己に置き換える」。このことは、想像力によって「現実の他人が観念的な自己[想像上の現実的な自己]に置き換え」られた想像的・観念的な世界にたいして、「観念的な自己」が向かい合うことを意味する。ただこの向かい合いは無意識的に行われる。このように「置き換え」は「観念的な自己分裂」と一体のもとで遂行される。つまり、さきの醜態を演じているのはあくまでも「他人」であるが、この「他人」を「現実的な自己」に置き換えたのは想像力によるフィックションであり、このフィックションの世界の形成に照応して「観念的な自己分裂」が生じた。これは〈時制の意識〉の成立の場合とおなじである。また、想像の世界に向かい合っている「観念的な自己」が「恋人」に「観念的に転換」するのは――「観念的な置き換え」と混同しないように――、「観念的な自己」が本源的には自己に内化した「他の人間」であることによる。すなわち、この「観念的な転換」は、出自を「他の人間」にもつ「観念的な自己」がふたたびこの「他の人間」に回帰したことを意味する。「人のふり」を「おのれのふり」へと投影(=観念的な置き換え)するのは「想像力」であった。「わがふりなおせ」の「わがふり」を「客観化」したのは、「他の人間」を媒介にして生成した「観念的な自己」であり、この「観念的な自己」がさらに「恋人」という「他の人間」に「観念的に転換」されたのだ。

 ちなみに、以上述べたことが独白の "Du"(=you)においても妥当する。そこでさきの鏡の例にもどろう。(1)想像のなかで「鏡のなかの自分」をあたかも「現実的な自己」に観念的に置き換え(=観念的に対象化)、それに照応して、(2)こちらの側の「現実的な自己」が「観念的な自己」に置き換わる(3)この「観念的な自己」は他者を自己の出自としていたのだから、この他者に「転換」される。(4)この転換された他者の立場からすれば、鏡のなかの「現実的な自己」は、”おまえ”(Du)という規定を受けとる。この鏡の場合とおなじく、他者に観念的に転換した「観念的な自己」の立場からすれば、現実的な自己は”おまえ”という規定を受けとる。これが独白の"Du"である。私(ich)が君(Du)に変換されるのはドイツ語だけに特有なものではない。日本語においても、自分自身を指して「われ/おのれの恥を知る」というが、同時に他人を指して「われ/おのれは何者ぞや」ともいう。このかぎりでは日本語とドイツ語とはおなじ構造をもっている。つまりこうであ る。自分自身を指して「われ/おのれ」というとき「観念的な自己」(想像上の話し手)が対象としての「現実の自分」を指し示す。しかし、この指し示す「観念的な自己」は本来的には「他者」に出自をもっていたのだから、この他者に「転換」する。したがって、自分自身を指し示した「われ/おのれ」は、この転換した他者からすれば、話し相手(あなた)を指示するものに転回する。

最後の部分は三浦が指摘している<一人称代名詞が二人称代名詞に変わる>理由をさらに詳細に分析していて興味ぶかい。これはやはり三浦が指摘している「おとうさん」「おかあさん」などの<本来は話者との関係を表わす名詞が自分や相手あるいは第三者を表わす代名詞のように用いられる>理由の分析ともつながっている(「おとうさん」「おかあさん」「おばあちゃん」「おじちゃん」「おねえちゃん」などの前に「指し示されている人の子供(あるいは孫、甥、姪、妹、弟…)の名前」+「の」を補ってみるとそのことがよくわかる。つまり、話者がその子供の立場に観念的に移行し、その子供の視点から見た対象を表現しているのである)。

〔2006.08.22注記〕

「他者を鏡とする観念的自己分裂」については「鏡と自己分裂(三浦つとむ)」(2005.01.25)に引用した三浦つとむの論考も参照して戴きたい。

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

75歳♂。国語と理科が好き。ことばの持つ意味と自然界で起きるできごとの不思議さについて子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。長い間続けた自営(学習塾)の仕事を辞めた後は興味のあることに関して何でも好き勝手にあれこれ考える日々を過ごしています。千葉県西部在住。

2021年の2月下旬から海外通販(日系法人)を通じてイベルメクチンのジェネリック(イベルメクトール他)を購入し、定期的に服用しています。コロナワクチンは接種していません。

ツイッターは okrchicagob(メインアカウント)、または Chicagob Okr(サブアカウント)。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

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ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
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そうして最後になぞがとける
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