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2006年08月29日(火)| 言語>言語規範 |  
ソシュール用語の再規定(1)

 ソシュール用語の再規定(1)~(4)をまとめて読む。

ソシュールにおいては「言語langue」や「記号signe」(=「シーニュ」)、あるいは「シニフィアンsignifiant」・「シニフィエsignifie」という言葉はいずれも人間の意識の中に存在するものの名称である。しかし原語(フランス語)をそのまま日本語で表記すると、それらはいずれも現実に表現された現実的な「言語」・「記号」・「意味するもの」(能記=記号の音声)・「意味されるもの」(所記=記号の意味)となってしまう。ことに「言語」・「記号」という表記には別の問題がある。「言語」は言語規範の一つである語彙の規範であって、言語そのものとは異なる。これは不適切な表記といわざるをえない。また語(表現された言葉)は記号の一種ではあるが、語と記号とは違う。したがって「認識された語」を「記号」とするのはこれも不適切な表記である。要するにソシュールによって規定されたこれらの用語はいずれも名が体を表わしていないどころか「名が他の体を表わしている」のである。その上、「シニフィアン」・「シニフィエ」などはフランス語をそのまま用いることが広く行われていて、普通の日本人にはきわめて分かりにくい。

今日の午後、「概念は「言語」に先立つ(3)」(2006/08/28)を読み返しながら、上のようなことを考えた。もっともそういう違和感は日頃からずっと抱いていたことではある。そこで無謀な試みであることは十分承知の上で、ソシュールによって規定された上記の用語をより適切な日本語の表記に置き換えてみようと考えた。以下はその試み(私案)である。

「シニフィアン」語韻:音韻は具体的な言語音から抽出され概念的に把握された音声である。したがってシニフィアンは現実的な語音から抽出された音韻、つまり語韻であると規定できる。

「シニフィエ」語概念あるいは語義:シニフィエは具体的な語の表わす意義であり、それは個別的な事物や現象・関係などから抽象された普遍的・一般的な概念として認識されている。

「シーニュ・記号」語規範ないし語観念:社会の構成員がその意識内に形成した一つ一つの語についての規範認識であり、それは語の音韻とその語の表わす意義(普遍概念)とが結合した概念的な認識である。

「言語」語彙規範:ソシュールの規定した「言語」は語規範の体系としてつまり語彙の規範として社会の構成員に認識されている規範認識である。語彙規範は言語規範の一部を構成している。

このような表記の置き換えを、「概念は「言語」に先立つ(3)」に適用してみたのが以下である。少しは分かりやすくなったであろうか。ご感想やご提言あるいはご批判が戴けたらうれしい。

概念は「言語」に先立つ(3)

〔2006.08.27記→08.29用語の表記を変更

語彙規範(言語規範の一部)は個人の認識として存在している。そこで、ある個人の意識のうちに存在する語彙規範を構成している語規範の集合を A とし、A の個々の要素を a1, a2, …のように表わす。同様に、語規範を形成する語韻および語概念(語義)の集合をそれぞれ B, C とし、B, C の個々の要素をそれぞれ b1, b2, …、および c1, c2, …のように表わす。

ある語規範a1 が b1 と c1 との連合したものであることを a1=b1+c1 と表わすとすれば、A は b1+c1, b2+c2, b3+c3, …を要素とする集合である。つまり、A のある要素 an はかならず an=bn+cn のように表わされるはずである。すなわち an=bn あるいは an=cn のようなものは語規範としての資格を持たない存在である。前者は語概念(語義)と結びついていない単なる音韻連鎖であり、後者は語韻と結びついていない単独の概念である。このようなものは語彙規範を構成する語規範ではない。

前者のような音韻連鎖を頭の中に浮かべることは簡単である。たとえば「りぬこふげ」を黙読してみよう。このとき意識の中で生成した音韻連鎖はなんらの概念も連合していないから、普通の日本人は自らの語彙規範のうちにそのような語韻を見つけることはできないし、そのような音韻連鎖と結びついた語概念を見出すこともできない。つまりこれは語規範ではない。ロシア語をまったく解さない私のような人間にとって、テレビのロシア語ニュースで耳にするアナウンサーの音声の大部分(全部というべきか)は私の意識のうちに存在する語彙規範を構成するいかなる語韻とも一致せず、それらと対になるいかなる語概念語彙規範のうちに見出すことができない音韻連鎖として私には認識されている。

