ソシュールにおいては「言語langue」や「記号signe」(=「シーニュ」)、あるいは「シニフィアンsignifiant」・「シニフィエsignifie」という言葉はいずれも人間の意識の中に存在するものの名称である。しかし原語(フランス語)をそのまま日本語で表記すると、それらはいずれも現実に表現された現実的な「言語」・「記号」・「意味するもの」(能記=記号の音声)・「意味されるもの」(所記=記号の意味)となってしまう。ことに「言語」・「記号」という表記には別の問題がある。「言語」は言語規範の一つである語彙の規範であって、言語そのものとは異なる。これは不適切な表記といわざるをえない。また語(表現された言葉)は記号の一種ではあるが、語と記号とは違う。したがって「認識された語」を「記号」とするのはこれも不適切な表記である。要するにソシュールによって規定されたこれらの用語はいずれも名が体を表わしていないどころか「名が他の体を表わしている」のである。その上、「シニフィアン」・「シニフィエ」などはフランス語をそのまま用いることが広く行われていて、普通の日本人にはきわめて分かりにくい。
今日の午後、「概念は「言語」に先立つ(3)」(2006/08/28)を読み返しながら、上のようなことを考えた。もっともそういう違和感は日頃からずっと抱いていたことではある。そこで無謀な試みであることは十分承知の上で、ソシュールによって規定された上記の用語をより適切な日本語の表記に置き換えてみようと考えた。以下はその試み(私案)である。
「シニフィアン」→語韻:音韻は具体的な言語音から抽出され概念的に把握された音声である。したがってシニフィアンは現実的な語音から抽出された音韻、つまり語韻であると規定できる。
「シニフィエ」→語概念あるいは語義:シニフィエは具体的な語の表わす意義であり、それは個別的な事物や現象・関係などから抽象された普遍的・一般的な概念として認識されている。
「シーニュ・記号」→語規範ないし語観念:社会の構成員がその意識内に形成した一つ一つの語についての規範認識であり、それは語の音韻とその語の表わす意義(普遍概念)とが結合した概念的な認識である。
「言語」→語彙規範:ソシュールの規定した「言語」は語規範の体系としてつまり語彙の規範として社会の構成員に認識されている規範認識である。語彙規範は言語規範の一部を構成している。
このような表記の置き換えを、「概念は「言語」に先立つ(3)」に適用してみたのが以下である。少しは分かりやすくなったであろうか。ご感想やご提言あるいはご批判が戴けたらうれしい。
概念は「言語」に先立つ(3)
〔2006.08.27記→08.29用語の表記を変更〕
語彙規範(言語規範の一部)は個人の認識として存在している。そこで、ある個人の意識のうちに存在する語彙規範を構成している語規範の集合を A とし、A の個々の要素を a1, a2, …のように表わす。同様に、語規範を形成する語韻および語概念(語義)の集合をそれぞれ B, C とし、B, C の個々の要素をそれぞれ b1, b2, …、および c1, c2, …のように表わす。
ある語規範a1 が b1 と c1 との連合したものであることを a1=b1+c1 と表わすとすれば、A は b1+c1, b2+c2, b3+c3, …を要素とする集合である。つまり、A のある要素 an はかならず an=bn+cn のように表わされるはずである。すなわち an=bn あるいは an=cn のようなものは語規範としての資格を持たない存在である。前者は語概念(語義)と結びついていない単なる音韻連鎖であり、後者は語韻と結びついていない単独の概念である。このようなものは語彙規範を構成する語規範ではない。
前者のような音韻連鎖を頭の中に浮かべることは簡単である。たとえば「りぬこふげ」を黙読してみよう。このとき意識の中で生成した音韻連鎖はなんらの概念も連合していないから、普通の日本人は自らの語彙規範のうちにそのような語韻を見つけることはできないし、そのような音韻連鎖と結びついた語概念を見出すこともできない。つまりこれは語規範ではない。ロシア語をまったく解さない私のような人間にとって、テレビのロシア語ニュースで耳にするアナウンサーの音声の大部分(全部というべきか)は私の意識のうちに存在する語彙規範を構成するいかなる語韻とも一致せず、それらと対になるいかなる語概念も語彙規範のうちに見出すことができない音韻連鎖として私には認識されている。
