ブログのメインテーマ「意識と言語」から離れた記事も好奇心の赴くままに書いています

 は現ページ内、はブログ内別ページ、はブログ外へのリンクをそれぞれ表しています

 人気のある記事はこのページの下の方にある よく読まれている記事 をご利用下さい

 記事をまとめて読む を使えばタグを利用して連番記事や関連記事が投稿順にまとめて読めます

 メイリオ系フォントシステムフォント等に関する記事群はタグ【メイリオ】から

 乳酸菌の培養,乳酸菌液の利用・効能,豆乳ヨーグルト等についてはタグ【乳酸菌】から

2006年08月23日(水)| 科学>科学 |  
鏡像における左右反転という現象について

『自由のための「不定期便」』(たっちゃん)で「鏡の中の世界」という記事を読んだ。たっちゃん(敬称略)はこの記事の中で、鏡に映った像では上下は反転していないのに左右が反転しているのは不思議だということに関して、かなり以前に『数学セミナー』誌上に載った朝永振一郎のエッセイを引用してそれに言及している。たっちゃんは他の記事で三浦つとむの観念的自己分裂についても書いている。しかし「鏡の中の世界」という記事では観念的自己分裂には触れていないようである。

それを読んで少し考えてみた。このことについては前にも考えたことがある。そのときの結論は別に左右が反転しているわけではなく、もともと鏡像は前後が反転しているのであって、それを反映して左右が反転するのだ、というものであった。つまりエッセイにもあったが、前を向いたとき人間の身体は頭と足とを結ぶ軸に対して左と右とがほぼ対象なので特にそれが際だって感じられるのだという結論だったと思う。

しかし、よく考えてみると人間の身体の対称性は特に関係ないような気もする。実は左右という方向の相対性が問題なのではないかと思われてきたのである。というのは、地上を直立して歩く人間の認識にとって、上下方向は絶対的であり、北極・南極方向を基準とする方角も絶対的であるが、前後方向や左右方向はあくまでも相対的なものである。特に左右という方向は人間にとって前後を定めないことには定まらないという性質を持ったものであるから、前後が反転する鏡像においては必然的に左右も反転せざるを得ないのだ。

たとえば、鏡を南に向け、自分はそれに向かって北面するようにして身体を映してみる。このとき左右の手を水平に伸ばすと、右手は東の方向を指し左手は西の方向を指す。そこで右手を「東の手」、左手を「西の手」と呼ぶことにすれば鏡像においても「東の手」は東を向いているし、「西の手」は西を向いている。したがって鏡像において東西は反転しないのである(当然であるが)。

だから、人間が「右手・左手」という代りに方角を用いてそれぞれの手が位置する方向に従って「東の手・西の手・北の手・南の手…」のように絶対的な方向を用いて呼ぶか、もしくは「心臓と反対方向に位置する手・心臓と同じ方向に位置する手」という風な絶対的な定義を用いて呼ぶなら、鏡像においてもそれらの手は反転しないはずである。つまり鏡像においても「心臓と反対方向に位置する手」は必ず「心臓と反対方向に位置する手」として映るのである。

〔追記〕大きな鏡の前に立って鏡に映る自分の姿を見てみよう。鏡を見ている自分から見ると、自分の顔は鏡の上側に映っており足は鏡の下側に映っている。確かに上下は反転していない。もし頭が下部に映り足が上部に映っていたらそれこそ天地がひっくりかえるようなできごとである。

しかし上下と同じように左右についても、鏡を見ている自分から見れば、自分の右手は鏡の右側に映っていて左手は鏡の左側に映っている。つまり、鏡を見ている自分から見れば鏡に映っている像の左右も反転していないのである。もし自分の右手が鏡の左側に映り左手が鏡の右側に映っていたならこれまた驚天動地の現象というべきであろう。

ここまで書いて思い出したが、「言葉とイメージ」(2006.07.22)という記事で瀬戸智子さんが「左」と「右」に当たる語彙が存在しない言語(ツェルタル語やグウグ・イミディール語)について触れておられた。この人たちは右・左という相対的な空間認知ではなく、東・西のような絶対的な空間認知をしているらしい。そうだとすればこのような絶対的な空間認知をしている人々には当然のことながら鏡像の左右反転という相対的な認識(概念)は存在しないであろう。