それでは後者のような、いかなる語韻とも結びついていない概念は個人の意識のうちに存在するであろうか。たとえば私の家の台所には母や妹が買い揃えた調理用の器具がある。私は母や妹がそれらを使って調理するところを何度も見ているのでそれらがどういう目的で使用される道具であるかをよく知っている。つまりそれらを概念的に把握しているのである。ところがそれらの調理器具の中には私がその名前を知らないものがいくつかある。したがってそのような調理器具に関しては私の意識の内には概念はあるが、それと結びついた語韻が存在しないのである。すなわちそれらは対となるべき語韻を持っていないのだから、私の語彙規範のうちにはそれらを表わす概念としての語概念は存在しておらず、したがってそれらの概念は語規範を形成していない概念なのである。

私の父は家具や建具など家の内外で使われる木製品を作ったり修理したりする職人であったから、家の工場(こうば)には私が名前を知らない道具がたくさんあった。私はものごころつくころから父の工場で父がものを作るのを見るのが好きで何時間も飽かずにそれを眺めていることが多かった。形も大きさもさまざまなそれらの道具をとっかえひっかえ父が用いているのを何度も見ているうちに私はそれらの道具がいかなるものかをほとんど把握してしまった。それらは用途別に道具棚や引き出し・小箱等にきちんと整理されて置いてあったから、たまにしか使わない道具であってもその用途はだいたい分かった。しかし、ノコギリやノミ・カンナ・カナヅチ…といったよく耳にする道具の名前は覚えたが、そうではない多くの道具については私はその名を今でもほとんど知らない。それは塗料や接着剤や釘類・ヒモ類・定規類・治具類…等々についても同じである。

このような経験は日常生活や友達との遊びなどにおいてもよくあることである。名前は知らないがそれがどんなものであるかは知っているというのは言語の習得過程においてはそれほど珍しいことではないし、大人になってからも経験することである。名前を知らないままでいることも珍しくはない。

語彙規範の習得過程は語規範の獲得過程であり、経験によって概念を類別し、分類しながら語概念を正しく語韻と結びつける過程である。しかし上に述べたように語韻語概念が対にならずそれぞれ単独で存在しているような語規範はあり得ない。しかし、語規範の獲得過程ではいまだ語規範になっていない語韻語概念、つまり語概念(語義)ときちんと結びついていない単独の音韻連鎖や、結びつけるべき語韻を伴っていない単独の概念が存在しているのが普通である。

言語習得の初期段階にある幼児が母親に「あれは犬(だよ)」と指摘されても「あれ」「犬」という音韻連鎖と、「あれ」の指し示す関係概念やそこにいる犬の普遍概念とを、つまり語韻語概念とをきちんと把握しているかどうかは疑問である。幼児は同じ種類のものごとや異った種類のものごとなど、さまざまなものごとと出会いそこで周囲の大人や年長者からその名前を教えられあるいはみずからその名前を尋ねながら、語韻語概念とを結びつけ語規範を獲得していくのであるが、ある語韻と結びつくべき正しい語概念を形成し獲得するにはそれら個別のものごとから個別の概念を抽出し、そこで得られた個別概念から語韻に結びつけるべき普遍概念たる語概念を作り出さなければならないのである。つまり、ある特定の犬を見てそこから「動物」という語規範を獲得するときと「犬」という語規範を獲得するときとでは、個別概念から抽出し形成する普遍概念が異なるのである。

このように語韻と結びつけるための語概念を形成するには、それ以前にさまざまな個別のものごとから抽象される個別概念をもとにしてそこから語韻に結びつけるべき普遍概念を抽出し、その他の不要な属性を捨象するという過程が必要なのである。

ある個人の意識において、語規範語規範たる資格を得て、語彙規範の中に一定の位置を占めるためには、語韻だけでは足りないのであって、その個人はそれと結びつけるべき語概念を意識の中に正しく形成しなければならない。そして語概念を形成するには、経験的に(実践的に)対象から個別概念を抽象しさらにそこから普遍概念を抽出しなければならないのである。つまりさまざまな個物から抽象された個別概念がなければ語概念を形成することができず、語概念を形成することができなければ語規範は生れないのであるから、そのような音韻連鎖(語概念と結びついていない語韻)を覚えただけでは語規範の体系たる語彙規範は更新されないのである。つまり語規範の獲得とは、名と実すなわち語韻語概念とを意識のうちで正しく結びつけ対にすることである。

