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2006年08月28日(月)| 意識>概念・表象 |  
概念は「言語」に先立つ(3)

 概念は「言語」に先立つ(1)~(5)をまとめて読む。

 関連記事:ソシュール用語の再規定(1)

ちょっとばかり理屈っぽくなるが今日は数学「的」な説明をしてみたい。

「言語langue」(言語規範の一部)は個人の認識として存在している。そこで、ある個人の意識のうちに存在する「言語」を構成している「シーニュ」の集合を A とし、A の個々の要素を a1, a2, …のように表わす。同様に、「シーニュ」を形成する「シニフィアン」および「シニフィエ」の集合をそれぞれ B, C とし、B, C の個々の要素をそれぞれ b1, b2, …、および c1, c2, …のように表わす。

〔注記〕以下の文中において「受容」とあるのは、表現されたものを受け取ってその内容や意味を理解することを表わしている。「解釈」とか「鑑賞」という言葉もあるが意味が限定的なので、それらをも含む広い意味の言葉として「受容」を用いている。したがって「受容者」には「解釈者」「鑑賞者」の意味も含まれている。

ある「シーニュ」 a1 が b1 と c1 との連合したものであることを a1=b1+c1 と表わすとすれば、A は b1+c1, b2+c2, b3+c3, …を要素とする集合である。つまり、A のある要素 an はかならず an=bn+cn のように表わされるはずである。すなわち an=bn あるいは an=cn のようなものは「シーニュ」としての資格を持たない存在である。前者は「シニフィエ」(概念)と結びついていない単なる音韻連鎖であり、後者は「シニフィアン」(音韻連鎖)と結びついていない単独の概念である。このようなものは「言語」を構成する「シーニュ」ではない。

前者のような音韻連鎖を頭の中に浮かべることは簡単である。たとえば「りぬこふげ」を黙読してみよう。このとき意識の中で生成した音韻連鎖はなんらの概念も連合していないから、普通の日本人は自らの「言語」のうちにそのような「シニフィアン」を見つけることはできないし、そのような音韻連鎖と結びついた「シニフィエ」を見出すこともできない。つまりこれは「シーニュ」ではない。ロシア語をまったく解さない私のような人間にとって、テレビのロシア語ニュースで耳にするアナウンサーの音声の大部分(全部というべきか)は私の意識のうちに存在する「言語」を構成するいかなる「シニフィアン」とも一致せず、それらと対になるいかなる「シニフィエ」も「言語」のうちに見出すことができない音韻連鎖として私には認識されている。

それでは後者のような、いかなる「シニフィアン」とも結びついていない概念は個人の意識のうちに存在するであろうか。たとえば私の家の台所には母や妹が買い揃えた調理用の器具がある。私は母や妹がそれらを使って調理するところを何度も見ているのでそれらがどういう目的で使用される道具であるかをよく知っている。つまりそれらを概念的に把握しているのである。ところがそれらの調理器具の中には私がその名前を知らないものがいくつかある。したがってそのような調理器具に関しては私の意識の内には概念はあるが、それと結びついた「シニフィアン」が存在しないのである。すなわちそれらは対となるべき「シニフィアン」を持っていないのだから、私の「言語」のうちにはそれらを表わす概念としての「シニフィエ」は存在しておらず、したがってそれらの概念は「シーニュ」を形成していない概念なのである。

私の父は家具や建具など家の内外で使われる木製品を作ったり修理したりする職人であったから、家の工場(こうば)には私が名前を知らない道具がたくさんあった。私はものごころつくころから父の工場で父がものを作るのを見るのが好きで何時間も飽かずにそれを眺めていることが多かった。形も大きさもさまざまなそれらの道具をとっかえひっかえ父が用いているのを何度も見ているうちに私はそれらの道具がいかなるものかをほとんど把握してしまった。それらは用途別に道具棚や引き出し・小箱等にきちんと整理されて置いてあったから、たまにしか使わない道具であってもその用途はだいたい分かった。しかし、ノコギリやノミ・カンナ・カナヅチ…といったよく耳にする道具の名前は覚えたが、そうではない多くの道具については私はその名を今でもほとんど知らない。それは塗料や接着剤や釘類・ヒモ類・定規類等々についても同じである。

このような経験は日常生活や友達との遊びなどにおいてもよくあることである。名前は知らないがそれがどんなものであるかは知っているというのは言語の習得過程においてはそれほど珍しいことではないし、大人になってからも経験することである。名前を知らないままでいることも珍しくはない。

「言語langue」(言語規範)の習得過程は「シーニュ」の獲得過程であり、経験によって概念を類別し、分類しながら「シニフィエ」を正しく「シニフィアン」と結びつける過程である。しかし上に述べたように「シニフィアン」や「シニフィエ」が対にならずそれぞれ単独で存在しているような「シーニュ」はあり得ない。しかし、「シーニュ」の獲得過程ではいまだ「シーニュ」になっていない「シニフィアン」や「シニフィエ」、つまり「シニフィエ」(概念)ときちんと結びついていない単独の音韻連鎖や、結びつけるべき「シニフィアン」(音韻連鎖)を伴っていない単独の概念が存在しているのが普通である。

言語習得の初期段階にある幼児が母親に「あれは犬(だよ)」と指摘されても「あれ」「犬」という音韻連鎖と、「あれ」の指し示す関係概念やそこにいる犬の普遍概念とを、つまり「シニフィアン」と「シニフィエ」とをきちんと把握しているかどうかは疑問である。幼児は同じ種類のものごとや異った種類のものごとなど、さまざまなものごとと出会いそこで周囲の大人や年長者からその名前を教えられあるいはみずからその名前を尋ねながら、「シニフィアン」と「シニフィエ」とを結びつけ「シーニュ」を獲得していくのであるが、ある「シニフィアン」と結びつくべき正しい「シニフィエ」を形成し獲得するにはそれら個別のものごとから個別の概念を抽出し、そこで得られた個別概念から「シニフィアン」に結びつけるべき普遍概念たる「シニフィエ」を作り出さなければならないのである。つまり、ある特定の犬を見てそこから「動物」という「シーニュ」を獲得するときと「犬」という「シーニュ」を獲得するときとでは、個別概念から抽出し形成する普遍概念が異なるのである。