それでは後者のような、いかなる語韻とも結びついていない概念は個人の意識のうちに存在するであろうか。たとえば私の家の台所には母や妹が買い揃えた調理用の器具がある。私は母や妹がそれらを使って調理するところを何度も見ているのでそれらがどういう目的で使用される道具であるかをよく知っている。つまりそれらを概念的に把握しているのである。ところがそれらの調理器具の中には私がその名前を知らないものがいくつかある。したがってそのような調理器具に関しては私の意識の内には概念はあるが、それと結びついた語韻が存在しないのである。すなわちそれらは対となるべき語韻を持っていないのだから、私の語彙規範のうちにはそれらを表わす概念としての語概念は存在しておらず、したがってそれらの概念は語規範を形成していない概念なのである。
私の父は家具や建具など家の内外で使われる木製品を作ったり修理したりする職人であったから、家の工場(こうば)には私が名前を知らない道具がたくさんあった。私はものごころつくころから父の工場で父がものを作るのを見るのが好きで何時間も飽かずにそれを眺めていることが多かった。形も大きさもさまざまなそれらの道具をとっかえひっかえ父が用いているのを何度も見ているうちに私はそれらの道具がいかなるものかをほとんど把握してしまった。それらは用途別に道具棚や引き出し・小箱等にきちんと整理されて置いてあったから、たまにしか使わない道具であってもその用途はだいたい分かった。しかし、ノコギリやノミ・カンナ・カナヅチ…といったよく耳にする道具の名前は覚えたが、そうではない多くの道具については私はその名を今でもほとんど知らない。それは塗料や接着剤や釘類・ヒモ類・定規類・治具類…等々についても同じである。
このような経験は日常生活や友達との遊びなどにおいてもよくあることである。名前は知らないがそれがどんなものであるかは知っているというのは言語の習得過程においてはそれほど珍しいことではないし、大人になってからも経験することである。名前を知らないままでいることも珍しくはない。
語彙規範の習得過程は語規範の獲得過程であり、経験によって概念を類別し、分類しながら語概念を正しく語韻と結びつける過程である。しかし上に述べたように語韻や語概念が対にならずそれぞれ単独で存在しているような語規範はあり得ない。しかし、語規範の獲得過程ではいまだ語規範になっていない語韻や語概念、つまり語概念(語義)ときちんと結びついていない単独の音韻連鎖や、結びつけるべき語韻を伴っていない単独の概念が存在しているのが普通である。
言語習得の初期段階にある幼児が母親に「あれは犬(だよ)」と指摘されても「あれ」「犬」という音韻連鎖と、「あれ」の指し示す関係概念やそこにいる犬の普遍概念とを、つまり語韻と語概念とをきちんと把握しているかどうかは疑問である。幼児は同じ種類のものごとや異った種類のものごとなど、さまざまなものごとと出会いそこで周囲の大人や年長者からその名前を教えられあるいはみずからその名前を尋ねながら、語韻と語概念とを結びつけ語規範を獲得していくのであるが、ある語韻と結びつくべき正しい語概念を形成し獲得するにはそれら個別のものごとから個別の概念を抽出し、そこで得られた個別概念から語韻に結びつけるべき普遍概念たる語概念を作り出さなければならないのである。つまり、ある特定の犬を見てそこから「動物」という語規範を獲得するときと「犬」という語規範を獲得するときとでは、個別概念から抽出し形成する普遍概念が異なるのである。
このように語韻と結びつけるための語概念を形成するには、それ以前にさまざまな個別のものごとから抽象される個別概念をもとにしてそこから語韻に結びつけるべき普遍概念を抽出し、その他の不要な属性を捨象するという過程が必要なのである。