逆に概念のみがあってそれが語韻と結びついていない状況というのもある。個人が日々の生活の中で認識している概念つまり個別概念は多種多様にわたっていて、それと自覚せずにそれらの概念を意識の中で認識しながら行動している。それらの個別概念にはさまざまな側面があるので同じ個物であってもどの側面からそれをとらえているかによって概念的な把握の仕方が異っている。しかもその概念的な把握の内容は多様であるからそれら個々の概念にすべて名前がついているわけではない。私の目の前にある湯呑み茶碗にしても、中に茶が入っている状態と空っぽの状態とでは私の認識する概念は異なる。あるときにはこの湯呑み茶碗は本を読むのに邪魔な存在として私の認識に現われる。あるいは「食用にするニシンの卵」という概念には対になる「カズノコ」という語韻が存在するが、「メダカの卵」という概念は存在してもそれと対になる語韻は日本語には存在しない。このような例は他にもたくさんある。むしろ多様な現われ方をする概念の多くにはそれと対になるような語韻が存在していない。したがって、それらの概念は語規範の構成要素とはなっていない。いいかえれば、概念の中には語韻と結びついていないために語規範の構成要素となっていないものがいくらでもあるのである。

私たちが意識の内容を言語表現するときに、ある個別概念をどのように表現すべきか悩むのはそれらをどのような側面から(つまりどのような概念として)把握しているかを一言で表わす語規範が存在しないことが多々あるからである。それゆえさまざまな修飾語句を補ったり喩えなどを用いたりしてなんとかその個別概念を表現しようと努力しなければならない。また、反対に受容者の立場で他者の表現した言語を受容するときにも、表現された語概念(普遍概念)だけでは表現者が表現したいと思った個別概念を正確に自分の意識の中に映し出すことができないために、表現者の立場や感情などを考慮し、文脈を読み取り、表現された他の語句の助けを借りたりしてなんとか表現者の表現過程を追体験して表現者が表現しようとした個別概念をできるだけ正確に映し出す努力が要求されるのである。

〔注記〕上で「受容」とあるのは、表現されたものを受け取ってその内容や意味を理解することを表わしている。「解釈」とか「鑑賞」という言葉もあるが意味が限定的なので、それらをも含む広い意味の言葉として「受容」を用いている。したがって「受容者」には「解釈者」「鑑賞者」の意味も含まれている。

最後に、もう一度最初の数学「的」記述に戻って結論をいうと、語概念と結びついていない単独の音韻連鎖 bn あるいは語韻と結びついていない単独の概念 cn が人間の意識の中に別々に存在することは実は当たり前のことなのである。夫および妻となるべき一人以上の独身の男、一人以上の独身の女が別々に存在していなければ新たに一組の夫婦も生れることができないのと同じで、語概念と結びついていない単独の音韻連鎖 bn と語韻と結びついていない単独の概念 cn とが意識内に生成していなければそれらを結びつけて、bn+cn という形の 語規範を新たに構成することはできないのである(ただし多語一義や一語多義のような形態も存在するから厳密にいうと語彙規範においては重婚も例外的に許容されている)。そして、個人としての人間がさまざまな個物との接触によって意識の中に抽象した個別概念がそもそも存在しなければ、その個別概念からさらに抽象される普遍概念たる語概念を形成することはできないのであり、ひいては語彙規範の獲得や訂正あるいは更新・体系の変化すら不可能なのである。

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コメント
 
[36] 分かりやすい
2006/08/30(水)16:25:54 | URL | オータム[編集
少しどころか、大幅に分かりやすくなったと思います。というより、表記を換える前の文章ですと、ほとんど何が書いてあるのか分からなかった(笑)

それはもちろん、私がソシュールのことをまったく知らないせいではありますが、そのことを別としても、書き換えた方の文章なら、私にも何を論じているのかが分かるような気がしました。ありがとうございました。

個々の用語について感じたことを申し上げます。

①「シニフィアン」を「語韻」としたこと。これは実にぴったりだと思いました。「音韻としてのことば」ということですね。

②「シニフィエ」を「語概念」または「語義」としたこと。これは「語義」の方が素直で分かりやすいと思いました。でも、書き換えた文章の中では「語概念」の方を使っていらっしゃいますね。きっと何か理由があるのだろうと思います。「語義」というと何だか「辞書に載っていることばの意味」というような狭い意味に聞こえてしまうからかも知れませんね。それと「義」というと「意義」などを連想して何か価値中立的でない感じもします。

③「シーニュ」を「語観念」または「語の観念」としたこと。これは難物でした。実はいまだに何を指すのかよく分かりません。

 「①と②とが結合した観念体」というご説明がありました。もしかするとこういうことでしょうか。「ある音韻がある意味をもっていると感じられる状態で存在しているとき、その音韻とその意味とが一体化したものとしての言葉」。

