ちょっとばかり理屈っぽくなるが今日は数学「的」な説明をしてみたい。
「言語langue」(言語規範の一部)は個人の認識として存在している。そこで、ある個人の意識のうちに存在する「言語」を構成している「シーニュ」の集合を A とし、A の個々の要素を a1, a2, …のように表わす。同様に、「シーニュ」を形成する「シニフィアン」および「シニフィエ」の集合をそれぞれ B, C とし、B, C の個々の要素をそれぞれ b1, b2, …、および c1, c2, …のように表わす。
〔注記〕以下の文中において「受容」とあるのは、表現されたものを受け取ってその内容や意味を理解することを表わしている。「解釈」とか「鑑賞」という言葉もあるが意味が限定的なので、それらをも含む広い意味の言葉として「受容」を用いている。したがって「受容者」には「解釈者」「鑑賞者」の意味も含まれている。
ある「シーニュ」 a1 が b1 と c1 との連合したものであることを a1=b1+c1 と表わすとすれば、A は b1+c1, b2+c2, b3+c3, …を要素とする集合である。つまり、A のある要素 an はかならず an=bn+cn のように表わされるはずである。すなわち an=bn あるいは an=cn のようなものは「シーニュ」としての資格を持たない存在である。前者は「シニフィエ」(概念)と結びついていない単なる音韻連鎖であり、後者は「シニフィアン」(音韻連鎖)と結びついていない単独の概念である。このようなものは「言語」を構成する「シーニュ」ではない。
前者のような音韻連鎖を頭の中に浮かべることは簡単である。たとえば「りぬこふげ」を黙読してみよう。このとき意識の中で生成した音韻連鎖はなんらの概念も連合していないから、普通の日本人は自らの「言語」のうちにそのような「シニフィアン」を見つけることはできないし、そのような音韻連鎖と結びついた「シニフィエ」を見出すこともできない。つまりこれは「シーニュ」ではない。ロシア語をまったく解さない私のような人間にとって、テレビのロシア語ニュースで耳にするアナウンサーの音声の大部分(全部というべきか)は私の意識のうちに存在する「言語」を構成するいかなる「シニフィアン」とも一致せず、それらと対になるいかなる「シニフィエ」も「言語」のうちに見出すことができない音韻連鎖として私には認識されている。
それでは後者のような、いかなる「シニフィアン」とも結びついていない概念は個人の意識のうちに存在するであろうか。たとえば私の家の台所には母や妹が買い揃えた調理用の器具がある。私は母や妹がそれらを使って調理するところを何度も見ているのでそれらがどういう目的で使用される道具であるかをよく知っている。つまりそれらを概念的に把握しているのである。ところがそれらの調理器具の中には私がその名前を知らないものがいくつかある。したがってそのような調理器具に関しては私の意識の内には概念はあるが、それと結びついた「シニフィアン」が存在しないのである。すなわちそれらは対となるべき「シニフィアン」を持っていないのだから、私の「言語」のうちにはそれらを表わす概念としての「シニフィエ」は存在しておらず、したがってそれらの概念は「シーニュ」を形成していない概念なのである。
私の父は家具や建具など家の内外で使われる木製品を作ったり修理したりする職人であったから、家の工場(こうば)には私が名前を知らない道具がたくさんあった。私はものごころつくころから父の工場で父がものを作るのを見るのが好きで何時間も飽かずにそれを眺めていることが多かった。形も大きさもさまざまなそれらの道具をとっかえひっかえ父が用いているのを何度も見ているうちに私はそれらの道具がいかなるものかをほとんど把握してしまった。それらは用途別に道具棚や引き出し・小箱等にきちんと整理されて置いてあったから、たまにしか使わない道具であってもその用途はだいたい分かった。しかし、ノコギリやノミ・カンナ・カナヅチ…といったよく耳にする道具の名前は覚えたが、そうではない多くの道具については私はその名を今でもほとんど知らない。それは塗料や接着剤や釘類・ヒモ類・定規類等々についても同じである。
このような経験は日常生活や友達との遊びなどにおいてもよくあることである。名前は知らないがそれがどんなものであるかは知っているというのは言語の習得過程においてはそれほど珍しいことではないし、大人になってからも経験することである。名前を知らないままでいることも珍しくはない。
「言語langue」(言語規範)の習得過程は「シーニュ」の獲得過程であり、経験によって概念を類別し、分類しながら「シニフィエ」を正しく「シニフィアン」と結びつける過程である。しかし上に述べたように「シニフィアン」や「シニフィエ」が対にならずそれぞれ単独で存在しているような「シーニュ」はあり得ない。しかし、「シーニュ」の獲得過程ではいまだ「シーニュ」になっていない「シニフィアン」や「シニフィエ」、つまり「シニフィエ」(概念)ときちんと結びついていない単独の音韻連鎖や、結びつけるべき「シニフィアン」(音韻連鎖)を伴っていない単独の概念が存在しているのが普通である。