ある個人の意識において、語規範が語規範たる資格を得て、語彙規範の中に一定の位置を占めるためには、語韻だけでは足りないのであって、その個人はそれと結びつけるべき語概念を意識の中に正しく形成しなければならない。そして語概念を形成するには、経験的に(実践的に)対象から個別概念を抽象しさらにそこから普遍概念を抽出しなければならないのである。つまりさまざまな個物から抽象された個別概念がなければ語概念を形成することができず、語概念を形成することができなければ語規範は生れないのであるから、そのような音韻連鎖(語概念と結びついていない語韻)を覚えただけでは語規範の体系たる語彙規範は更新されないのである。つまり語規範の獲得とは、名と実すなわち語韻と語概念とを意識のうちで正しく結びつけ対にすることである。
逆に概念のみがあってそれが語韻と結びついていない状況というのもある。個人が日々の生活の中で認識している概念つまり個別概念は多種多様にわたっていて、それと自覚せずにそれらの概念を意識の中で認識しながら行動している。それらの個別概念にはさまざまな側面があるので同じ個物であってもどの側面からそれをとらえているかによって概念的な把握の仕方が異っている。しかもその概念的な把握の内容は多様であるからそれら個々の概念にすべて名前がついているわけではない。私の目の前にある湯呑み茶碗にしても、中に茶が入っている状態と空っぽの状態とでは私の認識する概念は異なる。あるときにはこの湯呑み茶碗は本を読むのに邪魔な存在として私の認識に現われる。あるいは「食用にするニシンの卵」という概念には対になる「カズノコ」という語韻が存在するが、「メダカの卵」という概念は存在してもそれと対になる語韻は日本語には存在しない。このような例は他にもたくさんある。むしろ多様な現われ方をする概念の多くにはそれと対になるような語韻が存在していない。したがって、それらの概念は語規範の構成要素とはなっていない。いいかえれば、概念の中には語韻と結びついていないために語規範の構成要素となっていないものがいくらでもあるのである。
私たちが意識の内容を言語表現するときに、ある個別概念をどのように表現すべきか悩むのはそれらをどのような側面から(つまりどのような概念として)把握しているかを一言で表わす語規範が存在しないことが多々あるからである。それゆえさまざまな修飾語句を補ったり喩えなどを用いたりしてなんとかその個別概念を表現しようと努力しなければならない。また、反対に受容者の立場で他者の表現した言語を受容するときにも、表現された語概念(普遍概念)だけでは表現者が表現したいと思った個別概念を正確に自分の意識の中に映し出すことができないために、表現者の立場や感情などを考慮し、文脈を読み取り、表現された他の語句の助けを借りたりしてなんとか表現者の表現過程を追体験して表現者が表現しようとした個別概念をできるだけ正確に映し出す努力が要求されるのである。
〔注記〕上で「受容」とあるのは、表現されたものを受け取ってその内容や意味を理解することを表わしている。「解釈」とか「鑑賞」という言葉もあるが意味が限定的なので、それらをも含む広い意味の言葉として「受容」を用いている。したがって「受容者」には「解釈者」「鑑賞者」の意味も含まれている。
最後に、もう一度最初の数学「的」記述に戻って結論をいうと、語概念と結びついていない単独の音韻連鎖 bn あるいは語韻と結びついていない単独の概念 cn が人間の意識の中に別々に存在することは実は当たり前のことなのである。夫および妻となるべき一人以上の独身の男、一人以上の独身の女が別々に存在していなければ新たに一組の夫婦も生れることができないのと同じで、語概念と結びついていない単独の音韻連鎖 bn と語韻と結びついていない単独の概念 cn とが意識内に生成していなければそれらを結びつけて、bn+cn という形の 語規範を新たに構成することはできないのである(ただし多語一義や一語多義のような形態も存在するから厳密にいうと語彙規範においては重婚も例外的に許容されている)。そして、個人としての人間がさまざまな個物との接触によって意識の中に抽象した個別概念がそもそも存在しなければ、その個別概念からさらに抽象される普遍概念たる語概念を形成することはできないのであり、ひいては語彙規範の獲得や訂正あるいは更新・体系の変化すら不可能なのである。