この稿を書き始める前に、心臓を下にして横泳ぎしながら一生を過ごす半魚人がいたとしたらかれらの見る鏡像はどのようなものであろうかと考えてみた。彼らにとって手は上にあるものと下にあるものであり、上の手は常に上に位置し、下の手は常に下に位置している。つまり、かれらはそれらを「上の手」「下の手」と呼ぶであろう。彼らが対面する方向を前と呼び、進行方向つまり頭の方向をたとえば「頭の方向」と呼ぶとすると、彼らにとって上・下および頭・足の方向は前後方向とは独立した方向であるから、彼らにとって鏡像は前後方向が逆に映るとしても、それ以外の上・下および頭・足の方向はやはり反転しないであろう…、とまあこんなことを考えていたわけである。

結論:鏡像とは裏返しの像であって、左右の反転というのは本質的なものではない。

〔2006.08.24 追記

結局のところ何を基準としての右・左かということであろう。鏡を見ている本人を基準とすれば、右手の鏡像は見ている本人から見ればやはり右側に映るのである。鏡に向かい合うと自然に鏡像を媒介にして観念的自己分裂が起こり、知らず知らずのうちに鏡像が現実の自分であるかのように思いこんでしまう。その鏡像の立場から見れば確かに元の右手が左手になってしまっているように思える。しかし、あくまでも鏡像は鏡像であり、自分はこちら側にいて鏡像を見ているのだということを忘れず、自分を基準にして観察する限り、上は上に、右は右に映るという客観的な判断ができるであろう。

〔2007.12.07 追記

鏡像において左右が反転しているという判断は誰が行っているかと考えると、それは鏡を見ている現実の自己(現実の主体)から観念的に分離した観念的な自己である。この観念的な自己は鏡に映った自分を現実の自分であるとみなしている(以下観念的な自己が現実の自分であるとみなしている鏡像をカッコつきで「自分」と表記する)。そして観念的な自己から見ると「自分」の右手は現実の自己の左手が映ったものであるから、観念的な自己から見るとたしかに現実の自己「自分」とは左右が反対になってしまっている。

しかし鏡をみている現実の自己からすれば鏡に映っているのはあくまでも鏡像であって自分そのものではない。つまり、現実の自己から見れば自分の右手は自分から見て右側に映っているわけであるから左右は反転していないのである。そして鏡に映っているのは現実の自己の身体のうち光が当たっていてしかも鏡に映る範囲内におさまっている部分だけである。よく考えてみればわかることだが鏡像には内臓は映らないから鏡像には内臓はない。にもかかわらず、観念的な自己は鏡に映った「自分」にも心臓があって鼓動しているかのように思い込んでいる。

つまり、鏡像においては前後が反転しているのはたしかだが左右は反転しているわけではない、と判断しているのは冷静な現実の自己である。しかし、観念的な自己の立場で鏡に映った「自分」を見ると左右が反転してしまったとしか考えられないわけである。

(関連記事)

科学 | Trackback (1) | Comment (2) | URL | 携帯 | スマフォ |  | 記事番号:57
コメント
 
[25] 東の手
2006/08/23(水)06:53:42 | URL | tpkn[編集
ちょうどこの件に関しておもしろい本を読んだところで、濫觴に書こうかと思ってたところです。

井上京子著『もし「右」や「左」がなかったら―言語人類学への招待』(大修館書店)

実際、世界の言語には「右」「左」という言葉を持たないものがあって、そういう人達の空間認識は別の言語を話す人々と全然違ってる、という話。これが、「概念が先にある」という話の反証になるのかならないのか、ここ数日考えてました。
 