④「言語(ラング)」を「語彙規範」としたこと。これはたぶんシカゴさんのソシュール批判の核心につながる言い換えなのだろうと思いました。

 シカゴさんは、「ソシュールの規定した『言語』は『語観念』の体系としてつまり語彙の体系として社会の構成員に認識されている規範である」とお書きになっています。ある語彙の体系そのものが、現実をどのように眺めどのように切り取って認識する(べき)かの見本(手本)になっているということでしょうか。

⑤なお、上のご説明のなかで「『語観念』の体系としてつまり語彙の体系として」とお書きになっているところを見ると、③の「語観念」とはつまり「語彙」のことになるのでしょうか。もしそうならば、③の「語観念」を「語彙」と言い換えてはいけないのでしょうか。
 
[37] Re(1)>分かりやすい
2006/08/31(木)06:08:24 | URL | シカゴ・ブルース[編集
コメントありがとうございます。どなたからもコメントが戴けなかったらどうしようと思っておりました。

本題に入る前にソシュールについて。

実はソシュールは自ら著書を著していないのです。ソシュールの著とされている『一般言語学講義』は、彼がジュネーブ大学で行った講義を聴講した学生たちによってソシュール没後に出版された講義録のようなものです。それは、ソシュールの残した控えと学生たちが持ちよった聴講ノートとを突き合わせ、比較校合・校定されたものです。現在はこれとは異なる系統の講義録ノートも出版され、ソシュールの真の考えはどうなのかといった研究も行われているようですが、その後の数々の思想に影響を与え、現在の世界の言語学の主流をなしている構造言語学は『一般言語学講義』の内容がその骨組みをなしているので、この『一般言語学講義』に記述されている内容をソシュールの言語学と呼んでいるわけです。

『一般言語学講義』の内容から判断すると、ソシュールはフランス語のみならず印欧語全般に亘って広い知識を持っており、音声言語を聞き分ける聴覚能力に優れていたようです。ある意味では彼の言語学は音韻の連鎖を概念の連鎖との対応関係として分析する彼の研究手法から必然的にもたらされたものであると思います。彼が好んで用いる「分節」という言葉は、音韻の連鎖を概念を単位として区切ることを表わしています。結局のところ、ソシュールにとってはできあがった「言語langue」を分析・分節することが言語を研究することだったわけでしょう。つまり「言語langue」を構成する言語学的分子である「言語単位」を求めることですね。数多くの音韻の連鎖に対してそのような分節をほどこした結果発見された「言語単位」が「記号signe」であり、それがシニフィアン(ひとまとまりの音韻)とシニフィエ(ひとまとまりの普遍概念)の結合したものすなわち結局のところ「語の観念」であったのは理論的必然だったともいえます(どのようにして「言語langue」が形成されたかを考えれば、ソシュールの無視した個人的行為の中にその原因たる「語」が存在することは明らか)。

なお、上記はソシュールが「言語単位」を求めるために、音韻の連鎖(正確には言連鎖)を概念(意義)によって区切る、ということを長々と説明している部分を私なりに簡単にまとめたものです(『一般言語学講義』p.146~156)ただし、ソシュールは普遍概念という語ではなく「価値の概念」といっています。そして「意義」と「価値」は別のものとして扱っています(p.162)。

いずれにせよ、「言語langue」も「記号signe」も「能記signifiant」も「所記signifie」もその構造は異なるものの、実体としては個人の頭の中に存在する観念体です。そして「能記signifiant」は語の音声から抽象された音韻の連鎖として概念的に把握されたものであり、「所記signifie」は語の音声によって名づけられた事物や現象や関係が普遍概念として把握されたものです。

というわけで、「言語langue」はソシュールによって発見されたのですが、実体としては社会の構成員個々の意識の中に存在する「語の観念の体系」でありながら、個々の人間の有するこの体系を集大成したものとして社会的に存在して、言語表現や言語受容における規則としてつまり社会的な規範として働くもの、これが「言語langue」だったわけです。そして、人類はこの目に見えない「言語langue」をソシュールが発見する以前から目に見える形で表現しているのですね。つまり辞書です。二者間の契約が契約書として文書化されるのと同じように、人間は「語の規範・ 語彙規範」を辞書という形態で文書化しているわけです。

辞書の一つ一つの語の項が「シーニュ」つまり「語の観念」を表現したものです。ソシュール言語学の対象は音声言語ですが、辞書では音声言語・文字言語が一緒に扱われています(むしろ文字言語の方が重視されている)。「シニフィアン(語韻・字韻)」を表現したものが<見出し>であり、「シニフィエ・ 語概念(語義)」を表現したものが<語釈の部分>です。

