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自己の二重化(6)――鏡としての表現 [PC版ページへ]
2005/02/03 13:19

 自己の二重化(1)――独り言と自己分裂

 自己の二重化(2)――鏡と自己分裂

 自己の二重化(3)――観念的自己分裂

 自己の二重化(4)――認識の発展

 自己の二重化(5)――認識の外化・対象化

 自己の二重化(6)――鏡としての表現

 自己の二重化(7)――他者を鏡とするということ

 自己の二重化(1)〜(7)をまとめて読む。

 関連:二つの主観(1)〜(3)

 関連:対象意識(1)〜(5)

人間が鏡や他者を媒介にして自己認識を深めること、さまざまな計器や観測機器を利用して外部の自然(人間の肉体を含む物質世界)についての認識を深めること、そのさい精神的に自己を二重化し、現実の自己の立場以外の立場に移行して思考し再び現実の自己に復帰すること、そして、そうやって人間は認識の限界を越え自己や世界に対する認識を広げ深化させてきたということを前項まで(タグ【自己の二重化】)に書いてきました。それでは人間は人間の認識活動や精神活動それ自身についてはどうやってその認識を深め共有してきたのでしょうか。


〔注記〕以下の文中において「受容」とあるのは、表現されたものを受け取ってその内容や意味を理解することを表わしている。「解釈」とか「鑑賞」という言葉もあるが意味が限定的なので、それらをも含む広い意味の言葉として「受容」を用いることにした。したがって「受容者」には「解釈者」「鑑賞者」の意味も含まれている。

自己の二重化(3)――観念的自己分裂(2005/01/25)に引用した三浦つとむの文章につぎのような部分があります。

 マルクスは、認識そのものに一方的に鏡としての性格をみとめるのではなく、更に進んで認識の対象についてもやはり鏡としての性格があるということを承認して、その交互関係のなかで反映論をとりあげている。……対象という「鏡」は、物質的な構造を示すものもあれば、人間の観念を映し出すもの(表現)もある。……現実の自己から観念的な自己が分裂する事実は、対象を「鏡」とする人間の認識において常につきまとうのであって、人間の認識にとっては本質的なものである。(『スターリンの言語学論文をめぐって』)

三浦は、表現が人間(表現者)の観念を映し出す「鏡」であるといっています。このことと前項の「 自己の二重化(5)――認識の外化・対象化」の最後に書いた「表現とよばれるものも人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、そこでは対象化された精神的活動つまり、表現物に直接的・間接的に結びついている表現者の意識内容・認識内容がとりわけ重要なものとされています」ということとは密接な関係があります。というのは、「表現する」ことは「精神のうちにある認識活動(意識内容・認識内容)を現実的に外化(対象化)する」ことであり、表現の本質は自己の認識活動を表現物という形で現実的・物質的に対象化し、この対象化された表現物を介して自己の認識活動を他者に伝えることにあるからです。

したがって、表現を受け取る他者は、表現物に対象化された表現者の認識活動つまり表現物に直接的・間接的に結びついている表現者の認識活動(表現者の意識内容・認識内容)をこの物質的な表現物を介して受け取ることになりますが、表現を理解するためには受容者は表現物を介して表現者の認識活動を追体験する必要があります。つまり、表現を受容するということは表現物を媒介にして表現者の立場に観念的に移行し、その観念的な世界の中で対象化した表現者の認識活動を追体験することなのです。この観念的な移行がうまくいかないと表現者の認識活動を適切に対象化することができず、受容者は適切な追体験をすることができません。ですから、受容者には単に受動的に表現を受け取るだけでなく能動的・主体的に表現に働きかけて表現者の精神の世界に自ら入っていく努力が求められるのです(時枝誠記(ときえだもとき)は「主体的立場」主体的立場・観察的立場という言葉でこの能動的な観念的追体験の重要性を指摘しています)。

しかし、観念的な移行(観念的自己分裂・観念的追体験)が要求されるのは受容者だけではありません。表現者の側にもそれは必要なのです。表現物という「鏡」は三浦のいうように「人間の観念を映し出す」ものです。他者に自己の認識活動を適切に受け取ってもらうためには、表現者は自己の認識活動を適切に表現物に「映し出す」(対象化する)必要があります。つまり、表現する側は表現を受け取る側が追体験しやすいように表現を工夫する必要があるということです。そのためには表現者は表現の際に受容者の立場に観念的に移行し、受け取る側の立場を先行的に追体験しなければなりません。このような観念的な移行(先行的な追体験)は文章を推敲したり製作中の作品を眺めたりしている表現者が自覚せずとも常に行なっていることですが、表現者が自己の認識活動(内容)を正しく受け取ってもらいたいと思うなら、この観念的な移行を自ら自覚的・能動的に行なうことが必要なのです。

追記〕人間が行なう表現の中でももっとも原初的なものは身体的表現とよばれるものであったと思われます。この身体的表現は人間だけでなく動物にも見られます。肉体的な動きや発声の形で表される身体的表現も認識活動の現実的な対象化ですから、この場合にも相手(人間や動物)の立場に移行してその相手の認識活動を追体験することが求められているのです。



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