言語習得の初期段階にある幼児が母親に「あれは犬(だよ)」と指摘されても「あれ」「犬」という音韻連鎖と、「あれ」の指し示す関係概念やそこにいる犬の普遍概念とを、つまり「シニフィアン」と「シニフィエ」とをきちんと把握しているかどうかは疑問である。幼児は同じ種類のものごとや異った種類のものごとなど、さまざまなものごとと出会いそこで周囲の大人や年長者からその名前を教えられあるいはみずからその名前を尋ねながら、「シニフィアン」と「シニフィエ」とを結びつけ「シーニュ」を獲得していくのであるが、ある「シニフィアン」と結びつくべき正しい「シニフィエ」を形成し獲得するにはそれら個別のものごとから個別の概念を抽出し、そこで得られた個別概念から「シニフィアン」に結びつけるべき普遍概念たる「シニフィエ」を作り出さなければならないのである。つまり、ある特定の犬を見てそこから「動物」という「シーニュ」を獲得するときと「犬」という「シーニュ」を獲得するときとでは、個別概念から抽出し形成する普遍概念が異なるのである。
このように「シニフィアン」と結びつけるための「シニフィエ」を形成するには、それ以前にさまざまな個別のものごとから抽象される個別概念をもとにしてそこから「シニフィアン」に結びつけるべき普遍概念を抽出し、その他の不要な属性を捨象するという過程が必要なのである。
ある個人の意識において、「シーニュ」が「シーニュ」たる資格を得て、「言語langue」の中に一定の位置を占めるためには、「シニフィアン」だけでは足りないのであって、その個人はそれと結びつけるべき「シニフィエ」を意識の中に正しく形成しなければならない。そして「シニフィエ」を形成するには、経験的に(実践的に)対象から個別概念を抽象しさらにそこから普遍概念を抽出しなければならないのである。つまりさまざまな個物から抽象された個別概念がなければ「シニフィエ」を形成することができず、「シニフィエ」を形成することができなければ「シーニュ」は生れないのであるから、そのような音韻連鎖(「シニフィエ」と結びついていない「シニフィアン」)を覚えただけでは「シーニュ」の体系たる「言語」は更新されないのである。つまり「シーニュ」の獲得とは、名と実すなわち「シニフィアン」と「シニフィエ」とを意識のうちで正しく結びつけ対にすることである。
逆に概念のみがあってそれが「シニフィアン」(音韻連鎖)と結びついていない状況というのもある。個人が日々の生活の中で認識している概念つまり個別概念は多種多様にわたっていて、それと自覚せずにそれらの概念を意識の中で認識しながら行動している。それらの個別概念にはさまざまな側面があるので同じ個物であってもどの側面からそれをとらえているかによって概念的な把握の仕方が異っている。しかもその概念的な把握の内容は多様であるからそれら個々の概念にすべて名前がついているわけではない。私の目の前にある湯呑み茶碗にしても、中に茶が入っている状態と空っぽの状態とでは私の認識する概念は異なる。あるときにはこの湯呑み茶碗は本を読むのに邪魔な存在として私の認識に現われる。あるいは「食用にするニシンの卵」という概念には対になる「カズノコ」という「シニフィアン」が存在するが、「メダカの卵」という概念は存在してもそれと対になる「シニフィアン」は日本語には存在しない。このような例は他にもたくさんある。むしろ多様な現われ方をする概念の多くにはそれと対になるような「シニフィアン」が存在していない。したがって、それらの概念は「シーニュ」の構成要素とはなっていない。いいかえれば、概念の中には「シニフィアン」と結びついていないために「シーニュ」の構成要素となっていないものがいくらでもあるのである。
私たちが意識の内容を言語表現するときに、ある個別概念をどのように表現すべきか悩むのはそれらをどのような側面から(つまりどのような概念として)把握しているかを一言で表わす「シーニュ」が存在しないことが多々あるからである。それゆえさまざまな修飾語句を補ったり喩えなどを用いたりしてなんとかその個別概念を表現しようと努力しなければならない。また、反対に受容者の立場で他者の表現した言語を受容するときにも、表現された「シニフィエ」(普遍概念)だけでは表現者が表現したいと思った個別概念を正確に自分の意識の中に映し出すことができないために、表現者の立場や感情などを考慮し、文脈を読み取り、表現された他の語句の助けを借りたりしてなんとか表現者の表現過程を追体験して表現者が表現しようとした個別概念をできるだけ正確に映し出す努力が要求されるのである。
最後に、もう一度最初の数学「的」記述に戻って結論をいうと、「シニフィエ」と結びついていない単独の音韻連鎖 bn あるいは「シニフィアン」と結びついていない単独の概念 cn が人間の意識の中に別々に存在することは実は当たり前のことなのである。夫および妻となるべき一人以上の独身の男、一人以上の独身の女が別々に存在していなければ新たに一組の夫婦も生れることができないのと同じで、「シニフィエ」と結びついていない単独の音韻連鎖 bn と「シニフィアン」と結びついていない単独の概念 cn とが意識内に生成していなければそれらを結びつけて、bn+cn という形の 「シーニュ」を新たに構成することはできないのである(ただし多語一義や一語多義のような形態も存在するから厳密にいうと「言語」においては「重婚」も例外的に許容されている)。そして、個人としての人間がさまざまな個物との接触によって意識の中に抽象した個別概念がそもそも存在しなければ、その個別概念からさらに抽象される普遍概念たる「シニフィエ」を形成することはできないのであり、ひいては「言語」の獲得や訂正あるいは更新・体系の変化すら不可能なのである。
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