日本語の音韻は音節単位ですので、国語辞典では見出しの仮名が「語の音韻・字韻」を兼ねています。また漢字語の場合には漢字(+仮名)の見出しも「字韻」を表わしていますが、英語等の辞書は見出しが「字韻」で「語韻」は発音記号を用いて「/ /」で括られた中におさめられています。

余談ですが、表音文字の場合当初は、発音と綴りとは一致していたでしょうから発音記号などというものは必要なかったでしょうね。ギリシャ語は古い歴史を持ったかなり純粋に近い表音文字を使っていますが、ハングルは完璧な表音文字です。ソシュールが知っていたら感嘆したでしょう。日本語は現代仮名遣いのおかげで発音記号のいらない言語になっていますが、例外がいくつかありますので仮名は完璧な表音文字ではありません。むろん完璧な表音文字が優れているなどとはいえませんが、覚えてしまえば読み書きに苦労しないことは確かです。

長くなりましたので、戴いたコメントに対するご返事は別コメントで。
 
[38] Re(2)>分かりやすい
2006/08/31(木)06:09:22 | URL | シカゴ・ブルース[編集
戴いたコメントに対するご返事です。

> ①「シニフィアン」を「語韻」としたこと。これは実にぴったりだと思いました。「音韻としてのことば」ということですね。

言葉というのは難しいですね。「ことば」といったときにその音声を指しているのか、音声と意味とをまとめて言っているのか、あるいは意味を指しているのかという区別をしなければならないのですね。本来は音声や文字で表現されたものが「ことば」であり、その音声や文字には「音韻(字韻)の規範」を媒介にして語韻がつながっており、その語韻は「語の規範」を媒介にして語概念とつながっており、さらにその語概念(意義)を介して意味(個別概念)がつながっている。このような複雑な過程を経て人間は「ことば」の意味を聞き(読み)取っている。しかも無意識のうちに短時間で。というわけで、「シニフィアン」は「語の音声が音韻(の連鎖)として認識されたもの」ですね。実は音韻体系も社会規範なんです。

> ②「シニフィエ」を「語概念」または「語義」としたこと。これは「語義」の方が素直で分かりやすいと思いました。でも、書き換えた文章の中では「語概念」の方を使っていらっしゃいますね。きっと何か理由があるのだろうと思います。「語義」というと何だか「辞書に載っていることばの意味」というような狭い意味に聞こえてしまうからかも知れませんね。それと「義」というと「意義」などを連想して何か価値中立的でない感じもします。

さきほどの辞書の説明からお察しの通り、「辞書に載っていることばの意味」が意義です。そしてそれは語概念を表現(説明的に表現)したものです。実際、語概念は普遍概念ですので「狭い意味」つまり意義しか担っていないのです。ことばとして表現されたときに初めて個別的な「意味」を担うことになります(もちろん「担う」というのは比喩です。正確には「規範や表現されたときのさまざまな状況(文脈)に媒介されてつながっている」というべきところです)。意義は語の担っている普遍概念であるということをきちんと押えておくなら「語義」でもよいと思います。

> ③「シーニュ」を「語観念」または「語の観念」としたこと。これは難物でした。実はいまだに何を指すのかよく分かりません。

ソシュールいうところの「言語単位」です。つまり、一つ一つの語(単語)についての認識です。 「語観念」は一つの「語韻」と一つの「語概念」が対になったもの、いうなれば一組の夫婦ですね。

>  「①と②とが結合した観念体」というご説明がありました。もしかするとこういうことでしょうか。「ある音韻がある意味をもっていると感じられる状態で存在しているとき、その音韻とその意味とが一体化したものとしての言葉」。

そうです。正確には意味ではなく意義、辞書に載っている「狭い意味」です。

> ⑤なお、上のご説明のなかで「『語観念』の体系としてつまり語彙の体系として」とお書きになっているところを見ると、③の「語観念」とはつまり「語彙」のことになるのでしょうか。

語彙というのはある個人が認識している、あるいはある社会に存在している語の集まりといった意義をもっています。語彙は集合名詞なんですね。ですから「語観念」の体系が語彙を形成していると考えることができます。したがって「語彙」自体が体系(構造をもった集合)をなしていますので「語彙の体系」というのは重畳語ですね。不適切な表現でした。というわけで、「『語観念』の体系としてつまり語彙として」に改めます。