[26] あ、失礼。
2006/08/23(水)06:58:19 | URL | tpkn[編集
エントリー全部読む前にあわてて書いちゃったw

その「言葉とイメージ」というエントリーの中で触れられている『方向オンチの科学』の元ネタがこれではないかと思います。
コメントの投稿

この記事のトラックバックURL

スパム・トラックバックが増えているため、言及リンクのない記事からのトラックバックは受け付けない設定にしています。ご了解下さい。

友人のブログで面白い記事があったので。Ramble On...:しょーもない発見オーストラリア(南半球)では、月の満ち欠けが左右逆になるという話です。日本では、新月から右側が光っている半月=上弦の月、そして満月へと移っていきますが、おそらく南半球ではこの逆で左側が..
2007/01/07 Sun 22:31:27 | デミウルゴスの轡銜(ヒカン)
よく読まれている記事
言語
 ことばについての覚書(1)~(3)
 ことばとは何か(1)~(3)
 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(1)~(5)
 時枝誠記と三浦つとむ(1)(2)
 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)~(3)
 言語と内言――言語の意味
 意味・意義・価値(1)~(3)
 貨幣の使用価値
 言語規範――規範と規範意識
 客体的表現と主体的表現(1)~(4)
 「言語」なしの思考(1)(2)
 三浦つとむ「漢字と振り仮名」
 ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)
 ソシュールの「言語」(1)~(4)
 ソシュール用語の再規定(1)~(4)
 “langue” と “langage”
 『認識と言語の理論 第二部』1章
 『認識と言語の理論 第二部』2章
 『認識と言語の理論 第二部』3章
 『認識と言語の理論 第二部』4章
 認識についての覚書(1)~(7)
 言語表現における概念の二重性と二種類の概念
 自己の二重化(1)~(7)
 二つの主観(1)~(3)
 対象意識(1)~(5)
 三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき
 『認識と言語の理論 第一部』1章
 『認識と言語の理論 第一部』2章
 『認識と言語の理論 第一部』3章
 概念は「言語」に先立つ(1)~(5)
 概念(1)~(5)
 長谷川宏訳『経済学・哲学草稿』――「解説」〈疎外・外化・弁証法〉
 城塚登・田中吉六訳『経済学・哲学草稿』――「訳者解説」ほか
弁証法
 存在と対象(1)~(3)
 三浦つとむ「横目で見る立場から」(1)~(4)
 物自体(1)~(4)
 科学とは何か
 0の概念・マイナスの概念(1)(2)
 マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(1)~(3)
 割り算から見た量(1)(2)
 温度はたし算・引き算できないか(1)(2)
 鏡像における左右反転という現象について
 南半球における月の満ち欠け
 乳酸菌を培養する(1)――〔基礎編〕米乳酸菌を培養してみた(とぎ汁培養液)
 乳酸菌を培養する(2)――〔応用編1〕米ぬか培養液・拡大培養
 乳酸菌を培養する(13)――〔展開編1〕玄米で作る豆乳ヨーグルト(TGGヨーグルト)
 乳酸菌を培養する(18)――〔探究編5〕米乳酸菌は120℃に耐えるか
 乳酸菌を培養する(19)――〔発展編1〕驚異の玄米浸漬培養液
 乳酸菌風呂に対するネガキャン――ニセ科学批判とエア御用
 板倉聖宣『摸倣の時代』――西洋医学と脚気、御用医学と玄米食
 【再掲】ペットボトルを利用した自作じょうご
 システム・フォント変更に関する記事
 メイリオ(1)~(11)
 ブログ内記事で取りあげたソフト・ファイルのDL情報
 ClearType Tuner(1)(2)
 Winamp の表示をメイリオ系にする
 WinAmp の旧バージョン
 コマンドプロンプトで使用するフォント
 Gom Player(1)(2)
 ブラインド・タッチと OEA配列
社会
 ~官房機密費の実態~〔TBSニュースバード〕
 『週刊ポスト』官房機密費告発(1)~(12)
 『週刊ポスト』大新聞は国民の敵だ 1~2
 川端幹人さんのツイート――原発報道のタブー
言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

ページ案内
プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年10月生れ(74歳♂)。国語と理科が好き。ことばの持つ意味と自然界で起きるできごとの不思議さについて子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。長い間続けた自営(学習塾)の仕事を辞めた後は興味のあることに関して何でも好き勝手にあれこれ考える日々を過ごしています。千葉県西部在住。

2021年の2月下旬から海外通販(日系法人)を通じてイベルメクチンのジェネリック(イベルメクトール:インド Sun Pharma 社製)を購入し、定期的に服用しています。コロナワクチンは接種していません。

ツイッターは okrchicagob(メインアカウント)、または Chicagob Okr(サブアカウント)。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

カテゴリー一覧
文字列検索
文字列検索(兼タグ検索)
ブログ内検索

 Google カスタム検索

 Yahoo! サイト内検索

このブログ内を検索 

※コメントも検索します
記事をまとめて読む
上記以外の関連記事は文字列検索(兼タグ検索)を利用してまとめて読めます。
また、各記事の下部にあるタグを利用して関連記事や連番記事をまとめて読むこともできます。
意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

最近のコメント
外部リンク集A
シカゴ・ブルース関連
相互リンク
言語過程説・三浦つとむ関連
国家論・言語論…

言語過程説三浦つとむ時枝誠記南郷継正
外部リンク集B
外部リンク集C
社会・政治・経済等

社会・政治・経済等
外部リンク集D
科学・教育
米のとぎ汁乳酸菌
コンピュータ・実用
VisualStyle
メイリオ・システムフォント

コンピュータ・実用
VisualStyle (スキン)
メイリオ・システムフォント
外部リンク集E
資料的なサイト・ページ
お役立ちサイト・ページ
その他・未分類

(PR) /   /