このように「シニフィアン」と結びつけるための「シニフィエ」を形成するには、それ以前にさまざまな個別のものごとから抽象される個別概念をもとにしてそこから「シニフィアン」に結びつけるべき普遍概念を抽出し、その他の不要な属性を捨象するという過程が必要なのである。

ある個人の意識において、「シーニュ」が「シーニュ」たる資格を得て、「言語langue」の中に一定の位置を占めるためには、「シニフィアン」だけでは足りないのであって、その個人はそれと結びつけるべき「シニフィエ」を意識の中に正しく形成しなければならない。そして「シニフィエ」を形成するには、経験的に(実践的に)対象から個別概念を抽象しさらにそこから普遍概念を抽出しなければならないのである。つまりさまざまな個物から抽象された個別概念がなければ「シニフィエ」を形成することができず、「シニフィエ」を形成することができなければ「シーニュ」は生れないのであるから、そのような音韻連鎖(「シニフィエ」と結びついていない「シニフィアン」)を覚えただけでは「シーニュ」の体系たる「言語」は更新されないのである。つまり「シーニュ」の獲得とは、名と実すなわち「シニフィアン」と「シニフィエ」とを意識のうちで正しく結びつけ対にすることである。

逆に概念のみがあってそれが「シニフィアン」(音韻連鎖)と結びついていない状況というのもある。個人が日々の生活の中で認識している概念つまり個別概念は多種多様にわたっていて、それと自覚せずにそれらの概念を意識の中で認識しながら行動している。それらの個別概念にはさまざまな側面があるので同じ個物であってもどの側面からそれをとらえているかによって概念的な把握の仕方が異っている。しかもその概念的な把握の内容は多様であるからそれら個々の概念にすべて名前がついているわけではない。私の目の前にある湯呑み茶碗にしても、中に茶が入っている状態と空っぽの状態とでは私の認識する概念は異なる。あるときにはこの湯呑み茶碗は本を読むのに邪魔な存在として私の認識に現われる。あるいは「食用にするニシンの卵」という概念には対になる「カズノコ」という「シニフィアン」が存在するが、「メダカの卵」という概念は存在してもそれと対になる「シニフィアン」は日本語には存在しない。このような例は他にもたくさんある。むしろ多様な現われ方をする概念の多くにはそれと対になるような「シニフィアン」が存在していない。したがって、それらの概念は「シーニュ」の構成要素とはなっていない。いいかえれば、概念の中には「シニフィアン」と結びついていないために「シーニュ」の構成要素となっていないものがいくらでもあるのである。

私たちが意識の内容を言語表現するときに、ある個別概念をどのように表現すべきか悩むのはそれらをどのような側面から(つまりどのような概念として)把握しているかを一言で表わす「シーニュ」が存在しないことが多々あるからである。それゆえさまざまな修飾語句を補ったり喩えなどを用いたりしてなんとかその個別概念を表現しようと努力しなければならない。また、反対に受容者の立場で他者の表現した言語を受容するときにも、表現された「シニフィエ」(普遍概念)だけでは表現者が表現したいと思った個別概念を正確に自分の意識の中に映し出すことができないために、表現者の立場や感情などを考慮し、文脈を読み取り、表現された他の語句の助けを借りたりしてなんとか表現者の表現過程を追体験して表現者が表現しようとした個別概念をできるだけ正確に映し出す努力が要求されるのである。

最後に、もう一度最初の数学「的」記述に戻って結論をいうと、「シニフィエ」と結びついていない単独の音韻連鎖 bn あるいは「シニフィアン」と結びついていない単独の概念 cn が人間の意識の中に別々に存在することは実は当たり前のことなのである。夫および妻となるべき一人以上の独身の男、一人以上の独身の女が別々に存在していなければ新たに一組の夫婦も生れることができないのと同じで、「シニフィエ」と結びついていない単独の音韻連鎖 bn と「シニフィアン」と結びついていない単独の概念 cn とが意識内に生成していなければそれらを結びつけて、bn+cn という形の 「シーニュ」を新たに構成することはできないのである(ただし多語一義や一語多義のような形態も存在するから厳密にいうと「言語」においては「重婚」も例外的に許容されている)。そして、個人としての人間がさまざまな個物との接触によって意識の中に抽象した個別概念がそもそも存在しなければ、その個別概念からさらに抽象される普遍概念たる「シニフィエ」を形成することはできないのであり、ひいては「言語」の獲得や訂正あるいは更新・体系の変化すら不可能なのである。

(関連記事)

ソシュール用語の再規定(1) (同じ内容を私が再規定した用語を使って書き換えたものが載せてあります。合わせてお読みください)

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年10月生れ(74歳♂)。国語と理科が好き。ことばの持つ意味と自然界で起きるできごとの不思議さについて子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。長い間続けた自営(学習塾)の仕事を辞めた後は興味のあることに関して何でも好き勝手にあれこれ考える日々を過ごしています。千葉県西部在住。

2021年の2月下旬から海外通販(日系法人)を通じてイベルメクチンのジェネリック(イベルメクトール:インド Sun Pharma 社製)を購入し、定期的に服用しています。コロナワクチンは接種していません。

ツイッターは okrchicagob(メインアカウント)、または Chicagob Okr(サブアカウント)。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

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