> もしそうならば、③の「語観念」を「語彙」と言い換えてはいけないのでしょうか。

上記の理由により、「語観念」は語彙を構成する要素・単位(ユニット)ですのでこれは駄目ですね。「語韻」「語概念」「語観念」における「語」は単数形なんです。

> ④「言語(ラング)」を「語彙規範」としたこと。これはたぶんシカゴさんのソシュール批判の核心につながる言い換えなのだろうと思いました。

三浦つとむは言語規範とよんでいますが、言語規範には文法や統語法などさまざまな規範が含まれており、「言語langue」はその一部なので「語彙規範」としたわけです。単純に「語の規範」でもいいのですが、「語彙」とした方が体系的なものというニュアンスが伝わりやすいと思いました。もっとも、ソシュールは「内言」を「言語langue」と呼んだり、文法も「言語langue」に含まれると言ったりしていますのでややこしいのですが、ふつうに「言語langue」といった場合は「語彙規範」を指していると思います。

>  シカゴさんは、「ソシュールの規定した『言語』は『語観念』の体系としてつまり語彙の体系として社会の構成員に認識されている規範である」とお書きになっています。ある語彙の体系そのものが、現実をどのように眺めどのように切り取って認識する(べき)かの見本(手本)になっているということでしょうか。

これは難物ですね。そういう側面はあると思っています。いわゆるポストモダンの思想のほとんどは、人間が「言語langue」によってその世界観を規定されてしまっている、という視点に立っています。しかし、それは逆立ちした考え方だと私には思えます。実際は「言語langue」自体が社会のあり方を反映しているのであって、その逆ではないと。「言語langue」に規定される以前に人間の考え方や意識はその社会のあり方つまり経済や自然環境そしてそれによって成り立つ交通関係や人間相互の関係などによって規定されているわけで、「言語langue」もまたそのようにして規定されたイデオロギーであると私は思っています。そして人間は、自覚的・無自覚的に意識の中に自ら形成したイデオロギーによってその行動や意識活動が左右され制約されてしまう存在でもありますから、ご指摘のようなことは起こりうることだし、現にそういう風に行動しています。しかし、もともとは世界や社会のあり方にその原因があるわけですから、はじめに「言語langue」ありき、という考え方を私はしません。

(追記)頭の中の思想・思考・認識は別に「語観念」だけで行われているわけではなく、その多くは「語韻」とは直接結びついていないさまざまな概念や表象がからみあい、相互に関連しあってなされています。そのような概念や表象にとりあえず「語韻」を結びつけて思考を進めたりすることもありますが、その認識を持って現実に向かい合ったときに、できあいの「語概念」では実際の現実との間に乖離が生じてしまうことも多々あるでしょうから、あらためて個別概念として把握しなおす必要に迫られると思います。それに概念的な認識そのものは、「語韻」に結びついてはいてもそれが「語概念」であることはまれで、それらの多くは「語韻」に結びつけられた個別概念です。「語概念」は個別概念と「語韻」とを結びつける媒介になっているに過ぎません。

単純な例を挙げれば、たとえば目の前にいるものを見て「あっ、犬だ」と頭の中で思ったとして、その場合の認識の内容は「犬」だけに限られておらず、その周囲の状況や自分の感情などが感性的な個別概念として把握されていますし、「犬」も辞書に載っているような「語義・語概念」としての把握ではなく、感性的な特殊な性格をもった個別概念として把握されているはずです。つまり、現実の犬の個別概念から抽出された「語概念」(普遍概念)に媒介されて「イヌ・犬」という「語韻」が個別概念に結びついたのであって、「イヌ」という「語韻」をラベルにして現実の犬を「語概念」を持ったものとして規定・認識したわけではないのです(それは形を変えた言霊思想です)。つまり現実の認識においては個別概念が「語韻」に先立っているわけで、認識の内容は規範に制約されてはいないのです。少なくとも対象と認識(個別概念)との間で上り下りをして認識を深めようという実践がなされるなら、対象に「犬」というレッテルを貼っただけで理解したつもりにはならないでしょう。
 
[39] とりあえず
2006/09/02(土)07:33:09 | URL | オータム[編集
早速のご回答ありがとうございました。分かるところと分からないところがあります。しかし分かったところはどこか、分からなかったのはどこかがまだハッキリしません。何度も読み直しております。「ここは、きっとほかのエントリーもあわせて読んでみないと分からないのだ」と思えるところもありそちらへ跳んで…という風に行ったり来たりです。御礼とご返事が遅れて申し訳ありません。

本来は『言語学の用語についての実験的試み』の各項目にそって書くべきところですが、用意がありません。あまり整理できていませんが、とりあえず思い浮かんだ諸点を箇条書きにしてみます。

・「語彙」は集合名詞だということ。私もうっかりしておりました。勝手に個々の単語のことと読みちがえておりました。漢和字典で「彙」を引くとちゃんと「あつめること・あつまり」と載っていますね。以後は原則として「あつまり」の意味で使いたいと思います。そうでないとたとえば「語彙規範」などの用語の意味が分かりにくくなってしまいます。

・これは漠然とした感想ですが、シカゴさんは言葉が生まれてくる瞬間を大事に・不思議に・魅力的に思い、それを精密に観察しようとしている。ソシュールは出来あがった言語(音韻)の解析をし、そこからどんな言語にも通じそうな法則を見つけ出そうとした。この入り方のちがいは大きい。

・他の用語の問題では、建築屋さんもコメントなさっていましたが、シカゴさんの書く「概念」という言葉のなかで、それはむしろ「表象」とか「心象」あるいは単に「想念」と言った方がいいのではないかと思われるものがあるということは、私もところどころで感じます。

たとえば、今回のお返事の末尾(追記)のなかでお書きになったこと、「その場合の認識の内容は『犬』だけに限られておらず、その周囲の状況や自分の感情などが感性的な個別概念として把握されています」というところですね。これはつまりその犬が「学校へ向かう道すがらに首輪もつけずうろついていた」状況とか、見たとたんに感じた「噛みつかれるんじゃないか」という恐怖とかいったことをおっしゃっているのだと思います。しかし、そういうもの(把握された状況・生じた感情)を普通、日本語で「概念」と言うでしょうか。「概念」というと私などは「すでに頭の中で言葉になったか、もしくはなりかけている観念」を思い浮かべるのですが。

なんだか最後のは言いがかりめいて恐縮です(笑) この段落でおっしゃっている論旨自体は理解できました。たとえとっさに「あっ、犬だ」と思ったとしてもそれは「『イヌ』という『語韻』をラベルにして現実の犬を『語概念』を持ったものとして規定・認識したわけではない」ということですね。
 
[41] 名前のない概念
2006/09/03(日)08:34:12 | URL | シカゴ・ブルース[編集
>「概念」というと私などは「すでに頭の中で言葉になったか、もしくはなりかけている観念」を思い浮かべるのですが。

これは概念の定義によります。「語音で表わされていること」を概念の条件とするかどうか、ですね。それ以外の条件は「経験される多くの事物に共通の内容をとりだし(抽象)、個々の事物にのみ属する偶然的な性質をすてる(捨象)ことによるとするのが通常の見解」(広辞苑)というのが一般的だと思います。私なりにこれを翻訳すると、ある事物や現象・関係(長くて面倒なので以下では「ものごと」と表記します)の持つ属性の中から、「他のものごとと共通するある一定範囲の属性」を抽象して形成される認識を概念とよぶ、ということになります。簡単にいえば、概念とはものごとを種類としてとらえた認識であるということになると思います。

(9月3日追記)
「ソシュール用語の再規定(暫定)」(2006/09/03)にも書きましたが、「ある特定の概念を表現するにはある特定の語音を用いるべし」というのが音声言語における語の規範ですから、まず概念が存在しそれに結びつけるべき音声が決められるというのが、新しい語が生れるときの順序ですよね。つまり新語というのは新しい概念が生れて言語化する必要に迫られたり、すでにあった概念(複合概念など)をあらためて言語化したりするときに生れるわけです。隣接概念などがすでに言語化されているときなどはすでに存在する語から音声や文字表記を借用することもありますが、その場合でも新しい概念が先に生れている。

かつては「語はあるものごとにつけた名前だ」という風に思われ、そのように言われてきましたが(今でもそうかも知れない)、辞書はかなり昔からあったということを考えると「語は特定の概念を表わすための一連の言語記号」というのは無自覚ながらも認識されていたのだと思います(固有名詞にはそのような性格がありそうですが、固有名詞は個体概念を表わすものと考えられます)。

そういうわけで、概念は人間の意識にあってはごく普通の存在であって、それらのうちのあるものは語概念として言語表現に用いられると理解するのがもっとも自然でしょう。語概念のみを概念とよび、そうでないものは他の名前でよぶというのは不自然です。
 
[42] トラックバックを送ったのですが
2006/09/18(月)12:18:22 | URL | 編集
今日(9月18日)のエントリーでトラックバックを送ったのですが失敗したようです。

エントリーのタイトルは「科学における定義について」というものです。
 
[43] 今度は無事に
2006/09/18(月)16:04:09 | URL | 編集
トラックバック出来ました。
 
[59] 言語過程説について
2007/01/04(木)12:34:02 | URL | taketi編集
川勝さんの著作を読ませてもらいました。
観察する自己と現実の自己とが、言語のはたらきによって結びつき、認識が可能になるということだと思います。
この時、観察する自己による言語は、超時間的、超空間的であり、現実的自己による言語とは、次元をことにしていると述べられています。
この一説を読みながら、アレクサンドル・コジェーヴの、「概念・時間・言説」のなかの一説を思い出しました。
つまり、概念とは、(ここでは言語と同じ意味で使いますが)時空を超えた、イデア的なものであり、このイデア的なものが、現実の言語に触れることによって、呼び起こされる、というようなことを述べています。
川勝さんの著作をきっかけに、三浦つとむさんの著作を読み続けていて、コジェーヴの説と似ているところがたくさんあり、興味を持って読み続けています。
お尋ねしたいのは、三浦つとむさんとコジェーヴの接点があったかな、ということです。
よろしくお願いします。
 
[60] 概念について
2007/01/05(金)09:53:36 | URL | taketi編集
シニフィエがあらわす諸概念についてですが、これは、イメージをともなうのでしょうか。
シニフィアンによってある種のイメージが喚起されるということでしょうか。
このことは、優しさが白を隠喩するように、「関係」というシニフィアンもなんらかのイメージを持つシニフィエを換気すると考えていいのでしょうか。
あるいは、「真理」というシニフィアンもなんらかのイメージをともなう、シニフィエが、存在するのであろうか。
私は、抽象的概念は、常に隠喩によるイメージの喚起があると考えるのですが、貴兄は、(ひょっとしたらそのことについて触れているかもしれませんが)どうお考えでしょうか。
よろしくお願いします。
 
[62] 川勝さん,
2007/01/08(月)08:26:55 | URL | シカゴ・ブルース[編集
taketiさん、こんにちは。ご返事が遅れてすみません。
もうしばらくは、考えるためのまとまった時間がとれませんのでとりあえずのご返事を…。

最初のコメントにある「川勝さん」を私は存じあげないので「観察する自己と現実の自己とが、言語のはたらきによって結びつき、認識が可能になる」の部分の「観察する自己」が何を観察する自己なのかよく分かりません。ただ、どのような状況におけるものにせよ、「超時間的、超空間的な言語」というふうな表現から見て三浦の言語観とはちょっと違うなという感じはします。コジェーヴについてはまったく知りませんが、言語を受容する立場では言語に媒介されて概念が喚起されるというのはその通りでしょうね。ただ、喚起されるその概念が「時空を超えた、イデア的なもの」であるというという部分の意味が今一つはっきりしません。個人が意識のうちに作り上げる概念はさまざまなレベルの抽象物ですが、程度の差はあれどれも現実の事物や現象と何らかのつながりをもっていると私は思っています。

三浦つとむとコジェーヴとの接点については分かりませんが、私が読んだ限りの三浦の著書でコジェーヴの名を見たことはありません。

シニフィエがあらわす諸概念についてはまたのちほど…。
 
[63] 
2007/01/08(月)20:20:29 | URL | taketi編集
丁寧なご解答ありがとうございます。
イデアの超時間的空間的なこととは、具体的に次のようなことをさします。
これもコジェーヴの著作にあるのですが、
例えば、花瓶が割れるときのことを考えて見ます。
花瓶が割れる前には、花瓶はその形態のままです。ところが手を滑らせて花瓶が割れるとき、割れた破片は、破片のかけらです。しかし、その時でも、破片は、花瓶の破片であり、花瓶の形態、すなわち花瓶のイデアは存続しています。
このイデアである花瓶は、時空を超えて存続しています。
割れる以前と以後の花瓶のイデアは存続しているということです。このことが、イデアの超時間的空間的であるということです。
ヘーゲルの絶対者のイデーであるとか、フーコーの人間誕生以前の言語の体系も、おそらくこのイデーではないかと思われます。
いま私の探求していることは、関係の概念もおそらくいデー的なものではないかということです。
白がやわらかさをあらわすように。
このことについては、もっと明確になってお便り申し上げます。
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トラックバック:科学における定義について
三浦つとむさんは、ソシュールの「言語」の定義が、実際に表現された具体的な言葉としてのものではなく、頭の中の認識である規範になっているという批判を行っていた。これは、「言語」の定義としてはふさわしくないと言う批判だ。これは、具体的なコミュニケーションの場で
2006/09/18 Mon 16:03:16 | 数学屋のメガネ
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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(68歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことだけをこなす日々です。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学三浦つとむ『認識と言語の理論 I』

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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